砂上の足跡


ある夜、私は夢を見た。
夢の中で、私は神とともに浜辺を歩いていた。
空には、私の人生のさまざまな場面がフラッシュのように映し出される。
そのそれぞれの場面で、私はふたり分の足跡が浜辺についているのを見た。
ひとつは私のもの、そしてもうひとつは神のものだった。
私の人生の最後の場面が映し出されたとき、 私はそれまでの人生の足跡を振り返ってみた。
驚いたことに、何度も私の人生の中で足跡が一人分しかないときがあることに気がついた。
そして、それは人生でもっとも暗く悲しい時期ばかりだったのだ。
私は神様にたずねた。


神様、あなたはおっしゃいました。
一度あなたについていくと決めたなら、
あなたはずっと一緒に歩いてくださると。
しかし、私がもっともつらい時期に、
浜辺には一人分の足跡しかありませんでした。
なぜ私がもっともあなたを必要としているときに、
私からお離れになっていたのか理解できないのです。


神は答えた。


愛しい我が子よ。
私はお前がもっとも苦しい試練の最中にいるときにも、決してそばを離れることはなかったのだよ。
一人分の足跡しかなかった時期には、


私はお前を抱き上げて歩いていたのだ。

メアリー・スティーブンソン


砂上の足跡の問題点


上の詩「砂上の足跡」が大体事実だと仮定し、抱き上げているより背負っているとするなら、問題なのはなぜ「神の背中のぬくもり」を感じていないのかということです。逆に言えば人間は、ただそれだけを求めているとも言えます。条件ではなく、ただ「神の背中のぬくもり」を感じていたいのです。そしてそれを感じられない唯一の理由は「それに焦点が合ってない」からであり、焦点が合わない理由が、「粗雑なマインドによって、何か、誰か、マインドが認識できるような対象を想定、仮定して探してしまっているから」です。マインドはそれしかできないので、マインドのせいではありません。マインドを「(観察対象ではなく)手段にして」しまう時点で誤りなのです。マインドより精緻、細かい道具をマインドは知りません。そして、それは道具ですらありません。わたし、あなたの「存在」そのものなのです。マインドによって「対象か条件をつねに探している」わたしたちは、「神の背中のぬくもり」だけを求めている本音が自覚できないでいます。大先輩はこうおっしゃってました。「体験の中に含まれているものに気づいてほしいのです」何者かであろうとせず、ただここにある体験の中に、すべてを味わう覚悟の下に、大いなる一(いつ)である「I AM THAT I AM.」に、その光に気づいてほしい。わたしたちは仕事中、つねに、毎日、毎時、毎分、あれを求めているのです。「神の背中のぬくもり」、それは「存在」を求めているということです。決して指向性のある条件ではない、ただいまここにある、それそのままの「存在」を求めているのです。その中に含まれているほんとうの光に、透明な光に、帰還したいと願っています。一周回る、人生はトリックです。「ゴールを探しているはずの私」が「ゴールの中にいた」なんて。n


実はすべてが引き算


意識は舞台そのものであり、もし思考に何役かを配置させてしまうとその分舞台そのものの発光が消費されるのかもしれないと思うのです。ですから「そもそも引き算をはじめようとしない、引こうとしない」という態度の価値は再考されるべきではないでしょうか。香川さんがおっしゃっていた「一番演技をしているであろうカメラ前の役者が、実は演技をまったくしてないという最強の状態」はそういうことだと思うんです。目的(役を演じるとかいう)、結果(視聴者に評価されるとかいう)、そんなものを持ってないんですね。きっとこの役者は「瞬間にいる」んです。意図せず、何者であろうともせず、神の光が発露しているんです。n


「もっとやるんだ」、「もっとうまくやれ」、「もっと速くやれ」とマントラは言いますが、そんなに急いでどこに行くというのでしょうか。こうした言葉にせき立てられても、それでもっと速く<神を見つける>ことができるわけではありません。それより役に立つのは、すわって心を静め、リラックスすることです。あれもこれもしなければと思うのをやめて、ただ在ることです。今の自分ではいけないと語りかけてくる内なる声が何なのかを見きわめることです。あなた方の住んでいる世界は、多くの条件づけがなされている世界で、喜びや感動する心、ただ元気でいる幸せなどは、どうもそれだけでは十分でないと教えます。


マハルシ 想念とは無数の過去世において蓄積されたヴァーサナー(心の潜在的傾向、性癖)でしかありません。それを絶滅させることが目標です。ヴァーサナーから自由になった状態が原初の状態、純粋で永遠なる状態なのです。

(対話80)


もっとも深い意味では、意識のもつ潜在的創造性がグリッドを決めます。または、別の言い方をすると、すべて神から生まれます。けれどもこの創造力の中にはあなた自身の<個人的な>グリッドも含まれています。あなたのグリッドはあなた自身の可能性や必要性にしたがって創られ、非個人的な神の性質と個人的なあなたの過去やカルマや欲望の両方をあわせもっています。あなたは、いま自分だと思っている人間として姿を現している目覚めた意識です。<あなた>は、完全に目覚めた人間とはどういうものかという可能性のすべてを体験するために肉体をまといます。そこで、まだ体験していないことで体験する必要のあることをグリッドに設定します。自分がすでに体験して理解したことはグリッドに入れません。
たとえば過去生で僧侶だった人がいて、僧侶としての人生が不完全だったとします。僧侶であることを完全に理解する必要があるので、この理解されていない部分が別の人生に戻ってくるわけです。


自分が嫌っている相手や感情を本当に知ると、嫌悪感はなくなります。自分を怖がらせるものや自分にはとても対処できないと思う状況に人は嫌悪感を抱くのです。恐怖を感じる状況をみずから体験しないですむためには、その状況にまつわる心理を感じ取り、理解しようとする意志をもてばいいのです。また、自分とその状況とは何の関係もないのだ、そうした嫌悪したくなる状況を現在演じている人間と自分とのあいだにははっきりとした区別があるのだ、という非現実的な思いこみをなくせばいいのです。その人たちが演じてくれていることに感謝しましょう。おかげで、あなたは彼らという鏡の中に自分自身を見る機会をあたえられ、みずからそれを直接体験せずにすんでいるわけです。
どういう形であれ、あなたがほかの人に同情したり、共感したりするとき、あなたはもはやその相手から分離されてはいません。


前にも言いましたが、自分が嫌だと思うものが人であれ、状況であれ、何であれ、あなたがそれを見たり考えたり想像したりできるということは、それがあなたの中にもあるということです。あなたの中になければ、あなたはそれを見たり、それについて考えたり想像したりできないからです。何かに嫌悪感を感じたら、それが自分のグリッドの中にあって、自分はそれから逃げ出さないで体験する必要があるのだと気づくと、嫌悪感は自然になくなります。


至上者(かみ)に知性が帰入せぬ者は
心も統御されず 知性も安定せず
平安の境地は望むべくもない


質問者 どうすれば眠りを打ち破ることができるでしょうか?


マハルシ その活動や結果を意識せずにいなさい。

(対話356)


「どうかアハム・スプラナ(「私─私」の光)についてご説明ください」


マハルシ 眠りの中では「私」は知られていません。目覚めるとともに、「私」は身体、世界、非真我と結びついた形で知覚されます。そのような結びつきを持った「私」がアハム・ヴリッティ(「私」という想念)と呼ばれ、そのアハムが真我だけを表すとき、アハム・スプラナと呼ばれるのです。これはジニャーニ(真我を実現した人)にとって自然なものです。ジニャーニはそれをジニャーナと呼び、バクタはバクティと呼びます。アハム・スプラナは(眠りの状態も含めて)常に存在しているにもかかわらず、知覚されずにいます。それを眠りの中で知ることはできません。それはまず目覚めの状態において認識されなければならないのです。なぜなら、それは三つの状態すべての根底にある自己の本性だからです。
努力は目覚めの状態でのみ為されるべきものです。努力することで、真我は今ここで実現されるのです。実現された後には、真我が目覚め(ジャーグラト)、夢見(スワプナ)、眠り(スシュプティ)に妨げられることなく、常に、絶えず存在していることがわかるでしょう。それゆえ、真我はアカンダーカーラ・ヴリッティ(途切れることのない体験)なのです。
本来のヴリッティは(眠りでは不在なため)短期間のものです。それは(目覚めと夢見のときだけに)限定され、ある方向に向けられた意識なのです。あるいは、それは想念や感覚などを認識することによって分割された絶対意識とも言えるでしょう。
ヴリッティは心の働きですが、途切れることのない意識は心を超越しています。これが解脱した人(ジニャーニ)の自然な、原初の状態です。それは途切れることのない体験です。相対的意識が静まったとき、それはそれ自体を顕わにします。アハム・ヴリッティ(「私」という想念)は途切れるものですが、アハム・スプラナ(「私─私」の光)は途切れることなく永続的なものです。その光は思考が静まったときに輝き出すのです。

(対話307)



なにひとつ隠すものがない場合には、あなたの意識の光は、もはや恥ずかしい秘密の罪の意識にくもらされることはありません。もう、うそでとりつくろう必要はありません。あなたの人間関係は、あれこれの思惑や下心に妨げられません。シンプルさと明晰さが人生を支配します。もう欺瞞はないからです。


だれでもたったいま、この明晰さに到達することができます。自分の考えや感じ方のすべてを、ためらいなく打ち明けて話す勇気さえもてればです。それは兄弟姉妹への信頼の行為にもなります。それはまた、進んで自分をさらけだし、弱さを見せるという意志でもあります。


あなたに恐怖心があっても、それを人に話せば、その恐怖心とその下にある罪悪感は隠れていられなくなります。だれかを批判する考えが浮かんだとき、それを否定したり、そんなことはないとごまかしたり、あいつこそが悪いのだと投影したりすることもできます。しかし、それに気づいて、その考えに癒しをもたらすこともできます。人を攻撃する考えを隠すこともできますし、告白することもできます。


教会での告解(こっかい)の儀式は、儀式というもののつねとして、その本来の目的を果たさなくなっています。本来の目的とは、他人から赦免を受けとるということではないのです。欺瞞の暗闇を投げ捨て、恐怖心と罪悪感に意識の光をあてることなのです。告解を聞く人は、裁判官ではなく、証人なのです。その人はローブを着ている必要もありませんし、なにか権威ある立場にいなければならないこともありません。どんな人が証人でもいいのです。自分の役割は批判や告発ではなく、共感をもって耳を傾けることだと理解している人であるならば。


過ちをおかさない人はいません。わざとであろうと、そうでなかろうと、たがいに衝突することはよくあることです。あらゆる衝突が止められると考えるのは、おろかしいことです。人間としての自分の弱さをよく知らない人だけが、そのような地に足のつかない高邁な理想を追い求めるのです。そして、自分の人間らしさを受けいれられない人が、どうして自分の聖性を受けいれられるでしょうか。


過ちはこれからもあるでしょうから、過ちをおかすたびに、ありがたく思うようにしてください。過ちは、修正をもたらしてくれる贈り物です。あらゆる小賢しいはからいや欺瞞を表面に浮上させてくれる、その機会を祝福してください。心(マインド)の暗い場所をのぞきこむ機会に感謝し、その中身を意識的検証の光の中に持ちこんでください。


あなたが過ちをむりに正当化すると、それにしがみつき、何度も自己弁護をくりかえすことになります。莫大な時間とエネルギーのむだです。もしあなたがそれをしていることに気づかなければ、一生それをやりつづけ、それが人生の目的になってしまいます。


むしろ過ちを告白すれば、すべての時間を言い訳にあてる必要がなくなります。自分のごまかしを認めれば、過去という限界に縛りつけられることもなくなります。あらゆる衝突をオープンに認めてください。兄弟のことをよく思えないのであれば、彼にそう言って、宥しを求めます。それは相手を台座にのせてまつりあげるということではなく、自分が自己嫌悪と絶望の底なしの穴に落ちこまないための方策なのです。それはあなたが恐怖心や不正直さ、罪悪感をもたずに生きるための薬なのです。この薬を飲んでください、友よ。前にもわたしはこの薬をさしだしましたが、もう一度、さしだします。


この世界がくもって見通しが悪いのは、あなたが過ちを認める勇気を欠いているからです。あなたが兄弟とともに演じている、見せかけ、ふりのゲームのせいです。兄弟よりも自分のほうが倫理的で正しい、ということがありえると、あなたは本気で信じていますか。


あなたにできることは、せいぜい、自分の過ちを隠す能力を磨くということくらいでしょう。それは悲しいことですし、自己欺瞞のゲームです。それをやめてください。


兄弟を信頼してください。あなたよりも上にいるのだと判断するのではなく、隣にならんでいる対等な相手なのだと認めてください。兄弟があなたを非難するとき、彼は自分自身をも非難しているのです。


自分自身に対し、告白します。また伴侶や、上司、路上の見知らぬ人に対しても、告白してください。人にどう思われてもいいではありませんか。あなたは革命的な教えを伝えているのです。あなたの告白によって、ほかの人も自分自身の過ちを、あわれみをもって見てよいのだとわかるのですから。


自分の過ちを認める人は、人々への燈台のようなものです。その人は、自分の闇のマントを脱ぎ捨てたのです。そのひとを通じて光が輝きます。その心が、透明で、真実が楽々と流れでるすきとおった通路になっているからです。


兄弟はすぐに、この人は信頼できるとわかり、その手をとろうとします。このような人は真の司祭です。自分自身の罪を宥したので、それを他人の罪にも及ぼすことができます。この人の権威は外部からではなく、内部から来ます。宗教的な権威者と世間で認定されているわけではありません。でもそのもとへ来る人はすべて、この人こそ力のある人だと知り、信頼し、自分を打ち明けます。


これが告解ということの真実です。どんな男でも女でも聴聞司祭になりえます。わたしの名前をかたってあなたがたに伝えられている、いかなるうそをも信じないでください。常識を働かせてください。


もしあなたが、うそを許容できなくて宗教に背を向けてしまったのだとしたら、それを恥じることはありません。ごまかしを教え、自分だけを権威者とし、罪悪感を植えつけるような教会に対しては、わたしも背を向けるでしょう。


そうした偽りの教えを拒否するのは、正しいことです。しかし、聖職者の衣をまとった世俗的な偽善者への怒りがあるからといって、わたしと直接に交流することをやめないでほしいのです。他人に教えられたことすべてを忘れ、自分のハートの中にいまある真実だけに思いをめぐらせてみてください。そのハートの中で、あなたとわたしは出会います。わたしの教えや生涯をあざけるような見かけだおしの建物の中ではなく。


友よ、真実を思いめぐらしてください。わたしや兄弟から、なにか苦しみから抜け出す秘訣のようなものを聞き出すことはできません。苦しみを終わらせるには、あなたの人生のあらゆるごまかしを終わらせなければなりません。それは自分自身に対して、わたしに対して、兄弟に対して、真実を語ることによってのみ達成されます。


それによって失うものは、この世のくもりと混乱だけではありませんか。秘密を秘密にしておいて、迷路の中にとどまりますか。それともそれを告白し、暗く曲がりくねった小径(こみち)から抜け出しますか。選ぶのはあなたです。


でも、自分をごまかさないでください。隠蔽や闇の中には救済はありません。救済は、真実の光の中にいる人だれにでも与えられます。その光の中には、恥や罪といった影は残っていることはできません。


勇気をもって過ちを認めれば、それらの過ちを宥し、自分自身を、悩み、苦労、欺瞞から解き放つことができます。兄弟にむかって打ち明けなさい。そうすればいつか、彼もまたあなたを信じて打ち明けるでしょう。真実を否定したり、それを聞かなかったふりをするのはやめてください。わたしはここで、あなたがたに理解できるようなシンプルな言葉で真理を語ったではありませんか。このさきはあなたしだいです。真理は人生で実践されないかぎり、十全に受けいれられたとは言えません。


あなたがたひとりひとりは、神の愛と恵みという宝石の多くの面のひとつなのです。それぞれが、それぞれの神性のシンプルな表現のしかたをもっています。ひとつの面の美しさは、別の面の輝きを打ち消すことはなく、むしろ両者の広がりと光を強めます。


ある面を輝かせるものは、ほかのすべての面を輝かせるのに役立ちます。わたしの中にある光は、あなたの中にもあります。わたしがあなたがたにまさって、神に愛されているわけではありません。兄弟姉妹よ、このことは自分のハートの中でおのずとわかってくるでしょう。どれほど外から教えられたり説かれたりしても、それを信じることはできません。


だからこそ、実践してくださいと、わたしは言います。あなたのものの感じ方の透明さを妨げる判断・批判という不純物をとりさりなさい。ハートを流れる愛を妨げる競争心、妬み、貪欲をとりさりなさい。恐怖心や、自分に不足があるという思い、あなたのした干渉、そしてあなたの悲しみを告白しなさい。秘め隠した考えや感情の闇に、意識の光をあててください。


修正できないような過ちはありえません。宥されないようなふるまいはありえません。これがわたしの教えです。あなたがたは、わたしの言葉だけを通して理解するのではありません。教えたことすべてを、わたしは自分の生涯で示しました。ですから友よ、あなたも同じようにしてください。



質問者 普通の人が死ぬとき、彼には何が起こるのでしょうか?


マハラジ 彼が信じるところにしたがって、それは起こる。死以前の生が単なる想像にすぎなかったように、死後もまたそうなのだ。夢は続いていく。


質問者 では、ジニャーニ(賢者)においてはどうなのでしょうか?


マハラジ ジニャーニは死なない。なぜなら、彼はけっして生まれてこなかったからだ。


質問者 他者にとっては、彼はそのように見えません。


マハラジ しかし、彼自身にとってではない。彼自身のなかでは、物理的にも精神的にも自由なのだ。


質問者 それでも、あなたは死んだ人の状態を知っているはずです。少なくとも、あなた自身の過去生から。


マハラジ 私のグルに出会うまでは、私は非常に多くのことを知っていた。今、私は何ひとつ知らない。なぜなら、すべての知識は夢のなかだけにあり、根拠の確かなものではないからだ。私は自己を知っている。そして、私のなかには死も生もなく、ただ純粋な存在──これでもあれでもなく、ただ在ることだけがある。しかし、マインドが貯蔵庫から記憶を引き出し、想像しはじめると、それは空間を対象物で、時間を出来事で埋めつくしてしまう。現在の誕生さえ知らない私が、どうして過去生を知っているというのだろう? それ自身が動きのなかにあるマインドは、すべてを動いていると見てしまう。そうして時間をつくり出しておいてから、過去や未来について心配するのだ。全宇宙は意識(マハー・タットヴァ)の揺りかごに揺られている。それは完全な秩序と調和のあるところに立ち現れる。すべての波が海のなかにあるように、すべての物質的、精神的なものは気づきのなかにあるのだ。それゆえ、気づき自体が重要なのであって、その内容ではない。あなた自身の気づきをより深め、広めていきなさい。そうすれば、すべての祝福はあふれ出すだろう。あなたは何も求めなくてもいいのだ。すべてはあなたのもとに、自然に努力することなくやってくるだろう。五つの感覚と四つのマインドの機能である記憶、思考、理解、自我。五大元素である地、水、火、空、エーテル。創造の二つの相である物質と魂──すべては気づきのなかに包括されているのだ。


質問者 しかし、それでもあなたは以前に生きていたことを信じているに違いありません。


マハラジ 聖典はそう述べている。しかし、私はそのことについて何も知らない。私は私が在ることを知っている。私がこのように現れたことや、現れるだろうことは私の体験のなかにはない。私が覚えていないというのではないのだ。事実、覚えておくことなど何もない。転生とは自己の生まれ変わりを意味する。そのようなものはないのだ。「私」と呼ばれるひと塊の記憶と期待が、それ自体を永遠に存在すると想像し、その偽りの永遠性につじつまを合わせるために時間をつくり出すのだ。在るためには、過去も未来も必要ない。すべての体験は想像から生まれてくる。私は想像しない。だから、誕生も死も私には起こらないのだ。生まれたと考える人だけが、生まれ変わると考える。あなたは生まれたということで私を告発しているが、私は無罪を主張する!
すべては気づきのなかに存在している。そして、気づきは死にもしなければ、生まれ変わりもしない。それは不変の実在そのものなのだ。
すべての体験の宇宙は、身体とともに生まれ、身体とともに死ぬ。そのはじまりと終わりは気づきのなかにある。しかし、気づき自体ははじまりも終わりも知らない。もしそれについて時間をかけて慎重に熟考すれば、あなたは気づきの輝きをはっきりと見るだろう。そして、世界はあなたの視野から消え去るだろう。それは、燃えている線香を見つめるようなものだ。最初は、線香と煙を見ている。あなたが火のついた点に注目するとき、それが線香の山を焼き尽くす力をもち、宇宙を煙で覆い尽くすことを認識するだろう。自己はその永遠の可能性を使い尽くすことなく、永遠にそれ自身を具象化していく。線香の直喩では、線香が身体を表し、煙がマインドを表している。マインドが曲解に忙しいかぎり、それはそれ自身の源を知覚することができない。グルはやってきて、あなたの注意を内なる生命の輝きへと向けさせる。マインドはその本性からして外側に向かっているものだ。それはつねに、ものごとの源をものごと自体のなかに見いだそうとする傾向がある。源を内面に見いだすようにと言われること自体、ある意味では新たな人生のはじまりなのだ。気づきが意識にとって代わる。意識のなかには、意識している「私」が存在している。一方、気づきは分割されることがない。気づきはそれ自身に気づいているのだ。「私は在る」はひとつの想いだ。一方、気づきはひとつの想いではない。気づきのなかに「私は気づいている」という想いはない。意識は属性だ。一方、気づきはそうではない。人は意識していることに気づくことができる。だが、気づきを意識することはできないのだ。神は意識の全体性だ。だが、気づきは存在も非存在をも、すべて超えている。


質問者 私は人の死後の状態についての質問から話をはじめたのです。彼の身体が滅んだとき、意識には何が起こるのでしょうか? 彼は見たり、聞いたりといった感覚を彼とともに連れていくのでしょうか? それともそれらは後に残されるのでしょうか? そして、彼が感覚を失うのならば、何が彼の意識となるのでしょうか?


マハラジ 感覚とは単なる知覚の様式にすぎない。粗雑な様式が消え去るとともに、繊細な意識の状態が出現する。


質問者 死後において気づきへの移行といったものはないのでしょうか?


マハラジ 意識から気づきへの変化はありえないのだ。なぜなら、気づきとは意識の一形態ではないからだ。意識をより繊細に、より洗練させることはできる。そしてそれが死後に起こることなのだ。人の多様な媒介物が死に絶えると、それらによって生じた意識の様式もまた姿を消す。


質問者 最後に無意識だけが残るまででしょうか?


マハラジ 無意識を去来する何かのように語るあなた自身を見てみなさい! 無意識を意識する誰がそこにいるというのだろうか? 窓が開いているかぎり、日の光は部屋のなかにある。窓が閉じられても、太陽はそのままだ。だが、それは部屋のなかの暗闇を見るだろうか? 無意識などというものはないのだ。なぜなら、無意識は体験不可能だからだ。私たちは記憶を喪失したとき、あるいは伝達が不可能なとき、それを無意識であると推定する。もし私が反応しなくなったら、あなたは私のことを無意識だと言うだろう。現実には、記憶や伝達が不可能なだけで、私は鋭敏に意識しているかもしれないのだ。


質問者 私は単純な質問をしているのです。現在、世界には四十億人ほどの人びとがいます。そして、彼らはみな死を免れることができません。彼らの死後の状態はどのようなものなのでしょうか──身体的にではなく、心理的に。彼らの意識は継続していくのでしょうか? そして、もしそうならば、どのような形態を取るのでしょうか? どうか、私が正しい質問をしていないとは言わないでください。あるいはあなたが答えを知らないとか、私の質問は無意味だなどと言わないでください。あなたが、私の世界とあなたの世界は異なり、相容れないものだと話しはじめた途端、あなたは私たちの間に壁をつくってしまうのです。私たちが同じ世界に住んでいるか、そうでなければ、あなたの体験は私たちにとって、何の役にも立ちません。


マハラジ もちろん、私たちはひとつの世界に住んでいる。ただ私だけがあるがままに見ていて、あなたはそう見てはいないのだ。あなたは世界のなかにあなた自身を見ている。私は私自身のなかに世界を見ているのだ。あなたにとっては、あなたは生まれ、そして死んでいく。片や、私にとっては、世界が現れては消えていくのだ。私たちの世界は実在のものだ。だが、あなたの見方がそうではないのだ。あなたが築いた壁以外に、私たちの間に壁は存在しない。感覚には何の誤りもない。あなたの想像があなたを惑わせるのだ。それはあるがままの世界を、あなたが想像したように──あなたから独立して存在し、しかもあなたが受け継ぎ、習得してきたパターンにしたがってできた世界として覆い尽くしてしまう。あなたの態度には、あなたが理解していない苦しみの原因である深い矛盾がある。あなたは苦痛と苦しみの世界のなかに生まれたという考えにしがみついているのだ。私は世界が愛の子供であり、それにははじまりがあり、成長し、愛の成就を遂げることを知っている。


質問者 もしあなたが世界を愛からつくり出したのなら、なぜこんなに苦痛に満ちているのでしょうか?


マハラジ 身体の視点に立てば、あなたの言うとおりだ。しかし、あなたは身体ではないのだ。真実ではないものを真実として決めつけてはならない。そうすれば、私が見ているものをあなたも見るだろう。苦痛と快楽、善と悪、正と邪。これらはみな相対的な言語であって、絶対的なものと見なしてはならない。それらは限定され、一時的なものなのだ。


質問者 仏教の伝統ではニルヴァーニ、悟りを得た仏陀は、宇宙の自由を司っていると言われています。彼は存在するすべてを知り、体験することができます。彼は因果的連鎖によって自然界を制し、調停し、出来事の結果を変え、過去を取り消すことさえできるのです! それでも世界は彼とともに在り、しかもそのなかで彼は自由なのです。


マハラジ あなたが描写しているのは神だ。もちろん、宇宙の在るところには、その片割れである神もまた存在するだろう。しかし、私はそのどちらも超えているのだ。ある王国が王を探していた。彼らはふさわしい人を見つけだし、彼を王にした。だが、彼はけっして変わっていない。彼は王位の称号と権利、そして職務を与えられただけだ。変わったのはただ彼の行動だけで、彼の本性は影響を受けてはいないのだ。同様に、悟りを得た人も彼の意識の内容は根本的な変容を遂げる。しかし、彼は惑わされない。彼は不変なるものを知っているのだ。


質問者 不変なるものは意識することができないはずです。意識はつねに変化するものだからです。不変なるものは意識のなかに何の影響も与えません。


マハラジ そうだとも、そうでないとも言える。紙は書いてあることではないが、それは書いてあることを伝える。インクがメッセージではなく、また読む人のマインドがメッセージなのでもない。しかし、それらすべてがメッセージを可能にするのだ。


質問者 意識は実在から降りてくるのでしょうか、それとも、それは物質の属性なのでしょうか?


マハラジ 意識それ自体としては、物質の微妙な片割れなのだ。不活発性(タマス)とエネルギー(ラジャス)が物質の属性であるように、調和(サットヴァ)は意識それ自体として現れる。ある意味では、それを非常に神秘的なエネルギーの一形態として考えてもいいだろう。どこであれ、物質がそれ自体をひとつの堅固な有機体へと組織化するとき、意識は自発的に現れる。有機体の破壊にともなって、意識は消滅するのだ。


質問者 それでは、何が残るのでしょうか?


マハラジ けっして生まれることも死ぬこともなく、そのなかでは物質も意識も単なる相にすぎない、あれが残るのだ。


質問者 もし物質も意識も超えているのならば、どのようにしてそれを体験することができるのでしょうか?


マハラジ それはその影響が物質と意識の両方に及ぼす効果によって知ることができる。美と至福のなかにそれを探してみるがいい。だが、その両方を超えていかないかぎり、あなたは身体も意識も理解することはないだろう。


質問者 どうか、私たちにはっきりと言ってください。あなたは意識しているのでしょうか、それとも無意識なのでしょうか?


マハラジ 悟りを得た人(ジニャーニ)はそのどちらでもない。だが、彼の悟り(ジニャーナ)のなかにすべては包括されている。気づきはすべての体験を含んでいる。しかし、気づいているその人はあらゆる体験を超えているのだ。彼は気づき自体をも超えている。


質問者 体験の背後に物質と呼ばれるものがあります。そして体験者であるマインドがあります。何がそれら二つの間に橋を架けるのでしょうか?


マハラジ その間にある隙間そのものが橋なのだ。その一端からは物質として見え、反対側の一端からはマインドとして見えるそれ、それ自体が橋なのだ。実在をマインドと身体に分けてはならない。そうすれば、橋の必要はなくなる。
意識が現れるとともに、世界が現れる。世界の美と智慧について考えるとき、あなたはそれを神と呼ぶのだ。あなた自身のなかにある、そのすべての源を知りなさい。そうすれば、あなたはすべての質問の答えを見いだすだろう。


質問者 見る者と見られるもの、それらはひとつなのでしょうか、それとも二つなのでしょうか?


マハラジ ただ、見ることだけが在る。そのなかに見る者も、見られるものも含まれるのだ。区別のないところに区別をつくり出してはならない。


質問者 わたしは死を迎えた人について質問をはじめました。あなたは彼の体験が彼の期待と信念にしたがって形づくられると言いました。


マハラジ 生まれる前に、あなたはあなた自身が立てた計画にしたがって生きることを期待していたのだ。あなた自身の意志が、あなたの運命の支柱だったのだ。


質問者 間違いなく、カルマが干渉したはずです。


マハラジ カルマは環境を形づくる。態度はあなた自身のものだ。結局は、あなたの人格があなたの人生をつくり出し、人格を形づくるのはあなただけなのだ。


質問者 どのようにして人は人格を形づくるのでしょうか?


マハラジ それをあるがままに見ることによって、そして誠実に心から感じることによってだ。この見ることと感じることの統合が奇跡的な働きをする。それはブロンズの像を鋳造するようなものだ。金属だけでも、火だけでも無理だし、鋳型だけでも役に立たない。あなたは金属を火で熱し、溶解して、鋳型へ流しこまなければならないのだ。


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