涙を無視するな


とフィオラに叱られるといつも私は金槌で殴られたような衝撃を受けました。言い訳の言葉を出そうとして出せず、そこに沈黙が降りました。あなたが涙に寄り添っていれば、神が見出させようとしていた本来の道が見つかったかもしれない。浅いのは、あなただけです。いつもそう言われているような気がしました。n


なにひとつ隠すものがない場合には、あなたの意識の光は、もはや恥ずかしい秘密の罪の意識にくもらされることはありません。もう、うそでとりつくろう必要はありません。あなたの人間関係は、あれこれの思惑や下心に妨げられません。シンプルさと明晰さが人生を支配します。もう欺瞞はないからです。


だれでもたったいま、この明晰さに到達することができます。自分の考えや感じ方のすべてを、ためらいなく打ち明けて話す勇気さえもてればです。それは兄弟姉妹への信頼の行為にもなります。それはまた、進んで自分をさらけだし、弱さを見せるという意志でもあります。


あなたに恐怖心があっても、それを人に話せば、その恐怖心とその下にある罪悪感は隠れていられなくなります。


告解の目的とは、他人から赦免を受けとるということではないのです。欺瞞の暗闇を投げ捨て、恐怖心と罪悪感に意識の光をあてることなのです。告解を聞く人は、裁判官ではなく、証人なのです。どんな人が証人でもいいのです。自分の役割は批判や告発ではなく、共感をもって耳を傾けることだと理解している人であるならば。


過ちをおかさない人はいません。わざとであろうと、そうでなかろうと、たがいに衝突することはよくあることです。あらゆる衝突が止められると考えるのは、おろかしいことです。人間としての自分の弱さをよく知らない人だけが、そのような地に足のつかない高邁な理想を追い求めるのです。そして、自分の人間らしさを受けいれられない人が、どうして自分の聖性を受けいれられるでしょうか。


過ちは、修正をもたらしてくれる贈り物です。あらゆる小賢しいはからいや欺瞞を表面に浮上させてくれる、その機会を祝福してください。心(マインド)の暗い場所をのぞきこむ機会に感謝し、その中身を意識的検証の光の中に持ちこんでください。


あなたが過ちをむりに正当化すると、それにしがみつき、何度も自己弁護をくりかえすことになります。莫大な時間とエネルギーのむだです。


兄弟のことをよく思えないのであれば、彼にそう言って、宥しを求めます。それは相手を台座にのせてまつりあげるということではなく、自分が自己嫌悪と絶望の底なしの穴に落ちこまないための方策なのです。


この世界がくもって見通しが悪いのは、あなたが過ちを認める勇気を欠いているからです。あなたにできることは、せいぜい、自分の過ちを隠す能力を磨くということくらいでしょう。それは悲しいことですし、自己欺瞞のゲームです。それをやめてください。


兄弟を信頼してください。あなたよりも上にいるのだと判断するのではなく、隣にならんでいる対等な相手なのだと認めてください。


自分自身に対し、告白します。また伴侶や、上司、路上の見知らぬ人に対しても、告白してください。人にどう思われてもいいではありませんか。


友よ、真実を思いめぐらしてください。わたしや兄弟から、なにか苦しみから抜け出す秘訣のようなものを聞き出すことはできません。苦しみを終わらせるには、あなたの人生のあらゆるごまかしを終わらせなければなりません。それは自分自身に対して、わたしに対して、兄弟に対して、真実を語ることによってのみ達成されます。


勇気をもって過ちを認めれば、それらの過ちを宥し、自分自身を、悩み、苦労、欺瞞から解き放つことができます。真理は人生で実践されないかぎり、十全に受けいれられたとは言えません。


あなたがたひとりひとりは、神の愛と恵みという宝石の多くの面のひとつなのです。それぞれが、それぞれの神性のシンプルな表現のしかたをもっています。ひとつの面の美しさは、別の面の輝きを打ち消すことはなく、むしろ両者の広がりと光を強めます。ある面を輝かせるものは、ほかのすべての面を輝かせるのに役立ちます。


実践してください。あなたのものの感じ方の透明さを妨げる判断・批判という不純物をとりさりなさい。ハートを流れる愛を妨げる競争心、妬み、貪欲をとりさりなさい。恐怖心や、自分に不足があるという思い、あなたのした干渉、そしてあなたの悲しみを告白しなさい。秘め隠した考えや感情の闇に、意識の光をあててください。


修正できないような過ちはありえません。宥されないようなふるまいはありえません。これがわたしの教えです。


誰かに腹を立てたり、人生そのものに嫌気がさしたりしたとき、そう感じるのはかまいませんが、一見原因らしく見えるものは、じつは真の原因ではないのだ、ということを覚えていてください。怒ったり寂しかったり不安になったりしている本当の理由は、あなたが思っている理由とは別のものです。まったくちがいます。人生という物質界のなかで、望むものを手にできないのではないかという不安よりも、もっともっと深刻な不安、もっと強烈な怖れがそこにはあるのです。


人の持つ不安がどんなに強烈なものであったとしても、神からあまりにも遠くかけ離れてしまって、自分はもう神のところへ戻れないのではないか、という不安に比べると、そうした不安はものの数ではありません。自分は神のところに行けるほどの価値がないのではないか、という巨大な怖れを人は持っています。これは圧倒的な力を持った無意識の怖れであり、誰のなかにもあるものです。どうかそれに目を向けてください。


忘れないでほしいのは、怖れとともにその解決法も姿を現すということです。それらは表裏一体をなしています。自分のなかに魂のうずき──”大いなる故郷”へ帰りたい、心の平安を得たい、愛が欲しい、怖れをなくしたい──こうした気持ちがあることを認め、それを感じるようにしてください。それは魂の奥深くから送り出されてきた叫びです。


自分と自分以外のものをつねに分断するエゴの動きの枠外に出ると、魂の叫びや苦痛そのもののなかに、じつはすばらしい解決がひそんでいたことを発見します。それらはいっしょに現れます。不安を感じることを怖れないでください。あまりに長いあいだ思考の世界に生きてきたので、自分が生き生きとダイナミックに存在する神であるという体験をしていないのだ、ということに気づいてください。あなたは純粋な目覚めた意識なのです。



私はよく、「どうすればこの『止めた(stopped)』状態に留まることができますか?」と訊かれます。


でも「止める」というのはある状態を指しているのではありません。


沈黙(silence)、静寂(stillness)も然りです。


これは非常に重要な違いです。


あなたには頭の中を比較的落ち着いた状態にできますし、身体をリラックスした状態にすることもできます。


けれども私がここで言っている静寂とは、本質的に決して動かないものなのです。


それはいつでも「止まって」います。


すべての理性活動、行動は、この決して動かない静けさの中に現れ、存在し、そして再び消えていきます。


すべての状態には、始まりがあり、経過があり、そして終わりがあります。


それは、幸福だったり悲しかったり、非日常的だったり日常的だったり、高揚していたり沈滞していたりします。


けれども、状態とは無関係の存在、それがすなわちじっとして動かない静寂です。


意識とはすなわち静寂です(Awareness is stillness)。


そしてあなたはすでに、この静寂なのです。


あなたの理性は、理性の活動について、またはどうすれば活動を止められるかについて、忙しく考えているかもしれません。


でもそれはみな、どんな状態でもない存在、つまり静寂そのものの中で起きています。


決して変化しない静寂、それが、意識的に繰り返すことのできるものであるとか、あなたにうまくできなかったりするものであるとか、そういった考えをあなたの頭の中から追出すことができれば、静止したもの、存在そのものが、つまりあなた自身であるということがついにあなたにはわかるはずです。


静止「したい」という衝動は理性の活動から来るものであり、理性の活動は、静止の中で起きているのだということに気づいてください。


この静けさは、死んでいるのでも空っぽなのでもありません。


それは意識(consciousness)そのものであり、気づき(awareness)そのものなのです。


そしてあなたがそのawarenessです。


「静止しなくてはいけない、静止していよう、どうして自分は静止することができないのだろう?」という思考、それを観察し、経験しているのは、この静寂そのものです。



質問者 私は数カ月前にヨーロッパからやってきました。カルカッタ近郊に住む私のグルを、今まで定期的に訪ねていました。今回の訪問を終え、今帰途に着こうとするところです。友人に招かれ、あなたのもとにやってきたのです。お会いできて嬉しく思っています。


マハラジ あなたのグルから何を学び、どのような修練をしてきたのだろうか?


質問者 彼は崇敬すべき、齡八十近い老人です。彼の教えはヴェーダーンタ哲学に属し、マインドのなかの無意識のエネルギーを目覚めさせ、隠れた障害や妨害を意識のなかにもたらすことが、彼の指導する修練の主要な点です。
私の個人的なサーダナは、私の幼少期に固有の問題に関連しています。私の母親は子供の正常な成長にとってもっとも重要な、愛と安全に守られた存在の感覚を与えることができませんでした。不安と神経症に悩まされ、自分に自信がもてず、彼女にとって私は、彼女の能力を超えた重荷であり、責任であったのです。彼女はけっして私に生まれてきてほしいと思ってはいませんでした。私に成長しないでほしいと望み、生まれる以前、存在する以前の子宮のなかに戻ってほしかったのです。私の人生におけるどんな動きも、彼女は拒んできました。彼女の習慣的生活の狭い輪を私が超えようと試みるたびに、彼女は猛烈に抵抗してきました。私は、繊細で、愛情深い子供でした。子供に対する純粋で本能的な母親の愛を拒まれてきた私は、ほかの何よりも愛情を切望してきました。子供にとっての母親の愛を探求することは、私の人生における主要な動機となり、成長してそれから抜けだすことはけっしてありませんでした。幸福な子供、幸せな幼少時代は私にとって強迫観念となったのです。
妊娠、誕生、幼年期は私に熱烈な興味をもたらしました。私は著名な産科医となり、無痛分娩法の開発に貢献してきました。幸せな母親の幸せな子供──が私の全人生の理想なのです。しかし、私の母はいつもそこにいて、彼女自身が不幸なため、幸福な私を見ることができないでいるのです。それはとても奇妙な形で現れました。いつであれ私に元気がないとき、彼女はより良く感じ、私が元気だと、彼女自身も私をも呪って落胆するのです。あたかも、私が生まれてきたという罪をけっして許さず、生きていることへの罪悪感を私に抱かせるかのように。「あなたが生きているのは私を憎んでいるからでしょう。もし私を愛しているならば、死になさい」──これが沈黙を通しての彼女の絶え間ないメッセージだったのです。それゆえ私は、愛ではなく死を差しだされて生きてきたのです。
母親のなかで永久に幼児として監禁されたため、私は女性との意味深い関係を発展させることができませんでした。許すことも、許されることもない母親のイメージが間に立ちはだかるのです。私は仕事のなかに多くの慰めを見いだしてきましたが、幼児という深い穴から抜けだすことはできませんでした。最終的に、霊的探求に方向を変えてからすでに数年間、この路線を着実に進んでいます。しかしある意味では、それは相変わらず母親の愛情の探求なのです。それを神と呼ぼうと、アートマ(真我)、あるいは至高の実在と呼ぼうとも。基本的に、私は愛し、愛されたいのです。
不運にも、いわゆる宗教的な人びとは生に反対し、まったくマインドのいいなりです。生の要求と衝動に直面したとき、彼らは分類し、抽象化し、概念化します。そして分類を生自体よりも重要と見なすのです。彼らはひとつの概念に集中し、それを人格化するように求めます。愛による自発的な統合よりも、ひとつのマントラに、慎重に勤勉に集中することを勧めるのです。神、あるいは真我、私、あるいはアートマ、それが何であれ同じことです! 愛するための誰かではなく、考えるための何かなのです。私に必要なのは、理論やシステムではありません。同じように魅力的で、もっともらしいものは数多くあります。しかし、私に必要なのは、心からの感動、生命の再生であり、新たな考え方ではありません。新たな考え方というものはありません。しかし、感情はつねに新鮮であることができます。私が誰かを愛するとき、私は彼に自発的に、強烈な熱意と活気をともなって瞑想します。それは私のマインドでは制御できないものです。
言葉は感情を形づくるのに適しています。感情をともなわない言葉は冷たく、気の抜けた、身体の入っていない洋服のようなものです。私の母は、私の感情のすべてとその源を枯渇させてしまいました。ここで私は、子供としてたっぷりと必要だった豊富であり余るほどの感情を見いだすことができるでしょうか?


マハラジ あなたの子供時代は今どこにあるのだろうか? そしてあなたの未来とは何だろうか?


質問者 私は生まれました。私は成長してきました。そして私は死ぬでしょう。


マハラジ あなたは、もちろん身体のことを意味しているのだろう。そしてあなたのマインドを。私はあなたの生理学や心理学について話しているのではない。それらは自然の一部であり、自然の法則によって支配されているのだ。私はあなたの愛の探求について話しているのだ。それにははじまりがあっただろうか? それには終わりが来るのだろうか?


質問者 私には、とても言うことができません。それは私の人生の最初から最後の瞬間までそこにあるのです。この愛への切望は何と不変で、何と絶望的なのでしょうか!


マハラジ 愛の探求のなかで、あなたは正確には何を探しているのだろうか?


質問者 ただ、愛し、愛されることです。


マハラジ ある女性を意味しているのだろうか?


質問者 そうである必要はありません。その感覚が輝いて、明らかでありさえすれば、友達でも、師でも、導き手でもいいのです。もちろん、女性はお決まりの答えではあります。しかし、それだけである必要はありません。


マハラジ あなたは愛することと愛されることの二つのうち、どちらを取るだろうか?


質問者 むしろ、両方を取るでしょう! しかし、愛することの方がより偉大で、より高尚で、より深いことは私にも理解できます。愛されることが快いのは確かですが、それは人を成長させてはくれません。


マハラジ あなたは自らを愛することができるだろうか? あるいは、愛するようにさせられなければならないだろうか?


質問者 もちろん、愛するに足る人に出会わなければなりません。私の母は愛情がないばかりでなく、愛すべき人でもなかったのです。


マハラジ 何が人を愛すべき人にするのだろうか? それは愛されることではないだろうか? まず、あなたは愛し、それから理由を探すのだ。


質問者 その反対もありえます。あなたはあなたを幸せにするものを愛するのです。


マハラジ だが、何があなたを幸せにするのだろうか?


質問者 そこには何の規則もありません。その問題全体が非常に個人的な、予期できないものなのです。


マハラジ そのとおりだ。どのように表現しようとも、あなたが愛するまで幸せはありえないのだ。しかし、愛はつねにあなたを幸せにするだろうか? 愛が幸せと結びついているのは、むしろ初期の、幼稚な段階ではないだろうか? あなたの愛する人が苦しむとき、あなたも苦しむのではないだろうか? そして、あなたが愛するのをやめるのは、あなたも苦しむからではないだろうか? 愛と幸せはともに来て、ともに去っていくものだろうか? 愛とは単に快楽への期待なのだろうか?


質問者 もちろん、そうではありません。愛にたいへんな苦しみをともなうことはありえます。


マハラジ では、愛とは何だろうか? それはマインドの状態というより、むしろ存在の状態ではないだろうか? 愛するために、あなたが愛しているということを知らなければならないだろうか? あなたは母親を気づかぬうちに愛していたのではないだろうか? 彼女の愛と彼女を愛する機会を切望することは、愛の行動ではないだろうか? 愛とは存在の意識としてのあなたの一部分ではないだろうか? あなたが母親の愛を求めたのは、あなたが彼女を愛していたからだ。


質問者 しかし、彼女は私に愛することを許さなかったのですよ!


マハラジ 彼女にあなたを止めることはできなかった。


質問者 それでは、なぜ私の人生は不幸せなのでしょうか?


マハラジ なぜなら、あなたはあなたの存在の根底まで行きついていないからだ。あなた自身についての完全な無知が、愛と幸せを覆い隠し、あなたにけっして失わなかったものを探求するようにさせたのだ。愛とは意志だ。すべてとともにあなたの幸せを分かちあう意志なのだ。幸せで在ること、幸せになること──これが愛のリズムだ。


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Fiora & nobody