金細工師が装飾品を見透かして金だけを見ている


見ているというのは比喩で、実際には金である、です。金に目的はありません。在る、です。目的があることと、目的がないことを超越して、という修飾語が前にきて、在る、です。ですから、どんな飾りも無効です。すべてを否定形で超えてしまう、存在です。非─赤と書いたように、赤を可能にしているのはこの仕組み、背景であり、これらの背景、一般に「無」「非─顕現」と呼ばれる背景が「実在」していることに気づいていきます。そして「神」は、なぜ人類がその一語を引き継いで来たかの答えそのものです。お陰で、偽物の数も銀河の数のように増えてしまいましたが、中心を指し示す意味は変わっていません。人が人である意味も、人であることによる傷も、神だけがその意味を与え、すべての癒しを与えます。「そのため」、人類が人類に伝え残している最高の伝統が「神を信じ、神のまえに素直になる(神を愛する)」ことです。フィオラが私に最初に示した、唯一の提案でもありました。n


病状は思っていたよりよくなくて、残された与えられた日を無駄にしないようにします。みなさんに感謝しています。n


探求者とは彼自身を探している人だ。じきに彼は、身体が彼ではありえないと発見する。ひとたび「私は身体ではない」という確信がしっかりと確立されれば、もはや彼は身体に代わって感じ、考え、行動することはできなくなる。彼は普遍的な存在、知識、行為なのだということを容易に発見するだろう。彼のなかで、彼を通して宇宙全体が真実で、意識的で、活動的になるのだ。これが問題の核心だ。あなたは身体意識として環境の奴隷となるか、あるいはあなたは普遍的意識そのものであり、あらゆる出来事を完全に制御するかだ。


マハルシ ヨーガとは何でしょうか? ヨーガとは「合一」を意味します。ヨーガが可能なのは、そこにヴィヨーガ(分離)があるからです。人は現在ヴィヨーガという妄想に陥っています。この妄想が取り除かれなければなりません。


質問者 どうやって自我をつかまえるのでしょうか?


マハルシ そこにつかまえる自我とつかまえられる自我という二つの自我があるでしょうか? あるいは、一方がもう一方を消し去るという二つの自我が存在するでしょうか?

(対話580)


マハルシ 求め続けていても、望みはかなえられません。しかしもし無欲のままとどまるなら、何であれそれはあなたのもとに来るでしょう。


心が静寂の内にとどまることがサマーディです。世界が知覚されようとされまいと、それは問題ではありません。

(対話582)


人生の一日一日に目的があります。


それは自分の家で、天使が舞い踊るなどというような奇跡的なことでは全くありません。それは、


自分はパワー発生器であり、パワーを発生することによって、ちがいを生みだすことができる、ということを知ることです。自分が生みだしたちがいが、自分の基準に満たないときに、問題が起こります。


自分のなかにある怖れのために、真実を話せなかったり、自己憐憫を克服できなくて、悲しく思うような場合がそうなのです。


テレビはたとえ故障していなくても、スイッチを入れない限り何も起きません。人は自分とテレビとの関係を明確に理解していますから、何も起きなくて当然だと思っています。そこで私があなた方に望むことは、テレビについてのすばらしい知恵のすべてを、もっと広い次元に応用し、「このすばらしい電磁流のスイッチを入れるのは、私の責任です」と宣言することです。



神は努力のなかにあり、そして神は努力をしないことのなかにあります。求めることのなかにあり、見つけることのなかにもあります。


人間を連れ戻すために、神はあらゆることを利用します。


悲しみや喜びを超えた何かがあって、それが悲しみや喜びに意味を与えるのだということを発見します。


あなたという驚くべき存在の外に「父」を見つけることはけっしてできない。そうしようとすることさえ、自分に間違った要求をすることになる。なぜなら、自分の内面から発するものを語るために、あなたは自分の外に出ようとしているからだ。神というものを認識するためのただひとつの道は、自分の内面にある「父」がいかなるものであるのかを観察することだ。


私が愛し、仕えているこの神は、それを通してすべての神秘がなされるものであり、生命全体の絶え間ない継続性である。生命の王国のこの絶え間ない継続性は、永遠に続いていくものであり、そこでは「今」という瞬間だけが存在する。この「今」という瞬間、この特定の瞬間において、神は在るものすべての「在ること」なのだ。そして、これからやってくるたくさんの「今」では、神は、すべての生命が脈打ちながらともに前進している姿、すなわちすべての生命が躍動しながら生き、感じ、広がり、進化している姿であり、神はそれらを通して自分自身の「在ること」を表現しているのである。


神とは在るものすべての究極の姿だが、境界もないし、始めも終わりもない。それは比類なき無限性なのである。


エゴには確固とした核がないので、方向に一貫性がありません。エゴは空に浮かぶ雲とまったく同じです。自分の恋愛や子供、人権や仕事など、あらゆるものを人は命をかけて守ります。ところが、こうした事柄に対するあなたの考えはつねに変化しているのです。つねに形を変え、たえず消えていく雲を守ろうとしているわけです。それはあらゆる瞬間に変化し、年ごとに変わるだけでなく、転生のたびに変化しています。人はすでにいくつかの固定観念を持って<生まれて>きているのに、それらを調べてみて、持ちつづけるべきかどうか、一度も検討したことはないし、固定観念を創り出すのをやめるべきかどうかと考えたこともありません。


人生を大きな目で見たいと思うときに、エゴはあまり役に立ちません。どちらの方向に動いた方がいいかという指針を示すための、核となる中心が存在しないのです。エゴは、「神はこちらだ」とか「善はあちらだ」などという一貫した指示は与えないし、「この方が私は幸せだ」とさえも言いません。指針が何もないので、あちらに行ったりこちらに行ったり、エゴは人をつねに動かしつづけます。人はその動きを<生きる>ことだと思っています。


あらゆる固定観念はエゴのなかに存在します。固定観念のなかには、あなたのところにやってきてぶつかり、やがて去っていくものもあれば、静かにふわりと入ってきて、そのままずっといつづけるものもあります。エゴの動きというのは非常に不安定で、予測できない矛盾したものである、ということを理解しなければなりません。


自分は特にどこに向かっているわけでもなく、目的地があるわけでもないということを、エゴは人に教えてはくれません。


想念とは、特定の周波数をもった電磁気の波動で、肉体を通って頭脳に集中します。その結果が思考と呼ばれる活動です。あなたのものではない想念の波動もあなたの体内を通過します。もちろん<あなた>の頭から発生したように思える想念も体内を通過します。普段あなたは自分の想念と思えるもの、つまり自分のエゴから生まれた想念に関心を払います。『これはわたしの考えだ』と言うよりも、『大きな想念と小さな想念がわたしの体内を通過する』という可能性を受け入れる方があなたの役に立ちます。


ある望みを現実化するための最高の方法とは何だろうか?「あなたの存在の主(しゅ)」、そして「あなたの神」からそれを語ることだ。「あなたの存在の主」とは魂のことだが、それは感情的なシステムを通して体を司っている。この魂が、ホルモンの流れを放出するように脳下垂体に対して指示を出すのである。「あなたの存在の神」とは、あなたであるすべてを内包し、あらゆる思考があなたの存在の中に入ることを許す光のことだ。「あなたの存在」とは、物質の現実を体という形を通して体験している自我のことであり、それは価値判断を下すことを促し、思考の「在ること」、つまり思考の純粋性を変質させているものである。それゆえに、「変質した自我」という言葉があるのだ。したがって、あなたが「自分の存在の主と神」から何かを語るとき、あなたは、自分のすべての部分が一体になった状態をもたらしていることになる。そして、この状態こそが、あなたの望むものを現実化し、創造するための最高の力をあなたに与えてくれるのである。


自分が限りない思考を受け取ることを、「自分の存在の主と神」から望むとき、その望みが満たされるという思考は、魂の中で感じられ、体の中で現実化し、脳下垂体を活性化する。すると、脳下垂体が開き始めるのだ。脳下垂体が開くにつれて、より偉大なホルモンの流れが松果体の中を通ることになる。そうすると、そのホルモンの流れが眠っているマインドを目覚めさせていくのだ。それは脳の別の部分を開き、もっと偉大で純粋な思考の振動数を全身で体験することを可能にしてくれるのである。


より高い振動数を持つ思考が入ってくると、それらはあなたの脳の目覚めている部分を通るように導かれる。後頭部にある松果体が、このより高い振動数を受け取ると、それはふくらみ始める。これによって、頭が痛くなったり、少しめまいがしたり、頭が軽くなったように感じることがある。それから、この振動数は強力な電流へと変換され、中枢神経系によってあなたの体のあらゆる細胞へと送られる。それによってあなたは、体中に高揚感を感じたり、体がしびれるような感覚、体が持ち上げられるような感覚を味わったりすることになる。というのも、あなたがこれまでに感じてきたものよりも強力なエネルギーが、あなたの全身を駆け抜けているからだ。その振動数はあらゆる細胞を点火し、細胞の振動数を加速する。あなたが無限の思考を受け取れば受け取るほど、体はさらに速く振動するようになる。すると、あなたの体は光り始めるのだ。というのも、あなたは自分の体の密度を光へと逆行させ始めたからだ。



マハラジ 探求者とは彼自身を探している人だ。じきに彼は、身体が彼ではありえないと発見する。ひとたび「私は身体ではない」という確信がしっかりと確立されれば、もはや彼は身体に代わって感じ、考え、行動することはできなくなる。彼は普遍的な存在、知識、行為なのだということを容易に発見するだろう。彼のなかで、彼を通して宇宙全体が真実で、意識的で、活動的になるのだ。これが問題の核心だ。あなたは身体意識として環境の奴隷となるか、あるいはあなたは普遍的意識そのものであり、あらゆる出来事を完全に制御するかだ。
しかし、それでも意識、個人、普遍なるものは私の真の居場所ではないのだ。私はその中にはなく、それは私のものではない。その中に「私」はない。どのようにして人が意識でもなく、無意識でもなく、ただ彼方に在ることができるのかを説明することは容易でないが、私は彼方にあるのだ。私は神の中にいる、あるいは私は神だ、とは言えない。神は普遍的な光と愛、普遍的な観照者だ。私は普遍的なものさえ超えているのだ。


質問者 それでは、あなたには名前も形もないということです。いったい、あなたはいかなる類の存在なのでしょうか?


マハラジ 私は私であるものだ。形がなく、形がないということでもない。意識ではなく、無意識でもない。私はこれらすべての範疇の外に在るのだ。


質問者 あなたは「ネティ・ネティ」、これではない、これではないというアプローチについて語っているのでしょうか?


マハラジ 単なる否定によって私を見いだすことはできない。私はすべてであり、無なのだ。その両方であり、その両方でない。そういった定義は宇宙の支配者には当てはまるだろうが、私には当てはまらないのだ。


質問者 あなたはただの無だということを伝えたいのでしょうか?


マハラジ そうではない。私は完全であり完璧なのだ。私は存在の中の存在性、知ることの中の知、幸福の充足だ。私を虚空に引き下げることはできない。


質問者 もしあなたが言葉を超えているならば、私たちは何について話すというのでしょう? 形而上学的には、あなたの言われることは筋が通っていて、内面的な矛盾はありません。しかし、あなたの言われることは、私の糧になっていないのです。それは完全に私の緊急の必要性を超えています。私がパンを求めているときに、あなたは宝石を与えているのです。それらが美しいことは、疑うまでもありません。しかし、私は空腹なのです。


マハラジ そうではないのだ。私はあなたがまさに必要としているものを差しだしている──気づきだ。あなたは空腹ではなく、パンも必要ない。あなたに必要なのは停止、放棄、開放だ。あなたが必要だと信じているものは、あなたに必要なものではないのだ。あなたが本当に必要としているものを知っているのは私だ。あなたではない。あなたは私がいる状態に戻らなければならない──あなたの自然な状態に。ほかの何であれ、あなたの考えるものは幻想であり、障害だ。私を信じてほしい。あるがままのあなたとして在ること、それ以外は何も必要ないのだ。あなたは獲得することによって、あなたの価値が増加すると想像している。それは金が銅を加えることで、それを改善するだろうと想像しているようなものだ。あなたの本質にとって異質なすべてのものを除去し、浄化し、放棄することで充分だ。それ以外のすべては無駄なのだ。


質問者 言うは易く行うは難し、です。苦痛を抱えた人があなたのもとへやってきたとします。そして、あなたは彼に胃の中のものを吐き出すように勧めるのです。もちろん、マインドがなければ何の問題もありません。しかし、もっとも明白に、マインドはそこにあるのです。


マハラジ マインドがそこにある、とあなたに言うのはマインドなのだ。騙されてはいけない。マインドについての果てしない議論はみな、マインドそのものによってそれ自身を保護し、継続し、拡張するために生みだされたのだ。それを超えた彼方へとあなたを連れていくことができるのは、マインドの回旋や動乱を完全に拒絶することだ。


質問者 私は単なる探求者です。あなたは至高の実在そのものです。今、探求者が至高なるものに、悟りを得るため近づいたのです。至高なるものはどうするでしょうか?


マハラジ 私が言いつづけていることに耳を貸しなさい。そして、それから離れてはならない。つねにそれについて考えなさい。それ以外の何も考えてはならない。そこへ到達したならば、すべての思考を放棄しなさい。世界に関してだけではなく、あなた自身に関する概念も放棄しなさい。沈黙の存在─気づきのなかで、すべての思考の彼方にとどまりなさい。それは進歩ではない。なぜなら、あなたが到達するものはすでにあなたのなかにあり、あなたを待っているからだ。


質問者 では、私は考えることをやめるべきであり、「私は在る」という感覚のなかに揺るぎなくとどまるべきだと言われるのでしょうか?


マハラジ そうだ。そして「私は在る」に関連したいかなる想念がやってきても、それらのすべての意味を空っぽにし、注意を払ってはならない。


質問者 私は偶然にも、西洋から来た多くの若者たちと出会うことがあり、彼らとインド人の間にある基本的な違いを見いだしました。どうやら彼らの精神(アンタカラナ)は異なっているようなのです。インド人のマインドは、真我、実在、純粋なマインド、宇宙的意識といった理念を容易に把握します。それらは耳に親しく響き、快いのです。西洋人のマインドは反応せず、あるいはそれらを拒絶してしまいます。あるいは具体化し、すでに受け入れられた価値観にしたがって、即座に利用しようとするのです。それらの価値観は、しばしば個人的な健康、幸福、繁栄であり、ときには社会的な──よりよい社会、すべての人たちのより幸福な人生のためであり、すべては世間的な、個人的、非個人的な問題に関連したものです。西洋人と話すときに出くわす別の困難は、彼らにとってはすべてが体験だということです。彼らが食べ物や飲み物、女性や芸術や旅行を体験したがるように、彼らはヨーガ、自己実現、解脱を体験したいのです。彼らにとって、それはお金を払って手に入れる、単にもうひとつの体験にすぎないのです。彼らはそのような体験を購入できると想像し、値段を交渉しようとします。あるグルが見積もった、要する時間と努力の相場が高すぎると、彼らは一見容易な、しかし満たし難い条件のつきまとう分割払いを提案するほかの師のところへ行ってしまうのです。それは、「薬を飲むときに猿のことを考えてはならない」* という諺のようなものです! この場合は「世界を考えないこと」「すべての利己主義を放棄すること」「あらゆる欲望を消し去ること」「完璧な禁欲主義者になること」などです。当然そこには広く、あらゆるレベルでのいかさまがあって、その結果は無に等しいものです。あるグルはまったくの自暴自棄から、すべての修練を放棄し、無条件のうちに、努力を要せず、自然に、「するべき」や「するべきではない」といったパターンなしに、ただ受動的な気づきのなかに生きることを勧めています。そして、そこには過去の経験から自己嫌悪に陥り、自分を見ることさえ嫌う多くの弟子たちがいます。もし彼らに嫌気がさしていないのなら、退屈なのです。彼らは自己知識に食傷し、何かほかのものを求めているのです。


マハラジ もし彼らが好まないなら、彼ら自身のことを考えないようにさせるがいい。グルとともにとどまらせ、グルを見て、グルを思うようにさせればいい。すぐに彼らは、おそらく子供時代にしか体験しなかった新しい至福のような体験をするだろう。その体験はまぎれもなく新しいもののため、それが彼らの注意を引きつけ、興味を生むだろう。ひとたび興味が湧いたならば、秩序への適応もそれに続いて起こるだろう。


質問者 これらの人びとは非常に批判的で疑い深いのです。多くを学び、多くの失望を味わった彼らにとっては、そうあらざるをえません。一方で、彼らは体験が欲しいのですが、もう一方では、それを疑っています。どのようにすれば彼らに届くのでしょうか? 神だけが知っているのです!


マハラジ 真実の洞察と愛が彼らに届くだろう。


質問者 彼らがある霊的体験をしたとき、別の問題が起こります。彼らは体験が偶然のように来ては去っていき、永続しないと不平を言います。キャンディーを一度手にしたら、いつまでもそれをしゃぶっていたいのです。


マハラジ いかに高尚であっても、体験は実在のものではない。体験はその本性からして、来ては去っていくものなのだ。自己実現は獲得されるものではない。それはもっと理解の本質に近いものだ。ひとたびそれに到達すれば、けっして失われることはない。その反対に、意識は変化し、流れ、瞬間から瞬間へと変容を通り抜けていく。意識とその内容をとどめようとしてはならない。意識をとどめれば、それは止まる。洞察のひらめきと至福の爆発を永続させようと試みることは、それを維持しようとするものにとって破壊的になる。来るものは去らなければならない。永遠なるものは、去来するすべてのものの彼方にあるのだ。すべての体験の根底へ、存在の感覚へと行きなさい。無限の実在は存在と非存在の彼方にある。何度も繰り返し試みることだ。


質問者 試みるには信頼が必要です。


マハラジ まず、熱望がなければならない。欲望が強力なとき、試みようとする意志が現れるだろう。欲望が強いとき、あなたは成功への確信も必要ない。あなたには賭をする用意があるのだ。


質問者 強い欲望、強い信頼──最後にはどちらも同じことです。これらの人びとは彼らの両親も、社会も、自分自身さえ信頼しません。触れるものすべてがくずれてしまうのです。彼らに絶対的に真正で、疑う余地のない、マインドによる議論を超えたひとつの体験を与えてください。そうすれば彼らは世界の果てまであなたにしたがうでしょう。


マハラジ だが、私はほかでもない、それをしているのだ! 休むことなく、私はひとつの論争の余地のない要因へと彼らを引き寄せている。存在に証明は必要ない。それはそれ以外のすべてを証明するのだ。もし彼らが存在の事実のなかに深く入っていき、「私は在る」が扉となる広大さと栄光を見いだし、その扉を通り抜けて、さらに彼方へと進んでいくなら、彼らの人生は幸福と光に満ちたものとなるだろう。私を信じてほしい。到達したとき、発見されるものに比べれば、必要とされる努力など無に等しいのだ。


質問者 あなたの言われるとおりです。しかし、これらの人びとは自信も忍耐ももってはいないのです。短期間の努力でさえ、彼らを疲れさせてしまいます。彼らが盲目のうちに手探りをし、しかも救いの手をつかむことさえできずにいるのを見るのは心痛むことです。彼らは根本的に本当にすてきな人たちなのですが、完全に道に迷っています。私は彼らに言うのです。「真理をあなたの要求額で手に入れることはできない。条件を受け入れなければならないのだ」と。それに対する彼らの答えはこうです。「何人かは条件を受け入れ、何人かは受け入れないでしょう。受容や非受容は表面的で偶然のものです。実在はすべてのなかにあるのです。すべての人が無条件で歩いていける道がかならずあるはずです」と。


マハラジ あらゆるレベルで、人生のあらゆる領域において、すべてに対して開かれたそのような道はあるのだ。誰もが自分自身に気づいている。自己覚醒を深め、広めていくことは王道なのだ。それを留意、観照、あるいはただ注意と呼んでもいい。それはすべての人たちのためにある。誰もそれにとって未熟ではない。そして誰にも失敗はありえない。
しかし、もちろんただ注意するだけではない。あなたの留意はマインドをも含まなければならないのだ。観照とは、根本的に意識とその動きへの気づきなのだ。


*訳注 「薬を飲むときに猿のことを考えてはならない」 「薬を飲むときに猿のことを考えてはならない」と言われた人が、薬を見た瞬間、猿のことしか考えられなくなるように、ここでは、グルたちに「無欲になれ」「世界を考えるな」と言われれば、その反対のことしか考えられなくなる、ということを意味している。


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