自分以外の人間や、まわりで起こっている出来事を見るときに、自分は”神の大いなる光”のなかにいるのだ、ということを忘れないでください。あらゆるものの本質は愛です。そのことを忘れないようにつねに努力するならば、そうした覚醒意識を得るのを妨げているものが少しずつ明らかになってきて、やがて消えていきます。このことを忘れないでいると、”大いなる光”以外のものはどれでも一時的なものであり、生まれては消え、やってきては去っていく、つかのまのはかない障害物にすぎないのだ、ということがわかってきます。不断に変化する考えや信念などというカムフラージュの陰にある、実在するものにつねに意識を向けてください。


人は、自分とは肉体のことだと思っています。人はまた、カルマや輪廻転生があると深く信じているので、過去をなかなか捨てられないし、”大いなる光”が”大いなる光”に出会っているのだ、ということに気づけません。


”大いなる光”が”大いなる光”に出会うと、その結果、よりパワフルな”大いなる光”が生まれます。どんな方法を用いてでも、あらゆるものは神なのだということを覚えていられるならば、自分の悩みの本質がはっきり見えてきます。



Krishnamurti あるがままのものの観察


―あるがままのものの観察、あるがままのものに“なる”こと―


理想(比較)なき観察―「あるがまま」と「あるべき姿(こうありたいもの・こうであって欲しいもの)」 あるがままのもの=現にあるもの、今、現に、このように存在する私の知覚的・心理的事実 瞑想は、「あるがままのもの」からの逃避ではない。それは、あるがままのものを理解し、そしてそれを超えることである。 あるがままのもの(=今、現に存在する私の心理的/経験的事実・現状)を理解することなしに瞑想は、 一種の自己・現実・問題からの逃避になるに過ぎない。瞑想とは、私・自我の感覚を生み出す思考の全活動を、一個の事実として理解することなのである。


それ自身の内部で、現在、実際に進行しつつあることに、どんな選択も是非判断もなしに気づいていること。 その基礎は「何かに到達する」という希望の一切ないところに敷かれます。希望を持つなら、この現状―絶望―から逃げているのです。 希望を持つのではなく、絶望を理解しなくてはなりません。 「あるがままのもの」の理解のなかには希望も絶望もありません。


動いている自己を観察し、それに学んで下さい。 それを見守り、それに破壊することなしに気づいていて下さい。 「私はそれを変えなければならない」「私はそれを取り除かなければならない」と言わないで。何の取捨選択もなしに、何の常識的・文化的・教義的な是非判断もなしに、ただそれを見守って下さい。 そのとき、その見守り-学ぶことの結果、自己は消え去ります。


この心の浄化は、意志によるものでも宗教的な訓練の結果でもありません。 いま在るものへの全的な気づきが、唯一の解放者なのです。


もし、あなたがあるがままのものを見るなら、あなたは世界全体を見ます。 あるがままのものを否定することに葛藤の始まりがあります。 世界の美しさはあるがままのもののなかにあります。 そして、努力なしにあるがままのものと共に在ることが徳なのです。


私たちは、私たち自身のありのままの生を見なければなりません。 果てしのない不満足さと空虚さを、 決して満たされることのない欲望と葛藤を、 そして、様々な娯楽、刺激物への逃避を。 非難も選択もすることなしに、恐怖や願望の歪みもなしに、 いま現にそうである私たち自身の姿を観察しなければならないのです。


そのとき、その観察のなかに、とてつもない変化が生じるのです。


いま現に、あるがままの姿(現実・事実)と、あるべき姿(観念・理想・理念)のあいだの矛盾・葛藤に 莫大な量のエネルギーが費されています。 この矛盾が無くなったなら― つまり、瞬間的・心理的に反対物を作り出してしまい、 そこへ移行しようとすることによって、事実あるものを見ない、ことを止めてしまったなら― 変容に必要なエネルギーは充分に存在するのです。 この反対物のあいだの闘いが、エネルギーの浪費を引き起こしているのです。


性的、生物的欲望などへの非難や修正、制御もまたエネルギーの浪費を引き起こします。 しかし、それらを非難することなく、そのなかに入り込み、それと共に流れ、 それと一つになってそれを見つめ、それを理解していくことができるなら、 そこにエネルギーのロスはないのです。 この豊富なエネルギーが変容には必要なのです。


ある瞬間において「あるがままのもの」は、恐怖や、ひどい絶望、束の間の喜びであるかもしれません。


結局、いわゆる修行を実践している人たちは、 彼らがいつか達成することを望んでいる遠くにある観念を追求しているので、 今、ここにある現実を見ることがありません。 彼らは常に明日の観点から考え、自分自身を訓練します。


未来において実現されるであろう理想像を心に思い描き、 「そう(で)あるべきだ」と考えるものを実現しようと、常に努力し、自己訓練しています。


彼は自分自身のなかで、現在、正に起こっている過程の全体を決して理解しようとはしません。 そうではなく未来の理想にのみ関わっているのです。


野心的な人間は誰よりもいちばん恐れている人間である。 なぜなら、彼はあるがままの自分であることを恐れているからだ。


困難なのは、 「あるがままの事実(現実)」から走り去ってしまうことなしに、それと共に留まる、ということです。


我々の反応・応答のたいていが、事実(現実)からの逃避の行為となっているため、 逃避しないでそれと向きあうことが、これほどにも難しいこととなっているのです。


しかし、真の実在はあなたの近くにあるのです。 遠くにそれを求める必要はありません。 真理を求める人は、決してそれを見つけないでしょう。 真理は「あるがままのもの」のなかにあるからです。 そういう真理こそ、美しいのです。


それに反し、 あなたが真理を自分の知識に基づいて思い描き、それを追求し始めた瞬間から、戦いが始まるのです。 戦う人は理解することができません。 ですから私たちは、注意深く、受動的に、 この「あるがままの生、あるがままの、今、存在するもの」を観察しなければならないのです。 いま現に存在するものについて、それを否定したり、何かに変えようとするのではありません。 あるがままのものの知覚それ自体が、その変容をもたらすのです。


しかし「あるがままのものの見方」を知らなければなりません。 それは… 「どんな取捨選択もなしに、ただ全的に観察すること」なのです。 山登りを私は信じません。 “登り”など、ないのです。 「私はこれだが、いずれそれになる」など、ないのです。 あるのはただ「これ」のみです。 「これ」を変えなさい―それがすべてです。 心がもはや、「あるがままのもの」を避けておらず、抵抗しておらず、 それに単純に、受動的に、気づいているとき― その受容性のなかに変容が生じているのを知るでしょう。


私たちは理想が必要だと考えます。 しかし理想は私たちのなかに、この根源的な変化をもたらすのに役立つでしょうか。 それとも、それは単に、私たちが変化を延期し、未来に押しつけ、 それによって即座の根本的な変容を避けるのに役立つだけでしょうか。 確かに、私たちが理想を持つかぎり、私たちは決して本当には変化せず、 実際には、即座の根源的変容を避けるための延期の手段として、その理想を利用しているだけなのです。 理想は欠くことのできない大切なものであるということが、私たちの多くにとって当然のことだと思われています。 それなしには変化のはずみがないだろう、 それなしには、腐敗し、淀んで、腐るだろう、と私たちは考えるからです。


しかし、何らかの種類の理想が本当に私たちを変えるでしょうか。 私たちはなぜ理想を持つのでしょうか。 私が暴力的なら、非暴力の理想を持つ必要があるでしょうか。 非暴力の追求は、心を暴力から解放するでしょうか。 それとも、非暴力の追求(への欲求)そのものが、実際には暴力の理解を妨げているのでしょうか。


結局、私が心の全体で、問題=心の暴力性に完全な注意を注ぐときのみ、 私はそれ=暴力性を理解することができます。 そして、私が「暴力性」という事実と、その事実の理解に全面的に関わるとき、 非暴力の理想がどんな意味を持つでしょうか。 理想の追求は、現実・事実の回避、変容の未来への延期なのではないのでしょうか。 私が暴力を理解するつもりなら、私の心の全体を、それに注がなければなりません。 非暴力の「理想」によって注意をそらされていてはなりません。 これは本当に、非常に重要な問題です。


私たちの多くは、理想を自己変革の本質的な要因とみなします。 しかし実際には、心が暴力そのものの全体を理解するときにのみ本質的な変化があるのであり、 暴力を理解するためには、あなたはそれにあなたの全面的な注意を注がなくてはなりません。 理想によって注意をそらされていてはなりません。 ひとが暴力を完全に注意して見ることができ、それを完全に理解することができるなら、 そのとき多分、それを根源的に解決する道が見えてくるのです。


非暴力を習慣的に実行する人は、本質的に自己中心的であり、 したがって、その言葉の真の意味において「暴力的」です。 謙虚を習慣的に実行するひとは決して謙虚ではありません。 なぜなら、謙虚を獲得する、あるいは何であれ徳を養成するという過程が 自己中心性のもう一つの現われに過ぎず、 それは本質的に邪悪で暴力的だからです。 私がこれを非常に明確に見るなら、そのとき私はどうしたらいいでしょうか。


どんな風に私は、暴力から心を解放することに取り掛かったらいいのでしょうか。 私たちは常に何かになろうとする意志にふりまわされている。 「あのようになりたい」という絶え間ない葛藤が私たちを苦しめ続ける。 あなたが一度も「瞑想」という言葉を聞いたことがなければなあ、と思います。 あなたが一度も、静かであるとはどんなことか、 心が静かなとき、その向こうに起こるかもしれないことについて、聞いたことがなければなあ、と思うのです。 もしも、あなたがこれらのことを、何も、一度も聞いたことがなく、 ありのままのあなたの生を― 悲惨、葛藤、苦しみに満ちたあなたの日常の生を―処理するだけであったなら、 その観察のなかに「他なるもの」が起こり得るかもしれないでしょうに。 しかし、あなたはそれを理解しようとはせずに他のものを望んでいます。


それが私が、「もしも、あなたが知ることなしに始めることができたらなあ」と言う理由です。 私は思考によって触れられていない実在があるかどうか知りません。 私はそのように宗教的な心があるかどうか、本当に何も知らないのです。


質問者:人間の生の究極的な意味、あるいは目的は何でしょうか。


クリシュナムルティ:私たちの生には意味や目的があるでしょうか。 私たちは目的を考え出すことはできます。 ―完璧な悟り、至福の状態に到達すること、と云った。 あるいは果てしなく理論を考え、それを自分の生の主題として生きていくこともできます。 私たちの生には、 幾ばくかのお金を稼ぎ、馬鹿げた種類の娯楽にそれを費やすこと以外、何の意味も目的もありません。 理論のなかにではなく、実際に、自分自身の生のなかに、このすべてを見ることができます。 自分自身のなかの果てしない戦い、目的の、悟りの追求、 世界中に―インドや日本に―瞑想の技術を学ぶために行くこと。 あなたは千もの目的を考え出せます。 しかし、あなたはどこへ行く必要もありません。 ヒマラヤにも、僧院にも、どんな道場にも。 なぜなら、あらゆるものがあなたのなかにあるからです。 どうやって見るのかを知るなら、最高のもの、測り知ることのできないものが、あなたのなかにあるのです。 「あるがままのもの、測り得るもの」を通して、あなたは「測り知れないもの」を見出します。 それは、あなたが自分自身で始めなければならないことです。 それをどうやって見るのかを知ることです。 それは、観察者なしに見ることなのです。 努力とは、あるがままのものをそれとは違ったものに― つまり、あるべきものに変える闘いを意味しています。 私たちは、あるがままのものに直面することを怖れるため、 絶えずそれに制御や修正という形で働きかけ、 それを見ることを避けるのです。 私は、どんなときにも自分や他人を測定しません。 この測定のない状態は、実際にあるがままのものと共に生きるとき、 あるがままのものを善悪の規準で判断しないときにやってきます。



質問者 ジニャーニ(賢者)は何かを為す必要があるとき、どのように行うのでしょうか?彼は計画を立て、詳細にわたって決定し、それを実行するのでしょうか?


マハラジ  ジニャーニは状況を完全に理解し、即座に何が為されるべきかを知る。それだけだ。残りはひとりでに起こる。しかも、たいていは無意識のうちに起こるのだ。ジニャーニとすべての存在との同一性は本当に完全なものであり、彼が宇宙に応えるように、宇宙も彼に応える。ひとたび状況が認識されれば、出来事は適切な対応のなかで動いていくということに彼は絶大な確信をもっているのだ。普通の人は個人的利害に関心をもち、危険とチャンスを計算している。一方、ジニャーニは超然として、すべては起こるべくして起こると確信している。そして何が起こるかは、さして重要ではないのだ。なぜなら、最終的に均衡と調和が戻ってくることは不可避だからだ。ものごとの核心には平和があるのだ。


質問者 私は人格が幻想であり、アイデンティティを失うことなく油断なく冷静に在ることが、私たちにとっての実在との接触点であることを理解しました。どうか教えていただけますか、今、この時点であなたは個人なのでしょうか、それとも自己覚醒したアイデンティティなのでしょうか?


マハラジ  私はその両方だ。だが真の自己は、個人によって与えられた、何が私ではないかという表現による以外描写することはできないのだ。個人に関してあなたが言えることはみな自己ではない。そしてあなたはあるがままの、そうありえたであろう、そうあるべき自己に関して何も言うことはできないのだ。すべての属性は個人的なものであり、実在はすべての属性を超えているからだ。


質問者 あなたはときどき自己で、ときどき個人なのでしょうか?


マハラジ  どうしてそう在ることができよう?個人とは、ほかの人たちにとってそう現れる私なのだ。私自身にとって、私は意識の無限の広がりであり、そのなかで無数の個人が果てしない連鎖を繰り返し現れては消えていくのだ。


質問者 あなたにとってはまったくの実体のない個人が、私たちにとっては現実に見えるのはどうしてでしょうか?


マハラジ  自己、すべての存在の根源、意識と歓喜であるあなたは、何であれあなたが知覚するものに実在性を与えるのだ。この実在性を与えることはつねに今のなかにおいて起こり、ほかのどのときにも起こることはない。なぜなら過去と未来はマインドのなかにしか存在しないからだ。「在ること」は今だけに適用するのだ。


質問者 永遠性も無限なのではないでしょうか?


マハラジ  時間が無限なのだ。そこに限界はあるが、永遠は今という一瞬のなかにある。私たちがそれを見失うのは、私たちのマインドがつねに過去と未来の間を行き来しているからだ。マインドが今に焦点を当てるために止まることはないだろう。もし興味が起これば、それは比較的簡単にできるのだ。


質問者 何が興味を起こさせるのでしょうか?


マハラジ  誠実さ、成熟の象徴だ。


質問者 では、成熟はどのようにしてもたらされるのでしょうか?


マハラジ  マインドを清く明るく保つことによって、人生を起こるがまま、一瞬一瞬を完全な気づきをもって生きることによって、欲望と恐れが現れるなり調べ、解消していくことによってだ。


質問者 そのような集中がいったい可能なのでしょうか?


マハラジ  試してみなさい。一度に一歩ずつならばやさしいはずだ。誠実さからエネルギーは湧いてくるのだ。


質問者 私には誠実さが足りません。


マハラジ  自己背信は悲惨な問題だ。それはマインドを癌のように腐らせてしまう。明晰性と考え方の高潔さのなかに治療法があるのだ。あなたが幻想の世界に生きていることを理解しようとしてみなさい。それを調べ、その根底にあるものを暴きなさい。そうしようと試みること自体があなたを誠実にするだろう。なぜなら、正しい、真剣な試みのなかに至福があるからだ。


質問者 それは私をどこへ導くのでしょう?


マハラジ  もしそれ自体の完成へ導くのでなければ、どこへ導くというのだろうか?ひとたびあなたが今のなかに本当に確立すれば、ほかにどこへも行くところはない。かぎりなくあなたであるものを、あなたは永遠に表現していくのだ。


質問者 あなたはひとつなのでしょうか、それとも多数なのでしょうか?


マハラジ  私はひとつだ。だが多数として現れるのだ。


質問者 いったい、なぜ人は現れるのでしょうか?


マハラジ  在ること、そして意識して在ることは良いことだ。


質問者 人生は悲しいものです。


マハラジ  無知が悲しみをもたらす。幸福は理解にともなって起こるのだ。


質問者 どうして無知は苦痛なのでしょうか?


マハラジ  それはすべての欲望と恐れの根底にあり、苦痛に満ちた状態であって、果てしない過ちの源なのだ。


質問者 私は真我を実現したと言われる人たちが笑ったり泣いたりしているのを見てきました。それはつまり、彼らが欲望や恐れから自由になっていないことを示しているのでしょうか?


マハラジ  彼らは状況にしたがって笑ったり、泣いたりするかもしれない。しかし、内面では覚めていて明晰であり、自分自身の反応を冷静に見守っているのだ。現象は惑わせやすい。ジニャーニの場合はなおさらのことだ。


質問者 私には理解できません。


マハラジ  マインドでは理解できない。なぜならマインドは理解し、把握するために訓練されてきたからだ。一方、ジニャーニは理解も把握もしていないのだ。


質問者 あなたが把握しない何を私がつかんでいるというのでしょう?


マハラジ  あなたは記憶の創造物だ。少なくともあなたはそう想像している。私はまったく想像されないものだ。私は私だ。いかなる身体的、あるいは精神的状態とも同一化不可能なのだ。


質問者 不慮の出来事があなたの静謐を打ち砕いてしまうでしょう。


マハラジ  奇妙なことにそうならないのが事実なのだ。私自身驚くことに、私は起こることすべてに気づいている純粋な気づきのままとどまるのだ。


質問者 たとえ死の瞬間でさえもそうなのでしょうか?


マハラジ  身体が死ぬことが私にとって何だというのだろう?


質問者 世界と接するために身体が必要なのではありませんか?


マハラジ  私に世界は必要ない。私はそのなかにいない。あなたが考えている世界はあなたのマインドのなかにあるのだ。私にはそれをあなたの目とマインドを通して見ることができる。だが、私はそれが記憶の投影であることに完全に気づいている。それはただ、今という気づきの点においてのみ実在によって触れられるのだ。


質問者 私たちの間にある唯一の違いとは、私が真の自己を知らないと言いつづけているにもかかわらず、あなたはそれを良く知っていると主張していることにあるようです。それ以外に何か私たちの間に違いがあるでしょうか?


マハラジ  私たちには何の違いもない。私は私自身を知っているとさえ言えない。私が知っているのは、私は描写不可能、定義不可能なものだということだ。マインドが達することのできるもっとも遠い果てを超えると、そこには広大な広がりがある。その広大な広がりが私の家なのだ。広大さが私自身だ。そしてその広大さはまた愛でもある。


質問者 あなたは愛をいたるところに見ます。一方、私は憎しみや苦しみを見るのです。人類の歴史は、個人的そして集団的殺戮の歴史です。ほかのいかなる生き物も殺すことにこれほど喜びを感じはしません。


マハラジ  もしあなたが動機のなかに入っていけば、そこに愛を見いだすだろう。自分自身、そして自己への愛を。人びとは彼らが愛していると想像しているもののために戦うのだ。


質問者 そのために死をも厭わないならば、彼らの愛はまさに本物に違いありません。


マハラジ  愛はかぎりないものだ。数人の人にかぎられたものを愛と呼ぶことはできない。


質問者 あなたはそのような無限の愛を知っているのでしょうか?


マハラジ  知っている。


質問者 それはどう感じられるのでしょうか?


マハラジ  すべては愛され、愛すべきものなのだ。何ひとつ例外はない。


質問者 たとえ醜く、罪を犯した人も愛されるべきなのでしょうか?


マハラジ  すべては私の意識のなかに在る。すべては私のものなのだ。自分自身を好きや嫌いで分割することは狂気だ。私はその両方を超えている。私は疎外されないのだ。


質問者 好き嫌いから自由になることは無関心の状態です。


マハラジ  はじめのうちはそう見え、そう感じられるかもしれない。そのような無関心に屈せずにいなさい。そうすればそれはすべてに浸透し、すべてを抱擁する愛へと花開くことだろう。


質問者 マインドが花や炎になったと感じられるような瞬間があります。しかし、それらは継続せず、人生は灰色の日々に戻ってしまうのです。


マハラジ  あなたが具象的なものと関わるときは、非継続性がその法則なのだ。継続的なものを体験することはできない。それには境界がないからだ。意識とは交替をかならずともなうものだ。変化につぐ変化、ひとつのこと、あるいはひとつの状態が終わると別の状態がはじまる。通常の意味において、境界線のないものを体験することはできないのだ。人はただ、知ることなしにそれで在ることができるだけだ。だが、それではないものを知ることはできる。そして間違いなく、それはつねに動いている意識の内容すべてではない。


質問者 もし不動なるものが知られないとすれば、それを実現することの意味と目的は何なのでしょうか?


マハラジ  不動なるものを実現するとは、不動なるものに成るということだ。そして、その目的は生きるものすべてにとっての善なのだ。


質問者 生命は運動であって、不動は死です。生命にとって死が何の役に立つというのでしょう?


マハラジ  私は不動性について話しているのであって、静止状態についてではない。公正さのなかであなたは不動となる。あなたはすべてのものごとを正す力となるのだ。それは強烈な外的活動を意味するかもしれない、しないかもしれない。だが、マインドは深く静かになるのだ。


質問者 私がマインドを見守ると、それはつねに変わりつづけています。無限の多様性のなかでひとつの気分が別の気分にとって代わります。一方、あなたは絶えず明るい慈愛に満ちた気分のなかにいるように見えます。


マハラジ  気分はマインドのなかにあり、重要なことではない。内側に入っていきなさい。超えていきなさい。意識の内容に気をとられてはならない。あなたが真の存在の深層に達したとき、マインドの表層での戯れは、もはやあなたに影響を与えないことを見いだすだろう。


質問者 それでもやはり同じ戯れはあるのでしょうか?


マハラジ  静かなマインドとは死んだマインドではないのだ。


質問者 意識はつねに運動のなかにあり、それは観察可能な事実です。不変の意識というものは相矛盾しています。あなたが静かなマインドについて語るとき、それはいったい何なのでしょうか?マインドとは意識と同じものではないのでしょうか?


マハラジ  言葉はその文脈にしたがって、たくさんの異なった使い方をされるということを覚えておかねばならない。実際、意識と無意識の間にはわずかな違いしかない。それらは本質的に同じものだ。目覚めの状態は観照者の存在ゆえに眠りの状態とは異なっている。気づきの一光線がマインドの一部分を照らし、その一部分が私たちの夢や目覚めの意識となり、同時に気づきは観照者として現れるのだ。観照者は普通、意識だけを知っている。サーダナとは、観照者をまず彼の意識へと向きを変え、それから彼自身の気づきのなかの自己に向けることで成り立っているのだ。ヨーガとは自己覚醒なのだ。


質問者 もし気づきが普遍ならば、盲目の人が真我を実現すれば見えるようになるのでしょうか?


マハラジ  あなたは感覚と気づきを混同しているのだ。ジニャーニはあるがままの彼を知っている。彼は身体が不自由であり、マインドがある感覚的認識の範囲を奪われていることにも気づいている。だが、彼は視野の有効性、あるいはその不在に影響されはしないのだ。


質問者 私の質問はもっと特定のものです。盲目の人がジニャーニになったとき、彼の視野は回復するのでしょうか、どうでしょうか?


マハラジ  彼の目、あるいは脳が修復されないかぎり、どうして彼に見ることができるだろう?


質問者 しかし、彼は手術を受けるでしょうか?


マハラジ  受けるかもしれない、受けないかもしれない。それはすべて運命と恩寵にかかっているのだ。だが、ジニャーニは非感覚的知覚の自発的な方法を制している。それが彼にじかに感覚器官を通さずとも、ものごとを直接知らしめるのだ。彼は知覚や観念を超え、時間と空間、名前と形の領域を超えている。彼は知覚されるものでも知覚する者でもない。だが彼は知覚を可能にするシンプルかつ普遍の要因なのだ。実在は意識のなかにある。しかし、それは意識ではなく、その内容でもない。


質問者 世界と世界に関する私の知識、どちらが偽りなのでしょうか?


マハラジ  あなたの知識の外側に世界は存在するだろうか?あなたはあなたが知っていることの彼方へ行くことができるだろうか?あなたはマインドを超えた世界を仮定するかもしれない。だがそれは証明されない、証明されることのできない概念としてとどまるのだ。あなたの体験があなたの証拠だ。そしてそれはあなたにとってのみ有効なのだ。ほかの人びとがあなたの体験のなかに現れるほどしか実在ではないとき、あなたの体験をほかの誰が体験することができるだろう?


質問者 私はそれほどまで絶望的に孤独なのでしょうか?


マハラジ  個人としてのあなたは孤独だ。真の存在においては、あなたは全体なのだ。


質問者 あなたは私の意識内に現れる世界の一部分なのでしょうか、それとも独立しているのでしょうか?


マハラジ  あなたが見ているものはあなたのものだ。私が見ているものは私のものだ。その二つにとって共通のものはほとんどない。


質問者 私たちを結びつける何か共通の要因がかならずあるはずです。


マハラジ  共通の要因を見いだすためにあなたは分別心を完全に捨て去らなければならない。ただ普遍なるものだけが共通なのだ。


質問者 非常に奇妙なこととして私を驚愕させるのは、あなたは、私が単なる記憶の産物であり、はなはだ限定されていると言うにもかかわらず、私は広大で豊かな世界を創造し、そのなかにはあなたやあなたの教えも含んだすべてを包含しているということです。この広大さがいかにしてつくられ、小さな私のなかにそれが含まれるのかということが理解し難いことなのです。あなたは真理のすべてを私に与えてくれているのかもしれません。しかし、私はそのわずかな部分しか把握していないのです。


マハラジ  それでも、それが事実なのだ。小さきものが全体を投影する。だが、それは全体を包含できないのだ。いかにあなたの世界が偉大で完全であっても、それは自己矛盾し、無常で、つまりは夢まぼろしなのだ。


質問者 それは幻想かもしれません。しかしそれでも驚嘆すべきことです。私が見、聞き、触れ、匂い、味わい、考え、感じ、記憶し、想像するとき、私はただ自分の奇跡的な創造力に驚くばかりです。顕微鏡や望遠鏡を通して不思議を覗き、原子の軌道を追い、星のささやきに耳を傾けます。もし私がこれらすべての唯一の創造者であるなら、確かに私は神にちがいありません!しかし私が神ならば、なぜこんなに小さく現れ、自分自身に対して絶望的なのでしょうか?


マハラジ  あなたは神だ。だが、あなたはそれを知らないのだ。


質問者 もし私が神ならば、私が創造した世界は真実であるに違いありません。


マハラジ  本質的にそれは真実だ。だが、現れにおいてはそうではない。欲望と恐れから自由になりなさい。そうすれば一度にあなたの視野は開け、すべてのものごとをあるがままに見ることだろう。あるいはサトグナ(サットヴァの質)が世界を創造し、タモグナ(タマスの質)がそれを覆い隠し、ラジョグナ(ラジャスの質)がそれを歪ませると言ってもいい。


質問者 それではたいして説明になっていません。もし私がその質とは何かと尋ねれば、その答えは創造するもの―覆い隠すもの―歪ませるものとなるでしょう。何か信じがたいことが私に起こったのです。そして私には何が、どのように、どうして起こったのか理解できないでいるのです。


マハラジ  驚きとは智慧の兆しだ。着実に一貫して驚きつづけることがサーダナなのだ。


質問者 私は理解できない世界に住んでいて、それゆえ恐れているのです。これがすべての人の体験です。


マハラジ  あなたがあなた自身を世界から切り離したために、それがあなたを苦しめ脅かすのだ。あなたの過ちを発見しなさい。そして恐れから自由になりなさい。


質問者 あなたは私に世界を放棄しろと求めていますが、私は世界のなかで幸福になりたいのです。


マハラジ  もしあなたが不可能を求めるなら、誰があなたを助けるというのだろう?限定されたものはかならず苦痛を味わい、その後に快楽へと交替するようにできているのだ。もし不変不滅の真の幸福を探すならば、あなたは世界とその苦痛と快楽を後にして立ち去らなければならないのだ。


質問者 どうすればいいのでしょうか?


マハラジ  単なる物理的な放棄は誠実さのしるしでしかない。だが、誠実さだけで解放をもたらすことはできない。そこには明敏な洞察、熱心な探求、深い調査とともに起こる理解がなければならないのだ。罪と悲しみからあなたを救済するために、あなたはたゆまず努めなければならないのだ。


質問者 罪とは何でしょうか?


マハラジ  あなたを拘束するすべてだ。


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