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自分のなかにある神を見つけるために大きな障害となっているものがあったなら、それが何なのかをはっきりと見定めて、それを確認し、そして「では代わりに何があったらいいだろうか」と自問するのです。自分の家で静かにこの作業を始めてください。こうして自分が切望するものから新しい信念を創り出すことによって、人生を変えることができます。魂の願いがあなたの未来の出発点です。現在の願いが未来の現実となります。


現在の人生のなかにあるものは、それが何であれ、過去のあるときに、何らかの理由でその人が心のどこかでそれを望んだからそこにあるのです。望むものを本当に得るパワーと集中力は、エゴ意識からは生まれません。



万人が善である、ということを理解するまでは、自分自身の中にも、他人の中にも、善を見つけるのはむずかしいでしょう。あなたは善を見つけたかと思うと、悪も見つけます。「これは良い。これは悪い」これが、あなたが自分と兄弟をはかるものさしです。これでは平和な気持ちにはなれません。


あなたの兄弟は善人でも悪人でもなく、あなたもまたそうです。そして、だれもみな善人でしかありえません。自分の中には悪いところがある──そして良いところはほとんどないか、皆無だ──と信じているかもしれませんが、それはまちがった信念です。その信念にしがみついているかぎり、自分をむち打ちつづけるか、他人をむち打ちつづけるかです。


あなたがたみなは善人でしかありえない、とわたしが言うとき、それはどういう意味でしょうか。ネガティブな考えやふるまいをすることが不可能ということでしょうか。もしそうであれば、あなたはいまいるところにはいないでしょうね。あなたがたの世界はネガティブな思考やふるまいと、ポジティブなそれとの混合物です。その世界はうすぐらくて闇と光がまじりあっています。


しかしあなたの経験するこの世界を形づくっているのは、思考のみです。心(マインド)からネガティブな考えを追い出すことができれば、まったくちがった世界に住むことになるでしょう。


善である考えしかないような世界では、比較は不可能です。比較がなければ、解釈もなく、失敗も、処罰も、犠牲も、苦悩もありえません。そんなかがやかしい、無垢な世界が想像できますか。そんな世界の存在はおかしいと思うかもしれませんが、いま住んでいる世界よりも、創造するのがむずかしいわけではないのです。


あなたの中にも兄弟の中にも悪はない、善のみである、と理解することで、こうした新しい世界を作り出すことができます。「悪」を現実らしく見せているのは、悪に対する恐怖心なのです。あらゆるネガティブなものは、恐怖心から起こってきます。「悪」という概念自体が恐怖に満ちた考えです。


ですから、あなたが生まれもっている善性以外に、いったい何が存在しているのでしょう。それは「自分が善ではないのではないか」という疑いです。恐怖心です。


あなたがたの人生は、疑いと恐怖心にたえずおびやかされつづける善性から成り立っています。一日のあいだにいったい何度、疑いと恐怖心が自分の善性の自覚をおびやかすでしょうか。あなたの兄弟の善性を信じる気持ちを、それらが何度おびやかすでしょう。


経験の中にはつねに疑いと恐怖心が働いていることを知れば、それらの存在を意識できるようになるでしょう。そうすれば、それらは意識というダンスの一部分にすぎなくなります。「ああ、そうだ、わたしは自分が善であることを知っている。だが、もしそうでなかったとしたら?」このダンスは心の中で起きています。問答はふりこのように、行ったり来たりします。しかし、しだいにその非難の調子は薄れてゆきます。恐怖心は受けいれられるにつれて、徐々に消えてゆくのです。


自分の善性を自覚した心からは、葛藤が消し去られます。心はみずからの善性を自覚した以上、それを他人にもおよぼして考えずにはいられなくなります。他人を悪いとみなすとき、あなたはまた疑いと恐怖心を心に呼びもどしています。


聖なるものは、二極対立から自由であり、あらゆる葛藤からも自由です。自分と兄弟の善はひとつであり同じものであると悟るとき、あなたは聖なるものに対して開かれます。聖なるものは、つねに共有されます。それは特定のあるものにだけ属するというものではありません。


そういう特権的独占物はすべて、恐怖心が生み出したものです。あらゆる判断評価は、恐怖心が生み出したものです。


あなたが悪の存在を拒絶し、善を受けいれたときにのみ、あなたは恐怖心をハートの外に追い出すことができます。神の子の中に、悪でありえるようなものはいません。せいぜいが傷ついているという状態です。そういうときには、自分の苦しみを他人のせいにして攻撃し、非難します。でも、それは悪とはちがうのです。


そうです、あなたがたの慈悲心は、ここまで深まるべきです。あなたの宥しに値しないような人間はひとりもいません。あなたの愛に値しないような人間はひとりもいません。


あなたは条件をつけたり、言い訳を考えたりはできますが、わたしの目からはお見通しです。わたしは真実を告げました。それを踏みつけにしないほうが、あなたのためです。


だれかを宥し、愛することがむずかしいようでしたら、むずかしいのです、と言ってください。自分の弱さを正当化するために相手を非難しないでください。あなたが恐怖心をもっているのであれば、そう言ってください。真実はつねに事態を正常化します。


恐怖心につかまっている人だけが、他人を判断し、批判します。あなたは恐怖心を超越していますか。そうでないなら、自分の恐怖心を自覚してください。自覚すれば、他人を批判したりしません。恐怖心はつねに知覚をゆがめるものであることが、やがてわかるからです。


恐怖心を自覚し、自分自身に対しても他人に対しても、正直であってください。告白すればよいのです。「わたしはいま怖いのです。ですから、ものごとをはっきり見ることができません」と。


相手を批判しようとする意図を捨ててください。それは相手の善性が自分に見えないからといって、その相手を無意味に攻撃することだからです。それらの判断を、わたしにゆだね、あずけてください。真実を言ってください。「イエスよ、わたしはこの兄弟の姿を正しく見ることができません。相手を判断しようとしているからです。どうか、わたしがこの判断を捨てられますよう。そして、彼のふるまいがわたしにいかなる恐怖心を起こさせたのかが、理解できますように」


あなたが兄弟に対してくだす判断はすべて、自分の嫌いな部分、受けいれられない部分がどこかを正確に語っています。自分自身の痛いところをつかれるのでなかったら、けっして相手を憎むことはありません。


だからこそ、怒り、恐怖心、判断を正当化しようとする試みはことごとく、みじめに失敗するのです。それはただ自分の過ちを、だれかの名前で非難するのにすぎないからです。それは正直な態度ではありません。責任転嫁です。


あなたは完全に判断をやめる手だてをもっていますが、それでもその判断を正当化したく思います。なぜでしょう。それは、自分で自分の過ちを認められないからです。自分が過ちをおかしたということを認めるよりは、苦しむほうがまだましと思っているからです。自分が学びの途上だということを認めるよりは、完全であるふりをするほうが好ましいのです。なんたる不可解な自尊心でしょうね。苦しんでいるくせ、自分は完全だと主張する人の手を、どうしてわたしがとることができるでしょうか。あなたがやらせてくれなければ、わたしはあなたを助けられません。


過ちをおかすということは、べつだんおそろしいことではありません。愛や受容をとりあげられるわけではありません。きっとそうなる、と思っているのでしょうが、それは架空の話です。あなたから愛をとりあげるのは、自分が正しくないのに正しいと固執することです。それは過ちの修正を妨げてしまいます。


どうか次のことを理解してください。あやまったことをすれば「悪人」なのではなく、正しいことをすれば「善人」なのでもありません。もしそうなら、あなたがたみなは一日のうちで何百回もその両方になることでしょう。ここへ来る旅において、正しいことをしたり、あやまったことをしたりした回数を数えることは意味がないのです。


この世界は学校であり、あなたがたは学びにきました。学びとは、過ちをおかし、修正するということです。学びとは、いつでも正しいということではありません。いつでも正しいとしたら、なぜ学校にくる必要があったのですか。


もっと謙虚に考えてください、友よ。あなたは学生としてここにきたのであり、課程を学びたいのなら、そのことを受けいれてください。あなたが過ちをおかしたことを認めなければ、わたしが手を貸して修正することはできません。


過ちを認め、修正することは、宥しとともに起こります。それはわたしがあなたのために用意した小径です。


友よ、完全であろうとはしないでください。それはゴールとしてふさわしくありません。長くつらい苦しみを選ぶ人だけが、完全であろうと願うのです。そんなことを願わずに、過ちをおかしたときにそれから学べるよう、その過ちに気づくことができるよう願ってください。


完全さは、あなたが真実を話すとき、人を感心させようという願いを捨てるとき、いつわりの自尊心を放棄するときに、ひとりでに、また楽に達成されるものなのです。


自分を修正し、正しくしてくださいと願うものはそれを受けとるでしょう。それはその人が他人より良い人間であったからではなく、ただそれを願い求めたからです。


自分の過ちを認める準備のできていない人たちを、悪いと判断しないでください。ただ自分の過ちを認め、あとは神におまかせします。


あなたの経験を人と分かちあってください。でも、押しつけてはいけません。あなたには、ほかの人が何を必要としているかわからないのですし、それはあなたが知らなくてよいことです。


兄弟の中にある善を思い出してください。あなた自身の中の善を思い出してください。どんな恐怖心や判断の気持ちがわきおこっても、その場で溶かし去ってください。自分の過ちを認め、他人の過ちに寛大になりなさい。それがわたしの言いたいことです。


シンプルではないですか。あまりにシンプルなので、しゅっちゅう忘れてしまうことと思います。しかし、気を落とすことはありません。心の平和を求める気持ちが強ければ、さいごにはその平和のためにすべてを放棄するつもりになれます。心の平和こそ望みなのだと決めれば、かならず故郷に帰ってこられます。



質問者 すべての霊的教師たちが瞑想するように勧めます。瞑想の目的とはなのでしょうか?


マハラジ  私たちは感覚や行為といった外側の世界は知っているが、思考や感情といった内なる世界のことはほとんど知らない。瞑想の初歩的な目的は、私たちの内なる生をより身近に自覚することだ。そして究極の目的は、生の源である意識にたどり着くことだ。付随的にだが、瞑想の修行は私たちの人格に深く影響を及ぼす。私たちは私たちが知らないものの奴隷だ。知るものに対しては私たちが主人だ。何であれ、私たちの欠点や弱点を発見し、その原因や働きを理解する、知るということ自体がそれを克服するのだ。無意識は意識層にもちこまれることによって溶解する。無意識の溶解はエネルギーを解き放つ。マインドはそれを適切だと感じ、そして静かになるのだ。


質問者 静かなマインドは何の役に立つのでしょうか?


マハラジ  マインドが静かになったとき、私たちは自分自身が純粋な観照者であることを知る。私たちは経験と経験者のどちらからも身を引き、その間であり、またその二つを超えた純粋な気づきとして離れて立つのだ。自分自身を、「私はあれやこれだ」と想像し、自己同一化をもととする人格は続いていく。しかし、ただ客観的世界の一部としてだけだ。観照者としての自己同一化は終焉する。


質問者 私が理解するには、私は多くの異なったレベルに生き、その生の各々のレベルはエネルギーを必要とします。自己はその本性としてあらゆることを楽しみ、そのためエネルギーは外側へと流れていきます。このエネルギーをより高いレベルに蓄え、向上させ、豊かにすること、それが瞑想の目的ではありませんか?


マハラジ  それはグナ(性質)のレベルの問題ではない。瞑想は純粋な行為であり、その目的はタマス(不活発性)とラジャス(活動性)を完全に除去することだ。純粋なサットヴァ(調和)は、怠惰と落ち着きのなさからの完全な自由だ。


質問者 どうやってサットヴァを強く清らかにするのでしょうか?


マハラジ  サットヴァはつねに強く純粋だ。それは太陽のようなものだ。雲やほこりに見え隠れすることはあっても、それはただ見る者の視点によるのだ。太陽にではなく、太陽を隠す原因となるものに対処しなさい。


質問者 サットヴァは何の役に立つのでしょうか?


マハラジ  真理、善、調和、美、これらがいったい何の役に立つというのか?それらがそれら自身の目的なのだ。ものごとがそのまま干渉されず、避けられず、求められず、概念化されず、ただあるがままに完全な気づきのなかで体験されるとき、それらは自然に努力することなく現れる。そのような気づきそのものがサットヴァなのだ。それは人やものを利用するのではなく、それらを満たすのだ。


質問者 サットヴァを高めることができないのなら、タマスとラジャスのみに対処するのでしょうか?それらをどう扱えばよいのでしょうか?


マハラジ  あなたのなかで、それらがどう影響を与えているかを見守ることによってだ。それらがどう作用するか気づいていなさい。あなたの思考、言葉、行為を見守りなさい。そうすればそれらのあなたへの支配は徐々に減っていき、サットヴァの澄んだ光が輝きだすだろう。それは困難でも長い過程でもない。真剣さ、それが唯一の成功への条件だ。


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