霊と神はちがう(つづきその3)


霊というのは道具です。神の子を道具と呼ぶのかというと、そうです。絵筆の筆先の部分がいかに多くの絵を描くのに有用であっても、道具という分類から一歩も外へ出ることができていません。ただの道具です。価値あるものはその筆で何かを描いている「存在」のほうです。だから人間と呼ばれる道具にとっては、一番の幸せは、道具としての用を果たすことです。すごく単純ですが、「見えない」とか「隠されている」というのはそういうただの道具が一人取り残されているように見えてしまうという状況そのものであり、その状況に不安を覚えつつも仕方ないからツッパルために自我は無理を重ねることになります。n


「手をのばし、贈り物を受けとるがよい」
と、
神の心は呼びかけてきます。


でもあなたは耳を貸しません。心がいらいらと波立っているので、聖なる声の呼びかけが聞こえません。自分の人生の状況を見回し、あちこちアラ探しをしているうちは、神の無条件の愛に包まれていることに気づきません。
しかし、どれほど神からへだたっているように感じたとしても、あなたと神との距離は


思いひとつぶん


だけなのです。
たったいま、この瞬間に、あなたは救われます。


覚えておきなさい、友よ。
たったいまこの瞬間に、あなたは神の声に耳を澄ませるか、あるいは自分で作り出した無用な心理劇の泥沼にはまりこむか、です。たったいま、あなたは幸福になるか、人生の状況のアラ探しをするか、です。自分の思考によく気をつけていて、こうたずねなさい。


「わたしはたったいま、神の無条件の愛に気づいているだろうか」



ひとつ知っておくとよいことがある。絶対に何も信じてはいけない。絶対にだ。信じるということは、まだこれから体験を通して知り、理解していくことについて、あらかじめ確信を持ってしまうということだ。そして、信念はきわめて危険なものである。なぜなら、信念を持った状態では、まだ自分の存在の内面で真実として確立していないものに、自分の人生、自分の態度、自分の信頼をゆだねてしまっているからだ。そうなると、あなたはきわめて影響を受けやすい不安定な状態になってしまう。そして、その影響を受けやすい不安定な状態では、あなたは操られ、呪われ、非難され、さらには自分の命を失うこともあり得る。それもすべて、ただの信念のためにである。


知りたいことは、何であろうと、ただ知りなさい。ただ単純に理解を求め、自分の存在の内面のフィーリングに耳を傾けるだけで、あなたは知ることができるのだ。自分のフィーリングという叡智をいつも信頼することだ。


どんな教師の指示にしたがうのでもなく、自分自身でいることだ。なぜなら、あなたの「神なる自己」についてあなたに教えることができる者など、誰もいないからだ。つまり、彼らが教えることができるのは、彼らの「神なる自己」のことだけなのだ。自分の運命を成就するためには、本当の自分、あなた独自の自分にならなくてはならない。ほかの人間の生き方にしたがって生きようとすれば、あなたはけっして本当の自分にはなれない。あなたが誰なのか、そしてあなたの内面に宿るこの炎は何なのかを理解するただひとつの道は、自分自身の感情的な理解という真実を通してなのだ。


自分であるものをひたすら愛し、自分の内なる神に耳を傾けなさい。その神は、とてもかすかな声で語りかけてくる。


あらゆる瞬間にあなたのスピリットを通過しているこれらのすばらしい思考を、あなたが知らないのはなぜだろうか? それは、あなたがそれらを知ることを望んでこなかったからだ。あなたは社会意識のよどみの中で生きること、つまり着るものも、行動も、考えることも、家畜の群れのようにすることを選んできたのだ。受け容れてもらえるように、あなたはまわりに合わせることを選んできた。自分が生き延びられるようにするためだ。あなたが知りたがらなかった理由は、自分が至高の存在であり、神であり、永遠であり、すべてを知る者であるという思考を抱くことが、自分の家族や友人、宗教や国家の意に反することになるからだ。だから、あなたは自分の力を手放してしまったのだ。あなたは自分の至高の独立性を手放してしまった。自分のアイデンティティーも忘れ去ってしまった。あなたは自分の脳を閉ざしてしまったのだ。それをふたたび開く方法をあなたに教えることが、私がここにいる理由である。


永遠とも言えるほど長い間、人間が必死に探し求めてきた無限の神秘である、この「神」と呼ばれる宗教像は、いったい何なのだろうか? それは思考であり、思考が思考を受け取る力であり、思考を受け取ることによって、もとの思考が新たな思考になり、それ自身を拡大していくという力のことなのだ。それが神のすべてである。それは思考の総体、つまり至高の生命だ。そして、まさにあなたの存在の内面にこそ、完全に神になる力があるのだ。完全に、だ。もしあなたの脳のすべての部分が開いたなら、あなたはこの瞬間に永遠の果てまでいくことになる。すなわち、あなたは知られていることすべてを知ることになる。あなたは太陽の色、海の深み、風の力、そして地平線の上の星になるのだ。


あなたが神のすべてを知り、神のすべてになることを妨げているのは何だろうか? 「変質した自我」だ。なぜなら、変質した自我は、神そのものであるすべての思考の振動数を受け容れるのを拒絶することによって、神を切り離してしまうからだ。そうすれば、それ自身が傷つくことなく、安全に安心して生きていけるからである。変質した自我が「反キリスト」と呼ばれる理由はまさにここにある。なぜなら、変質した自我はあなたが神の息子であることを否定するからだ。それは、あなたがその思考を受け容れ、自分と「父」はひとつであり、同じものなのだと悟るのを許さない。自分は神聖なる存在であり、不滅の本質であり、永遠を創造する力、さらには死をも創造する力さえ持っているのだということを、あなたが悟るのを許さないのである。R


あらゆる経験は、たったひとつの目的のために起きています。その目的とは、あなたの気づきを拡大することです。意識的には、これこれが起きるだろうと確信していなかったかもしれませんが、起きてしまえば、ほとんどの場合、あなたはその事件を自分の信念にしたがって、「やっぱり」と解釈します。


他人の考えや行動を批判することによっては、生の喜びは経験できません。自分のハートの中の真実に従いつづけることによってのみ、喜びは経験できるのです。そしてこの真実は、けっして他人を拒絶せず、中に迎えいれます。


真実は、開かれたままの扉です。この扉を閉めることはできません。入らないことを選択できるだけです。別の方向から入ることもできます。でもこう言うことはできません。「入ろうとしたけれど、扉が閉まっていた」と。扉はあなたにも、ほかのだれに対しても、けっして閉ざされたことはありません。


恐怖心に満ちた思考に気づくことで、べつの道がひらけます。しかしどうか、ネガティブなもの、恐怖心に満ちた思考を、ポジティブなもの、愛の思考でおきかえようとがんばらないでください。それは葛藤をもたらすだけです。ただ、気づきだけをはたらかせます。自分の恐怖心に気づき、それを感じてみます。


そうして、それを十全に感じたら、ただこう言ってください。「わたしはいま、自分の恐怖心から抜け出す準備ができました。父よ、どうぞ力を貸したまえ」そして、自分の求めた助けがやってくるのをよろこんで受けいれてください。あなたの願いがしりぞけられることは決してないと、わたしは保証します。


もうひとつ提案しておきましょう。助けを求めるときには、自分の思考を変えてください、と願いなさい。ですから、こう確言します。「父よ、この状況に対する自分の心を変えたいと思います。どうか、この状況を恐怖心の目を通じてではなく、あなたがごらんになるように見させてください。自分自身とひとしく他の人に対する愛をもって、この状況を見させてください」


兄弟よ、これはめざましい効果のある祈りです。祈りの中にとどまりなさい。その力と平和の中にいなさい。すべての言葉、すべての動き、すべての行為の中に、神の答えを受けとりなさい。奇蹟は、よろこんで受けいれる準備ができて初めて体験できます。


奇蹟が目に入らなければ、なんにもなりません。奇蹟をハートに受けいれようと思うなら、それは自分の期待とはちがう形かもしれないということを理解しておいてください。あなたの人生における奇蹟の存在に心を開き、それがみずからをあらわすのを許してください。


そのときどきで、使える形を使ってください。先入観を捨てます。毎瞬があたらしい瞬間です。すべての状況が、あなたのちがう面をひきだそうとします。


あることをある特定のやりかたで言ったりしたりすることに固執すれば、時間に縛られることになります。そういう執着は、あなたを過去に縛りつけます。やってくる経験がたずねているのは、あなたが喜んで過去を手放すか、喜んで信頼に身をゆだねるか、喜んで時間の外に踏み出すかどうか、ということです。


あなたが形に執着しなければ、時間の外に踏み出すことはかんたんです。あなたはいま現在に焦点をあわせます。永遠のいまです。どんなことが起きようと、そのことに全身でかかわっていけます。


でも、あなたがたの中でどれほどの人が、経験のなかで完全に現在という瞬間にいるでしょう。たいていの人は、経験を評価したり、判断したり、アラ探しをしたり、こうあってほしいという色眼鏡で見たりという作業で手一杯です。つまり、あなたがたはにせのアイデンティティにしがみついています。現在を過去に合わせようとしています。Y



質問者 宇宙が物質、精神、魂によって形成されているというあなたの説明は、数多くある説明のなかのひとつです。ほかにも、宇宙自体が説明に適合させられたような説明まであり、いったいどの説明が本物で、どれがそうではないか途方にくれてしまいます。あげくの果てには、どの説明もみなただの言語表現にすぎず、真実を表した説明などないのではと疑ってしまいます。
あなたによると、実在は三つの拡張発展によって成り、それらは物質─エネルギー(マハーダーカーシュ)の拡張、意識(チダーカーシュ)の拡張、そして純粋な精神(パラマーカーシュ)の拡張です。第一のものは運動と慣性をともにもち、私たちはそれを知覚します。私たちは自分が知覚し、意識することを知っています。また、意識していることに気づいてもいます。それゆえ、私たちは物質─エネルギーと意識の二つをもっているのです。物質はつねに空間のなかに在り、一方、エネルギーはつねに時間のなかに在るように見えます。それらは変化と関連し、変化の割合によって測定されます。意識は時間と空間のなかの一点である、今ここに在るように見えます。しかし、あなたは意識もまた、時間と空間を超えた非個人的な、遍在するものであると言っています。時間と空間を超えていることと、今ここにあることが矛盾するものではないということは、私にもどうにか理解ができますが、非個人的意識に関しては推測できません。
私にとって意識はつねに焦点の定まったものであり、中心にあり、個別で個人的なものです。あなたは知覚する者なしに知覚があり、知る者なしに知ることがあり、愛する者なくして愛があり、行為者なくして行為がありうると言っているようです。私は知ること、知る者、知られるものの三位(さんみ)は、生のあらゆる瞬間に見て取ることができると感じています。意識は、意識する人と意識の対象、そして意識しているという事実を意味しています。意識するその人を、私は個人と呼びます。個人は世界のなかに生き、その一部であり、それに影響を与え、それから影響を受けます。


マハラジ なぜあなたは世界と個人がどれほどの実在性をもっているかと尋ねないのだろうか?


質問者 いいえ! 尋ねる必要などありません。もし個人が、そのなかに存在する世界より実在性が少なくなければ、それで充分です。


マハラジ では、質問は何なのだろうか?


質問者 個人が実在で、宇宙は概念的なものなのでしょうか、それとも宇宙が実在で、個人は想像上のものなのでしょうか?


マハラジ そのどちらも実在ではない。


質問者 私はあなたの答えを受けるに値するに充分な実在であり、私は個人です。


マハラジ 眠っているときは、そうではない。


質問者 眠りへと沈潜していくことは、不在とは違います。たとえ眠っていても、私は存在します。


マハラジ 個人であることは自己意識をもつことだ。あなたはつねにそうだろうか?


質問者 もちろん、眠っているときや、あるいは気絶しているとき、薬物の影響下にあるときは、そうではありません。


マハラジ 目覚めの時間においても、あなたは継続的に自己意識を保っているだろうか?


質問者 いいえ、ときどき私はぼんやりとしていたり、何かに没頭していたりします。


マハラジ あなたは自己意識のとぎれる間も、個人としてあるだろうか?


質問者 もちろん、私はずっと同じ個人です。私は昨日の、または去年の自分自身を覚えています、間違いなく私は同じ個人です。


マハラジ では、個人であるためには記憶が必要なのだろうか?


質問者 もちろんです。


マハラジ では、記憶なしではあなたとは何なのだろうか?


質問者 不完全な記憶は不完全な人格をもたらします。記憶がなければ私は個人として存在できません。


マハラジ もちろん、記憶なしでもあなたは存在できる。あなたは眠りのなかでそうしているのだ。


質問者 生存しているという感覚のなかでだけです。個人としてではありません。


マハラジ 個人としては断続的な存在でしかないとあなた自身認めるならば、個人として自分自身を体験する合間の休止期間、あなたが何者なのか私に言えるだろうか?


質問者 私は存在します、しかし個人としてではなく。その休止期間、自己意識がないのですから、個人としてではありませんが、私は存在しているとしか言えません。


マハラジ では、私たちはそれを非個人的存在と呼ぶことにしようか?


質問者 私ならむしろ、無意識的存在と呼ぶでしょう。私は存在しますが、存在しているということを知らないのです。


マハラジ たった今あなたは、「存在してはいるが、存在していることを知らない」と言ったが、無意識状態での存在についてもそう言えるだろうか?


質問者 いいえ。言えません。


マハラジ あなたは「私は無意識だったことを知らなかった」と、記憶がないという意味の過去形で描写することができるだけだ。


質問者 無意識でありながら、何をどうやって覚えていることができるでしょう?


マハラジ 本当にあなたは無意識だったのかね、それともただ覚えていないだけなのかね?


質問者 どうしてそれを証明できるでしょう?


マハラジ 考えなさい。あなたは昨日のあらゆる瞬間を覚えているだろうか?


質問者 もちろん、覚えていません。


マハラジ では、あなたは無意識だったのだろうか?


質問者 もちろん、違います。


マハラジ では、あなたは意識がありながらも覚えていないのだろうか?


質問者 そうです。


マハラジ あなたは眠りのなかで意識はあっても、覚えてはいないのかもしれない。


質問者 私は意識していませんでした。眠っていたのです。私は意識ある人のようにはふるまいませんでした。


マハラジ どうして知っているのかね?


質問者 私が眠っているのを見た人がそう言ったのです。


マハラジ 彼らが証明できることは、あなたが目を閉じ、息を規則的にして、横になっていたということだけだ。彼らにあなたが意識していたかどうかを立証することはできない。あなたの唯一の証拠はあなたの記憶だけだ。なんと不確かな証拠だろう!


質問者 そうです。私が個人としてあるのは、目覚めている時間だけであることを認めます。目覚めと目覚めの合間に関して、私は知りません。


マハラジ 少なくとも、あなたはあなたが知らないということを知っている! あなたが目覚めと目覚めの合間に意識がないと主張するなら、その合間についてはしばらくおいておこう。では、目覚めている間だけを考えてみよう。


質問者 私は、夢のなかでは同じ個人です。


マハラジ 賛成だ。私たちは夢見ているときも目覚めているときも一緒に考えることにしよう。違いは単に継続性にあるだけだ。あなたの夢が一定の継続性をもち、毎夜毎夜同じ景色や同じ人びとを映しだすなら、あなたはどちらが夢でどちらが目覚めているのか途方にくれるだろう。それゆえ、私たちが目覚めの状態を語るときは、夢見の状態も含めて語ろう。


質問者 賛成です。私は世界と意識的関係をもった個人です。


マハラジ 世界、そして世界と意識的関係をもつことが、あなたを個人とするのに必須のことだろうか?


質問者 たとえ洞窟に幽閉されたとしても、私は個人として在るでしょう。


マハラジ それは身体と洞窟、そしてそれらが存在する世界があるということを意味している。


質問者 ええ、わかります。世界と世界の意識は、個人としての私の存在に不可欠です。


マハラジ これが個人を世界の一部また一片にし、またその逆も同様だ。その二つはひとつなのだ。


質問者 意識は単独の存在です。世界と個人はともに意識のなかに現れます。


マハラジ あなたは「現れる」と言ったが、「消える」とも言えるだろうか?


質問者 いいえ、それはできません。私には、私と世界の現れに気づくことができるだけです。個人として、「世界は存在しない」とは言えません。世界がなければ、それを言う私もそこに存在していないでしょう。世界がそこにあるから、私もそこにいて「世界は在る」と言えるのです。


マハラジ それは反対かもしれない。あなたがいるからこそ、そこに世界が在るのだ。


質問者 私にとってそのような表明は無意味です。


マハラジ あなたが感じるその無意味さは、調べることによって消えるかもしれない。


質問者 どこから調べはじめればいいのでしょうか?


マハラジ 私が知っていることは、何であれ依存するものは実在でないということだけだ。実在は真に独立している。個人の存在は世界の存在に依存している。そしてそれは世界によって制限され、定義されている。それゆえ、それは実在ではありえない。


質問者 しかし、それは夢ではありえません。


マハラジ 夢でさえ、それが認識され、楽しまれ、続く間はその存在をもっている。何であれ、あなたが感じ、考えるものは存在をもつ。だが、それはあなたがそうと信じるものとは違うかもしれない。あなたが個人だと考えているものは、何かまったく違うものかもしれない。


質問者 私は私が自分自身として知っているものです。


マハラジ あなたが自分自身だと考えているものがあなただ、などと言うことはできない! あなた自身に関するあなたの考えは日々、そして一瞬一瞬変わっている。あなたの自己イメージはもっとも変化しやすいものだ。それはまったく傷つきやすいものであり、あなたのそばを通りすぎる人たちに左右されている。愛するものと死別し、職を失い、屈辱を受ける、そしてあなたがあなたの個性と呼ぶ自己イメージは深く変化するのだ。
あなたが何なのかを知るためには、まず、あなたが何ではないかを調べなければならない。そしてあなたが何ではないかを知るためには、「私は在る」という基本的な事実にそぐわないものをすべて拒絶し、あなた自身を注意深く観察しなければならない。私はある時、ある場所で、両親のもとに生まれ、今私は某で、どこそこに住み、誰それと結婚し、誰それの父親で、どこそこに雇われ等々……といった概念は、「私は在る」という感覚のなかに本来ないものだ。「私はあれやこれだ」というのが私たちの通常の態度だ。忍耐強く堅固に、「あれ」や「これ」から「私は在る」を分離しなさい。そして、「あれ」や「これ」として在るのではなく、ただ在るということがどういった意味をもつのか感じ取ってみなさい。私たちの習慣のすべてがそれに逆らう。それらと闘うことは、ときには長く、困難な仕事だ。だが、明確な理解は大きな助けとなる。マインドのレベルでは、あなたは否定的な言語でしか言い表すことができないということをより明確に理解するほど、探求はより早く終焉を迎える。そして、あなたは無限の実在を実現するのだ。


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Fiora & nobody