短いトンネル 土管土管ドカンドカン


短いトンネルのようなもの、土管であったりを想像してください。
ドラえもんの空き地にはよくありましたよね。


この土管が1m間隔で隙間を空けてずっとずっと連なってるとします。
土管の中に入ります。土管の中を歩きます。土管を出ます。
次の土管に入ります。土管の中を歩きます。土管を出ます。


土管-出る-土管-出る-土管-出る-土管


この土管を出たところが「解放」なんです。
土管が「私」です。


土管の中に入っているときは制限だらけです。
「私」の限界に制限されています。


でもよく見てみると、その「私」の限界は単なる「思考」なんです。
言い換えると
今この瞬間の「単なる浮遊物」なんです。


この単なる浮遊物は勝手に流れ去っていきます。
流れ去った後に残るもの、または流れ去っていくのを見ている何かは元々あって常にあるもの、いまあるものです。


1、私を通して体験していると「思い込んでいる」ドカンドカン
2、空き地!


どっちかです。
空き地にいるのか、土管の中か、どっちかです。


土管の中でも空き地にいるんですが、空き地の広々とした空間はもちろん体験できません。
自分で勝手に限界を「現実として体験することに同意している」からです。


あらゆるすべてを体験する「私」がいるのは当然だという思い込みにより生まれる盲点です。
「私」が「不幸」なんです。


すごく簡単な方法でこのループを抜けられます。
土管から出ますよね。
次の土管に入らなきゃいいんです。


こんなに簡単な方法なのに、
これは盲点なんです。


いったい、誰が、「私」を現さなきゃいけないって決めました?


いま!私を現さないこと!これが「止まる」ことです。


私を現すというのは、全員よく観測すればわかります。
「私」というイメージ、概念としてのイメージや、想像としての記憶参照を行おう、結びつけようとする意識の「動き」が自覚できるはずです。


「私」を現す以前の段階で「止まっている」場合
あなたは人ではありません。


もっと正体不明の何かです。


純粋な目覚めた意識です。


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