隠された神をどう扱ってきたかの一本の線(つづきその2)


人、という存在そのものが「岩戸隠れ」に近いのかもしれないと思います。太陽神が隠れた状態こそ「夜」や「闇」であり、そのなかでどう行動するかは本人(誕生してからの概念)が選択することのできる道になります。各々の意識レベルを選択するとは「隠れた中心である神とどういう距離をとったか? どういう関係を築いたか? 姿が見えないから軽視したのか?」これらの無意識の応え方によりなされています。特に誤解が大きいのは、「人生で遭遇したイベントの順番」です。これが「偶然」の人は「一人もいない」という事実です。全員、もともとから自己申告し、修正された計画書を持ち、この世に誕生してからの選択、行動によって学習進行状況が変化し、みえないサポーター陣の導きと本人の「聞く耳、聞く態度、直感、世界観の柔軟性」によって「帆を大きく広げた帆船」として進むかどうかを自分で選んでいます。n


丸くなるのは中心があるから(つづきその1)


中心がみつからなかった場合は、丸くなりません。それどころか、中心(それがなんなのかみつからなかった場合は未知の中心)を軽視、虐待したことにより、中心から回転する円周部までが破壊され、「穴」が開きます。穴はだんだん拡がっていき、不純物がいつでも侵入し、巣食えるようになります。中心というのは「すべてから等距離」ということです。すべての体験から等距離の未知なる中心を大切にしていないかぎり、人はその霊の本体の形状を保つことができないわけです。人と人が口論している現場を想像してみてください。その場が適切に収まるかどうかはそこに「中心」を焦点に据えている人がいるかどうかです。中心はAさんの意見でもBさんの意見でもありません。AさんとBさんの「涙から等距離」にあります。n


マハルシ 二元性と欲望の根本は外側へと向かう心です。


人は仕事を遂行する間、高次の力に自分自身を明け渡し、そのことを常に心に刻みこんで、けっして忘れてはなりません。そうするなら、いったいどうして得意になることができるでしょう? 彼は行為の結果に関心を持つべきでさえないのです。そうしたときにのみ、行為は非利己的となるのです。

(対話502)


質問者 どうすれば真我を達成できるのでしょうか?


マハルシ 真我は達成されるものではありません。なぜなら、あなたが真我だからです。


質問者 そうです。不変の自己と変化する自己が私の中に存在しているのです。そこには二人の自己があるということです。


マハルシ 変化するのは単なる想念にすぎません。すべての想念は「私」という想念が現れた後にのみ現れます。想念が誰にとって現れたのかを見いだしなさい。そうすればそれは超越され、そして静まるでしょう。すなわち、「私」という想念の源をたどることで、あなたは完全な「私─私」を実現するのです。「私」とは真我の名前なのです。


質問者 「私はブラフマンである」(アハン・ブラフマースミ)に瞑想すべきでしょうか?


マハルシ その確言は「私はブラフマンである」と考えるためのものではありません。アハム(「私」)は誰もが知っています。ブラフマンはアハムとしてすべての人の中に宿っています。「私」を見いだしなさい。「私」はすでにブラフマンなのです。そう考える必要などありません。ただ「私」を見いだしなさい。


質問者 鞘(コーシャ)を棄て去っていく方法が聖典に述べられているのではありませんか?


マハルシ 「私」という想念が現れた後、「私」と身体、感覚、心などとの偽りの自己同一化が起こります。「私」が誤ってそれらと結びついたため、真の「私」は見失われてしまったのです。汚れた「私」から純粋な「私」へと変容させるために、鞘を棄て去るということが聖典に述べられています。しかしそれは、正確には真我ではないものを棄て去ることではなく、真我を見いだすことにあるのです。
真我は無限の「私─私」です。その「私」は完全です。それは永遠なるもの、始まりも終わりもないものであり、もう一つの「私」は生まれ、そして死んでいく、はかない一時的なものです。変化する想念が誰にとって現れるのかを見いだしなさい。それらは「私」という想念が現れた後に現れることがわかるでしょう。その「私」という想念をとらえなさい。そうすれば、それは静まります。「私」という想念の源をたどりなさい。そうすれば、真我のみが残るのです。

(対話266)



私の見るかぎり、あなたの日常生活においては、自分の本当の姿を見つけるために、意識を内面に向けることよりも重要なことは何もありません。


マハルシ すべてのヴァーサナー(心の潜在的傾向)が根絶されないままに得られた体験は確固としたものではありません。ヴァーサナーを消滅させるためには努力をしなければなりません。
…すべてのヴァーサナーが根絶された後にのみ、知識は揺るぎないものとなるのです。

(対話172)


マハルシ 真我実現とは何でしょうか? 一方がもう一方を実現するというような二つの真我が存在するのでしょうか?

(対話175)


愛しい女性よ、あなたとイエシュアのただひとつの違いは、彼が人間の内にある「神の原理」を理解し、さらにその原理を完全に「生きた」ということだけである。


イエシュアはあらゆる者に、こう教えた。
「私がやったことは、誰にでもできる。『父』とあなたはひとつだからだ。あなたの王国はこの場所にあるわけではない。天の王国は、あなたの内面にあるのだ」と。


愛しい女性よ、あなたという美しい存在、あなたという神を愛するのだ。「父」はあなたの内面に宿っていること、そしてあなたは永遠に生きることを知りなさい。


質問者 どうすれば真我を達成できるのでしょうか?


マハルシ 真我は達成されるものではありません。なぜなら、あなたが真我だからです。


質問者 そうです。不変の自己と変化する自己が私の中に存在しているのです。そこには二人の自己があるということです。


学ぶことに対して、絶対に罪悪感を感じてはいけない。叡智に対して、絶対に罪悪感を感じてはいけない。それは「覚醒」と呼ばれている。これまで自分は自分がする必要があったことをしてきたのだ、ということを理解しなければならない。すべては必要だったのだ。そして、あなたはすべてにおいて正しい選択をしてきたのである。すべてにおいて、である。あなたは明日も生き、神によって祝福されたその次の日も生きていく。その次の日も、その次の日も、ずっと生き続けていくのだ。そのとき、この今日という日に知っていたよりも多くのことを自分は知っていることに気づくことだろう。だが、この今日という日は間違いではないのだ。それはあなたを永遠の中へと導いてくれるのである。


人生において失敗した、あるいは何か間違ったことをしてしまった、というふうにあなたが思っているとすれば、あなたは自分自身の内面と外面の偉大さ、そして人生全体の重要性に気づく能力を衰えさせていることになる。自分の過去のどの部分であろうと、それをなくしたいなどと絶対に思ってはならない。過去のどんな部分でもだ。なぜなら、あなたのすべての崇高な体験と卑しい体験から生まれた葛藤が、あなたの魂の中に偉大なる美しい叡智の真珠を生み出したからだ。それは、もう二度とそれらの夢を見る必要はないし、それらのゲームを創造したり、それらを体験したりする必要はないことを意味している。というのも、あなたはすでにそれらを体験し、それらがどんなふうに感じるかを知っており、自分の魂の中にそれらに関する記録、すなわち人生において何にも勝る本当の宝物である「フィーリング」と呼ばれるものを持っているからだ。


私がここにいるのは、愛についてのあなたの理解を超えるほど、あなたが愛されているということを伝えるためだ。というのも、あなたはこれまで、自分自身を理解しようと奮闘しているひとりの神として以外、見られたことがないからだ。そして、自分のすべての生におけるあらゆる体験から、あなたは知識と叡智を獲得してきた。あなたはそれらを世界に与えてきた。広がりつつある生の美徳をさらに豊かなものにしてきたのである。


あなたのこれまでの人生は、あなたの内に宿る炎が生み出したすばらしい壮観だった。それは、敬意を払うべきもの、聖なるもの、神なるものとして再評価されるべきである。なぜなら、あなたが何をしようと、あなたはつねに神であるからだ。どのような仮面を身につけようと、あなたは神なのだ。どのような人間関係を体験していようと、あなたはそれでも神なのである。


あなたはこの人生の冒険に値する。あらゆる冒険に値する。そして、それよりも遥かにすばらしいことは、これから先あなたを待っている輝かしい冒険にも値するということである。だが、これまで自分がしてきたすべてのことは、単に自分自身である神についての理解を得るためだったということに気づくまでは、あなたはけっして「私は在る」という状態になることはないし、永遠への扉を通過することもない。あなた自身である神とは、人生という舞台でのあなたのあらゆる体験がもたらした美徳を通して、今ここで実演されているものである。


自分の背中にのしかかる重荷を抱えている者は、もしそうすることが自分を幸せにするのであれば、そうしなさい。だが、もしそれらから学ぶべきものをすべて学び、いいかげんうんざりしているのなら、そんなものは捨ててしまいなさい。どうやって? それらを愛し、抱き容れ、自分の存在の中にそれらがあることを許すことによってである。ひとたびあなたがそうしてしまえば、それらがふたたびあなたを押さえつけることはなくなる。そしてそのあとは、生きることのすばらしさを透明な視界を通して見ることができ、愛を価値判断なしに感じることができ、存在することの喜びが、無限の「知っている状態」の力となることができるのである。


自分の人生を抱き容れなさい。自分が神聖なる存在であることを知り、これまで自分がしてきたことすべてがあったからこそ、自分の存在の強さがあるのだということを知りなさい。罪悪感を持つのをやめなさい。悲しみにひたるなどという、馬鹿げた演技はやめなさい。自分に重荷を背負わせるのをやめるのだ。自分以外の誰かを責めるのをやめなさい。自分自身でその責任を負うのだ。それはあなたの責任なのである。



質問者 私は、あなたが自分自身に関して「私は永遠で、属性を超えた不変なるものだ」と言われるのを聞きました。いったいどのようにしてそれを知るのでしょうか? 何があなたにそう言わせるのでしょうか?


マハラジ 私はただ「私は在る」が現れる前の状態を描写しようと試みているだけだ。だが、マインドとその言語を超えたその状態自体は描写不可能なものだ。


質問者 「私は在る」はすべての体験の根底です。あなたが描写しようと試みていることも、限定された一時的なひとつの体験に違いありません。あなたはあなた自身が不変なるものだと話しています。私はその言葉の音を聞き、辞書の意味を思い起こしますが、不変の存在を体験したことはないのです。どうすれば私は障壁を打ち破り、不変として在ることの意味を個人的に、親密に知ることができるのでしょうか?


マハラジ 言葉そのものが橋なのだ。それを覚えておきなさい。それについて考えなさい。それを探索しなさい。それとともに在りなさい。それをあらゆる方向から見てみなさい。誠実な忍耐とともにそのなかに飛びこみなさい。すべての遅れや失望に耐えなさい。突然、マインドが言葉から離れ、言葉を超えた実在に向かって振り返るまで。それは名前だけ知っている人を探しだすようなものだ。あなたの探求が、あなたに彼との出会いをもたらす日がやってくる。そして名前は実在のものとなるのだ。言葉には価値がある。なぜなら言葉とその意味との間にはきずながあり、もしたゆみなく調べれば、人は概念を超え、その根本にある体験のなかへと入っていくからだ。実際には、そのように言葉を超えていこうと繰り返し試みることが、瞑想と呼ばれるものなのだ。サーダナ(修練)とは言語から非言語へと超えていく執拗な試みにほかならない。その仕事は絶望的に見える。突然、すべてが明らかで、シンプルで、素晴らしく、たやすいものとなるときまで。だが、現在の生き方に関心があるかぎり、あなたは未知へと飛びこむ最後の機会を前にしておじけづいてしまうだろう。


質問者 なぜ未知なるものが私に興味を起こさせるというのでしょうか? 未知が何の役に立つというのでしょうか?


マハラジ まったく何の役にも立ちはしない。だが、何があなたを既知の狭い領域のなかに閉じこめているのかを知ることは価値あることだ。あなたを未知へと連れだすのは、完全で正確な既知の知識なのだ。それを有用や有益といった条件で考えることはできない。静かで冷静に在り、すべての利己的な領域を超え、すべての自己中心的な考えを超えることは、解放のための避けることのできない条件だ。あなたはそれを死と呼ぶかもしれない。私にとって、それはもっとも意味深く、強烈な生き方だ。なぜなら、私はその完全性と全体性において生命とひとつだからだ。強烈さ、意味深さ、そして調和。これ以上何を求めるというのだろうか?


質問者 もちろん、それ以上何ひとつ必要ありません。しかし、あなたは可知なるものについて語っています。


マハラジ 不可知なるものについて語ることができるのは、沈黙だけだ。マインドは知っていることについてしか語れないのだ。もしあなたがたゆまず可知なるものを調べるなら、それは消え去り、不可知なるもののみが残る。だが、想像と興味のかすかなゆらめきが不可知なるものを隠してしまう。そして既知なるものが前面に現れるのだ。既知なるもの、変化するものは、あなたがともに生きているものだ。不変なるものは、あなたにとって何の役にも立ちはしない。あなたが変化するものに飽き果てて、不変なるものを熱望するときだけ、マインドのレベルから見たとき空や暗闇として描写できるものへと方向転換し、踏みこむ用意ができたのだ。なぜならマインドは内容と多様性を求めるからだ。一方、実在とはマインドにとって内容物のない不変なるものなのだ。


質問者 私にとってそれは死のように見えます。


マハラジ そうだ。それはまたすべてに浸透し、すべてを征服した、言葉を超える強烈なものだ。普通の脳では、粉砕されずにそれに耐えることはできない。それゆえ、サーダナが絶対的に必要なのだ。身体の純粋さ、マインドの明晰性、非暴力、そして非利己的な人生は、知的、霊的な存在としての存続に欠かせないのだ。


質問者 実在のなかに存在はあるのでしょうか?


マハラジ アイデンティティは実在だ。実在がアイデンティティなのだ。実在とは無形の集合や無言の混沌ではない。それは強力で、気づいていて、至福に満ちている。それと比べれば、あなたの人生など太陽に対するロウソクのようなものだ。


質問者 神と師の恩寵によって、あなたはすべての欲望と恐れを失い、不動の状態に到達しました。私の質問は単純です。どうやってあなたの状態が不動のものだと知るのでしょうか?


マハラジ ただ変化するものについてだけが考えられ、語ることができるのだ。不変なるものは、沈黙のなかでだけ認識されることができる。ひとたび真我が実現されたなら、それは変化するものに深く影響を与え、しかもそれ自体は変化しないまま残るのだ。


質問者 あなたが観照者だということをどうやって知るのでしょうか?


マハラジ 私は知らない、私は在るのだ。私は在る、なぜなら在るためにはすべてが観照されなければならないからだ。


質問者 聞き伝えによっても、存在は受け入れられます。


マハラジ ついにあなたは直接、観照者が必要とされる地点に来たのだ。観照は、もし個人的で実際的でないなら、少なくとも可能であり実行できるものでなければならない。直接体験が最終的な証明だ。


質問者 体験は不完全であり、誤りに導きます。


マハラジ そのとおりだ。だが、体験の事実がではない。体験が何であれ、真実であろうと偽りであろうと、体験が起こったという事実は否定できない。それはそれ自体の証明なのだ。あなた自身を念入りに見てみなさい。そうすれば意識の内容が何であれ、観照することはその内容物に依存しないことがわかるだろう。気づきはそれ自体で在り、出来事とともに変化することはない。出来事は快いもの、あるいは不快なものかもしれない。重要なもの、あるいは重要でないものかもしれないが、気づきは同じままだ。純粋な気づきの固有の本質である、自己意識の痕跡のまったくない自然な自己のアイデンティティに気づきなさい。そしてその核心まで行くがいい。するとあなたはすぐに気づきがあなたの真の本性だと自覚することだろう。あなたが気づくことは、何ひとつあなたのものと呼ぶことはできないのだ。


質問者 意識とその内容物はひとつであり、同じものではないでしょうか?


マハラジ 意識は空に浮かぶ雲のようなものだ。そして雨の水滴がその内容物なのだ。雲が見えるためには、太陽が必要だ。そして意識は気づきのなかで焦点を合わせられる必要があるのだ。


質問者 気づきは意識の一形態ではないのでしょうか?


マハラジ 意識の内容が好き嫌いなしに見られたとき、その意識が気づきなのだ。だが、意識のなかに反映された気づきと、意識を超えた純粋な気づきとには違いがある。反映された気づき、「私は気づいている」という感覚は観照者だ。一方、純粋な気づきは実在の本質なのだ。水滴のなかの太陽の反映は、確かに太陽の反映だ。だが、太陽そのものではない。観照者として意識のなかに反映された気づきと、純粋な気づきとの間にはギャップがある。マインドはそれを超えることができないのだ。


質問者 それはあなたの見方によるのではないでしょうか? マインドは違いがあると言い、ハートはないと言うのです。


マハラジ もちろん、そこに違いはない。実在は非実在のなかに実在を見るのだ。非実在をつくり出すのはマインドであり、偽りを偽りとして見るのもマインドなのだ。


質問者 偽りを偽りとして見た後に、実在の体験が続くことは理解しています。


マハラジ 実在の体験というようなものはない。実在は体験を超えているのだ。すべての体験はマインドのなかにある。実在として在ることで、あなたは実在を知るのだ。


質問者 もし実在がマインドも言葉も超えているのなら、なぜそれほどそれについて語るのでしょうか?


マハラジ もちろん、その喜びのためだ。実在とは至高の至福だ。それについて語ることさえ幸福なのだ。


質問者 あなたは揺らぐことのない至福について語っていますが、それについて語るとき、何をあなたは想っているのでしょうか?


マハラジ 私のマインドのなかには何もない。あなたが言葉を聞くように、私もそれらを聞くのだ。すべてを起こらせる力が、それをも起こらせるのだ。


質問者 しかし、話しているのは、私ではなくあなたです。


マハラジ それはあなたにとってそう見えるのだ。私が見るには、二つの「身体─精神」が象徴的な雑音を交換しているだけだ。実際には、何も起こってはいない。


質問者 どうか聞いてください。私はあなたのもとへ来たのです。なぜなら、私は困っているからです。私は理解することのできない世界のなかの迷える魂なのです。私は、成長し、子供をつくり、そして死ぬように私に求める母なる自然を恐れています。私がこれらすべての意味や目的について尋ねても、彼女は答えないのです。私はあなたのもとに来ました。なぜなら、あなたは親切で賢明だと聞いてきたからです。あなたは変化するものは偽りで一時的なものだと言い、それは私にも理解できます。しかし、あなたが不変なるものについて語ると、迷ってしまうのです。「これではない、あれでもない。知識を超えた無益なもの」──では、いったいなぜそれについて話すのでしょう? それは存在するのでしょうか、それともただの概念なのでしょうか、変化するものに対する、ただの反対の言葉なのでしょうか?


マハラジ それは在る。それのみが在るのだ。だが、砂漠のなかで喉の渇きで死にそうな夢を見ているあなたにとって、ベッド脇の水が何の役にも立たないように、現在のあなたの状態では、それが役に立つことはないだろう。夢が何であれ、私はあなたを夢から覚まそうとしているのだ。


質問者 どうか私が夢を見ていて、すぐにも目覚めるなどと言わないでください。もしそうであるなら、そうあってほしいところです。しかし、私は目覚めていて、苦痛のなかにいるのです。あなたは苦痛のない状態について話します。しかし、現在の私の状態ではそれを得ることはできないとあなたは付け加えるのです。これでは当惑するばかりです。


マハラジ とまどってはいけない。私はただ、不変なるものと至福に満ちたものを見いだすには、変化するものと苦痛に満ちたものへのあなたの執着を放棄しなければならないと言っているだけだ。あなたは、あなた自身の幸福に関心がある。そして私は、そんなものはないと言っているのだ。幸福はけっしてあなた自身のものではない。それは「私」がないときにあるのだ。私はそれがあなたの手に届かないところにあると言っているのではない。あなたはただ、あなた自身の彼方に手を差しださなければならないのだ。そうすればそれを見いだすだろう。


質問者 もし私が私自身を超えていかなければならないなら、なぜはじめから「私は在る」という観念を得たのでしょうか?


マハラジ マインドは円を描くために、中心を必要とする。円は大きく成長していくだろう。そして大きくなるたびに「私は在る」には変化があるだろう。自分自身を制御するヨーギは螺旋を描いていく。しかもいかに螺旋が広大でも中心は動かない。この企て全体が偽りとして見られ、放棄される日がやがてやってくる。中心点は消え、宇宙が中心となるのだ。


質問者 そうなのかもしれません。しかし、私は今、どうすればいいのでしょうか?


マハラジ たゆみなくあなたの変化しつづける人生を見守りなさい。あなたの行為を超えた動機のなかを、深く綿密に探っていきなさい。そうすればあなたは、じきにあなたを閉じこめていた泡を突き刺すことだろう。ヒヨコは成長のために殻を必要とする。だが、殻が破られなければならない日が来る。もしそうでなければ苦しみと死がやってくるだろう。


質問者 つまり、もしヨーガに没頭をしなければ、私は消滅するように運命づけられているということでしょうか?


マハラジ あなたを救いにグルが現れるだろう。それまでは、あなたの人生の流れを見守ることで満足しなさい。もしあなたの注意深さが深く、揺るぎなく、つねに源に向いているなら、それは徐々に上昇し、突然それが源となるのだ。マインドではなく、気づきに仕事をまかせなさい。マインドはこの仕事に適した道具ではないのだ。永遠は永遠によってのみ到達できる。あなたの身体とマインドはともに時間に支配されている。ただ気づきだけが時間を超えている。それは今でさえ超えているのだ。気づきのなかで、あなたは事実に直面する。実在は事実を好むのだ。


質問者 あなたはグルや神ではなく、完全に私の気づきが仕事を引き受けると期待しているのですか?


マハラジ 神はあなたに身体とマインドを与え、それらの使い道を示したのだ。だが、源へと帰り着くのはあなたの仕事だ。


質問者 神が私を創造したのです。彼が私の面倒を見てくれるでしょう。


マハラジ そこには無数の神々が、それぞれ彼らの宇宙のなかにいる。彼らは永遠に創造し、再創造している。あなたは彼らが救いの手を差しのべるのを待っているのかね? 解放に必要なことは、すでにあなたの手の届くところにあるのだ。それを使いなさい。あなたの知っていることを、その果てまで調べるがいい。そうすれば、あなたは存在の未知の層に達するだろう。さらに進んでいきなさい。すると、あなたのなかで予期せぬ爆発が起こる。そしてすべてを粉砕し尽くすだろう。


質問者 それは死を意味するのでしょうか?


マハラジ それは、ついに生を意味するのだ。


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