千手千眼(せんじゅせんげん)


「千手千眼」の名は、千本の手のそれぞれの掌に一眼をもつとされることから来ている。千本の手は、どのような衆生をも漏らさず救済しようとする、観音の慈悲と力の広大さを表している。漏らさず救済しようとはするが、魂の形状は別なのだと思っています。わたしたちは全員が何もしなくとも「不死」です。それは子どもの頃に私は念入りに、それを確認するただ一点のためだけに確認を繰り返したので、間違いありません。自殺した方や、なんらかの事件で殺された方も全員「いま生きて」います。その人の生の本質は生前とまったく変わらず、少しも損なわれることなく続いています。そういう意味では、わたしたちは全員が並行的に「いまを生きて」います。ご先祖様も全員そうですから、縦並びではなく全員が横並びです。人は、というよりこの宇宙の現象すべてが、源の実在性により不死です。ただその意味は、魂の損壊や形状変化が起こらないという意味ではありません。いま宇宙に存在する全ての魂がなくなっても、わたしたちの本質は「不死」であるという意味です。しかもおまけで至福のなかの至福の絶頂です。ですから宇宙の消滅にも耐えられる本質こそがわたしたちという意識の源、すべてを超越する実在です。ですが、不死でも、右手を失えば右手を表現する機能が停止するように、魂を失えば表現機能が停まります。右手が生える、失った表現機能を再度創造するまでは停止状態です。不死とは歌う前と歌った後の沈黙に相当し、かたちある創造行為は歌われた歌です。魂は歌です。地球上の74億人は74億個の魂が元々あったわけではないんですね。74億個分源を(誕生で)「囲った」んです。器のマークを描いただけなんです。死ぬとその描かれたマークが消えるんです。そして記憶と計画と絆と欲望と汚れの引き継ぎが「団(フィオラの呼ぶ"職員室")」に行われます。団は神界がまとめあげるヒエラルキーの中にあるので、神界の意向から外れていってしまうと上中下の中ランク、下ランクへと下降していきグループ輪廻の回数と内容の過酷さが比例して上がっていきます。そしてフィオラの話では北の独裁者のように魂が「損壊」している人物は地上でもいるので、もっと軽い「形状変化」をしている状態の人々はたくさんいるでしょうし、それが死後向こう側で(魂の)破壊に近い状況に追いやられる可能性は否定できません。ですから、外圧による破壊を恐れる前に、自己表現の最中に「形状変化」してしまっている魂の状態に注意すべきだといまは感じています。ではどのような行為で形状変化するのか。それは禁忌とされてきた行為、「自殺」と「殺人」です。その理由こそ人間という造られた生命の裏事情です。形状変化の理由は、「(この世という岩戸に隠された状態の)神をどう扱ったか?」です。明日につづきます。n


マハルシ いつであれ、どこであれ、一人ひとりが見ているのは、ただ自分の真我だけです。彼は世界や神を、自分の在り方にしたがって見ているのです。
ダルマプトラ(ユディシュティラ)は世界中の人々が何かしらの徳を持ち、何かしらの理由で自分自身よりも優れているのだと考えました。一方、ドゥルヨーダナにとって、この世はたった一人の善人さえいないところに見えたのです。
それぞれが自分自身の本性を映し出しているのです。

(対話531)


もしあなたが継続したエゴだとしたら、誕生以来あなたに起こった考えや信念、アイデアや体験、記憶や気づきなどのすべてが脈々とこの瞬間に生きてあふれ返っていなくてはなりません。自分が継続した実体だと思い込もうとすることで、本当に継続しているものが体験できなくなっています。


本当に継続しているものはこれまでもずっとありましたし、いまもあります。それは<我在り>と言うときの”我”です。それはあらゆるものが流れ出る”源”です。それは始まりの前にあり終わりの後にあるもので、意識の本質です。それは純粋な意識そのものです。それが継続するもので、それ以外には何も継続しません。それ以外のものであなたがこの瞬間にもたらすものはすべて、目に見える、継続した有限の人間として自分が存在すると思い込みたいがためにあなたがもたらしているものです。


そうした自己像で自分を縛ってしまわないでください。自分を無力でちっぽけな存在だと信じて、『ああ、人から嫌われたらどうしよう』、『太りすぎじゃないだろうか』、『お金に困ったらどうしよう』などと心配するのをやめてください。あなたのまわりにはいたるところにあなたの本質が実在していて、細胞の一つひとつ、意識のすみずみまで雷鳴のごとく激しい音を立てて流れています。あなたは持っているものを使わずに損をしているのです。でも損をする必要はありません。これまでに話した方法のひとつを使えば、その習慣はやめられます。思考をやめて、いまの瞬間にいましょう。何か特別のことを聞こうとしないで、ただ耳を傾けましょう。見ている物を判断せずに見ましょう。ゆったりとした意識で呼吸しましょう。物事を評価したり選んだり受け入れたり拒否したりすることなく、いまこの瞬間に意識を向けましょう。いまこの瞬間に安らぎ、完全に心を開いて、意識を完全にいまの瞬間に向けていると、それが起きます。純粋な意識がその姿を現します。いまやっても、後でやってもいいですが、どちらにしてもあなたはいずれ実行します。


あらゆるものの中を息づくただひとつの現実があるだけです。それ以外はすべて幻影です。あなたは自分が考えているものとは違います。あなたはいつどう変わるともしれない短い命を、あてもなくおびえながら生きる意識のかけらではありません。あなたは広大無辺の完全に目覚めたすばらしい意識であり、それを充分に体験するのはあなたの持って生まれた権利です。これからのあらゆる瞬間にそのことを完全に完璧に知るようになってほしいというのが、わたしの願いです。


あなたが自分自身と呼んでいるあの慣れ親しんだ感覚、間違って<自分>と呼んでいるあの感覚に気づくように、ここでまたお願いしたいと思います。実際のところ、あの慣れ親しんだ感覚というか、歓喜の絶頂から憂鬱のどん底まで、愛から憎しみにいたるまで、不安から喜びにいたるまで、あらゆる過程に存在する感覚こそがあなたの本質です。あなたは”わたし”を間違って<自分>と呼んでしまったのです。生まれたり消えたりするのは有限の<自分>です。あなたといつもいっしょにいて、朝目覚めた瞬間からもっとも深い夢の瞬間までいるのが”わたし”の本質です。


あなたは”わたし”の本質をいつも感じているのですが、それをいままでは間違った名前で呼んできました。これまであらゆる瞬間に感じてきた感覚があなたが求めているものです。ほかのあらゆるものはその上に反映されます。こうしてここにすわっているときも、常に変わらず存在するのはその純粋な意識です。わかりますか。あなたは自分がすでにそうであるものを求めているのです。あまりに明らかで、不変で、強く、なじみが深いので、それがわからなかったのです。どうか見過ごさないでください。



体の死は、眠りに入るのに似ている。スピリットが魂を呼びよせると、魂は「シール」、あるいは「チャクラ」と呼ばれている体の中のエネルギー・センターを通りながら上昇していく。魂とは記憶であるが、それは、頭の中心に位置する最後のシールである第七シール、すなわち脳下垂体と呼ばれる部分を通って体の細胞組織から離れていく。魂がここを通過するとき、しばしば風の音を聞きながらトンネルを通過するような感じとして体験される。トンネルの向こうに見える光が、あなたの存在の光、あなたの存在のスピリットである。魂が体を離れると、体はその役目を終え、その存在は自由な「魂としての自分」になる。これはほんの一瞬の間に起きることで、痛みはまったくない。


死の瞬間、すべては光り出し、恐ろしいほど明るくなってくる。なぜなら、この天界から去る瞬間、あなたは物質の濃密さから抜け出し、光の存在に戻るからだ。そこでのあなたは強力なマインドと感情だけの存在で、光の体があなたの体となる。そして、自分の光の体を通して受け容れた思考によって、その電気的な状態が変わるのである。そこからは、あなたは七つの天界のうちのひとつに行くことになる。あなたがどの天界に行くかは、この天界にいたときに感情的に表現されていた態度によって決まるのである。


「気づき」あるいは「意識の理解レベル」にも、七つの段階がある。その七つの理解とは、「生殖と生存」、「恐れと苦痛」、「力」、「感じる愛」、「表現する愛」、「すべての生命の中に見える神」、そして「私は神である」だ。


この天界、この天国は、「見せる天界」と呼ばれている。なぜならここでは、自分の創造的な力、そして感情という形で表現している自分のどんな態度であろうと、それらを物質の中に見ることができるからだ。この天界は、七つの中でただひとつ、暗闇がその上をおおっている天界であり、光の音楽を耳にできないただひとつの天界でもある。ここに生まれてくる存在たちは、偉大なる「知っている状態」から生まれてきながらも、結局は、社会意識のプログラミングを受けて「何も知らない状態」へと追いやられてしまうのだ。それがここで起こることである。そして、この天界で先に進むのがしばしば非常に困難なのも、やはりこのためである。


私はこれから、ある天界のことを話そう。もしあなたがその天界を見れば、その場所はあなたの内面に深い悲しみをもたらすことだろう。そこは、意識の第一レベルと第二レベルで自分を表現している。たくさんの存在たちがいる天界だ。そこは平野のような場所で、平らである。そこには何があるのだろうか?そこでは山々や川、草や花や空を、光の形で見ることはできない。何十億という存在が、その光の化身のまま横たわり、無限に続く列をなしているのが見えるのだ。彼らはそこに、眠っている状態で横たわり、自分たちは死んでいるという幻の中に生きている。なぜなら彼らは、死後の生は存在しないということを頑なに信じているからだ。彼らの思考は、今でも生きていて、磁気を発し、強く律動し、活発なエネルギーを持っているにもかかわらず、彼らは自分が死んでいると思い込んでいるのだ。本当はまだ生きているにもかかわらず……。このことを憶えておいてほしいのだが、どんなことであろうと、われわれが何かを固く信じれば、われわれはそれが真実であると確信してしまうのである。そして、われわれが真実として知っていることは、どんなことであろうと、現実へと変容するのだ。われわれの創造性と意志は、それほどまでにパワフルなのである。


そこにいる存在たちの多くは、自分が死ぬと、救世主が戻ってくるまでは、自分は死んだ状態のままでいると教えられた。そして恐れと、神の愛から切り離されてしまうかもしれないという気持ちから、その教えを真実として受け容れたのだ。こうして、死ぬ直前の最後の瞬間に、彼らは自分が復活を待つ場所に行くのだということを信じていたのである。したがって、このレベルには、自分よりも偉大だと信じている誰かによって復活させてもらうのを待っている存在たちが、どこまでも列をなして並んでいる。われわれは彼らを目覚めさせようとしたことがある。その結果、少数の存在が目覚め、起き上がった。だが、彼らのほとんどは、悪魔のようなものが現れ、自分たちを誘惑して起こそうとするとも教えられていたのだ。そして、このことも、彼らは真実として知ってしまっているのだ。そのため、誰が起こそうとしても、彼らは目覚めるのを拒むのである。自分が生きていることに気づき、眠りから目覚めるまで、あと何千年もかかってしまうかもしれない。きわめて残念な教えである。


これが、苦痛があるただひとつの場所だ。あのような考えを固く信じ込み、それを絶対的な「知っている状態」にしてしまった存在たちの天界である。そこには、見わたす限り、眠った状態で横たわる兄弟たちの姿がある。ほかのすべての天界は、壮大な生命そのものだ。



質問者 宇宙が物質、精神、魂によって形成されているというあなたの説明は、数多くある説明のなかのひとつです。ほかにも、宇宙自体が説明に適合させられたような説明まであり、いったいどの説明が本物で、どれがそうではないか途方にくれてしまいます。あげくの果てには、どの説明もみなただの言語表現にすぎず、真実を表した説明などないのではと疑ってしまいます。
あなたによると、実在は三つの拡張発展によって成り、それらは物質─エネルギー(マハーダーカーシュ)の拡張、意識(チダーカーシュ)の拡張、そして純粋な精神(パラマーカーシュ)の拡張です。第一のものは運動と慣性をともにもち、私たちはそれを知覚します。私たちは自分が知覚し、意識することを知っています。また、意識していることに気づいてもいます。それゆえ、私たちは物質─エネルギーと意識の二つをもっているのです。物質はつねに空間のなかに在り、一方、エネルギーはつねに時間のなかに在るように見えます。それらは変化と関連し、変化の割合によって測定されます。意識は時間と空間のなかの一点である、今ここに在るように見えます。しかし、あなたは意識もまた、時間と空間を超えた非個人的な、遍在するものであると言っています。時間と空間を超えていることと、今ここにあることが矛盾するものではないということは、私にもどうにか理解ができますが、非個人的意識に関しては推測できません。
私にとって意識はつねに焦点の定まったものであり、中心にあり、個別で個人的なものです。あなたは知覚する者なしに知覚があり、知る者なしに知ることがあり、愛する者なくして愛があり、行為者なくして行為がありうると言っているようです。私は知ること、知る者、知られるものの三位(さんみ)は、生のあらゆる瞬間に見て取ることができると感じています。意識は、意識する人と意識の対象、そして意識しているという事実を意味しています。意識するその人を、私は個人と呼びます。個人は世界のなかに生き、その一部であり、それに影響を与え、それから影響を受けます。


マハラジ なぜあなたは世界と個人がどれほどの実在性をもっているかと尋ねないのだろうか?


質問者 いいえ! 尋ねる必要などありません。もし個人が、そのなかに存在する世界より実在性が少なくなければ、それで充分です。


マハラジ では、質問は何なのだろうか?


質問者 個人が実在で、宇宙は概念的なものなのでしょうか、それとも宇宙が実在で、個人は想像上のものなのでしょうか?


マハラジ そのどちらも実在ではない。


質問者 私はあなたの答えを受けるに値するに充分な実在であり、私は個人です。


マハラジ 眠っているときは、そうではない。


質問者 眠りへと沈潜していくことは、不在とは違います。たとえ眠っていても、私は存在します。


マハラジ 個人であることは自己意識をもつことだ。あなたはつねにそうだろうか?


質問者 もちろん、眠っているときや、あるいは気絶しているとき、薬物の影響下にあるときは、そうではありません。


マハラジ 目覚めの時間においても、あなたは継続的に自己意識を保っているだろうか?


質問者 いいえ、ときどき私はぼんやりとしていたり、何かに没頭していたりします。


マハラジ あなたは自己意識のとぎれる間も、個人としてあるだろうか?


質問者 もちろん、私はずっと同じ個人です。私は昨日の、または去年の自分自身を覚えています、間違いなく私は同じ個人です。


マハラジ では、個人であるためには記憶が必要なのだろうか?


質問者 もちろんです。


マハラジ では、記憶なしではあなたとは何なのだろうか?


質問者 不完全な記憶は不完全な人格をもたらします。記憶がなければ私は個人として存在できません。


マハラジ もちろん、記憶なしでもあなたは存在できる。あなたは眠りのなかでそうしているのだ。


質問者 生存しているという感覚のなかでだけです。個人としてではありません。


マハラジ 個人としては断続的な存在でしかないとあなた自身認めるならば、個人として自分自身を体験する合間の休止期間、あなたが何者なのか私に言えるだろうか?


質問者 私は存在します、しかし個人としてではなく。その休止期間、自己意識がないのですから、個人としてではありませんが、私は存在しているとしか言えません。


マハラジ では、私たちはそれを非個人的存在と呼ぶことにしようか?


質問者 私ならむしろ、無意識的存在と呼ぶでしょう。私は存在しますが、存在しているということを知らないのです。


マハラジ たった今あなたは、「存在してはいるが、存在していることを知らない」と言ったが、無意識状態での存在についてもそう言えるだろうか?


質問者 いいえ。言えません。


マハラジ あなたは「私は無意識だったことを知らなかった」と、記憶がないという意味の過去形で描写することができるだけだ。


質問者 無意識でありながら、何をどうやって覚えていることができるでしょう?


マハラジ 本当にあなたは無意識だったのかね、それともただ覚えていないだけなのかね?


質問者 どうしてそれを証明できるでしょう?


マハラジ 考えなさい。あなたは昨日のあらゆる瞬間を覚えているだろうか?


質問者 もちろん、覚えていません。


マハラジ では、あなたは無意識だったのだろうか?


質問者 もちろん、違います。


マハラジ では、あなたは意識がありながらも覚えていないのだろうか?


質問者 そうです。


マハラジ あなたは眠りのなかで意識はあっても、覚えてはいないのかもしれない。


質問者 私は意識していませんでした。眠っていたのです。私は意識ある人のようにはふるまいませんでした。


マハラジ どうして知っているのかね?


質問者 私が眠っているのを見た人がそう言ったのです。


マハラジ 彼らが証明できることは、あなたが目を閉じ、息を規則的にして、横になっていたということだけだ。彼らにあなたが意識していたかどうかを立証することはできない。あなたの唯一の証拠はあなたの記憶だけだ。なんと不確かな証拠だろう!


質問者 そうです。私が個人としてあるのは、目覚めている時間だけであることを認めます。目覚めと目覚めの合間に関して、私は知りません。


マハラジ 少なくとも、あなたはあなたが知らないということを知っている! あなたが目覚めと目覚めの合間に意識がないと主張するなら、その合間についてはしばらくおいておこう。では、目覚めている間だけを考えてみよう。


質問者 私は、夢のなかでは同じ個人です。


マハラジ 賛成だ。私たちは夢見ているときも目覚めているときも一緒に考えることにしよう。違いは単に継続性にあるだけだ。あなたの夢が一定の継続性をもち、毎夜毎夜同じ景色や同じ人びとを映しだすなら、あなたはどちらが夢でどちらが目覚めているのか途方にくれるだろう。それゆえ、私たちが目覚めの状態を語るときは、夢見の状態も含めて語ろう。


質問者 賛成です。私は世界と意識的関係をもった個人です。


マハラジ 世界、そして世界と意識的関係をもつことが、あなたを個人とするのに必須のことだろうか?


質問者 たとえ洞窟に幽閉されたとしても、私は個人として在るでしょう。


マハラジ それは身体と洞窟、そしてそれらが存在する世界があるということを意味している。


質問者 ええ、わかります。世界と世界の意識は、個人としての私の存在に不可欠です。


マハラジ これが個人を世界の一部また一片にし、またその逆も同様だ。その二つはひとつなのだ。


質問者 意識は単独の存在です。世界と個人はともに意識のなかに現れます。


マハラジ あなたは「現れる」と言ったが、「消える」とも言えるだろうか?


質問者 いいえ、それはできません。私には、私と世界の現れに気づくことができるだけです。個人として、「世界は存在しない」とは言えません。世界がなければ、それを言う私もそこに存在していないでしょう。世界がそこにあるから、私もそこにいて「世界は在る」と言えるのです。


マハラジ それは反対かもしれない。あなたがいるからこそ、そこに世界が在るのだ。


質問者 私にとってそのような表明は無意味です。


マハラジ あなたが感じるその無意味さは、調べることによって消えるかもしれない。


質問者 どこから調べはじめればいいのでしょうか?


マハラジ 私が知っていることは、何であれ依存するものは実在でないということだけだ。実在は真に独立している。個人の存在は世界の存在に依存している。そしてそれは世界によって制限され、定義されている。それゆえ、それは実在ではありえない。


質問者 しかし、それは夢ではありえません。


マハラジ 夢でさえ、それが認識され、楽しまれ、続く間はその存在をもっている。何であれ、あなたが感じ、考えるものは存在をもつ。だが、それはあなたがそうと信じるものとは違うかもしれない。あなたが個人だと考えているものは、何かまったく違うものかもしれない。


質問者 私は私が自分自身として知っているものです。


マハラジ あなたが自分自身だと考えているものがあなただ、などと言うことはできない! あなた自身に関するあなたの考えは日々、そして一瞬一瞬変わっている。あなたの自己イメージはもっとも変化しやすいものだ。それはまったく傷つきやすいものであり、あなたのそばを通りすぎる人たちに左右されている。愛するものと死別し、職を失い、屈辱を受ける、そしてあなたがあなたの個性と呼ぶ自己イメージは深く変化するのだ。
あなたが何なのかを知るためには、まず、あなたが何ではないかを調べなければならない。そしてあなたが何ではないかを知るためには、「私は在る」という基本的な事実にそぐわないものをすべて拒絶し、あなた自身を注意深く観察しなければならない。私はある時、ある場所で、両親のもとに生まれ、今私は某で、どこそこに住み、誰それと結婚し、誰それの父親で、どこそこに雇われ等々……といった概念は、「私は在る」という感覚のなかに本来ないものだ。「私はあれやこれだ」というのが私たちの通常の態度だ。忍耐強く堅固に、「あれ」や「これ」から「私は在る」を分離しなさい。そして、「あれ」や「これ」として在るのではなく、ただ在るということがどういった意味をもつのか感じ取ってみなさい。私たちの習慣のすべてがそれに逆らう。それらと闘うことは、ときには長く、困難な仕事だ。だが、明確な理解は大きな助けとなる。マインドのレベルでは、あなたは否定的な言語でしか言い表すことができないということをより明確に理解するほど、探求はより早く終焉を迎える。そして、あなたは無限の実在を実現するのだ。


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