今日は自分なりの信念体系について。
これは今年の1月5日に公園さんが発言されていた個人的な信仰の核の部分です。
幼少の頃の霊聴により、「唯一の神とせよ」と命じられ、良くも悪くもその圧倒的な影響力の中に自分の信念体系の枠組みをつくられています。


引用はじめ





創造神の【威光(創造神の意向に従う)】です


私は子供の頃に臨んだ声から、この神(旧約聖書の神と名乗る声)だけを唯一の神とせよと命じられました。日本における伊勢神宮の神や出雲の大国主命様を唯一神として仰いでいる者ではありません。またお釈迦様やイエスを神とも思ってはおりません。





引用おわり


私の場合はこれとは構造が異なり(霊聴ではなく)、神に遭遇しています。そのため何が神で、何が神ではないかを理解はしているつもりです。ただそれを他の人にぶつけてしまうと意見の押しつけで「結構な悪」になってしまうので口にしていないだけです。神とは、すべてであり、すべてでないもの、ちょうどニール・ウォルシュの神との対話の最初の神の説明が言葉の上では正確な説明だったと思っています。「すべてであるものであり、同時に、すべてであるものではないものである、と理解している者は正確に理解している」この意見に全面的に賛同しています。そして質的に言うと、(私の拙い見聞の範囲では)日本で刊行された書物の中で神の地平を理解していると思われるものは一冊だけでした。それがバーソロミュー(ニューエイジ初期1977年から1995年までに米国人女性に現れたチャネリングされた怪しい霊)です。ラマナ・マハルシやニサルガダッタ・マハラジはバーソロミューより二段ぐらい低い位置の階層を見ている(ニサルガダッタはもしかしたら三段低い)と認識しています。あくまで私の視界ではそう見えるという正直な吐露です。日本のこういう系統のブログでは公園さんと伊勢白山道さんだけがまだ価値のある方だと思っていて、公園さんの方が伊勢さんよりは上に感じています。ただ、たとえば公園さんやリーマンさんがイエス・キリストを軽く見ているような発言をされている場合、メダル圏外(238位とか)の人が「銀メダルなんてくだらないですよ!」と言っているように聞こえています(でも彼らが238位なら私は2億位ぐらいです。ラマナ35位、ニサルガダッタ62位とかでしょうか)。こういう評価は、それぞれがそれぞれに対してそういうことを感じているんだろうなと思います。口にするだけで本当はすごく品がないですよね。でも今日はそういう説明です。私にとっての金メダルは実際に遭遇した神だけです。人格神ではもちろんありません。私はそれで神が「実在する」ことを知り、この日記でだらだらと自分の思っていることを垂れ流し続けている動機になっています。書けば、そういった偉大な存在に近づけるわけでは決してないですが、地上を生きるただの人間として、「実在する神」のことを想うたび何かを書かずにはいられなくなるんです。この根源の神のことを細かく書こうとすると思ったより多くの心理的な衝突が発生することを学んだため、「神界」という表現を最大公約数にして、地上の人間と対比しようと思うようになりました。みんな必ず神のことは思い出しますけど、地上では妨害が多すぎて、多くの場合は苦しんだまま、構造を思い出す前に亡くなります。でも亡くなるとそういう神が実在する現実を思い出すので、結局一番大切なことは常識的なことばかりだと最近特に感じます。良心に従うこと。思い出せない状態で根性を出せる人や優しさを捨てない人のほうがずっと輝いていること。できれば神を信じて、毎日に感謝して、いっぱい感動してね! と誰かに言われているような気持ちです。そんな単純な一歩一歩の姿勢、涙を無視したりしない人が魂の成功者に近いのだと思っています。n


公園さんの解釈される出口王仁三郎さんの「少○川」という概念について読み直していました。二つ引用させていただきます。n


引用はじめ





天国界に一気に上がる超特急エレベーターと天国に一歩一歩上がる既存の階段
2018.05.11 Friday - 00:01 - by ○○公園
私達はこれまで【輪廻転生】の中で、神の御国たる天国界に進むのに一歩一歩階段を上がっていました。その道は果てしなく遠い道で、仏教では【化城喩品第七】にそうしたことが説かれて来ました。


その【化城喩品第七】が説く内容とは、インターネット上に出ているものから一部を抜粋させてもらいました。


【たとえば、人跡未踏の荒野があるとする。五百由旬の悪路を大勢の人たちが、宝を求めて歩いていくとする。道は険しく、 人びとは途中で口々に不平をいい始める。疲れた、これ以上は歩けない、前途なお遠い、引き返そう、と。道案内人は、このままでは 宝の処まで行けないと判断し、方便を使って一行を導こうとした。すなわち神通力で、道の途上に城を作って、一行に言ったのである。 あそこに城がある、ゆっくり休んでいこう、そこに滞在してもいい、と。一行は大いに喜んで、そこに止宿した。そうして道案内人は 人びとが、ゆったり保養し元気を回復したのを見はからって、城を消滅させて、言ったのである。諸君、宝の場所はもうすぐ近くだ、 この城はみんなを休養させるために、私が仮に作ったものだ、と。一行はまた元気よく、宝の場所へ向かって歩き出した。


僧たちよ、如来もまたこのようなものである。衆生のために道案内となり、生死、煩悩の悪路を通り過ぎなければならない。 もし衆生が一仏乗のみを聞いて導かれるならば、衆生はこうおもうだろう。 仏道ははるかに遠い、久しく苦しい道のりを 歩いていかなければ、到達できない、と。こうして仏は方便をもって、道の途中に止宿するため、 二乗すなわち声聞乗と独覚乗 を設けて、言うのである。この城は仮のものだ、宝の場所はすぐ近くだ、と 】


このことを【化城(まぼろしの城)】と言います。


仏教においても、他の宗教においても【我が宗派の教えを信じれば天国(極楽)】は、こうした「化城(まぼろしの城)」の教えと言えます。天国は遙かに遠い等と言えば悲観する人達も当然に出ます。そこには【嘘も方便】もあります。


世には葬儀の時にお坊さんにお経を上げて貰えば極楽に行けると信じている人達があります。しかし、仏典には僧侶がお経を唱えたから極楽に往生だとは書かれてはいないのです。学ぶことによって。自分が思っていたことが間違っていたことに気づくなのです。


大本教の出口王仁三郎聖師は、魂の旅は辛いものだと記しておられます。この世に人として出て死んで、この世に人として出て死んで。そうした繰り返しの「輪廻転生」の中で天国への階段を一歩一歩を歩んで来たわけです。


その階段は霊界でと言うことではなく、【この世での私達の生き方】において天国階段を登っているわけです。二歩登って一歩下がる。三歩登って二歩下がる。だが、時には失敗もします。その時には一気に階段を降りてしまうです。


私達は自動車の任意保険でそうした体験をします。一年間無事故であれば保険料が割り引かれて一等級あがります。しかし、事故を起こせば事故によっては三階級ぐらい落とされます。一年に2回も事故を起こせば一気に五~六等級ぐらい落ちます。そこから元の階級に戻すのにそれだけの年数が余分にかかってしまいます。


そして、これは肉体を持った魂だけではなく、人にはその肉体を守護しているところの守護霊で本守護神・正守護神ではなく、その肉体を指導することで自分達の霊界での階級を上げようとしている霊達、一般的には【副守護神(霊)格】の存在もその肉体と同じ状態にあるのです。自分が指導して導いていた肉体が階段を上がれば、自分達も霊界での階段を上がれるです。


一部の霊感者には、大本教や他の神道系でも説かれた【本守護神・正守護神】は肉体が道を誤れば一緒に落ちるものだとの錯覚があるようですが、自己の内在神たる【本守護神と正守護神】は階級が落ちることはなく、その地位は不動なのです。


それは肉体を指導しているのは本守護神や正守護神ではないからです。肉体はその本守護神や正守護神が居る段階まで上がらないと、自己の魂には帰結出来ないからです。それまでは他の指導神霊に従っています。


スピリチュアルでは貴方の本守護神とか正守護神などはほとんど出て来ないのが一般的です。貴方には天使が就いている式で終わってしまうからです。自分の本守護神や正守護神が下の界に落ちるのではなく、その人を背後で指導や守護していて○○大神や天使など称している外から来た外在の神霊が下位の霊と交代したりするのです。


本守護神・正守護神は自分の魂の源元で、高い霊世界に存在している
その世界に帰るのか、帰らないのかの帰結の問題


一部の霊能力者の方達が既に説かれるように、今は各自の外在神ではなくて、自分の魂の系譜たる内在神に切り替わろうとしています。外在神の霊力を頼るのではなくて、自己の内在神を成長させる時なのです。それは高い霊界に帰る為にです。


外在神に頼って霊力を誇って、自分は凄いのだ!。偉いのだ!。等とおかしなプライドを振り回していても、自己の本守護神・正守護神には何一つ帰結していないのです。逆にそのプライド(誇り)が、【埃(ほこり)】的なものに化してしまいます。


自己に懸かる外在神の名は解っても、自己の内在である本守護神や正守護神がどこからも出ていないとすれば、それは実に変な話なのです。


通常、霊界に行くには仏教で説かれた死後の世界は三方向の途がありますよの【三途の川】を渡って天国への途です。仏教で「化城」の教えにあるように天国への道は遠いのです。為に、大多数の方は輪廻転生が強く働く「中有界」です。中有界と言ってもその上界では天国に似たような世界も存在して来ます。ただ、本当の天国と違って輪廻転生が強く出て来るです。あるスピリチュアルの女性は、自分は一万回も輪廻転生して来たと誇っておられましたが、それは自慢にはならない話です。


天国に入るには僧侶のお経ではなく、神主の祝詞でもなく、自分がこの世で積んだ【徳】分がどれだけあるかてす。良心神の点数です。


ところが、大本教の出口王仁三郎聖師はそうした「三途川」だけではなくて、神一筋の「少途川」の存在を説かれました。だが、この道を行く人は当然に【希(まれ)】なのです。


これは【天帝】たる万物の創造神を命を賭しての信仰なのです。出口王仁三郎聖師と共に苦難の道を歩まれた当時の大本教の宣伝使達は、皆さん高い霊界に行かれたと、宇佐八幡宮の御使いと称する霊は私に伝えて来ました。ただそれは、出口王仁三郎聖師に率いられたいた当時の宣伝使達で、今の大本教の信徒と言うことではないのです。


だが、創造神に向かう道は少途で解るように厳しき道で、一歩道を誤れば谷底に墜ちるなのです。私がこれまで接して来た豊受姫や木花咲耶姫の分魂の持ち主は、皆さん「国常立尊」様で走っておられました。


私は、これを【天神様の細道】と言っています


私が言う天神様とは、人間であった学問の神として信仰される「菅原道真」公のことではありません。西洋ではエホバの神、アラーの神。日本では【天之御中主(地上界は国常立尊)】と呼ばれる存在です。


今日まで誰も仏教では聞いたことがない【少途川】。大本教から「少途川」の存在は出されましたが、詳細が述べられていません。しかし、私が知る「艮金神・国常立尊」様を主神と仰ぐ霊能力がある方達は、少なからずもこの川の名前を知らずにその道の存在のことは知っておられるなのです。


ただ、私が言霊の教えを受けた二番目の師匠の御祭神は「国常立尊」と名乗っておられましたが、ニセ神でした。その師匠の元に自分が本当の国常立尊様を祭神としている者だと称する霊能者の方も多数出て来られて、その中でどちらが本物かの霊術合戦も行われました。そうしたことでも解る様に国常立尊と名乗るニセ神も存在するように、豊受姫と名乗るニセ神も存在しています。天照皇大御神や大国主命と名乗るニセ神達も多数跋扈しています。


私が今の神霊世界は一筋縄では行かないと言っているのは、そうした神霊達の跋扈があまりにも多いからです。


大本教の出口王仁三郎聖師か説かれた「少途川」以外にも、天国への特急コースは存在しています。例えば、四国八十八カ所遍路旅がそうです。バスや自家用車で回るのではなくて徒歩コース。おそらく【善根】を知る【四国の米(八十八)】の世根コース版とも言えるでしょう。


ただ、この特急コースは霊界の壁を登るコースで、その登り方を指導する神霊や天使の補助が無ければ何人も自力では上がれません。これは【この世概念】に縛られてしまうと無理なのです。牧師や僧侶をしていると、神仏を拝んでいればとその教義に縛られてしまい、概念が邪魔してしまうなのです。実践として神仏の存在を素直に信じるのが良いのです。


神仏の存在を「ス直(すなお)」に信じるのがスの神論


信じる者は【儲(信じる者)かる】の道です


私がこれまで接した「国常立尊」様を言われる方達は、皆さん、霊界の壁の登り方を知っているがありました。私の母親は霊が見えるではありませんでしたが、夢の中で女神からその霊界の壁の登り方を教えられた言います。たぶん、その指導神は「豊国姫」だっと思われます。


優秀な霊能力者達が、人はその存在が正神なのか邪神なのか見分けるのは難しい。仮にそれが邪神と知らずに信仰したとしても、その人の信仰が【至誠】に通じていれば、天はその人を助けると言われます。至誠天に通ずるです。


その信仰の「姿勢」が悪ければ、【至誠】は天に通じず


日月神示などでは、【九十九%は邪神】との説が出ていますが、数多くの小さな力の邪神のパワーと数少ない力強い正神のパワーとでバランスが取られていると言えます。 だからこそ、その教団の教義を鵜呑みにするのではなく、自己の良心神を磨いて照らし合わせなければならないのです。


大本教からは【世の大立替】が予告されました。それは今日までの【輪廻転生】の終わりを告げます。そうすれば、これまで「輪廻転生」で天国への階段を上がっていた人達からすれば、【冗談】ではないとなります。俺達はもっともっと上の霊界に行きたかったのにそのチャンスを奪い取るのかです。


そこに天の御国に一気に上げる「超特急エレべーター」が用意されているのです。それは【天の御柱(天之御中主)】と【地(国)の御柱(国常立尊)】とを結ぶ神界の超特急エレベーターです。大本教から天の主宰神たる天之御中主と、その地位を追われた元の地の主宰神の国常立尊は【同一】神であると説かれて来ました。


これは天の御柱神と地の御柱神の直結にしか出来ない仕組みなのです。


一部の霊能力者の方は、それを【神界機密ゲート】と称しておられます。しかし、その機密ゲートの存在を知っているからと言って、誰もそれを大々的には言われません。それは、未だゲートそのものが機能していないからです。


世の大立替時には【天帝たる創造神】が現れると考えられています。それに処するものとして、天と地を結ぶ場所が無いと、その【超特急エレベーター】が運航出来なくなります。そこに大本教神諭は、綾部は【神戸(かんべ)】と出しました。


つまり、綾部には天の岩戸は無いが、【神の出口たる戸】が「直」にあるなのです。 大本教開祖は【出口直】。


綾部(あやべ)の古来名は【漢部】


漢部(かんべ)は【神戸(かんべ)】


大本教神諭の、ここは綾部に「神戸」の漢字を振られたのは出口王仁三郎聖師です。当時の大本教内部では出口なお開祖のお筆先がひらかなであったことから「ひらかな」文字に固執する開祖派と漢字の研究に没頭した出口王仁三郎聖師との間には確執がありました。綾部は、ここは「漢部」だからこそ、漢字の仕組みが存在していたのです。綾部は漢からの帰化人「秦氏」が絹の織物をしていた土地なのです。そこで、漢の人達(部)で漢部と呼ばれたのです。


綾部に創造神の降臨が起きた時、このエレベーターは機能するです。階段ではなくて、一気に天国に渡すです。


そこに大本教は綾部に天の造化三神が降下されると、綾部は神の【聖都】と予告したのです。大本教では平成に入ってその造化三神が降臨される場所としての【平成神殿】群が建立されましたが、創造神はその「依代」として人の肉体を使って降下するのであり、建物や神像や道具類に降りるではないのです。 いわんや紙に書かれた「文字」に降臨するではないのです。


こうしたことは、私達の魂には【霊子線(西洋ではシルバーコードと称されるが、必ずしも銀色線ではない)】の存在が説かれていますが、地球の玉にもそうした「霊子線」が存在しているなのです。私達の目には見えない霊界であっても、一つ一つ証拠を固めて行けば、そうした存在も解ることなのです。


私は【霊子線】の存在を神から教えられたではなくて、自分の目で見てきたことからその存在の正しさを言いますが、その存在すら説明しない○○大神と名乗る霊が自分に出て来たからでは、その人の目は狂っているなのです。「霊子線」のことは、大本教や日月神示や他の書やスピリチュアルですら既に出されていることなのです。


邪神達はそうしたことを他から学ばれることを非常に嫌います。自分達がそれらに対しての説明能力を持たないからです。


私が子供の頃に臨んでいた旧約聖書の神と称する声は、【この国(日本)は私の教えで満ちあふれている】と言われましたが、自分に臨んで来た神霊の言葉ではなく、この日本には創造神の仕組みが満ちあふれているのです。自己の努力の学びしだいで、日本人ならば創造神の仕組みが見えて来るなのです。


神社参りをしたからと言って、天国階段が上れているとは限りません


それらは神の存在を認識するだけであり、自己の魂磨きとは別物です





引用おわり



引用はじめ





【三途川】コースでなく、神一筋の少途川に向かう人達が出始めたか?
2015.12.19 Saturday - 08:49 - by ○○公園


西洋(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教)では「創造神たる唯一神」のみを神とする信仰が行われています。そこには蛇や狐の神のみならず、国魂神とか産土神とか氏神の存在すらありませんので、西洋ではそうした存在の神霊が居ないのかとなった時、そうではないので神の世界を知るには唯一神信仰だけでは適していません。
一方、日本では「やおよろず(八百万)」の神も神として崇めています。蛇や狐や狸や猫神などを含めてです。神は唯一にして多神と言いますが、そこには「根元たる神と枝葉の神」の違いが生じます。その違いは月とスッポン以上になるでしょう。日本ではその「根元神」の存在があまりにも消されています。軽んじられてしまっています。


日本の一部の霊能者の方達は、ある疑問を投げかけておられます。


本当に、西洋で説くところの「唯一神の創造神は存在するのか?」です


一部のスピリチュアルの方達は、平然とした顔で自分には創造神が降りて来る式のことを言われますが、他の霊能者の方達からその人を見ると蛇霊や狐霊や狸霊や猫霊と呼ばれる存在から抜け切れておられません。本人が自分に降りて来るのが創造神だと思っているだけの話に過ぎません。もしも本当に創造神が地上神界に出ているとすれば、地上神界の既存の神霊達が震え上がっていてもおかしくないからです。


あまりにもいい加減なスピリチュアルの横行を見ていると、唯一なる創造神は存在するのかという疑問が生じても何の不思議でもありません。


自分には創造神が降りて来る式のスピリチュアルの方が「お釈迦」様や「イエス」を上回っているほどの方であるならば、そうした言動もあり得るかも知れませんが、しかしどこを見ても蛇霊や狐霊や狸霊や猫霊に騙されて踊っているでは、本当に唯一なる創造神など存在するのかという疑問が湧くのが本当なのです。
あまりにも自分の前世は「釈迦」であった等と言う方も多すぎます。


私はそうした自称創造神(唯一神)を言うではなくて、
「言葉の仕組みを解読」して、これは「唯一成る神と呼ばれる創造神」でないと出来ない仕組みだと理解したしだいです。ですから、姿は解らないが存在しておられると確信するのです。


だが、その言葉の仕組みを創っておられた「創造神」は、未だ人類の上に臨んではおられないでしょう。だが、その創造神と呼ばれる存在が人類の上に臨んだならば、それは西洋で語られる【最後の審判】を免れないことにはなるのでしょう。それから先は鬼が出るか蛇が出るか、実際に「立替」に入ってみないと解りません。


私達日本人はその大多数が葬式時だけの仏教徒ですが、仏教で死後に渡る川を【三途川】と教えられて来ました。


それに対して、宗教とか精神世界の研究者から西洋の宗教には三途川の教えが無い。西洋系の臨死体験者には「三途川」を見たという報告事例が無い。東洋の仏教系などの臨死体験者のみ「三途川」を見たという報告があるので、仏教の教えを受けた者だけに「三途川」の教えが潜在意識として刷り込まれているのではないかという説があります。


確かに、聖書の教えなどは「天国と地獄」の二元論であって、中有界と呼ばれる世界の存在が説かれていません。為に「輪廻転生」論は聖書に囚われていると出て来ない教えではあるのです。 私自身は修業の中で霊的に「牛頭の人」が出て来られて、そこでお釈迦様の祇園精舎の守護神とされる【牛頭天王】は存在すると確信し、実際に人には前世があることも解り、この世の生き様で霊界で「蛇霊」と化して行った人達の霊にも触れて、「輪廻転生」があると見聞を培ったのです。


スピリチュアルで自分にミカエルだカブリエルだと自称する者が降りて来ると盛んに言っている方がありますが、ならばそのミカエルとかカブリエルと自称する霊に「輪廻転生」の教えを聞いたと言うスピリチュアルと称する方が存在するのかとなった時、ほとんど聞いたことがありません。 いくらそうした名乗りの自称霊が出て来ても、「輪廻転生」の知識すら持っていないのが本当でしょう。


この「三途川」とは、3本の川があるのではないのです。川としては一本なのですが、その川を渡る時の方法で霊界での行き先が「三途」になるので「三途川」と呼ばれるわけです。「天国界・中有界・地獄界」の三途です。
なお、西洋の「臨死体験者」が三途川を見ていないと言うのは、その臨死体験者がどこまでの臨死かの問題と、小さな「小川」で出ているような場合は、まずそこに「川」があることを見落とします。そして「小川」的なものが出て来ている場合は「天国界」には向かっていません。現界戻しの中有界なのです。ですから息も吹き返すのです。
中有界も広義と狭義の論があり、この世でウロウロして面白半分に人に憑依したり、苦しい苦しいと訴えて来るのはまだ三途川を渡っていない霊で、それも中有界として説かれてはいますが、狭義の中有界ではないと言えます。
この世の霊界で迷っていた霊をきちんと「三途の川」を渡らせる。後は向こうの世界に渡して、この世にチョロチョロ出て来るなと「引導を渡す」でないといけないわけです。


天国界に向かうような場合は、三途川は「川」でも、時には「大河」とか「大海原」で出て来ます。その川幅が大きければ大きいほど高い世界に行くです。ですから、今日まで三途川の渡しは「舟」で語られて来たのです。


みろく世に渡るのは大勢の人を一度に乗せる「船」なので、「羅針(ラ神)盤」を持った船になります。大航海に大後悔はつきものとなります。今度は「紅海」ではないのです。


大本教の出口王仁三郎聖師は、「三途川」の他に「神一筋の少途川」があると書き残しておられます。それに関しては、誰も語っておられません。今日まで名のある宗教家でも、誰も「少途川」を見ておられなかったからでしょう。
諸神諸仏に対する信仰だと、この少途川は出て来ないようです。天帝とか創造神たる唯一神に向かう時に出て来る川(途)と思われます。唯一神に向かって信仰をする方は以外と少ないのです。仏教で阿弥陀様と言っても創造神ではありませんし、お釈迦様もまた違うとなります。


私は子供の時に臨んだ声から、そなた一人だけにはこの神の仕組みを見せる。それを人々に告げなさいと命を受けたことから、霊界の一部分ではありますが垣間見るをして来ました。 ただ、誰をもってしても、その一生で全霊界を語ることは不可能です。それは世に出ておられる神々でも不可能なのです。豊受様は、はっきりとこの豊受にも見えない解らない世界があると言われておりました。


私は豊受様は何でも知っている解っている式の神ではなく、この神をもってして見通せない解らない世界があると言われることを高く評価しています。スピリチュアルだと知らないことは知らないと言うような霊はまず出て来ません。仮に自分が天使長だと名乗れば、知らないことがあるなどと口が裂けても言えないからです。
知らないことは知らないと言う霊は、自分が天帝とか創造神とか天使長の様な存在ではないと告げているのですから、自分は蛇霊ですとか白狐ですとはっきり告げます。こうした霊は自分が知る範囲で答えますのでかなり正確なのです。霊的世界に居る霊とは人間より遙かに隠された世界のことを知るので、それも私達の学びには役立つのです。


そうした中で、出口王仁三郎聖師が書き残された「神一筋の少途川」の意味が解って来ました。無論、「少途川」の言葉からして、その道を歩く方は僅かしかおられないという意味ですが、その道の風景が驚く形で出たのです。それは以前にも書いていますが、少し状況が変化しているようなので再度触れます。
それは切り立った崖の淵の細道を行き。切り立った谷間の川に架かるは一本橋。その下には蛇霊が一本橋から落ちる者を待っているので、迷いがあれば渡れません。命をかけて蛇霊を退けて行く道なのです。


そこに来る本質が


ミカエル【蛇(巳)帰る】なのです


私はヒンズー教の奥義書とされる「ヴェーダ典」の中の「蛇(巳)帰る」を体験したことで、西洋で言う「ミカエル」の存在にかなり疑問を持っていました。もしかすると日本語の「巳(蛇)帰る」の言葉の意味を間違えたのではないかです。それは「ミカエル」を連発する方の背後に黒龍神が居たりするからです。
天使として鳥のような羽根をもって出て来る存在もかなり危ういのです。確かに、天使の羽根と間違えるエネルギーは存在していますが、それはエネルギーであって「鳥のような羽根」とは別物だからです。
私のブログに「光かと思ったら天狗さん」を記していますが、天狗さんも西洋で言う天使と同様の羽根を持っています。この時、閻魔庁の役人は天狗さんの羽根落としの刑を執行してしまいました。
もし、スピリチュアルで自分には鳥のような羽根を持った存在の天使が出て来ると言えば、それは簡単に矢で射られて羽根落としの刑に処せられてしまうこともある段階の霊と言えるのです。とてもとても天帝に仕えるような段階ではないと言えます。ですから、そんな霊が出て来て創造神などと言い出したら、眉唾ものなのです。


本来の天使は羽根などなくても、宇宙空間を行く


私のHPや以前のブログに書いている「人生街道」の図を少し修正しました。天神様の細道は道が細いだけでなく、一歩間違えれば自分も蛇霊の中に落ちてその仲間になるのです。常に細心の注意を払っていかなければなりません。





人は誰しもこの世で順調な人生街道を行けるとは限りません。聖書における「エデンの園から蛇と共に追放された人類」。私達と蛇霊が共にあるのは、人としてこの世に出て来たからには致し方がない部分とは言えます。
蛇霊はイエスが「蛇のように賢くあれ」と説いたように、私達に「智慧」としても働いて来ます。人類が神の如く智慧を持てたのは「蛇霊」のおかげでもあるのです。だが、


蛇霊は智慧の力でも、善悪の判断が出来ないのです


善悪の判断は【愛】ではなくて、各自の【良心】神がするからです


人類が「神の園」に戻ろうとするならば、蛇霊の囁きから脱却しなければならないのです。


通常、【邪の道は蛇】といいます。邪をつつけば蛇が出て来る


自分がスピリチュアルの言葉を広めた親玉だと自画自賛しておられる霊能者「江原○之」さんでも、その著書に【邪の道は蛇】と書いておられます。この世での邪によって、死後の世界で「蛇霊」化して行くなどは、本当の霊能者ならば常識として知っておらなければならないことです。 また、スピリチュアルに対して警告を続けておられる霊能者の方も、そうしたスピリチュアルのセミナーで蛇霊を憑けられてしまう現状を知っておられます。


また蛇霊教団に入信して「命を助けて貰った」。そのほとんどは力の強い大蛇霊が力の弱い蛇霊を剥がすで、霊能者サイドでは解っていることなのです。命を助けて貰ったからと言って、何も蛇霊の教えに狂信する必要はないのです。助けて貰ったお礼は金銭的に払えばいいだけのことなのです。古来より巳(み)さん信仰は金運を招くと言うように、金を払えば文句は言いません。


天帝と人類の契約の示しは魂の「禊(示・契)ぎ」だけ


問題は、スピリチュアルを標榜して自分にはミカエルがカブリエルが天照大御神が観音様が降りて来る式の方のほとんどは、それらのほとんどが【蛇霊】であることの気づきに至っていないことなのです。


一度、霊界で年老い大蛇霊の龍神が創った教団に入信などすると、元の世界に戻ることが非常に困難になります。大本教の出口王仁三郎聖師が説かれた【人は邪(蛇)教が説く真理に狂うことを覚るべし】の蛇教が説く真理に狂ってしまうからです。方向違いの真理に狂信的に向かってしまうのです。


そうなりますと、創造神が「言葉で創った仕組み」の偉大さがまったく理解出来ないようになってしまいます


自分に霊的なものが見えた、霊の声が聞こえた。直感だ!。直感だ!。それはスピリチュアルでお決まりの言葉です。そんなことで、長年に渡って「言葉の仕組み」を完成させた神が見えるのでしょうか?。その声が聞こえるのでしょうか?。


私は別に霊が何かを言って来たではなくて、霊界見聞の中で「言葉の仕組み」を知りました。どうして私がここまで言葉の仕組みを紐解けたのか?。何でも直感だ!、直感だ!で解るのであれば、私以上に「言葉の仕組み」が紐解けていたはずなのです。
私が霊界見聞の中で見て来た「光」にしても、スピリチュアルで光だ!。光だ!と言われている光の段階ではありません。ですから私のブログに「光と思ったら天狗さん」も書いたのです。また私のブログに「自分を観音菩薩として祀れと言った大白蛇霊」を書きましたが、その方はその大白蛇霊が出す光に打たれて、それが創造神の「光」だと思っておられました。だが、本当の天の岩戸の光とは、そんな段階の光ではないのです。


龍神(大蛇霊)が見せる【光】程度に狂っていたのでは、どうしょうもないのです


人はこの世に出て来るということは、自分では気づかないだけで「過去世から積み上がったカルマ」を解消しなければなりません。龍神と呼ばれる大蛇霊を信仰したからと言って、自分のカルマは解消されるではないのです。


人は神から社会から受けた試練を耐え抜くことで、カルマは解消されます


こうしたカルマ解消の為の試練を西洋では「神からのプレゼント」と言って来ました。


そうした運命の分かれ道において、蛇霊は「試練」など受ければ苦しいだけだから、楽な道を行きましょうと言ってくるわけです。スピリチュアルを自称する方達の中には、公然と「良心など重たいから捨てましょう」と言っておられる方達もあります。確かに、良心など重たいと言われたら重たいのです。その良心の重みを知ることが大切なのです。


スピリチュアルに、お釈迦様の悟りの「良心神」の教えなど通りません


それでも、脇道とか外道(けもの道)に入らなければ、主たる道を歩いたことによって、その死後の判定は「三途川」によって「天国界・中有界・地獄界」などに別れて行くことになるのです。


ほとんどの方はこの「神一筋の少途川」の道を御存知ないので、それを深く学ぶ必要もありません。また、人類の上に創造神が臨むなどの出来事がないのであれば、この「神一筋の少途川」に触れる必要もないことと言えます。
しかしながら、大本教の出口王仁三郎聖師が「神一筋の少途川」を出されたということは、その時期は明確でなくても、創造神が私達の人類の上に臨んで来られる時期が迫って来ているとも言えるのです。


この世に出ておられる神々が全て「天帝」を御存知なのかとなった時、単に「天之御中主」様とか「国常立尊」様では語りきれない存在があるのではないかと推察されます。
私は豊受様の御代である師匠の元で長く修行をさせていただき、その師匠の相談者に対する問題の解決率は100%ではありませんでしたが、相談内容の80%は解決されていたのではないかと思えました。
この解決率とは、スピリチュアルで「天からのメッセージ」という言葉だけの内容ではなくて、現に困って相談に来た方達の問題を片付ける解決率です。本当の神の力で無いと片付かない問題は数々あるのです。霊が見えたとか、霊の声が聞こえるなどはいくら述べてもさほど意味がないのです。


個々の人間の幸せとか不幸せとか、そんなことはこれから先、この「地球そのもが存続するのか、しないのか」に比べたら、もう問題にはならないほど些細な事柄なのです。


いくら今の幸せを祈っても、この地球が存続しての話です
人は必ず死ぬ者です。死後の行き先は永遠の命の問題に関わるのです


一般的に「困った時の神頼み」と言いますが、人は困っていない時はさほど神と呼ばれる存在に関心があるわけではありません。
そうした中で神社やお寺で願い事をしたならば、聞き届けて下さったなどはあるにはありますが、全ての人に願い事が叶うはありません。一番確実なのは、その神仏との間を取り持つ霊能者。御代とか御台とか杖とか言いますが、そうした方を通じて、その神仏が願いを聞き届ける「確約」を下さるのであれば、そうした願い事が聞き届けられます。


だが、そうした人助けの霊力・神力は正神界と呼ばれる世界の御神霊よりも、魔界・邪神界と呼ばれる世界の御神霊の方が遙かにあるのです。


その方の名を出せば精神世界・スピリチュアルでその名を知らない者はほとんどいない著名な宗教家の方があります。その著名な宗教家の方は最後の自著に「自分は多くの人を助けたいと願って、悪魔に自分の魂を売る取引をした」と書いてあると、ある方からメールをいただきました。私もその方の著本はかなり持ちますが、その告白本のことは知りませんでした。


多くの人を助けたいと思う心は大切ですが、私ならば悪魔と取引してまで他の人の命を助けたいとは思いません。それは自分の命が欲しいからではありません。助けても真からの改心に至っていない人をいくら助けても同じ過ちを繰り返してしまわれるからです。自分の命がムダになってしまうのです。


改心されない方の罪を被るより、改心された方の罪を自分が被る。そうしないと自分の命を捨ててもムダになるのです。命などいくらあっても足りません。
生半可な「可哀想だ!可哀想だ!」は、「情に流される」になってしまいます。そうしますと、情に流されまいと「棹」を刺しても流されて行きます。止められないのです。夏目漱石の「草枕」に「情に棹さして流される」がありますが、事態をより悪くしてしまうのです。


だが、あれほど著名だった宗教家の方が、「悪魔と取引」されたと自著に書き残されたとするならば、やはり悪魔は存在しているということなのです。


されど、悪魔との契約は反故にしても許されます
良心とは、悪魔との契約を破るものだからです
悪魔との契約よりも、創造神との契約が上に行く


この世に出ておられる神々は全て正神界では在らず。悪魔とか邪神と呼ばれる神達もまたその数多しなのです。


創造神が存在される「魂の故郷の神の御国」へと帰るのか!。
悪魔や邪神が支配する世界に向かい永遠に生きるのか!。


未来に向かって二つの道が示されています。選ぶのは自分!。


大本教の出口王仁三郎聖師がみろく世には「水晶魂」が授与されると説いておられます。前に少し記述をしましたが、みろく世に渡る人には今の肉体の中に「水晶」魂が入ります。仏教系だと丸い玉の形。神道系だと四角の塊の形。その人が信じる宗教系で水晶の形が違って来るでしょうが、授与されるはずなのです。


まだ、少しだけの方かも知れませんが、霊的に自己の体内に「水晶石」が入ったような事例が出て来ています。みろく世に行く気が無い方には関係のない話ですが、魂の御親神から授かる永遠の命。腐ったり潰れない水晶なので永遠の命の授与が解った方は、今後とも自分の身を汚さないで進んでいただきたいものです。
そうした水晶を見ていないから自分にはみろく世は無いと悲観することはありません。それは見えたか見えなかっただけのことであり、【唯一なる神だけを神とする信仰に切り替われば、みろく世に渡る水晶玉は授与されるものなのです】。





引用おわり



質問者 あなたがあなたの息子さんの家で昼食が出されるのを待っているところを目にしました。そのとき、私の意識とあなたの意識の内容が似たものなのか、部分的に異なるのか、それともまったく違うのかと不思議に思っていたのです。あなたは私のように空腹や喉の渇きを覚え、食事が給仕されるまで落ち着かずにいるのでしょうか、それとも、まったく異なったマインドの状態に在るのでしょうか?


マハラジ 表面上の違いはほとんどない。だが、その奥深くではたいへん異なる。あなたはあなた自身を感覚とマインドを通してのみ知っている。あなたはそれらが示唆することをあなた自身として受け入れ、自己の直接の知識をもっていない。あなたのもっているのは単なる観念だけだ。すべて平凡で、使い古しのうわさによるものにすぎない。あなたは何であれ、あなたであると考えたことを真実として受け入れてしまう。あなた自身が知覚可能で、描写可能なものだと想像する習慣が、非常に強固になってしまっているのだ。
私はあなたが見るように見、あなたが聞くように聞き、あなたが味わうように味わい、あなたが食べるように食べる。私はまた喉の渇きや空腹を感じ、時間通りに食事が給仕されることを期待する。飢えたとき、また病気をしたとき、私の身体とマインドは弱まる。これらすべてを私はまったく明確に知覚するが、どういうわけか、私はそのなかにはいないのだ。私は自分がその上を漂い、超然として離れてあるように感じるのだ。超然として離れていると言うことさえ、本当ではない。そこに空腹や渇きがあるように、超然と分離の感覚がそこにあるのだ。そこにはまた、気づきと計り知れない距離の感覚がある。あたかも、身体とマインド、そしてそれらに起こるすべてが、どこか遥か地平線の彼方で起こっているかのようだ。私は映画のスクリーンのように明白で空っぽだ。画像はその上を通り過ぎ、明白で空っぽのままの状態を残して消えていく。どの点においてもスクリーンが画像に影響されることはない。また、画像もスクリーンによる影響を受けはしない。スクリーンは画像を遮り投影する。スクリーンが画像を形づくるのではないのだ。それはフィルムと何の関わりもない。フィルムはフィルムとして、ひと塊の運命なのだ。だが、私の運命ではない。スクリーン上の人びとの運命だ。


質問者 あなたは画像のなかの人びとが運命をもっていると言うのではないでしょうね! 彼らは物語に属しているのです。物語は彼らのものではありません。


マハラジ では、あなたはどうだろうか? あなたはあなたの人生を形づくっているだろうか、あるいはあなたがそれによって形づくられているのだろうか?


質問者 確かに、あなたの言われるとおりです。人生の物語はそれ自体で繰り広げられ、私はそのなかのひとりの役者にすぎません。私なしにはそれが存在しないように、その外側に私の存在もないのです。私はただの登場人物であって、個人ではありません。


マハラジ 彼が人生を起こるがまま受け入れる代わりに、自分でそれを形づくりはじめ、彼自身をそれと同一化するとき、登場人物は個人となるのだ。


質問者 私が質問し、あなたが答えるとき、正確には何が起こっているのでしょう?


マハラジ 質問と回答は、ともにスクリーン上に現れるだけだ。唇は動き、身体が話す。そして、ふたたびスクリーンは明白で空っぽになる。


質問者 あなたが明白で空っぽだと言うとき、あなたは何を意味しているのですか?


マハラジ それはすべての内容から自由であることを意味しているのだ。私自身にとっては、私は知覚可能なものでも、想像可能なものでもない。「これが私だ」と示唆できるようなものは何ひとつないのだ。あなたは自分自身をいともたやすくあらゆるものと自己同一化してしまう。私にとって、それはまったく不可能だ。「私はこれでもなく、あれでもない。また、何も私のものではない」という感覚が私のなかで非常に強いため、あるもの、あるいはある想いが現れるやいなや、「これは私ではない」という感覚がやってくるのだ。


質問者 あなたは「これは私ではない、あれも私ではない」と繰り返すことで時間を過ごしていると言われるのでしょうか?


マハラジ もちろん、そうではない。私はただ、あなたのために言葉に置き換えてみただけだ。グルの恩寵によって、私は主体でも客体でもないということを永久に実現し、つねに自分自身に思い起こさせる必要はないのだ。


質問者 あなたが主体でも客体でもないと言われることで、正確には何を意味しているのか私には理解できません。私たちが話している今この瞬間、私はあなたの体験の客体であり、あなたがその主体ではないでしょうか?


マハラジ 見なさい。私の親指は人差し指に触れている。触れるものと触れられるものの両方だ。私の注意が親指にあるとき、親指が感じるものであり、人差し指は──自己なのだ。注意の焦点を移行し、その関係を逆転してみなさい。注意の焦点を移行することで、私は私が見ているそのものと成り、それがもっている意識を体験し、そのものの内なる観照者となることを見いだしたのだ。この他者の意識の焦点に入る能力を、私は愛と呼ぶ。あなたはあなたの好きなように呼ぶがいい。愛は、「私はすべてだ」と言い、智慧は、「私は無だ」と言う。その二つの合間を私の人生は流れていく。いかなる時間と空間の点においても、私は体験の主体と客体の両方であることができるため、私はその両方であり、どちらでもなく、またその両方を超えていると表現するのだ。


質問者 あなたはあなた自身に関するそのような並外れた表明を行います。何があなたにそのようなことを言わせるのでしょう? 時間と空間を超えると言うことで、あなたは何を意味しているのでしょうか?


マハラジ あなたが尋ね、そして答えがやってくる。私は私自身を見守り、答えを見て、そこに矛盾のないことを見るのだ。私が話していることが真実だということは明らかだ。それはまったくシンプルなことだ。あなたは、ただ私を信頼しなければならない。つまり、私が話すことはまったく真剣だということだ。すでに話したように、グルは私に自己の本性と世界の本性を見せてくれた。それを実現したため、私は世界とひとつであり、しかもそれを超えているのだ。私は欲望と恐れのすべてから自由になった。私が自由になるべきだと論証したのではない。まったく予期せず、何の努力もなく、私は自由であることを見いだしたのだ。この欲望と恐れからの自由は、それ以来、私とともにとどまっている。もうひとつ見いだしたことは、私は何の努力をする必要もなく、何の遅れも軋轢もなしに、行為が思考にしたがうということだった。私はまた、思考が自己充足するようになり、ものごとがすらすらと、正しい場所に落ち着いていくことも見いだしたのだ。主な変化はマインドのなかだった。それは不動で、沈黙し、素速く反応するが、反応を永続させなくなった。自発性が生のあり方となり、真実は自然になり、自然さは真実となった。何にもまして、生は無限の愛、幽玄で静穏な、すべての方角に輝き、すべてを抱擁し、すべてを興味深く、美しく、意味深くする幸運なものとなったのだ。


質問者 自己本来の存在を実現した人には、さまざまなヨーガの能力が自然と手に入ると聞いていますが、これに関するあなたの体験はどのようなものでしょうか?


マハラジ 人間の五つの層の身体* は、私たちのもっとも突飛な夢をも実現可能にする能力をもっている。人のなかには宇宙全体が反映されているばかりではなく、彼には宇宙をコントロールする力も提供されている。賢者は、状況がそれを必要としないかぎり、そのような力を使うことを切望したりしない。日々の生活のためには、彼は個人のもつ技術と能力で充分に適切だと見ているのだ。ある能力は特別な訓練で発達させることができる。しかし、そのような能力を誇示する人は、いまだに束縛のなかにいるのだ。賢者は何ひとつ、自分のものと見なさない。ある時と場所で、ある奇跡がある人のせいで起こったとしても、彼は出来事と人びととの間にいかなる因果的な結びつきも証明しないだろう。また、いかなる結論も引き出すことを許さないだろう。すべては起こるように起こるのだ。なぜなら、それは起こらなければならないからだ。すべてはそのように起こる。なぜなら、宇宙はあるがままだからだ。


質問者 宇宙は幸福に生きる場所のようには見えません。なぜこれほど多くの苦しみがあるのでしょうか?


マハラジ 苦痛は身体的なもの、苦しみは精神的なものだ。マインドを超えたところに苦しみはない。苦痛は身体が危険にあり、注意を要求しているという単なる信号なのだ。同様に、苦しみは個人と呼ばれる記憶と習慣の構造が、喪失、あるいは変化によって脅かされていると私たちに警告しているのだ。苦痛は身体の存続のために欠くことのできないものだ。しかし、誰もあなたに苦しむよう強要してはいない。苦しみは完全に、執着すること、あるいは抵抗することを理由に起こる。それは私たちが人生とともに流れ、進んでいくことを自ら欲しないことの兆候なのだ。
健全な人生が苦痛から自由であるように、聖人の人生は苦しみから自由なのだ。


質問者 聖人ほど苦しむ人は誰もいないでしょう。


マハラジ 彼らがあなたにそう言ったのかね? それともあなたが自分からそう言うのだろうか? 聖人のような高徳な生き方の本質は、現在のこの瞬間の完全な受容と、起こるがままとの調和にあるのだ。聖人はあるがままから変わってほしいとは望まない。すべての要因を考慮した上で、それが不可避であることを彼は知っているのだ。彼は必然的なものと親しくあり、それゆえ苦しむことがないのだ。苦痛なら彼も知っているだろう。だが、それが彼を打ちのめすことはない。もし彼にできるならば、失われたバランスを必要なだけ回復するだろう。あるいは、ものごとがそれ自体の流れを取るにまかせるだろう。


質問者 彼は死ぬかもしれません。


マハラジ それが何だというのだろう? 生きつづけることで、彼が何を得るというのだろう? 死ぬことで彼が何を失うというのだろうか? 生まれたものは死なねばならない。生まれなかったものは死ぬことはできないのだ。すべては彼が彼自身を何であると見なしているかによるのだ。


質問者 あなたが致命的な病気になったと想像してください。あなたは後悔したり、憤ったりするのでしょうか?


マハラジ だが、私はすでに死んでいるのだ。あるいは今まで生きたことも死んだこともなかったのだ。あなたは私の身体が習慣的にふるまっているのを見て、あなたなりの結論を引き出す。あなたの結論が、ほかの誰でもないあなた自身を束縛するということを、あなたは認めないだろう。あなたが抱いている私のイメージはまったく誤ったものかもしれないということを見て取りなさい。あなた自身のイメージもまた誤りなのだ。しかし、それはあなたの問題だ。だが、私のために問題をつくり出しておいて、それから私に解決するように要求する必要はない。私は問題をつくり出してもいなければ、解決してもいないのだ。


* 訳注 五つの層の身体
人間は五つのさやに包まれているというヒンドゥー教の概念。
(一)アンナー・マヤ・コーシャ 物質的身体
(二)プラーナ・マヤ・コーシャ 呼吸にともなう五つの気と五つの行動器官の身体
(三)マノー・マヤ・コーシャ マインドと五つの行動器官の身体
(四)ヴィジニャーナ・マヤ・コーシャ 知性と感情の器官の身体
(五)アーナンダ・マヤ・コーシャ 至福の身体。


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