不満って結局は不満をもつことを優先しているということでは?


状況に不満を見るか、何を見るかは「選んでいる」可能性はあります。選んでいない、選ぶことなどできない可能性も、あります。ですがやはり、「選んでいる」可能性が、あります。眼力(がんりき)ではないんですね。視力ではなくて、「何を見ようとしているか、差、がある」というのが実態ではないでしょうか。それは「興味のあるものに差がある」ような「趣味」の話かもしれません。ある人は「不満と不満の連鎖」に興味がある。ある人はその「裏」が気になるんです。不満を一時脇に置いて、「裏をめくる」ことを先に始めます。そういう趣味の人だから、仕方ないです。不満と不満の連鎖から視線が外れない人は、結局不満にどっぷり浸かることを自分で許容しています。その裏には必ず誰かか何かの「軽視」がある。違うでしょうか。その時その時、その誰かは変わりますが、最低一人以上の誰かを軽視しています。その軽視と引き換えに底流に流れる自身(またはもっと偉大な者)の愛情に気づけなくなるんです。n


カキの養殖


をされている方が、海の環境を復活させるためには、山を先に復活させる(植林する)必要があるという話をされていました。実際に行動に移され、植林による海の環境の復活は既に実証されています。一見関係ないように見えるくらい距離のある海と山なんですが、生態系はつながっていて、神が定めた自然のバランスに無駄などないということでもあります。分断して考えてしまうのは人間の得意技で、己の分を知らない行動に出れば、偉大な生態系のバランスを崩してしまうという結果だけを招きます。人の精神も、この海と山の関係はあるのだと思います。海から魚が消え、養殖に不適当な環境になっているのであれば、一見関係ない山にすでに異常があるのかもしれません。問題は、それはどこかということです。異常の出ている山とは、人間の精神のどの部分なのでしょうか。それは根源でありつつ、最も日常的な問題です。ありのままの自分、またはありのままの現状、ありのままの現実を知った上で受容しているか、それとも知ることさえ拒否しているのかという問題です。知ることさえ拒否している場合は、ただ「変化」だけを求めています。現状否認が「変化を切望」するという現象として現れているからです。ちょうど韓国の先の大統領選がそれでした。パク・クネ前大統領よりは誰がなってもマシだろうという暗黙のコンセンサスがあって、変化だけが期待されていました。人間は「現状との和解」の状況によって、海から魚が消えるんです。ですがこの本質はもっともっと深化していくことができ、深化していくと「現状との和解」のはずが、「神との関係」に変わります。そして神は、最も嫌なものや最も哀しいものに姿を変えて、そういった哀しい表層からその奥底を見通せる魂への成長の機会を与えてくださっている可能性があると思います。n


自己を検討することなしには、あなたはこの世界で生き生きとダイナミックに動いていく道を見つけられず、よどんで固まった他人のエネルギーの壁にぶつかるだけです。B


マハルシ 聖典は賢者のために書かれたものではありません。なぜなら彼らに聖典は必要ないからです。無知な人たちが聖典を求めることはありません。
解脱を望む人だけが聖典を必要とするのです。それゆえ、聖典は賢者のためのものでも無知な人のためのものでもないのです。

(対話362)


それを探し求め、それとして在りなさい


マハルシ 「存在」はどの場合においても実在です。万象、多様性、個人は非実在です。それゆえ、実在と非実在の統合、混同、偽りの同一化もまた誤りなのです。それはサッド・アサッドヴィラクシャナ、つまり実在と非実在(サットとアサット)を超越することです。実在は神を含めたすべての概念を超越するものです。「神」という名称が使われているかぎり、それは真実ではありえません。ヘブライ語のエホヴァ=「私は在る」(I AM)という表現は神を的確に表しています。絶対なる存在は描写を超えているのです。

(対話112)


マハルシ あなたは探求者であり、何かと合一されることを探し求めています。もしそう仮定するなら、あなたから離れた何かがそこになければなりません。しかし真我はあなたに最も近いものです。そしてあなたは常にそれに気づいています。それを探し求め、それとして在りなさい。そうすれば、それは果てしなく永遠に広がっていくでしょう。そしてヨーガ(合一)という問題もなくなるのです。いったい誰にとっての分離(ヴィヨーガ)なのでしょうか?

(対話211)


質問者 人は自由意志を持っているのでしょうか、それとも人生に起こるすべては運命づけられ、あらかじめ決められているのでしょうか?


マハルシ 自由意志は個人性との関連の中にその領域を保っています。個人性が存続するかぎり自由意志は存在するでしょう。すべての聖典はこの事実に基づいたうえで、自由意志を正しい道に導くように助言しているのです。
自由意志や運命は誰にとって問題となるのか? それを見いだし、その中にとどまりなさい。そうすれば、その二つは超越されるでしょう。


もしあなたが自分を身体と見なすなら、それらは常にあなたを支配するでしょう。
もしあなたが自分を身体と見なさなければ、それらがあなたに影響を与えることはなくなります。


眠りの中では、あなたは身体ではありませんでした。
あなたは今、身体なのでしょうか?

(対話426)



いつ分岐点だったのか


いま振り返るなら、2015年までが旧時代で、2016年度(旧暦)からが新時代だと私は思います。真田丸の時で、もしかすると六文銭の旗は地上に生きる人々の「渡河」が始まった狼煙だったのかもしれません。n


引用はじめ





9999迄嘘であっても、万に一つの為の警告は神一筋の少途川


2014.10.12 Sunday - 05:34 - by ○○公園


私は子供の頃、旧約聖書の神と名乗る声から、【私はこの世の幕を閉めるにあたって、そなたをこの世に使わした。そなたは人類を助けなさい】と言われました。私は子供心にも驚いて、この世が終わるなども信じることが出来なければ、人類を助ける等もとても出来る話ではありません。
で、私にその為の何か特別な力でも下さるのかと思ったら、【そなたには何の力も与えない。そなたに私の力を与えるのは最後の最後の時である】と言われます。
そんな最後の最後の時に力を与えると言われても、それまでの間、いったいこの私にどうしろと言われるのかさっぱり解りませんでした。豊受様から貴方は天帝の詔を教える「言葉の○」と告げられて、言葉の意味が解る様になって来ただけのことです。


ただ、旧約聖書の神と名乗る声は、今の世の幕が降りて新しい世が来ると説くのはそなた一人だけでなく、他の神司(かむつかさ)達も説くであろう。だが、そうした神司達は、そなたが神司(天使)の長であることまでは知らないし、そなたも誰が私の神司(天使)なのかを知らないと言われたのです。
遙かなる昔、国常立尊様麾下のかっての天使(神司)達も、国常立尊様が表舞台から退かれてからは私も含めて皆墜ちてしまったのです。今、どこで誰がどう生まれ変わって生きているのかは国常立尊様だけが御存知なのです。


昭和五十五年に私の身の上に起きた摩訶不思議な出来事。それで覚悟を決めて神霊世界の修業に飛び込みました。
私は子供の頃に臨んだ旧約聖書の神と名乗る声から聞かされた【私はこの世の幕を降ろすが、その後に、誰もが嬉し嬉しの未来が来る」と、新しい喜びの幕開けを言われたことを信じてやって行くより道はないのです。だが、それはこの地球上ではなくて、聖書の黙示録にある新しい地球という存在です。
そんな内容を人々が信じるとか理解するということは、途方も無い作業となります。信じて貰うことは不可能に近い作業なのです。


そうしたことの為に創造神は昔よりそうしたことを述べて来てはおられますが、そうしたことを言って来た者達は誰しも自分の時にそれが起きると思います。考えますと、イエスも自分の時だと思っていたでしょうし、大本教の出口王仁三郎聖師さんも自分の時だと思って来られたでしょう。そう思わないと、とても新しい神の世の宣伝など出来るものではありません。
だが、結果的にはその時には何も起きない。現実的には「嘘」になった。いったい自分は何を演じて来たのだろうとなります。それよりも、起きなかったことで誰もそうしたことを信じなくなるが起きます。旧約聖書の神=国常立尊と呼ばれる神が言う言葉はデタラメで大嘘つきの神であるとなります。
大本教神諭に、「どの神も世の立替があることを御存知なれども、肝心要のことは御存知ない」がありますが、私は稲荷神界で修業のお世話になったことで知るのですが、豊受様、豊川様、御劔様、権太夫様(大国主命)様などは立替があると言われる神派ですが、熊鷹稲荷などはまったく知らない有様でしたし、末端の稲荷神などもほとんど知らない状態なのです。
私もこれで本当に立替等あるのかと疑問符を打ちましたが、【万が一】の例えがあります。その「万に一」に対する備えは絶対必要なのです。 私はいくら立替があると説くのは嘘つきだと批判されても「警告」をしていかなければならないと思ったのです。


私が言葉を紐解くようになった始めの頃、一つの夢を見ていました。そこに一台のパチンコ台がありました。そのパチンコ台は【デタラメ】という名の台。そのデタラメの台に玉がどんどん打ち込まれます。だが、当たりに入らない。それでもデタラメの台に玉が打ち込まれる。そして真ん中のチューリップが開くと、どんどん打ち込まれる球は中央のチューリップの開かれた受け口に溜まるように入り、もうそのチューリップが閉まらない大当たりの打ち止めと台となったのです。
仏教では万物は「虚空蔵」から出たとされます。その虚空の「虚」とは「嘘」の字を造ります。その虚空菩薩は「国常立尊」とされますが、【嘘から出る誠】と言われるように、言葉に「嘘は誠の皮なりて、誠は嘘の骨なりぬ。嘘を叩いて、誠の骨とする」があります。
つまり、神が出されるデタラメに、真ん中に玉を打ち込まないと大当たりとはならないのです。私は神々が出される「嘘」から、何故に神々には「良心」が存在しないのだろうという疑問に当たりました。これが色々な角度の検証から「人の中に存在する良心神」となって来たのです。


私がヤフーの輪廻転生の板で「良心神」論を張っていた頃、多くの霊能者の方達が私の論陣をロムされていました。そうした霊能者の方達の中から、人に内在する良心神を出す人達が出ることを期待していました。私は別に手柄は欲していませんから、手柄は差し上げます。しかし、根本の「米」型を抜かして貰った「人に内在する良心神」であってはいけないのです。それではどこにも「みろく」も「五十六億七千万」もが出てこないからです。
世には自分が「みろく」ですとやっている自称者が多々おられて、その自称を頭から信じておられる方達があります。彼等は56億7千万の意味すら解らずに、ただただ自分を「みろく」神だと自称するだけを続けておられます。


私も個人的には旧約聖書の神と名乗る声が告げられたこの世の幕を降ろす。そして新しい嬉し嬉しの世を創るは途方も無いことであり、今の人類が知ることのない神の力でないと現実論としては不可能だと思います。神社や仏閣に鎮座されている御神霊の力の限界を見ています。地球と言う星を一つ創り出すなどは、そうした神々や人智の及ぶことではありません。
しかし、それを頭から「嘘」だと決めつけるのではなくて、万が一、万に一つと言われる言葉のように、例えそれが「9999」まで嘘であっても、万に一つの可能性があるとしたならば、私は人々に「警告」を与え続けなければならないのです。


神など存在しない。霊など存在しないと言うのが一番簡単です。今の世が終わって新しい世が来るから改心しなさいと告げることを否定して、お前は邪神に騙されているとバカにするのも簡単です。だが、誰がこんな言葉の仕組みをされたのかと考えると、今の世に出ておられる神では無理です。いくら俺は凄い霊能者だと言っていても、言葉の仕組みは出来ません。また力がある邪神でも無理です。一番難しいのが、本当の創造神を知ることで有り、その神の言葉を信じて突き進むことなのです。


あえて、困難な道を行く。神一筋の少途川。神が見せられる「渓谷」を行く。一歩間違えれば「奈落の底」です。
少途川とは大本教の出口王仁三郎聖師も説明されていますが、創造神にお仕えして主の側に行く信仰者達の道です。


神を敬う言葉を告げるが「警告」


高次元には「言葉」が無い。言葉があるのは低次元と言う霊能者の方は、自分自身が低次元の存在であることの理解に至っていないのです。


言とは、自分の【口より出る自分の心】


今はあまり知られていませんが、PCの走りの頃、PCのソフトを終わらせるのにアルファベットの「Q」キーか数字の「9999」打ち込むがありました。Qは「Quit」の略で【これで終わります】です。それに代わって「9999」も終わりの意味でした。日本語ならば「 Q」も「9(キュウ)」なのです。
私は子供の頃に臨んだ声から、【私は今の世を万年続けるつもりであったなれど、8000年縮める】と聞かされたのです。それで私は終わりの時は「10000-8000=2000で西暦2000年が立替年かと思っていました。言葉でも「二線」に分かれるとなります。そこに1999年に切り替えポイントがあることになります。立替が起きるの合図です。
ところが、西暦の1998年に今の西洋暦は計算式が「15度」間違っていると出たのですが、この15度の意味がさっぱり解らないのです。15年ならば西暦2015年が立替年で2014年に何等かの合図を見なければなりません。この「15度」がその意味でなければ、私にはそれを解釈するだけの能力がありません。


ただ、そうしたことが嘘であったとしても、言葉の仕組みを見た時、それらが自然に出来たと考えるのは無理があり、バベルの塔の話にある「どこかの民族」が神の言葉を使っていることになります。





引用おわり



質問者 人間と宇宙に関して数多くの理論があります。創造の理論、幻想の理論、夢見の理論等々、数えきれません。どれが本物なのでしょうか?


マハラジ すべて本物で、すべて偽物だ。どれでもあなたの好きなものを選ぶがいい。


質問者 あなたは夢の理論を好んでいるようですが。


マハラジ それらはみな言葉をつなぎ合わせたものだ。ある人はある理論を好み、ほかの人は別のものを好む。理論は正しくも間違ってもいない。それらはただ説明不可能なことを説明しようと試みたものだ。理論が問題なのではなく、それがどのように試されるかが問題なのだ。理論を試すことがそれを価値あるものにする。あなたの好きなどの理論でも実験してみるといい。もし誠実で真剣であれば、実在の達成はあなたのものとなろう。ひとりの生きる存在として、あなたは苦痛に満ちた、やりきれない状況のなかにいる。そして解決法を探している。あなたのいる牢獄のいくつか異なった地図があなたに渡された。どれも本物とは言えない。だが、それらはみないくらかの価値をもってはいる。だが、あなたが本当に真剣ならば、理論ではなく、あなたの真剣さが解放へと導くのだ。


質問者 理論は迷わせるかもしれず、真剣さは盲目にさせるかもしれません。


マハラジ あなたの誠実さがあなたを導くだろう。自由と完成への献身が、あなたにすべての理論やシステムを放棄させるだろう。そしてあなたは智慧と知性、そして愛とともに生きはじめる。理論は出発点としては良いが、いずれ放棄されなければならないものだ。早ければ早いほどいい。


質問者 真我の実現のためには、ヨーガの八段階の修練は必要なく、意志の力のみで充分だと説くヨーギがいます。純粋な意志の力への完全な確信をもって目的に集中するならば、ほかの者たちが何十年もかけて到達することも、努力なしに急速に達成すると言います。


マハラジ 集中力、絶対の確信、純粋な意志! そのような財産があれば、疑いなく瞬時に達成するだろう。このヨーギの説く意志は、ひとつを除いたすべての欲望をぬぐい去った成熟した探求者にとってはいいだろう。つまるところ、意志とは安定したハートとマインドのことなのだ。そのような不動の姿勢で臨めば、達成できないものなど何もない。


質問者 ヨーギが意味していたのは、単に絶え間ない追求と勉学への不動の意志を意味していたのではないと私は感じています。目的への意志が確固であれば、どのような勉学も、研究も必要ないということです。単に意志を持っているという事実が、対象を引きつけるのです。


マハラジ あなたが意志、決心、一途な心、何という名でそれを呼ぼうと、つまりは真剣さ、誠実さ、正直さに戻ってくる。死ぬほど真剣なとき、あなたはあらゆる出来事、あらゆる人生の瞬間を本来の目的に結びつける。ほかのことであなたの時間とエネルギーを浪費したりはしない。あなたは目的に完全に献身する。意志、愛、あるいは誠実さと呼んでもいい。私たちは複雑な存在で、内側でも外側でも争っている。昨日の仕事を今日取り消し、つねに自分自身に矛盾している。身動きがとれなくなるのも無理はない。ほんのわずかな誠実さが大きな違いを生み出すのだ。


質問者 欲望と運命、どちらがより強力なのでしょうか?


マハラジ 欲望が運命を形づくる。


質問者 そして運命が欲望を形づくります。私の欲望は遺伝と環境、チャンスと偶然、いわゆる運命によって条件づけされているのです。


マハラジ あなたの言うとおりだろう。


質問者 いつ私は望む自由をもてるのでしょうか?


マハラジ たった今、あなたは自由なのだ。あなたが望むことは何だろう? それを望むがいい。


質問者 もちろん、望むことは自由ですが、それに働きかけることは自由ではありません。ほかのものへの衝動が、私を迷わせるのです。たとえ私が容認したものでも、私の欲望は充分強くありません。私が容認しない欲望のほうが強いのです。


マハラジ おそらく、あなたはあなた自身を偽っているのだろう。たぶんあなたが容認する欲望は体裁を保つため表面にとどめておいて、本当の欲望には表現の機会を与えていないのだろう。


質問者 あなたの言うとおりかも知れません。しかし、それもまた別の理論です。事実は、私はすべきだと想うことを自由に望めないと感じ、正しく望んでいるように見えるときには、それにしたがって行為をしないのです。


マハラジ それはみな精神的弱さと、不完全な脳によるものだ。マインドを落ち着け、強化しなさい。そうすればあなたの思考、感情、言葉、行為は、あなたの意志の方向に沿うようになるだろう。


質問者 マインドを統合し、強化することはたやすい仕事ではありません。いったいどのようにはじめればいいのでしょうか?


マハラジ あなたはあなたがいるところからはじめることができる。あなたは今ここに在る。今ここを離れることはできないのだ。


質問者 ですが、今ここで私は何ができるのでしょうか?


マハラジ あなたはあなたの存在に気づくことができる。今ここで。


質問者 それだけですか?


マハラジ それだけだ。それ以上何もありはしない。


質問者 夢見の状態と目覚めの状態で、いつも私は自分を意識しています。それは大した助けにはなってはいません。


マハラジ あなたは考えることや、感じること、することに気づいていた。だが、あなたはあなたの存在に気づいていないのだ。


質問者 どのような新しい要因をもちこめばいいのでしょうか?


マハラジ 出来事に巻きこまれることなく見守る、純粋な観照の姿勢だ。


質問者 それが私に何をするのでしょうか?


マハラジ 弱いマインドは知性と理解の欠如から起こる。それはまた不注意の結果でもある。気づきのために努力することによって、あなたはマインドをひとつにし、それを強力にするのだ。


質問者 私は何が起こっているかには完全に気づいているかも知れませんが、それに影響を与えることはまったく不可能なのです。


マハラジ そうではない。何が起こっているかは、あなたのマインドの投影なのだ。それゆえ、あなたのマインドとその投影に気づいていなさい。弱いマインドにはそれ自身の投影を制御することができない。あなたはあなたが知らないことを制御できないのだ。一方、知識が力を与える。その訓練はとてもシンプルなものだ。自己を制御するために、自己を知りなさい。


質問者 おそらく、私は自分を制御できるようにはなるかもしれません。しかし、世界の混乱を扱うことができるようになるでしょうか?


マハラジ あなたのマインドがつくり出した混乱以外に世界の混乱というものはない。それは自己がほかのものと異なり、分離してあるものだという誤った考えを中心に自己創造されるのだ。実際には、あなたはあるものではなく、分離もしていない。あなたは無限の潜在力、無尽蔵の可能性だ。あなたが在るから、すべてが在ることができるのだ。宇宙はあなたの成るという無限の能力の部分的な現れにすぎないのだ。


質問者 私は自分が喜びへの欲望と苦痛への恐れによって、完全に動機づけされていることを見いだしました。いかに私の欲望が高尚であり、恐れが正当化されたとしても、喜びと苦痛は、その間で私の人生が振動する、二つの極なのです。


マハラジ 苦痛と喜び、恐れと欲望、その両方の源へと行きなさい。観察し、調査し、理解することを試みなさい。


質問者 欲望も恐れも身体的、精神的要因によって起こる感情です。それらはそこにあり、たやすく観察できます。しかし、なぜそれらはそこにあるのでしょうか? なぜ私は喜びを望み、苦痛を恐れるのでしょうか?


マハラジ そこに身体と身体を守るマインドが存在するかぎり、好感と反感は作用するだろう。それらが出来事のなかに現れても、あなたに影響することはない。あなたの留意の焦点は別の場にあり、それに迷わされることはないのだ。


質問者 それでも、それらはそこにあるでしょう。完全に自由になることは不可能なのでしょうか?


マハラジ あなたはたった今でさえ、完全に自由だ。あなたが運命(カルマ)と呼ぶものは、あなた自身の生きようとする意志の結果なのだ。普遍的な死の恐怖から見れば、この意志がどれほど強力なものかわかるだろう。


質問者 しばしば、人びとは自らの意志で死にます。


マハラジ 選択が死より一層悪いときにかぎってだ。しかし、そのような死ぬ用意も生きる意志と同じ源から流れてくる。その源は生命そのものよりも深いものだ。生きる存在として在るということは、究極の状態ではない。そこには彼方にある、何かはるかに素晴らしい、存在でも非存在でもなく、生命でも非生命でもないものがある。それが時間と空間の限界を超えた純粋な覚醒だ。ひとたびこの「身体─精神」が自己だという幻想が放棄されたならば、死はその恐怖を失い、それは生きることの一部となるのだ。


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