綺麗なタオルより雑巾に誇りを感じる


もったいない精神でもありますが、食材を余すところなく使いきるときのすっきり感が自分を雑巾のように絞るときにある気がします。雑巾が雑巾であれるなら、幸せに近いかもと思います。n


マハルシ ヨーギーは脳の中枢、あるいは千の花弁の蓮と呼ばれるサハスラーラに達することを最重要視しています。
事実は、身体は心の中に存在し、心は脳をその座としています。
その源に直接向かいなさい。借り物の源泉に依存してはならないのです。


集中とは一つのことを考えることではありません。その反対に、それは私たちの真の本性のヴィジョンを妨げるすべての想念を取り除くことなのです。

(対話398)


質問者 どうすればアートマンを見いだせるでしょうか?


マハルシ アートマンの探究ということはありえません。真我ではないものだけが探究の対象となり、それを排除することだけが可能なのです。

(対話78)


あなたはそれがどんなものであっても、自分が選んだものに意識を集中する能力を持っています。どんなものにでも──無にでさえもです。とにかく、あなたはあらゆる瞬間に、何らかのものに意識を集中することを選んでいるわけです。光を望むのでしたら、自分の純粋な目覚めた意識を内側の光のあるところに向けてください。たえず変化しつづける外側にあるものに意識を集中しようとするのではなく、内側にある絶対的に安全なところ、現象界のエゴの波の満ち引きに引っ張られたりすることのない場所を見つけてください。


あなたの意識が集中するものが、あなたの現実となります。こうしてつねに自分の内面に向かうことをしないと、あなたは外側の世界のたえず変化する揺れ動きに、くり返しとらわれてしまうことでしょう。そして、自分とは目に見えるもの、つまり、肉体であり、苦しみや悲しみや老化や死をまぬがれないのだと信じつづけることでしょう。けれども、このどれも真実ではありません。肉体は確かにありますが、あなたは肉体ではないのです。あなたは肉体のなかにある意識の”光”なのです。これが真理かどうか、自分で探究してください。


マハルシ あなたがどの場所に、どのように置かれているかということに何の意味があるでしょう?
重要なのは、「心が常に源にとどまっていなければならない」ということです。内面にないものが外面に現れるということはありません。すべては心だからです。心が活動的であれば、たとえ隠遁していても市場にいるのと同じです。目を閉じることは何の助けにもなりません。心の目を閉じなさい。そうすれば、すべてはうまくいくでしょう。世界はあなたの外側にはないのです。心正しき人は、行為する以前に計画を立てたりはしません。なぜでしょうか? なぜなら、私たちをこの世界に送り込んだ神には、神自身の計画があるからです。そしてその計画は必ず成就されることになるのです。

(対話542)


物質界でお互いに対してどんなルールを設けているにしても、大いなる神の目から見ると、お互いに対して自分の意識のなかで持つべきルールはただひとつです。お互いを見つめあうときに、ふたりが大いなる黄金の光のパワーをもって相手を見ることができるかどうか、それだけです。ふたりのあいだに何が起ころうとも、大いなる光が存在すること、そして、永遠に拡大しつづけるこのあふれる光を、相手と分かちあうために光が存在することを忘れないでいられるかどうかです。このことに対して疑いが起きたら、次のことを思いだしてください。愛することを選ぶのであれば、大いなる光をもって愛してください。決して人間の限られた心で愛さないことです。大いなる光をもって常に愛してください。すべての人がこの光を持っていることを保証します。この光の存在を、未来永劫に心に抱くことを祈ります。



人にでも状況にでも注意を向けるためには、自分自身が自分のそばに、そして人のそばに、状況のすぐそばにいなければなりません。そばにいる、つまりその場に存在すると、自分の予定表をもつことができなくなります。自分がこうするだろうとか、人がこうするだろうとか、状況がたぶんこうなっていくだろうとか仮定していれば、その瞬間に十二分な注意をはらうということができません。注意をはらうためには、心(マインド)がオープンであることが必要です。オープンな心、つまり判断もせず期待もしない心をもつことです。


もうひとつ重要なのは、ハートのほうもオープンにすることで、そのためには自分自身と他人とに対するあたたかい共感、そして過去のできごとへの寛大な宥しが必要です。オープンなハートをもつということは、相手に対等に接すること、共通の地盤を探すこと、そこでみつけられるかぎりの親密さと交流に対して自分を開いている、ということです。


愛への扉は、心とハートの開閉にしたがって開閉します。閉まっているときは、辛抱強くそして寛大であってください。さもないと二度と開かなくなるでしょう。


愛の存在にだけでなく、不在にも敏感であってほしいものです。不在を感じたら、耳を澄ませ、ハートをやわらげましょう。他人と分離している、と感じたら、微妙な判断や評価をしていないか探してみましょう。


分離や判断の経験は、すべて愛の存在に対して自分を開くための機会となります。知的な作業としては、固定観念や正当化から自分を遠ざけてください。感情面では、分離の結果、つまり自分の苦痛、他人の苦痛を感じてみてください。


判断から受容への移行、分離から同調への移行こそ、ヒーリングの真髄です。この移行ができないときには、「マインド・身体」領域において、「不快感=病気」への条件がととのっています。


あなたがたはみんな、この不快感から快感、閉鎖からオープン、不信から信頼への移行を学ぶ必要があります。”防御的”姿勢を”受容的”姿勢に変えることで、平和を実現することができ、また”排除的”な考えを”包含的”考えに変えることで、人間関係に調和をつくりだすことができます。


ヒーラーあるいは奇蹟を行う人になるということは、葛藤や争いから、また罪悪感から、判断や非難から、本来自由であれるはずの自分の能力を受けいれることです。この自分の中の能力を受けいれれば、わたしと同じように人生に奇蹟を起こすことができるでしょう。


何度もくりかえすように、あなたがたにはできるのです。ヒーリングは可能なだけでなく、必要なものです。だれでも自分の感じた傷や不公正さを癒し、奇蹟の力の証人になれます。ヒーリングということが、ここでのあなたの唯一の目的です。そのことに早く気づけば気づくほどよいでしょう。


どうか、あらゆる正統的なスピリチュアルな修行は、自分自身への愛と受容を養うことから始まるのを思い起こしてください。自分自身を愛することができないうちは、他人を愛そうとしないでください。それはできない相談です。


あなたのカンにさわることばかりしでかす人が人生に入ってきたら、その人を無理に愛そうとはしないでください。でも、衝突もしないでください。非難したり、あげつらったりして、敵視しないでください。ただ相手が自分のカンにさわっていることを認め、自分のフィーリングとともにいる時間をとってください。


あなたがひとりのとき、感じていることは、あなたの中だけの問題だということを改めて言っておきましょう。他人は、あなたの感情と関係ありません。自分の感じていることの責任を他人に押しつけるようなあらゆる考えを、切り離してください。


そして自分の感情とともにいて、自分自身に言うのです。「わたしのこの感情は、自分の中にあって自分が非難している面を示している。自分のあらゆる面を受けいれることを学びたい。わたしの中のすべての傷ついた部分に、愛をもたらすことを学びたい」


そうすると、あなたはほんものの変容の地点にきます。愛を自分のハートにもたらす準備ができました。


これを何度も何度も練習し、自分自身に対して辛抱強くあってください。兄弟姉妹やまわりの世界を愛そうとするのは、自分のハートに愛を持ちこめるようになってからにしてください。むりに外部を愛そうとしても、失敗し、自分をもっと責めるようになるでしょう。


自分自身にたっぷりの同情をもってください。小さな一歩から進みます。自分自身の思考と感情を癒すことから始めます。あなたが自分の批判的な考えや分離の感情を癒すたびに、宇宙の中のすべての心とハートがそれを感じます。あなたのヒーリングはあなただけではなく、全存在に及ぶのです。


あなたが平和になれば、世界の平和はすでに内在するものとなります。あなたに他人に対する責任があるとしたら、このことだけです。つまりあなたが自分のハートと心に平和をもたらすことです。


そんなアドバイスは利己的で無責任だと考える人がいるかもしれません。そういう人は、幸福を見いだすためには世界を救わねばならぬ、と信じています。その受けとめ方はまちがっています。自分がまず幸福感を見いださないかぎり、世界は救われません。


理解しがたいかもしれませんが、これが真実です。いまあなたが幸福でないなら、あなたはけっして幸福を見いだせません。ですから、もしいま自分が幸福でないとしたら、未来に幸福を探そうとするのをやめ、自分の注意を現在の瞬間に向けてください。そこにこそ、あなたの幸福があるのですから。


オープンなハート、オープンな心は、愛の存在へと扉を開きます。扉が閉まっていても、扉はあなたにむかって、開けてくれ、と呼びかけます。批判的な気分で他人と分離しているように感じるときも、愛が内部からあなたに呼びかけます。


わたしがすでに説いたように、あなたがたが何度聖域に入ることを拒んだとしても、扉はたたきさえすれば開かれるのです。わたしはまた、こうも言いました。「求めよ、さらば与えられん」でも、あなたがたは信じようとしませんでした。あなたがたは、だれかがあなたの罪や、優柔不断な態度や、しぶとい反抗の回数を数えあげていると思いこんでいるようですが、それは真実ではありません。数えあげているのは、あなたがただけです。


兄弟よ、あなたに言います。「数えあげるのをやめよ。言い訳をするのをやめよ。扉が閉ざされているふりをするのをやめよ。わたしは戸口に立っている。手をのばし、わたしの手をとりなさい。そうすれば、わたしとあなたとで扉を開け、ともに通りぬけることができるだろう」


わたしは無条件の愛への扉です。あなたがそこを通りぬければ、あなたもまた扉になるのです。



マハラジ 身体がある。身体の内側には観察者、外側には観察されている世界が存在するように見える。観察者と彼の観察、そして観察される世界は、ともに現れ、ともに消える。そのすべての彼方に虚空がある。その空こそがこれらすべてなのだ。


質問者 あなたの言われることはシンプルです。しかし、誰もが言えることではありません。あなたが、そしてあなただけがその三つとその彼方の空について語るのです。私が見るのはすべてを含む世界だけです。


マハラジ 「私は在る」も含まれるのだろうか?


質問者 「私は在る」さえも含まれます。「私は在る」はそこにあります。なぜなら世界がそこにあるからです。


マハラジ そして世界がそこにあるのは、「私は在る」がそこにあるからだ。


質問者 そうです。それはどちらにとっても言えることです。私はその二つを分けることも、超えることもできません。私が体験していないから、それが存在しないとは言えないように、私にはそれを体験しないかぎり、何かがあるとは言えないのです。あなたにそれほどの確証を持って語らせる体験とは何なのでしょうか?


マハラジ 私は時間、空間、原因を超えたあるがままの私自身を知っているのだ。あなたはほかのことに没頭していて、偶然知らないだけなのだ。


質問者 どうして私はそんなにも没頭してしまうのでしょうか?


マハラジ なぜならあなたは興味があるからだ。


質問者 何が私に興味をもたせるのでしょうか?


マハラジ 苦痛への恐れと快楽への欲望だ。快楽は苦痛の終焉であり、苦痛は快楽の終焉だ。それらは果てしない連続性の中で交代しているしているだけなのだ。あなたがそれを超えたあなた自身を見いだすまで、その悪循環を調べてみるがいい。


質問者 私には、彼方へと私を連れていくあなたの恩寵が必要なのではないでしょうか?


マハラジ あなたの内なる実在の恩寵は、永遠にあなたとともにある。あなたの恩寵を求めたそのこと自体がそのしるしなのだ。私の恩寵について思い煩うことはない。だが、言われたことをしなさい。恩寵への期待ではなく、為すことが真剣さを証明するのだ。


質問者 何に対して真剣になればいいのでしょうか?


マハラジ あなたの注意の領域を横切るすべてを調べなさい。修練とともにその領域は広がり、調査は深まっていく。やがてそれらは自発的で限界のないものとなるのだ。


質問者 あなたは真我の実現を修練の結果にしているのではありませんか? 修練は身体的な存在の限界のなかで作用します。それがどうして無限なるものに誕生を与えるというのでしょうか?


マハラジ もちろん、修練と智慧の間に因果的な関連はない。だが、智慧への障害は修練による影響を深く受けるのだ。


質問者 何が障害なのでしょう?


マハラジ 誤った観念と欲望がマインドと身体の気を消散させ、誤った行為へと導いていく。偽りの発見と放棄は、真実がマインドのなかに入ることを妨げるものを取り除くのだ。


質問者 「私は在る」と「世界はある」という二つのマインドの状態を区別することはできます。それらはともに現れ、ともに消え去るのです。人々は、「私は在る。なぜなら世界が在るからだ」と言い、あなたは「世界はある。なぜなら私が在るからだ」と言います。どちらが本当なのでしょうか?


マハラジ どちらも本当ではないのだ。その二つはひとつであり、同じ時間と空間の中にある状態だ。その彼方には永遠がある。


質問者 時間と永遠のつながりとは何でしょうか?


マハラジ 永遠は時間を知り、時間は永遠を知らない。すべての意識は時間のなかにあり、意識にとって永遠は無意識として現れる。それにもかかわらず、永遠なるものが意識を可能にするのだ。光は暗闇のなかで輝く。光の中で暗闇を見ることはできない。あるいは、ほかの言い方をすれば、果てしない光の大洋のなかで、暗く、限定され、対比によってしか知覚できない意識の雲が現れるのだ。これらは何か非常にシンプルでありながら、しかしまったく表現不可能なものを言葉で表現しようとする単なる試みにすぎない。


質問者 言葉は橋渡しの役目をするべきです。


マハラジ 言葉は実在ではなく、マインドの状態に言及するものだ。川、二つの岸、それに架かる橋、すべてはマインドのなかにある。言葉だけであなたをマインドの彼方へと連れていくことはできない。そこには途方もない真理への熱望か、またはグルへの絶対的な信頼がなければならない。私を信じなさい。そこには目的地もなければ、それへ到達する道もまたない。あなたが道であり目的地なのだ。あなた自身を除いて、到達するようなものは何もないのだ。あなたに必要なのは理解することだけだ。そして理解はマインドの開花なのだ。樹が絶えることはないが、開花や結実は季節とともにやってくる。季節は移り変わるが、樹は変わらない。あなたが樹なのだ。あなたは無数の枝や葉を今まで育ててきた。そしてこれからも育てていくだろう。だが、あなたはそのまま残るのだ。あなたが知らなければならないことは、そう在ったことではなく、そうなるだろうことでもない。ただ在ることなのだ。宇宙を創造した欲望はあなたのものだ。世界はあなた自身の創造だと知り、自由になりなさい。


質問者 世界は愛の子供だとあなたは言われました。私が、世界は戦争、強制収容所、残酷な搾取に満ちていると知るとき、どうしてそれをわたし自身の創造として所有することができるでしょうか? いかに私が限定されていたとしても、私にはそんな残酷な世界をつくり出すことはできなかったでしょう。


マハラジ この残酷な世界が誰にとって現れるのかを見いだしなさい。そうすれば、なぜそのように残酷に現れるのかを知るだろう。あなたの質問は完全に正当なものだ。しかし、それが誰にとっての世界なのかをあなたが知るまでは、それに答えることはできないのだ。あるものの意味を見いだしたいのなら、あなたはつくり出した人に尋ねなければならない。だから言っているのだ。あなたが住んでいるこの世界をつくり出した人はあなたなのだ。あなただけがそれを変え、あるいはつくり変えることができるのだ。


質問者 どうして私が世界をつくったと言えるのでしょうか? 私はそれを知りもしないのです。


マハラジ あなたがあなた自身を知るとき、世界のなかであなたに知ることができないものは何ひとつなくなるのだ。あなた自身を身体と考えることで、あなたは世界を物質的なものの集合だと見なしてしまう。あなた自身を意識の中心として知るとき、世界はマインドの大海として現れる。実在の中のあるがままの自分自身を知るとき、あなたは世界をあなた自身として知るのだ。


質問者 あなたの言われることは非常にすばらしく聞こえます。しかし、私の質問に答えてはいません。どうして世界にはそれほどたくさんの不幸があるのでしょうか?


マハラジ もしあなたがただ観察者として超然として離れて在れば、苦しむことはないのだ。あなたは世界をショーとして見るだろう。実に、最高のショーだ。


質問者 何ということでしょう! このリーラ(神の戯れ)の理論は受け入れられません。苦しみはあまりにも深刻で、あまねく存在しているのです。不幸の悲惨な光景で楽しむなど何という倒錯でしょうか! 何という残酷な神をあなたは差し出すのでしょう!


マハラジ 不幸の原因は知覚する者と知覚されるものとの同一化にあるのだ。それから欲望が生まれ、欲望とともに盲目的行為、結果への無頓着が続くのだ。まわりを見まわしてみなさい。不幸は人間のつくり出したものだということを知るだろう。


質問者 もし人間が彼自身の不幸をつくり出しているのなら、私もあなたに賛成するでしょう。しかし、彼自身の愚行から他者まで苦しめるのです。夢見る人は個人的な悪夢のなかで、ほかでもない自分ひとりが苦しむだけです。しかし、他人の人生まで破壊するとは、いったいどんな類の夢でしょうか?


マハラジ 解説は数多く、矛盾しあっている。実在はシンプルだ。すべてはひとつなのだ。調和が永遠の法則であり、誰も苦しむように強いられてはいない。ただあなたが解説し、説明しようと試みるとき、言葉はあなたを失望させるのだ。


質問者 一度、マハートマ・ガンディーが、「真我は非暴力の法則(アヒンサー)に縛られてはいない。真我はその表現に、それを正すために苦しみを負わせる自由をもっている」と私に言ったのを覚えています。


マハラジ 二元性のレベルにおいてはそうかもしれない。だが、実在のなかには、それ自体は暗いが、すべてを輝かす源があるだけだ。知覚されないが、それは知覚を引き起こす原因であり、感じられないが、感覚をひき起こす原因だ。非存在でありながら、それは存在に感情を与える。それは動きの不動なる背景なのだ。ひとたびあなたがそこに在るなら、どこにいようと我が家のように感じることだろう。


質問者 もし私がそれであるのならば、私が生まれてきた原因は何なのでしょうか?


マハラジ 過去において満たされなかった欲望がエネルギーをふさぎ止め、それが個人として現れる。その蓄積されたエネルギーが使い果たされたとき、個人は死ぬのだ。満たされなかった欲望は次の誕生のなかへと運ばれていく。身体との自己同一化は、つねに新しい欲望をつくりつづけ、その束縛の構造が明確に理解されるまで、それに終わりはないのだ。解放をもたらすのは明晰性だ。なぜなら、その原因と結果が明確に理解されるまで、欲望を放棄することはできないからだ。それは死ぬ。そして永遠に死ぬのだ。だが、その記憶は残る。そしてそれらの欲望と恐れも。それらが新しい個人にエネルギーを供給するのだ。実在は、それにはまったく関わらない。だが、それに光を与えることでそれを可能にするのだ。


質問者 私の困難とはこれです。私に理解できるかぎりでは、すべての体験はそれ自体の現実なのです。それは体験されたものとしてそこにあります。私がそれを疑い、誰にそれが起こったのか、誰が観察者なのかを尋ねる瞬間、体験は過ぎ去り、私が調べることができることはみな、その記憶だけになってしまうのです。私には生きた現在の瞬間──今を調べることはできません。私の気づきは過去のものであり、現在のものではありません。私が気づいているとき、今のなかに本当は生きてはいず、ただ過去のなかだけにいるのです。現在の気づきというものが本当にあるのでしょうか?


マハラジ あなたが描写しているものは気づきなどではまったくない。それはただ体験について考えているだけだ。真の気づき(サンヴィド)とは、観照されている出来事についてまったく何をすることも試みない、純粋な観照の状態のことだ。あなたの思考と感情、言葉と行為もまた、出来事の一部分なのだ。あなたは明確な理解の完全な光のなかで、まったく関わりをもたないまま見守る。それがあなたに影響を与えないため、あなたは何が起こっているのかを正確に理解するのだ。それはよそよそしく冷淡な態度に見えるかもしれないが、本当はそうではないのだ。ひとたびあなたがそのなかに在れば、それがいかなる性質のものであっても、あなたはあなたの見るものを愛することを見いだすだろう。この無選択の愛が気づきの試金石なのだ。もしそれがそこになければ、あなたはある個人的な理由で興味をもつだけだ。


質問者 そこに苦痛と快楽があるかぎり、人は興味を持たざるをえません。


マハラジ 人が意識しているかぎり、そこに苦痛と快楽はあるだろう。意識のレベルで快楽や苦痛と闘うことはできないのだ。それらを超えていくには、意識を超えなければならない。意識をあなたのなかにではなく、あなたに対して起こる何か外部の、異質な、あなたの上に押し重ねられたようなものとして見るときにだけ、それを超えることが可能なのだ。そのとき、あなたは突然意識から自由な、まったくひとりの、何の干渉も入らない状態にいる。意識とはあなたに引っかかせようとする急激なかゆみなのだ。もちろん、意識から外へと出ることはできない。外へ出ようとする考え自体が意識のなかにあるからだ。だが、もし意識とは殻のなかのヒヨコを包む個人的で私的な熱のようなものとして見ることを学ぶなら、その態度そのものが殻を破る転換期をもたらすだろう。


質問者 仏陀は、人生は苦しみだと言いました。


マハラジ 彼はすべての意識が苦痛に満ちたものだと意味していたのだ。それは明白だ。


質問者 では、死が解放をもたらすのでしょうか?


マハラジ 自分自身が生まれてきたと信じている人は、死を非常に恐れている。その反対に、自分自身を本当に知っている人にとって、死は幸福な出来事なのだ。


質問者 ヒンドゥー教の伝統は、苦しみは運命によってもたらされ、そして運命は相応するものなのだと言っています。洪水、地震、戦争、革命といった計り知れない自然の、あるいは人的災害を見てください。それぞれの人たちが思いもしなかった彼自身の罪によって苦しむということもできるのでしょうか? 何億もの苦しんでいる人々は皆、正当に罰せられるべき罪人だというのでしょうか?


マハラジ 人は自分自身の罪によってのみ苦しまなければならないのだろうか? 私たちは本当に分離しているのだろうか? この広大な生命の大洋のなかで、私たちは他者の罪によって苦しみ、また私たちの罪によって他者を苦しめる。もちろん、バランスの法則が最高位のものだ。そして最後には貸借の決済をすませる。しかし、生命が続くかぎり、私たちは深く互いに影響を与え合うのだ。


質問者 そうです。詩人はそれを「誰ひとり、孤島ではない」と言い表しました。


マハラジ すべての体験の背後には自己があり、その体験への興味があるのだ。それを欲望と呼ぶがいい。あるいは愛と呼ぶがいい。言葉は重要でない。


質問者 苦しみを望むことはできるのでしょうか? 私は故意に苦痛を求めることができるのでしょうか? 私は熟睡を期待して柔らかなベッドをつくり、悪夢に襲われて、寝返りを打ちながら夢のなかで叫んでいる人のようなものです。間違いなく、悪夢を生みだしたのは、愛ではありません。


マハラジ すべての苦しみは利己的な分離、孤立と貪欲によって起こるのだ。苦しみの原因が理解され、取り除かれたなら、苦しみはやむだろう。


質問者 私は私の不幸の原因を取り除くかもしれません。しかし、他者は苦しみの中に残されるのです。


マハラジ 苦しみを理解するには、苦痛と快楽を超えていかなければならない。あなた自身の欲望と恐れが理解することを妨げ、それゆえ他者を助けることも妨げているのだ。実際には、他者は存在しない。それゆえ、自分自身を助けることで、あなたはほかの皆をも助けるのだ。もし人類の不幸に真面目に取り組むのなら、あなたがもっている唯一の手段を完全なものにしなければならない。それがあなた自身なのだ。


質問者 あなたは私が世界の創造者、維持者、破壊者であり、遍在し、全知、全能だと言いつづけています。あなたの言うことに思いをめぐらしているとき、私は自分に尋ねるのです。「どうして私の世界には、こんなにも多くの悪が存在するのだろうか?」と。


マハラジ 悪は存在しない。苦しみは存在しないのだ。生きる喜びはすべてにまさるものだ。見なさい。いかにすべてのものたちが生命にしがみついているか、いかに存在をいとおしんでいるかを。


質問者 私のマインドのスクリーンのなかで、イメージが絶えることのない連鎖でつぎつぎと入れ代わっていきます。私に関して永久のものは何もないのです。


マハラジ あなた自身をもっとよく見てみなさい。スクリーンがそこにあるではないか。それは変わらないのだ。光は揺るぎなく輝いている。ただその間にあるフィルムだけが動きつづけ、画像の現れる原因を引き起こしているのだ。そのフィルムを運命(プラーラブダ)と呼んでもいい。


質問者 運命をつくり出すのは何でしょうか?


マハラジ 無知が避けることができない原因なのだ。


質問者 何についての無知でしょうか?


マハラジ 根本的には、あなた自身についての無知だ。また、ものごとの真の本質、その原因と結果についてでもある。あなたは辺りを見回し、理解もせずにその現れを実在と見なしてしまう。あなたは世界とあなた自身を知っていると信じている。だが、「わたしは知っている」とあなたに言わせているのは、単にあなたの無知にすぎないのだ。知らないということを認めなさい。そしてまずそこからはじめなさい。
無知を終わらせること以上に、世界を助けられることは何もない。そうすれば、世界を助けるために何か特定のことをする必要はもうないのだ。行為をしようと無為であろうと、あなたの存在そのものが助けとなるのだ。


質問者 無知はどのようにして知られるのでしょうか? 無知を知るということは知識を必要条件としています。


マハラジ まったくそのとおりだ。「わたしは無知だ」と認めること自体が知識の現れなのだ。無知な人は、彼の無知に無知なのだ。あなたは無知が存在しないと言うことができる。なぜなら、それが見られた瞬間、それはもはやないからだ。それゆえ、それを無意識、あるいは盲目と呼んでもいいだろう。あなたの内側とまわりに見るすべては、あなたが知らず、理解しないことなのだ。あなたはあなたが知らず、理解しないことさえも知らないのだ。あなたが知らず、理解もしていないことを知ることは真の知識、謙虚なるハートの知識だ。


質問者 そうです。イエスは「幸いなるかな、心貧しきもの……」と言われました。


マハラジ あなたの好きなように表現するがいい。事実は、知識とは無知でしかないということだ。あなたは知らないということを知っているのだ。


質問者 無知には終わりが来るのでしょうか?


マハラジ 知らないことの何が悪いというのかね? すべてを知る必要はない。必要なことだけを知ればそれで充分だ。あとは、あなたがどうすればいいのかを知らなくとも、それ自体が面倒を見る。重要なことは、あなたの無意識が意識に対抗しないこと、すべてのレベルでの統合があることだ。知ることは重要なことではないのだ。


質問者 あなたの言われることは、心理学的には正しいのですが、他者や世界を知るに至っては、わたしが知らないということを知っていることは、それほど助けにはなりません。


マハラジ ひとたびあなたが内的に統合されたなら、外的な知識は自然にやってくるだろう。人生におけるそれぞれの瞬間に、あなたは知るべきことを知るのだ。宇宙的マインドの大洋のなかには、全知識が包含されている。それはあなたの要求しだいなのだ。そのほとんどは、けっして知る必要もないものかもしれない。だが、どちらにせよ、すべてあなたのものなのだ。
知識がそうであるように、力においてもまたそうだ。
何であれ、あなたがする必要のあることは間違いなく起こる。神が宇宙を支配する仕事に従事していることは疑いない事実だ。だが、彼は助けを得ることを喜ぶ。もしそれが非利己的で、知的な人ならば、すべての宇宙の力が彼の指揮にしたがうだろう。


質問者 自然の盲目的な力でさえも従うのでしょうか?


マハラジ 盲目的な力というものはない。意識が力なのだ。為される必要のあることに気づいていなさい。そうすれば、それは為されるだろう。ただ油断なく、静かにしていなさい。ひとたびあなたが目的地に到着し、真の本性を知るならば、あなたの存在はすべてにとっての祝福となる。あなたは知らないかもしれない。世界もまた知らないだろう。だが、助けは広く行き渡るのだ。世界のなかには、すべての政治家や慈善家を合わせたより以上の善を為している人々がいる。彼らは意図ももたず、知ることもないまま、光と平和を放っている。他者が彼らの為した奇跡について話すと、彼らもまた驚きの念に打たれる。それにもかかわらず、何ひとつ彼らのものとして受け取らず、誇りももたず、名声を望むこともない。彼らには、ただ彼ら自身のために何かを欲望すること、他者を助ける喜びを求めることさえ不可能なのだ。神が善であると知るゆえに、彼らはただ平和の内に在るのだ。


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