画家はどんなときに絵を描く幸せを感じるのでしょうか。絵を描いていて、画家という存在がなくなったときです。創作行為がおこなわれているのですが、使う色や絵筆の動きについて画家はいちいち考えてはいません。その瞬間、画家は無限の空間にいます。こうした異質の空間に入る画家の能力が高ければ高いほど、その作品は偉大なものとなります。


ゴッホについてはいろいろな意見があると思いますが、私が言っておきたいのは、彼は気ちがいではなかったということです。頭が混乱していたことは確かです。『星月夜』のような絵を創作したあとで現実に戻るのは、ゴッホにとって非常に困難なことでした。というのも、ゴッホは、地球界での人生は苦痛に満ちたものであり経済的に報われない、という基本的な信念を持っていたからです。それにもかかわらずゴッホは、こうした狭い固定観念から抜け出て、意識を星の世界へ移行させることができました。そこで彼は宇宙の動きを体験し、それをほかの人間も<見る>ことができるように再現したわけです。これは、意識の焦点を移行させるということの、わかりやすい例です。


ということは、意識の焦点を移行させるためには、すべての人が画家にならなければならないということでしょうか。いいえ、あらゆる瞬間にすべての人は芸術家なのです。目の前にあるものが何であれ、自分はそれを創造しているのだ、という事実に胸をおどらせてください。人は自分の意識を純粋な覚醒という絵の具にひたし、創造という絵筆でそれぞれの瞬間の絵を描いているのです。



三日前、私はマヤと素晴らしい時を過ごしました。彼女とともに同じ理解や同じ生命力を分かちあうことはなんという喜びでしょう……


……それ自身が在ることを知っているのです。私はマヤをずっと知っていたと感じています。それはまったく真実です。彼女は私自身のハート、私自身の光、そしてわが同志です。私は彼女を愛しています。そして生命力は無数の姿をとっています。それでも、私がいまだに「他者」と呼ぶ人の姿をとって、それ自体とそれ(生命力)が一つであると認識することはなんという喜びでしょう。マヤがこの手紙を翻訳してくれることでしょう。


……今朝早く、ベッドの中で静かに横になっていたとき、遠くにいる子供たちのことを想いました。そのとき燃えるような、私を飲みこむような、「この瞬間、私とはいったい何なのか?今この瞬間、私の子供とはいったい何なのか?」という問いが起こったのです。どんなイメージも、概念も、この問いからは湧き起こりませんでした。それでも、私は突然その答えを言葉やイメージや概念の背後に見たのです。そこには何の動きも、時間も、距離も、分離の可能性もないことが、とても、はっきりと見えました。いたるところで、すべての物事の中に同じ存在の本質が、今、たった今、はじまりも終わりもなく、形も色もないものでありながら、単一で、真実の、考えうるすべてのものの基盤として存在しているのです。このヴィジョンは、それ自身が在ることを知り、それ自身が唯一の存在で在ることを知っているという存在の叫びだったのです。


私は私の源に、けっして離れたことのなかった本来の「場所ではない場所」に戻ったのです。なぜなら、その場所は「私」そのものだからです。この輝く真理に抱かれて、私は深遠な歓喜に満ちあふれていました。あたかも部屋全体が、音のない「私」という美しい静寂で包まれたかのようでした。私は、私がすべてを動かす存在の本質だということを、たった今、はっきりと理解したのです。存在する今そのもの。私はその「今」です。私は同じ存在です。私は名前も、形も、色も、姿も、動きもない存在の本質でありながら、「私」という意識の中に現れるすべてに名前や、形や、色や、姿を与えるのです。


突然、私は疑いの翳りもなく、私がバラを生長させ、鳥を歌わせ、森の水を流れさせる唯一の本質であり、それが自然に何千もの色彩を与えていることを感じ取ったのでした。
私があなたに書いていることは、師よ、少々奇異なことかもしれません。言葉に置き換えるのはとても難しいことです。それでも光と智慧であるあなたの愛と恩寵ゆえに、私は試みています。それができるのは、あなたが私を通して書いているという確信があるからです。「私はただ『それ』なのです」


「私はただ『それ』なのだ」という確信は、ますます揺るぎないものになっています。私は存在の本質、原初から根源にある本質、「私」という本質以外の何ものでもありません。私はすべてに満ち、いたるところに存在しています。私はすべてであり、すべてが私なのです。そこにはそれ以外何も存在せず、距離さえもありません。


ほんの一瞬のうちに、遠くにいた私の子供は、ふたたび無である私自身になり、しかも生命の本質である私自身の中に現れました。ですから、名前は存在せず、遠くの子供も存在せず、別れや遠くに暮らすということも、もはやありません。私は、それ自体を「私の子供」として現し、また無数の形態を通して今を生きている存在の本質、私自身の単一性を認識するために無数の宇宙を創造するその存在の本質なのです。


もしそうだとすれば、私はこれまで永遠に存在してきたように存在しつづけ、そしてもし進化というものがあるとすれば、それはただそれとして在ることでそれ自体をより深く知り、理解してゆくことの中にあるのみです。私は単一で、唯一の存在の本質です。


私自身が唯一の存在の本質であることを知って、恐れは消え去りました。どこに恐れが根を下ろせるというのでしょう?私一人が存在するとき、誰が誰を恐れさせるというのでしょう?私は一人であり、同時に私は娘や息子、友人、そして感嘆すべき師プンジャジの姿を通して生きています。私はまた動物、植物、鉱物や岩石でもあるのです。私の真我である師よ、今この瞬間ニコルにとって、何であれ一日のうちに起こることを完結させるためには、ただ一つのことをするだけでいいと深く感じています。私は私が触れ、見、感じるすべての中に生きる唯一の存在の本質であることを忘れないこと、私がいまだに他者と呼ぶものを通してそれ自体を見ている存在の本質として人生を生きること、そしてもしそれを忘れたなら、ただそれだけが存在するのだから、忘れることもまた存在の本質であることを忘れないことです。存在の本質、空、沈黙は、今同じものとなりました。それらに違いはないからです。


深い敬意と誠実な愛とともに



質問者 私は画家で、絵を描くことによって生計を立てています。これは霊的見地から見て価値あることなのでしょうか?


マハラジ  あなたは絵を描くとき、何を想うのだろうか?


質問者 私が絵を描くときは、そこに絵と私自身が在るだけです。


マハラジ  あなたはそこで何をしているのだろう?


質問者 絵を描いています。


マハラジ  そうではない。あなたは絵が描かれていくのを見ているのだ。あなたは見守るだけで、それ以外はすべて起こるのだ。


質問者 絵がそれ自身を描いているのでしょうか?あるいは何かより深い「私」あるは神が描いているのでしょうか?


マハラジ  意識そのものがもっとも偉大な画家なのだ。世界全体が絵画だ。


質問者 誰が世界の絵を描いたのでしょう?


マハラジ  画家は絵のなかにいる。


質問者 絵は画家のマインドのなかにあり、画家は絵のなかにいる。そしてその絵は、絵のなかの画家のマインドのなかに在る!この無限の状態と次元はばかげていませんか?
私たちが絵のなかにあるマインドのなかの絵について語る瞬間、高次の観照者が低次を観照しているという、かぎりない観照者の連鎖となります。それは二つの鏡の間に立ち、そこに映る群衆に驚いているようなものです。


マハラジ  まったくそのとおりだ。あなたはひとりで、そこには二重の鏡がある。その二つの合間であなたの形と名前は無数に存在するのだ。


質問者 あなたはどのように世界を見ているのでしょうか?


マハラジ  私は画家が絵を描いているのを見ている。その絵を私は世界と呼び、画家を神と呼ぶ。私はそのどちらでもない。私は創造しないし、創造されたものでもない。私はすべてを含み、私を含むことのできるものは何もないのだ。


質問者 私が樹や、顔や、夕日を見るとき、その絵は完全です。私が目を閉じるとイメージはぼんやりして、かすんだ状態です。もし私のマインドが絵を投影するならば、なぜ愛らしい花を見るために目を開いていなければならず、目を閉じたときははっきり見えないのでしょう?


マハラジ  なぜなら、あなたの外側の目のほうが内なる目より優れているからだ。あなたの目はいつも外側へと向いている。あなたが霊的世界を見ることを学ぶにつれて、それが身体の目で見るよりもより色鮮やかで、完全なことを知るだろう。もちろん、いくらかの訓練が必要だ。だが、なぜ議論するのだろう?あなたが、絵はそれを描いた画家から生まれたと想像するからだ。あなたはいつも理由や原因を探している。因果関係はマインドのなかにだけ存在する。記憶が継続性という幻想を与え、繰り返しが因果関係の概念をつくり出すのだ。ものごとが繰り返し一緒に起こるとき、私たちはそこに因果関係を見いだそうとする傾向がある。それは精神的習慣をつくり出す。しかし、その習慣は必要なものではないのだ。


質問者 あなたは世界が神によってつくられたと言ったばかりです。


マハラジ  言語はマインドによって、マインドのためにつくられたひとつの手段だということを覚えておきなさい。ひとたび、あなたが原因を認めるならば、神が究極の原因であり、世界はその結果となる。それらは異なるものだが、分離してはいない。


質問者 人びとは神を見ることについて語っています。


マハラジ  あなたは世界を見るとき、神を見ている。世界を離れて、神を見るということはない。世界を超えて神を見るということは、神となることだ。あなたは光によって世界を見る。その光が神であり、それが「私は在る」という小さな閃光だ。一見とても小さく見えるが、それは知ることと愛することという行為のはじまりと終わりなのだ。


質問者 神を見るために世界を見なければならないのでしょうか?


マハラジ  それ以外どうするというのだろうか?世界がなければ神もない。


質問者 何が残るのでしょう?


マハラジ  あなたが純粋な存在として残る。


質問者 そして世界と神は何になるのですか?


マハラジ  純粋な存在(アヴィヤクタ)になる。


質問者 それは偉大な広がり(パラマーカーシュ)と同じなのでしょうか?


マハラジ  そう呼んでもいい。言葉は問題ではない。言葉では表現不可能だからだ。完全な否定によってのみ表現できるのだ。


質問者 どうすれば世界を神として見ることができるのでしょうか?それはどういう意味なのでしょうか?


マハラジ  それは暗室に入っていくようなものだ。あなたには何も見えない。あなたは触れるかもしれないが、色彩も輪郭も、何も見えない。そこで窓が開き、部屋は光であふれ、満たされ、色彩と形態が現れだす。光を与えたのは窓だ。だが窓が光の源なのではない。太陽が源なのだ。同じように、物質は暗室のようなものだ。意識が窓だ。感覚と知覚によって物質はあふれだす。そして物質と光の両方の源である至高なるものが太陽なのだ。窓は開いているかも、閉じているかもしれない。太陽はいつも輝いている。太陽は部屋に完全な変化をもたらしたが、太陽は変化しない。しかし、これらすべても小さな「私は在る」にとっては大きな意味をもたない。「私は在る」なしには何も存在できないからだ。すべての知識は「私は在る」に関わる。この「私は在る」についての誤った考えが束縛へと導き、正しい考えは自由と幸福をもたらすのだ。


質問者 「私は在る」と「そこに在る」は同じでしょうか?


マハラジ  「私は在る」は内側を、「そこに在る」は外側を意味する。ともに存在(ビーイング)の感覚に基づいている。


質問者 それは実存(イグジスタンス)の体験と同じなのでしょうか?


マハラジ  実存することとは、あるもの、ある感情、ある想い、ある概念といった何かとして在ることを意味している。すべての実存は、ある特定のものだ。すべての存在はほかのあらゆる存在を互いに受け入れるという意味で、存在だけが普遍的なものと言える。実存は対立するが、存在に対立はありえない。実存とは何かになること、生まれ、死に、また生まれるという変化を意味する。一方、存在には平和と静寂があるのだ。


質問者 もし私が世界をつくり出したのなら、どうしてこのように間違ったものになってしまったのでしょうか?


マハラジ  誰もが皆、その人自身の世界に生きている。すべての世界が同じように良いわけでも悪いわけでもない。


質問者 何が違いを決定するのでしょうか?


マハラジ  世界を投影するマインドが、それ自身のやり方で色づけするのだ。あなたがある人に出会うとき、彼は見知らぬ人だ。彼と結婚すれば、彼はあなた自身のものとなる。喧嘩をすれば、彼はあなたの敵になる。彼があなたにとって何であるかを決定するのは、あなたのマインドの姿勢によるのだ。


質問者 私の世界が主観的なものだということは理解できます。それはつまり幻想でもあるということなのでしょうか?


マハラジ  主観的であるかぎり、それは幻想だ。実在は客観性の内にある。


質問者 客観性とはどういう意味でしょうか?あなたは世界が主観的なものだと言いました。今、またあなたは客観性について語っています。すべては主観的ではないのでしょうか?


マハラジ  すべては主観的だ。しかし、実在は客観的だ。


質問者 どういう意味でしょうか?


マハラジ  それは記憶や期待、欲望や恐れ、好き嫌いといった選択に依存しない。すべてはあるがままとして見られるのだ。


質問者 それはあなたが第四の状態(トゥリーヤ)と呼ぶものなのでしょうか?


マハラジ  あなたの好きなように呼ぶがいい。それは確固とし、一定で、変化せず、はじまりも終わりもない。つねに新しく、つねに新鮮だ。


質問者 どうやってそれに到達するのでしょうか?


マハラジ  欲望もおそれもない状態があなたをそこへ連れていくだろう。


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