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優しさをいまだかつてまったく持ったことがない、という人はいません。ただ自分のまわりの人が、あなたはこうだとかああだとか、あなたはこうであるべきだとか、ああであるべきだとか言うときには、その人たちの苛立ちを理解してあげてください。その人たちは、あなたには「愛」を示す義務があると考えています。ちょうどあなたも、彼らはあなたに「愛」を示す義務があると思っているように。最終的にはあなたも彼らもともに失望することになるでしょう。


自分がどれだけ愛と完全性を感じていられるかを、他人の言動のせいにすればするほど、その度合いにしたがって、あなたは失望させられることになります。確かな愛が見いだせる場所は、たった一つしかありません。


あなた方が肉体のなかに入ってくる理由の一つは、意識の拡張という非常に胸がワクワクする作業に参加するためです。そしてあなた方は、創造界のすべての分野に、以前より多くの覚醒意識をもたらします。この目的が理解できてくると、自分の状況に関して喜びを感じようが悲しみを感じようが、たいした問題ではないということがわかります。大切なのは感じるということです。自分が何かを体験していて、生きているということです。悲しみや喜びを超えた何かがあって、それが悲しみや喜びに意味を与えるのだということを発見します。


すべてのことの重要性を理解して、呼吸のひと息ごとに感激し、あらゆる体験を喜び、あらゆる感情に胸おどらせるようになると、その人の人生はまったく新しい意識によって築かれます。目覚めた意識ですることは何でも、自分の本質を知っているという平和の感覚へと、その人を一歩ずつ近づけてくれます。呼吸はすばらしいことです。自分が今していることが何であれ、それをしながらこうして今ここにあり、この体験をしているのはすばらしい栄誉であることを自覚して、呼吸してください。贈り物とは呼吸のことであり、神とは呼吸であり、”大いなる光”とは呼吸であるということに気づいてください。


完全に今の瞬間に生きるには、自分の体のなかにいて、自分の思考に耳を傾け、感情を味わい、肉体に敏感であることです。そうすれば、人生の贈り物を受け取ることができます。それは、自分の人生がたとえどのように限られたものであっても、自分はそれでもいのちに満ちているという感覚です。ということは、下半身麻痺でベッドに横たわっている人も、ほかの人と同じ量の生命エネルギーが全身を流れているということです。


細胞のすべてに、現在のところ<空間>と呼ばれている何かが存在します。それは<非物質>なのでそう呼ばれています。その空間は、あなたの本質である基本的な<非物質>なのです。そこに含まれているのは、パワーに満ちた<叡智>の脈動点です。これらの点がいっしょになって美しい模様を織りなしており、科学者は将来、それをスクリーンに映し出して、人々に見せることができるようになるでしょう。それは物体の模様ではありません。それは、個人の<目に見えない>エネルギーの場が持つ、基本的なパターンを物質化したもので、何億種類のパターンのなかから一人ひとりが選ぶものです。実際のところ、あなたは数兆個の光とパワーの点から成る、脈動する電磁波のパターンの一つなのです。あらゆる生命体は、人間の姿とどれほどちがっていても、すべてこのすばらしい生きたパターンがあります。


肉体のなかで脈動を起こす燃料は何でしょうか。呼吸です。呼吸が止まると、パターンのなかの脈動がとまります。それは、個人のパターンが死んだり消えたり、何らかの意味で減少するということではありません。それが単に後退して、肉体の外へ出、基本的なパターンのなかに戻るということです。別の言い方をすれば、それは人間の体からこぼれ落ちて、”大いなる存在”のもっと深い状態のなかに入ってしまうのです。


人が肉体を離れたときに、脈動する光のように<見える>神々しいエネルギーの渦に出会うことがあります。そしてその光からあふれ出る愛と慈悲に圧倒されます。ここでその人が体験しているのは意識の転換なのです。意識が肉体を離れて光体へと移り、人はそれを自分の外へ出たと感じます。この段階では、<自分>と<他者>が存在します。人が実際に<死んだ>とき、つまり地球の肉体に戻らないという決断がなされたとき、<その人>は<自分>のエネルギーをその存在のエネルギーのパターンと混ぜ合わせて、その光の一部となっていきます。この深いレベルのパターンは、もはや<外>にあるものではなく、自分の基本的パターンを構成しているものと同じ霊的実在なので、それと融合できます。生きたままでも人はこれを体験することができます。想像できる最高の愛と慈悲を持ち、すべてを受け入れてくれる覚醒意識の電磁場とともに自分がいるところを想像するのです。自分の意識のなかにそうした<人間>が現れるように、心から願ってください。そうしながら、自分のエネルギーの場とその人の場とが一つになったらどんな感じがするだろうか、と想像してみましょう。


こうした融合を感じるには、呼吸をして、今の瞬間を目覚めた意識をもって感じなくてはなりません。揺らがず、目覚めて、落ち着いて自分の肉体のなかにいるのです。しっかりと肉体のなかにとどまって、今の瞬間に、<今ここ>に根ざす、そうした意識が融合を生み出します。細胞のなかで脈動を起こすのは覚醒意識です。目覚めた意識は必要条件です。


必要なのが呼吸だけならば、誰でもが<不分離>の境地にいるでしょう。自然の食べ物を食べるだけですむのなら、自然食のレストランで食べている人は皆悟っているはずです。覚醒意識は意識的に手に入れるものです。覚醒意識のパワーをこのすばらしい肉体のシステムに応用しなければ、脈動するパワーを発射したり、そこから生まれるいのちを感じたりすることもありません。


この脈動を感じたければ、意識を呼吸に向けるだけでいいのです。脈動を起こすのは呼吸だということを覚えていてください。呼吸と脈動の両方を意識していれば、ひどい悪夢のような状況のなかで恐怖に満ちた体験をしていても、同時に、そのなかを一貫して振動するすばらしいパターンを感じることができます。



生徒 あなたは七つの天界があると言います。ほかの天界がどんなものなのか説明してもらえますか?とくに、第七の天界を。


ラムサ 今あなた方がいるのが第一の天界、三次元の知覚の天界だ。ここは、それぞれの存在たちが物質と呼ばれる形態の中で、神についての理解を得る天界である。そして、ここでの生を修得することは偉大なことである。なぜなら、この天界に入ってくるためには、出生というプロセスを通らなければならず、肉体が持つ限界や本能を生き抜いていかなければならないからだ。


この天界には、意識の理解レベルにおけるすべてのものが存在する。なぜならここは、「表現する神」と呼ばれるものの天界、あるいは「見せる天界」であるからだ。この天界は、自分の感情的な理解を広げるために、物質という形で、意識を見せたり、それを自分の目で確かめたりすることができる天界である。そして、知っておいてほしいのは、あなた方が今いるこの地球と呼ばれる場所は、それぞれの存在が「見せる天界」で化身を通して体験し、表現できる、無数の場所のひとつにすぎないということである。


第二の天界は、自分の理解のために、苦痛、自責、そして罪悪感を体験している者たちの天界だ。


第三の天界は、「力の天界」と呼ばれている。ここは、他人を支配し、隷属させようとする者たちの天界だが、性交やそのほかの肉体的な方法を使ってではなく(彼らは肉体を持っていないのだから)、マインド、すなわち思考と呼ばれるものを使って、あらゆる者に自分の考え方を押しつけようとするのだ。


四番目は「愛の天界」である。この天界にいるすべての者は、深く愛しているのだが、残念ながらその深みを表現できないのだ。つまり、彼らは光のレベルの存在を生きていて、多大な愛を体験しているのだが、その愛を表現する能力がないのである。


第五の天界は、「楽園」と呼ばれている。ここは、「黄金の光」と呼ばれるものがあふれ出す最初の天界だ。あなた方の太陽からの光のようなものを思い浮かべ、それが金色であるところを想像してみなさい。第五の天界では、この色がすべてを包み込んでいるが、それにもかかわらず、すべてのものがそれ自体の色の鮮やかさも保っているのだ。そして、そこには夜がなく、黄金の光だけが存在する。そして、音楽、それもすばらしい音楽が聞こえる。というのも、あらゆるものを包み込んでいる光が、その色に固有の音色を奏でながら、調和のとれたすばらしいリズムで振動しているからだ。この調和のとれたリズムが、そこでの「生命の呼吸」であり、それは空気ではない。したがって、この「楽園の天界」に生きる者は、音と音楽を呼吸し、光の中で生きているのである。


知ってのとおり、あなた方の天界であるこの第一の天界にも、性交、苦痛、力を理解して修得し、愛を現実の中に取り入れて表現している者たちがいる。そして、彼らはここでこれを、どちらかというと簡単に達成した。第六と第七のレベルの理解を修得するのは、この「見せる天界」ではそれほど簡単なことではない。なぜなら、これらの理解は「見せる」ということを超越しているからだ。だが、この第一の天界に生き、愛を体現している者たち、すなわち言葉と行為と行動を通して外に向けて自分の愛を表現し、愛を通して自分の人生を生きたいと望んでいる者たちは、この天界を去ると、第五の天界に行く。そしてこの「楽園の天界」には、何十億歳という存在たちがいる。彼らにとっては、この楽園があまりにもすばらしい場所であったために、その先にもさらに来るべきものがあるということに気づいていないのだ。


第五の天界では、愛を表現し、それを現実化する力を持つことになる。そして、ある瞬間に望むことは、それが何であろうと、そのとおりに実現するのだ。魚を愛する釣り人が魚を望めば、目の前に湖が現れるだろう。その湖は彼が愛する背の高い糸杉やポプラに囲まれており、彼が愛するそのほかのものもすべてそこにあるのだ。もし秋の湖を愛するのなら、ポプラはシナモンの色になり、糸杉はエメラルドグリーンの深みをそのまま保っているだろう。そこに腰を下ろして釣り糸を垂れるとき、涼しいそよ風を望むなら、湖面をやさしくなでるそよ風が吹いてくる。この美しい湖の真ん中に、その存在が小さな餌を投げ入れ、釣りたいものを思い浮かべれば、なんと、彼はそれを釣り上げるのだ。そして、彼はその魚を手に取り(それはこの天界の魚と同じようなものである)、それを自分の夢の家に待ち帰って食べるのだ。そうすることが彼に幸せをもたらすからである。彼が幸せになるのは、自分のしたことを彼が愛しているからだ。


そこにいる存在たちは、この場所よりすばらしいところがあるとは想像もできないのだ。だからこそ、そこは「楽園」と呼ばれている。まだ愛を実現し、表現していない者たちがこの天界に到達するのは難しいことである。


第五の天界でしばらく自己を表現していると、すべてのものを包んでいるこの光の本質は何なのか、また自分はなぜそこにいるに値するのかを、いずれは問いかけるようになる。多くの者は、なぜ自分が楽園にいるに値するのかを問わないが、それは、彼らがそれをただ受け容れてしまうからだ。だが、最終的には、この光と音楽がどこからやって来るのかを考えるようになる。そうするとその存在は、ある等質性を持つすばらしい生命力のエネルギーに気づき始める。光や草花、魚や湖、シナモン色をした秋のポプラの木、これらをつらぬく等質性を持ったエネルギーに気づき始めるのだ。そして、こういったすべてのものの等質性について熟考し始めるのである。そうすると、別々に切り離されて存在しているものはなく、あらゆるものは一体となってひとつの流れの中にあるのだ、ということが見え始める。このことが見え始めるとき、つまり、表現することによって理解され、実現されたすべての愛をもとに、すべてのもの、すべての存在がひとつであることについて熟考し始めるとき、その人間は第六の理解の天界へと進むのである。


第六の天界は言葉を超えている。なぜなら、植物や風や、隣りに座っている人間と自分は別のものだと思っているあなたに、自分が何かと完全に一体になっていながら、同時に一体になっているものとは別の独自の存在でいる、ということがいかにして可能なのかを言葉で説明することはできないからだ。だが、第六の天界は、第七の天界への扉である。なぜなら、人が現実として知覚し、現実として知るものは、どんなものであろうと、その人間はつねにそれそのものになるからだ。つまり、人が「一体性の中の神」だけを見て、その「ひとつであること」の領域に生きるとき、人は自分の見るもの、生きるものそのものに「なる」のだ。そのような「なる」ということの中でも最高のもの、至高のものが第七の天界なのである。その天国への扉が、第六の理解の天界であり、それは自分がなるものが見えるということだ。それは純粋な神、純粋な理性、純粋な思考、純粋な生命、純粋な光だ。そしてそれは、在るものすべての根本物質であり、基盤である。


さて、第七の天界だ。いかなる輝きよりもさらに偉大な輝きを想像してみてほしい。その輝きの中で進化を続けている中心核の色合いは、その色合いが輝いているという状態をもはや通り越して、輝きを放射している状態にあるのだ。輝きの核の部分では、このような驚くべき光が点滅しているのである。そして核が浮かぶ海は、動き、広がりながら、上に向かってうねっていくのだ。そして核が上昇するにつれて、核の輝きが放射する光によって、目を見張るような「光のショー」が展開される。そして、この光のショーが輝きの周辺部に移動するにつれて、核は進化し続け、ただ在り続けるのである。


その核から広がっていくのが、あなたである。核から広がり、この目を見張るような壮観にさらなる輝きを与えているのが、「あなた」なのである。あなたがこの中心核を思考として熟考したのであり、動き続ける独特の形で核そのものになったのだ。


この中心核について熟考し、核そのものとなったあなたは、今やすべての生命が湧き出る基盤となったのだ。なぜなら、この核から輝きに向かって放射されるものは、思考だからだ。そして、あなたは独特の形で動き続ける思考となり、その思考から、すべての生命の意識を養い、育み、広げていくのである。


これらの言葉では、とても十分なものとは言えない。なぜなら、これらの光景を思い浮かべるためには、空間、時間、尺度といった限界を越えて、つまり言葉の限界を越えて、感情的な理解へと入っていかなければならないからだ。しかし、マスターよ、これだけは言える。あなたが一瞬一瞬、一歩一歩、気づきから気づきへと進化し、理解を広げていくにつれて、あなたの視野はつねに拡大し続け、ついにはあなたの感情が在るものすべてを内包するようになる。そしてそのとき、あなたは喜びそのものになるのだ。それが第七の天界である。それが神だ。それは、すべてのものが最終的に到達するところである。



質問者 私はアメリカに生まれました。この一四カ月間、シュリー・ラマナアシュラムに滞在していました。今、母の待つアメリカへ帰る途中です。


マハラジ あなたの計画はどのようなものだろうか?


質問者 私は看護師としての資格をもつかもしれません。あるいはただ結婚して、子どもをもつかもしれません。


マハラジ 何があなたに結婚を望むようにさせるのだろう?


質問者 スピリチュアルな家庭をもつことは、社会奉仕の最高の形だと私は考えています。しかし、もちろん人生は違った形を取るかもしれません。何が来ようとも受け入れる用意があります。


マハラジ シュリー・ラマナアシュラムでの一四カ月間、彼らは何をあなたに与えたのだろうか?あなたがそこに到着したときと比べて、あなたはどう変わっただろうか?


質問者 私はもはや恐れなくなりました。私はある平和を見いだしたのです。


マハラジ それはどのような類の平和だろうか?求めたものが手に入った平和だろうか、あるいはもっていないものを求めない平和だろうか?


質問者 思うに、その両方を少しずつです。本当は楽ではありませんでした。アーシュラムが平和なところにもかかわらず、内面的には、私は苦悩のなかにいたのです。


マハラジ 内面と外面という区別はマインドのなかにあるだけだと自覚したとき、あなたはもはや恐れなくなるのだ。


質問者 私にとってそのような自覚は、来ては去っていくものなのです。私はまだ不動の絶対的な完成に至ってはいないのです。


マハラジ あなたがそう信じているかぎり、完全ではないという偽りの観念を払いのけるためのサーダナ(修練)を続けなければならないだろう。サーダナは真実の上に重ねられた偽りを取り除くのだ。あなたが自分自身を時間と空間のなかにある点よりも小さく、切断されるには小さすぎる何か、殺されるには短命すぎる何かとして自覚したとき、そのとき、そしてそのときにのみ、すべての恐れは消え去るのだ。あなたは針の先端よりも小さい。それでは、針はあなたを突き通すことはできない。あなたが針を突き通すのだ!


質問者 そうです。ときどき、私は不屈だと感じます。私は恐れ知らず以上の何かです。私は大胆不敵そのものなのです。


マハラジ あなたをアーシュラムへ行かせるようにしたきっかけは何だったのだろうか?


質問者 私は不幸せな恋愛をして、地獄のように苦しんだのです。お酒も麻薬も助けにはなりませんでした。暗闇を手探りしながらヨーガの本にたどり着き、いくつかの手がかりを通じてラマナアシュラムにたどり着いたのです。


マハラジ もし同じような悲劇がまたあなたに起こったなら、同じように苦しむだろうか?現在のマインドの状態を思えばどうだろうか?


質問者 いいえ。けっしてふたたび私自身を苦しめたりはしません。死んだほうがましなくらいです。


マハラジ では、あなたは死を恐れないのだね!


質問者 死ぬことは恐れますが、死自体を恐れはしません。私は死の過程が苦痛に満ち、醜いものだと想像するのです。


マハラジ どうして知ることができるだろう?それがそうである必要はない。それは美しく、平和なものでありうるのだ。ひとたびあなたが死は身体に起こり、あなたに起こるのではないと知れば、あなたはただ、身体が捨て去られた衣服のように離れ去っていくのを見守るだけだ。


質問者 私は死の恐怖が知識ではなく、不安によるものだということに完全に気づいています。


マハラジ 人間は毎秒ごとに死んでいるのだ。死ぬことへの恐怖と苦悩は雲のように世界の上にたれこめている。あなたもまた恐れていることは、何も不思議なことではない。だが、ひとたびあなたが、死ぬのは身体だけであり、記憶の継続性と、そのなかに反映する「私は在る」という感覚ではないと知れば、もはや恐れることはないのだ。


質問者 まず、死んでみて、それからどうなるか見てみましょう。


マハラジ 注意を払いなさい。そうすれば、あなたは誕生と死がひとつであることを見いだすだろう。生命は存在と非存在の間を脈動し、互いが他方をその完全性のために必要としていることがわかるだろう。あなたは死ぬために生まれ、再誕生するために死ぬのだ。


質問者 無執着がその過程を止めるのでしょうか?


マハラジ 無執着とともに、恐れが消える。だが事実が消えることはないのだ。


質問者 私は再誕生するように強要されるのでしょうか?何とひどい!


マハラジ そこに強要はない。あなたはあなたが求めることを得るのだ。あなたが自分で計画を立て、それを実行に移すのだ。


質問者 私たちは苦しむように運命づけられているのでしょうか?


マハラジ 私たちは調べることによって成長する。そして、成長するためには体験が必要だ。私たちは理解していなかったことを繰り返す傾向がある。もし私たちが感じやすく知性的であれば、苦しむ必要はないのだ。苦痛は注意を呼び起こしているのであり、不注意への罰なのだ。知的で慈悲に満ちた行為が唯一の治療法なのだ。


質問者 私は知性において成長したのですから、ふたたび苦しみが起こるのを許したりはしません。ですが、自殺のどこが間違っているのでしょうか?


マハラジ もしそれが問題を解決するならば、何も間違ってはいない。もし解決しないなら、どうなるのかね?ある苦痛に満ちた不治の病気や、耐えがたい災難のような外部的な要因で起こった苦しみなら、正当性があるかもしれない。だが、智慧と慈悲の欠如による苦しみなら、自殺は助けにはならない。愚かな死は愚かな再誕生を意味するだけだ。その上、カルマ(因果関係)の法則も考慮に入れなければならない。忍耐は普通、もっとも賢明な身の振り方なのだ。


質問者 いかに激しく絶望的なものであっても、人は苦しみに耐えていかなければならないのでしょうか?


マハラジ 忍耐はひとつの考えであり、絶望的苦悩は別のものだ。忍耐は意味深く、成果のあるものであり、苦悩は無駄なことなのだ。


質問者 なぜ、カルマを気にかけるのでしょうか?それはいずれにせよ、それ自体の面倒を見るのです。


マハラジ ほとんどのカルマは集合的なものだ。私たちは他者の罪のために苦しみ、他者は私たちの罪に苦しむ。人類はひとつなのだ。この事実に無知であることはそれを変えることがない。私たちは、私たち自身としてもっと幸福な人びとだったかもしれない。だが、他者の苦しみへの無関心によって、私たちは苦しむのだ。


質問者 私はもっと責任のもてるように成長したことに気づいています。


マハラジ それは良いことだ。あなたがそう言うとき、マインドのなかでは何を思っているのだろう?女性の身体のなかにいる責任感ある個人としてのあなた自身だろうか?


質問者 そこには身体があり、慈愛があり、記憶やいくつかのものごと、そして態度があります。集合的にそれらは個人と呼ばれるでしょう。


マハラジ 「私は在る」という想念も含めてだろうか?


質問者 「私は在る」は個人を形づくる多くのものを入れたかごのようなものです。


マハラジ あるいはむしろ、そのかごを編んだ柳の枝だと言えるだろう。あなたがあなた自身を女性だと考えるとき、あなたが女性だという意味だろうか、あるいはあなたの身体が女性として描写されたのだろうか?


質問者 それは、私の気分に依ります。ときどき、私は単に気づきの中心だと感じます。


マハラジ あるいは気づきの大海だ。だが、あなたは環境や条件によって偶然に引き起こされた男性でも女性でもないものだと感じた瞬間はなかっただろうか?


質問者 はい。ありましたが、そのことについて語ることにためらいを感じるのです。


マハラジ ひとつのヒントで充分だ。それ以上言う必要はない。


質問者 あなたのいらっしゃる前で、たばこを吸っても構わないでしょうか?聖者の前でたばこを吸うことが習慣に反していることはよく知っているのですが。まして女性ですから。


マハラジ もちろん吸うがいい。誰もかまいはしない。理解しているよ。


質問者 私は落ち着く必要があるのです。


マハラジ しばしば、アメリカ人や西洋人にとってはそうなのだ。ある期間のサーダナの後、エネルギーに満ち、猛烈にはけ口を求めるのだ。彼らは共同体を組織し、ヨーガの教師となり、結婚し、本を書くといった──静かになり、エネルギーを内側に向け、無尽蔵の力の源泉を見いだし、それを制御するという技を学ぶこと以外のすべてをするのだ。


質問者 確かに、あまりにたくさんのエネルギーのため、今帰国して非常に活動的な生活を送りたいと望んでいることを認めます。


マハラジ あなたが自分自身を身体とマインドだと見なさないかぎり、好きなことをすることができる。実際に身体を放棄するという問題ではない。あなたが身体ではないという明瞭な理解、超然とした感覚、感情的に巻き込まれないことという、身体を放棄することにともなうすべてが重要なのだ。


質問者 あなたの言われることはわかります。四年ほど前、私は身体的な側面を拒絶した時期がありました。衣服を買わず、シンプルな食事をし、ただの板の上に眠ったこともありました。重要なことは、欠乏の不自由を受け入れることであって、実際の不便さは問題ではありませんでした。今、私はあるがままの人生を歓迎し、それが差しだすすべてを愛することが最善なのだと自覚しました。私は、何であれやってきたことを喜びとともに受け入れ、そして最善を尽くすでしょう。もし私が少人数の子供たちに生命と真の文化を与えることができるなら充分です。私のハートはすべての子供たちに惹かれるのですが、皆に届くことはできません。


マハラジ あなたは男性─女性意識をもつときだけ結婚し、母親となるのだ。あなたが自分自身を身体として見なさないとき、気づきの光だけが唯一の実在であり、身体の織り成す家族生活がいかに強烈で、あるいは興味深いものであっても、それはマインドのスクリーン上の戯れとして見られるだけだ。


質問者 なぜ、あなたは気づきだけが唯一の実在だと主張するのでしょうか?気づきの対象物も、それが存続するかぎり、実在なのではないでしょうか?


マハラジ だが、それは存続しないのだ!一時的な実在は二次的なものだ。それは永遠なるものに依存するのだ。


質問者 あなたが言わんとしているのは、継続性でしょうか、あるいは永久性でしょうか?


マハラジ 存在のなかに継続性はない。継続性は過去、現在、未来における同一性を暗示している。そのような同一性は不可能なのだ。なぜなら、同一化の手段自体が変動し、変化するからだ。継続性や永久性は記憶によってつくられた幻想だ。それは単なる精神的投影のパターンなのだ。一時的や永久的、身体やマインド、男と女といったすべての観念を放棄しなさい。何が残るだろう?すべての分離が捨て去られたとき、あなたのマインドの状態はどうなっているだろうか?私は区別をあきらめなさいと言っているのではない。それなしには顕現もありえないからだ。


質問者 私が分離していないときは幸福で平和です。それでも、どうしてか私はその状態の認識を失ってしまい、何度も、外側のもののなかに幸福を探そうとしてしまうのです。どうして内なる幸福は安定しないのでしょうか?私には理解できません。


マハラジ 結局、平和もまたひとつのマインドの状態なのだ。


質問者 マインドを超えた彼方には沈黙があります。それについては何も言えることはありません。


マハラジ そうだ。沈黙についての話は、みな騒音にすぎない。


質問者 どうして私たちは自己の自然な幸福を体験した後でさえ、世俗的な幸福を探し求めようとしてしまうのでしょうか?


マハラジ マインドが身体に仕えることに従事するとき、幸福は失われてしまう。幸福をふたたび得ようとして、快楽のなかに探し求めるのだ。幸福になろうとする衝動は正しいものだ。だが、それを確保しようとする方法が惑わせ、当てにならず、真の幸福を破壊してしまうのだ。


質問者 快楽はつねに悪いことなのでしょうか?


マハラジ 身体とマインドを正しく使い、正しい状態に置くことは、非常に快いものだ。間違いは快楽を追求することなのだ。自分を幸福にしようと試みてはならない。むしろ、幸福の探求自体を疑いなさい。あなたが幸福ではないから、幸福になりたいのだ。なぜ幸福ではないのかを見いだしなさい。幸福ではないから、快楽のなかに幸福を探し求めるのだ。快楽は苦痛をもたらすため、あなたはそれを世俗的と呼ぶ。それから、あなたは苦痛をともなわない、何かほかの快楽を切望する。そして、それを神聖なものと呼ぶのだ。実際には、快楽とは苦痛からの一時的な休息にすぎない。幸福は世俗的であるものと、ないものの両方だ。そのなかで、そしてその彼方で起こることのすべてなのだ。いかなる分別もしてはならない。分割できないものを分割してはならない。そしてあなた自身を人生から遠ざけてはならない。


質問者 今、私はなんと良くあなたを理解したことでしょう!以前、ラマナアシュラムにいたときは、私は良心に支配され、いつも自分自身を裁いていたのです。今、私は完全に落ち着きました。私自身を完全に、あるがまま受け入れました。アメリカに戻ったら、私は人生を起こるがまま、バガヴァーンの恩寵として受け入れます。そして苦味も甘味もともに楽しむでしょう。バガヴァーンを信頼すること、これがアーシュラムで学んだことのひとつなのです。以前、私はこんなふうではありませんでした。私には信頼することができなかったのです。


マハラジ バガヴァーンを信頼することは、あなた自身を信頼することだ。何であれ起こることは、あなたによって、あなたを通して、あなたに起こるのだ。あなたがあなたの知覚するすべてを創造する者であり、それを楽しむ者であり、破壊する者だということに気づきなさい。そうすれば、恐れることはないだろう。恐れがなければ不幸になることはなく、幸福を探すこともないだろう。
あなたのマインドの鏡のなかで、あらゆる類の画像が現れては消えていく。それらがあなた自身の創造物であることを完全に知りつつ、それらが来ては去っていくのを沈黙のなかで見守りなさい。油断してはならない。うろたえてはならない。この沈黙の観察が、ヨーガの根本的な態度なのだ。あなたは画像を見ている。だが、画像があなたではないのだ。


質問者 私は死に関して考えることが私を脅かすことに気づきました。なぜなら、私はふたたび誕生したくないからです。誰もそれを強要していないことは知っています。それでも、満たされなかった欲望の圧力は圧倒的で、私には抵抗できそうにないかもしれません。


マハラジ 抵抗という問題は起こらない。誕生し、再誕生するものは、あなたではないからだ。それを起こらせるがいい。それが起こるのを見なさい。


質問者 では、なぜそれに関心をもつのでしょうか?


マハラジ 関心をもっているのはあなたなのだ!そして、その絵があなたの真実、愛、美の感覚と衝突するかぎり、あなたはそれに関心をもちつづけるだろう。調和と平和への熱望は、消し去ることのできないものだ。だが、ひとたびそれが満たされれば関心は去り、身体的生活は注意のレベル以下の努力を要しないものとなる。身体を得るか、身体を去るかは、あなたにとって同じこととなる。あなたには何ひとつ起こらないという地点に達するのだ。身体なしには殺されない。所有物なしには奪われない。マインドなしには騙されない。そこには欲望や恐れを引っかける留めクギもない。何の変化もあなたに起こらないかぎり、ほかに何の問題があるだろうか?


質問者 とにかく、私は死ぬという考えが嫌いなのです。


マハラジ なぜなら、あなたはとても若いからだ。あなたがあなた自身についてより多く知るほど、より恐れなくなるだろう。もちろん、死の苦悶を見ることはけっして快いことではない。だが、死にゆく人が意識していることはまれなのだ。


質問者 彼は意識に戻ってくるのでしょうか?


マハラジ それは非常に眠りに似ている。しばらくの間、個人は焦点からはずれ、その後、それは戻ってくるのだ。


質問者 同じ個人が戻ってくるのでしょうか?


マハラジ 環境をつくり出す個人は、必然的に環境とともに変化していく。それは燃料とともに炎が変化していくようなものだ。ただ、その過程だけが時間と空間を創造しながら続いていくのだ。


質問者 ともかく、神様が私の面倒を見てくれるでしょう。私は彼にすべてを預けることができるのです。


マハラジ 神への信仰さえも、道の上の一段階にすぎない。最終的には、あなたはすべてを放棄するのだ。なぜなら、あなたは言葉では表現できないほどシンプルな何かを実現するからだ。


質問者 私はまだはじめたばかりなのです。はじめのころは、信仰も、信頼もなく、ものごとを起こらせることを恐れていました。世界はとても危険で、有害なところだったのです。少なくとも今、私はグルや神を信頼することについて話すことができるようになりました。私を成長させてください。私を無理に駆りたてないでください。私自身のペースで進ませてください。


マハラジ もちろん進むがいい。だが、あなたはそうしない。あなたはいまだ男と女、老人と若者、生命と死という観念に固執している。進みなさい。超えていきなさい。認識されたことは、超越されるのだ。


質問者 どこへ行こうと、人びとは私の過ちを見つけることが彼らの義務かのように、私を駆りたてるのです。私はもう、この霊的な助言のお仕着せに飽き飽きしました。私の現状のどこが間違っているというのでしょう?どんなに栄光あるものであっても、それを未来のために犠牲にするべきでしょうか?実在は今のなかにある、とあなたは言います。私は私の現在を愛しているのです。私はそれが欲しいのです。永遠に、私の現状と未来を不安に思いつづけたくありません。より多くやより良くを追いかけまわしたくはないのです。私がもっているものを愛させてください。


マハラジ あなたはまったく正しい。そうしなさい。ただ、正直でありなさい。あなたが愛することだけを愛しなさい。闘ってはいけない。努力してはいけない。


質問者 これこそ、私がグルへの明け渡しと呼ぶものなのです。


マハラジ なぜ外面化するのかね?すべてのものがその表現である、あなたの真我に明け渡しなさい。


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