知って、受け容れる


知るために、この大地と生活があります。出会いがあるし、喧嘩もあって、日々ぶつかりあいます。人は自分に関して必要なことを知っていると思いがちですが、実はまったく知りません。それを今日教えてもらっている最中なんですから。相手はすべてを司るもの、素直になるのが無難です。大人はそのへんの空気を読むことが得意です。受け容れたということは、容器の中に入れたものより「あなたはデカい」ということです。そのうえで、どうなるかを見極めればいいということになります。知ることとも、受け容れることとも、トモダチになったっていいと思うんです。n


この世的価値観が成功しているなどと


信じているとしたらそれはちょっと浅はかかもしれません。少なくとも母星を破壊する知的生命体は「成功」はしていません。では絶望が待っているのかというと、「神が実在する以上」それはありません。ということで、この二つが線でつながるにあたり、何らかの是正が起きます。一つは執念深く「やり直す」いままでどおりの「グループ輪廻」の枠組みです。もう一つがもっと根本的な枠組みを変えることです。輪廻では軌道修正が不可能と「誰かが判定した」場合に起こります。地獄に居住する者が地獄に行く者を増やし続け、本来の地球の目的が損なわれていると判定されれば、「神が待つ」にも時間的限度があります。これらは「現実」について描写するための言葉です。n


解決法を探すのをやめるという唯一の解決法を除いて、解決法はないのだ。


あなたは世界のなかに平和と調和を求めながら、あなた自身のなかにそれをもつことは拒んでいるのだ。


教えを思い出しなさい。何であれ、あなたがであうものを超えていきなさい、ということを。


質問者 幻影には段階があるのでしょうか?


マハルシ 幻影そのものが幻影なのです。幻影はそれを超えた者によって見られるはずです。そのような「見る者」が幻影の支配を受けるでしょうか? 「見る者」が幻影の段階について語ることなどできるでしょうか?
映画の画像がスクリーンの上に投影されています。火は建物を灰へと焼き尽くし、水は船を難破させるかのように見えます。それでも、画像がその上に映し出されるスクリーン自体は、焼けることもなければ濡れることもありません。なぜでしょうか? なぜなら画像は実在ではなく、スクリーンが実在だからです。
同様に、鏡の中の反映は移り変わりますが、反映されたものの量や質に鏡が影響を受けることはありません。
それゆえ、世界は「一なる実在」の上に現れた単なる現象でしかなく、実在が現象から影響を受けることはないのです。実在はただ一つです。
幻影に関する議論は、見る角度の違いによるのです。

(対話446)


マハルシ 神や神の本質などについて考えたことはありますか?


質問者 そのような問題について読んだり話したりしたことはあります。


マハルシ もしそれと同じことを感覚を通して表現せずに心の中で熟考するなら、それが瞑想なのです。

(対話152)


マハルシ ヴィバクティ(分離)があるかぎり、バクティ(帰依)がなければならず、ヴィヨーガ(分離)があるかぎり、ヨーガ(合一)がなければなりません。二元性が存在するかぎり、神と帰依者は存在せざるを得ないのです。探求(ヴィチャーラ)についても同様です。ヴィチャーラがあるかぎり、二元性もあることになります。しかし源に融け入れば、そこには「一なるもの」だけが在ります。それはバクティにおいても同様です。帰依によって神を実現すれば、そこに存在するのは「一なるもの」だけでしょう。神もまた真我の中で真我によって考えられたものです。それゆえ、神は真我と同一なのです。もし神への帰依心を抱きなさいと言われた人がすぐさまそのとおりにするなら、それでよいでしょう。しかし自らを振り返って「そこには二人がいる。神と私だ。遥か彼方にいる神を知るよりも、より身近で、より親しい『私』を知りたい」と言う人もいるのです。このような人にこそ、真我探求の道(ヴィチャーラ・マールガ)が説かれるべきです。実際、真我探求と帰依には何の違いもないのです。

(対話154)



(1) バクティとは何か?
木から落ちたアンコラの実が再び木と一つになるように、あるいは鉄が磁石に引き寄せられるように、ひとたび立ち現れた想念もその源に戻って消え去る。これがバクティである。想念の源はイーシュヴァラ神の御足元(みあしもと)にある。神の御足を愛すること、それがバクティである。(第61節)


(2) バクティの結実。
神の御足という超越的な空(そら)の上で生まれた帰依心(バクティ)に溢れる雲は、至福の雨を降らし、心という湖を満ち溢れさせる。そのとき初めて、無益な輪廻転生を果てしなく繰り返してきたジーヴァの真の生きる目的は遂げられるのである。(第76節)


(3) バクティの在処。
源であり終着地でもある神々に帰依することは、同じように原因と結果をともなった結実をもたらす。永久の至福の内に在るためには、永久の至福の源である神の御足に帰依心を捧げなければならない。(第83節)


(4) バクティは体験が重要なのであって、単なる言葉は重要ではない。
論理や論争に何の益があるのか? 人生の危機やガターパタ(論理家たちが好んで用いる論法)が助けになると言うのか? ならば、なぜそれについて考えたり討論したりすることで人生を無駄にするのか? 口を動かすのはやめなさい。ただ神の御足だけを想い、甘露(ネクター)を飲みほしなさい! (第6節)


(5) 帰依心の結実は不死性である。
神の御足をハートの内奥に植えつけた人を見たとたん、死は大昔にマールカンデーヤに出会ったときの悲惨な出来事を想い出して、一目散に逃げ出す。他の神々はみな、シヴァ神の御足元に頭(こうべ)を伏せ、ただ彼だけを礼拝する。そのような私心なき礼拝を受けることは、シヴァ神にとっては自然なことだ。
彼の妻である解脱の女神は、いつも彼の一部としてそばに寄り添っている。(第65節)


(6) ただ帰依心さえあれば、ジーヴァであることに影響されはしない。
いかに身体が移り変わろうと、神の御足元に失われるのは心だけ。そして至福は溢れ出す! (第10節)


(7) 帰依心が弱まることはけっしてない。
いつであれ、いかにあれ、ただ心だけを「至高なるもの」の中に失いなさい。それがヨーガ、それが至福だ! それがヨーギー、至福の化身なのだ! (第12節)


(8) カルマ・ヨーガもバクティである。
神を礼拝するのに花々や物を捧げるのは厄介なこと。ハートというたった一本の花をシヴァの御足に捧げて安らぎなさい。こんな単純なことさえ知らずに、さ迷い続けるのは何と愚かなことか! (第9節)


(9) このカルマ・ヨーガはサンサーラを終わらせる。
帰依者が人生のどの段階(アーシュラマ)にあろうと、ひとたび神を想うだけで、シヴァはサンサーラという重荷を帰依者から解放して、彼自身で背負うのだ。(第11節)


(10) バクティ(帰依)はジニャーナ(真我の知識)である。
シヴァの御足元に心を失うことこそが帰依である。無知は消え去った! これが叡知! これが自由だ! (第91節)

(対話428)


風になったとき、自分がこれまでどれだけ限られた存在であったか、そして自然界の力がどれだけ自由であるかが、よくわかった。風になったとき、私は形を持たない見えない力となったのだ。それは脈動する光であり、分割できないものであった。風としての私は、谷や峡谷の間を通りぬけ、山々や海や雲の層の中を通りぬけて、自由に動くことができたが、私の姿を見ることができる者はいなかった。そして、風のように、木々の葉をエメラルド・グリーンから銀色に変えたり、大木を動かすこともできたし、赤ん坊の肺や愛する者の口の中に入り込んでから、ふたたび雲の中に戻ってそれを押しやることもできた。風になったとき、私は最高の動力となったのだ。それは、けっして飼い慣らすことのできない激しい動きであり、完全に自由であった。つまり、重さからも、大きさからも、時間からも解放されていたのである。


風になったとき、人間は自分自身について無知であれば、どれほど小さく無力であるか、そして知識の中へと自分を広げていけば、どれほど偉大になれるかを、私は理解した。ただ単に望むことを通して、長い間何かについて熟考すれば、それが何であろうと人間はそれになるのだということも知った。もしある人間が、自分は不幸で、魂もなく、無力なのだと自分にずっと言い続ければ、その人間はそれを信じるようになり、実際にそうなってしまうのだ。自分を「風の主(あるじ)」と呼ぶならば、その人間は風の主になる。私が風の主となったように。そしてもし人が自分自身を神と呼ぶならば、その人間は実際に神となるのである。


あなた方のこの場所も、あなた方が存在しなければ、創造性のスープの中に埋もれた混沌とした惑星にすぎなかっただろう。あなた方がいなければ、四季はめぐらず、花も咲かず、太陽も昇らず、風も吹かなかったことだろう。なぜなら、自分たちの意図的なデザインによってこの世界を創造したのは、あなた方であるからだ。そして、すべてのものは、あなた方の内面に宿る神に栄光をもたらすという目的のために、意図的に生み出されたものだからだ。


自分自身を理解することによってより偉大な存在になりたいという欲求を「父」に与えたのは、何だったのだろうか? 「愛」である。熟考する思考のまさに本質の部分、その真の目的は、愛である。神の自分自身に対する愛こそが、自分自身について熟考し、独自の拡大された形になりたいという欲求を、神に与えたのである。


この愛による動きによって、あなた方すべてが生まれたのだ。というのも、神が自分自身を抱き容れ、愛することによって、さらに偉大な存在となったとき、あなた方全員が、神が拡大していったものそのものとなったからだ。あなた方の一人ひとりが、同じこの驚くべき瞬間に、はじめて熟考されることによって、拡大された思考の輝かしい一部分となったのである。


「父なる神」の最初の創造物となったあなた方は、一人ひとりが神から生まれた神、すなわち「父」の息子となり、神のマインドと呼ばれる神聖なる知性の一部分となったのである。神々であるあなた方は、神自身によるただひとつの直接の創造物なのだ。あなた方だけが、「父」を完全に複製した創造物なのである。なぜなら、「父」が拡大された形があなた方だからだ。「父」のすべては、彼の愛する息子たちをすべて合わせたものの中に、限りない状態で存在しているのである。



質問者 告白しなければなりません。私は今日、反抗的な気分でやってきました。航空会社から粗雑な扱いをされたのです。そのような状況に直面すると、すべてが疑わしく思われ、すべてが無駄なように見えてしまいます。


マハラジ それはとても有用な気分だ。すべてを疑い、すべてを拒絶し、他者から学ぶことを望まないこと。それはあなたの長いサーダナ(修練)の成果なのだ。つまり、人はいつまでも学ぶばかりではないということだ。


質問者 もう充分です。それは私をどこへも導いてはくれませんでした。


マハラジ 「どこへも」と言ってはならない。それはあなたを今ここへ導いたのだ。


質問者 また同じ子供とその癇癪なのです。結局、以前いた場所から一歩も動いてはいないのです。


マハラジ あなたは子供としてはじめ、子供として終えるだろう。何であれその間に得たものは失われ、はじめから出発しなければならないのだ。


質問者 しかし子供は反抗しています。不幸せだったり、何かを否定されたりすると、子供は反抗するのです。


マハラジ 反抗させればいい。ただその反抗を見ていなさい。もしあなたが社会に対して確信をもって反抗するのを恐れるようならば、それもまた見ていなさい。それがつらいことなのは知っている。だが、解決法を探すのをやめるという唯一の解決法を除いて、解決法はないのだ。
もし怒りや痛みがあるならば、その怒りと痛みからあなた自身を切り離しなさい。客観化は解放への第一歩なのだ。物理的な出来事は起こりつづけるだろう。だが、それら自体には何の重要性もないのだ。重要なのはマインドだけだ。何が起ころうとも、航空会社や銀行で反抗したり、泣きわめいたりすることはできない。社会が許さないだろう。もし彼らのやり方が気に入らないのなら、あるいは我慢しきれないなら、飛行機に乗らなければいい。あるいはお金をもっていかなければいい。歩きなさい。もし歩けないならば、旅行をあきらめるがいい。社会と折りあってやっていくならば、彼らのやり方を受け入れなければならない。なぜなら、それはあなたのやり方でもあるからだ。あなたの必要性と要求がそれらをつくり出してきたからだ。あなたの欲望はとても複雑で矛盾しているため、あなたのつくり出した社会もまた複雑で、矛盾しているのも無理はない。


質問者 外側の混乱が私の内なる不調和の反映だということは、私にも理解でき、認めもします。しかし、その解決法とは何でしょうか?


マハラジ 解決法を求めてはならない。


質問者 ときどき、人は「神の恩寵に浴した状態」にあり、人生は幸福で平和です。しかしそのような状態は長続きしません。気分は変わっていき、すべてはおかしくなってしまうのです。


マハラジ もしあなたが期待や記憶を取り払い、ただ静かにしていることができるならば、出来事の織り成す美しい模様を見極めることができるだろう。混沌を招いているのはあなたの落ち着きのなさなのだ。


質問者 三時間もの間、航空会社のオフィスで、私は忍耐と寛容を実習していたのです。それは状況を早めませんでした。


マハラジ 少なくとも、それは彼らを遅らせなかったのだ。あなたが反抗すれば、間違いなく遅れていただろう。あなたは即席の結果を求めているのだ! 私たちはここで魔術を行なっているのではない。誰もが同じ過ちをする。手段を拒みながら結果を求めるのだ。あなたは世界のなかに平和と調和を求めながら、あなた自身のなかにそれをもつことは拒んでいるのだ。私の助言に、ただ盲目的にしたがってみるといい。けっしてあなたを落胆させはしないだろう。あなたの問題をただ言葉だけで解決することはできない。私が言ったことにあなたが働きかけ、たゆまずやりつづけなければならないのだ。正しい助言がではなく、その助言をもとにしたあなたの行為が解放をもたらすのだ。医師が患者に注射をした後、「さあ、静かにしなさい。何もせずに、ただ静かにしなさい」と言うように、私もあなたに言っているのだ。私はあなたに注射をした。さあ、静かにしなさい。ただ、静かにしなさい。あなたはほかに何もしなくていいのだ。私のグルも同じことをした。彼は私に何かを語り、そして言ったのだ。「さあ、静かにしなさい。いつまでも思いめぐらしていてはいけない。止まりなさい。沈黙しなさい」と。


質問者 朝の一時間、静かにすることはできます。しかし、一日は長く、多くのことが起こり、私をバランスのとれた状態から放りだしてしまうのです。「静かにしなさい」と言うのは簡単です。しかし、私のなかで、そしてまわりですべてが叫んでいるのです。いったいどうすればいいのでしょうか。教えてください。


マハラジ 為すべきことは、すべて平和と沈黙のなかで為すことができる。心を乱される必要はないのだ。


質問者 それはみな、事実にそぐわない理論でしかありません。私はヨーロッパに帰るのですが、そこでは何もすることがないのです。私の人生はまったく空っぽなのです。


マハラジ もしあなたがただ静かにするように試みるならば──仕事、仕事のための能力、正しい動機、すべてはやってくるだろう。すべて、前もってあなたが知っていなければならないのかね? 未来のことを心配してはならない。今、静かで在りなさい。そうすれば、すべては正しい場所に収まるだろう。予期しなかったことが、かならず起こるだろう。期待して待っていたことは、けっして起こらないかもしれないのだ。あなたの性質を制御できないと言ってはならない。制御する必要はないのだ。それを海に投げ捨ててしまうがいい。闘ったり、服従したりするような性質をもつことはない。もしあなたがそれを習慣にさえしなければ、いかなる経験もあなたを傷つけることはないだろう。あなたが全宇宙の深遠な原因なのだ。すべてはあなたが在るゆえに在る。この要点を深く、確実につかみなさい。そしてそれについて繰り返し熟考しなさい。このことが絶対的な真実だと悟ることが解放なのだ。


質問者 もし私が宇宙の種子なら、私は腐った種子です! 実がなって種子は認められるのです。


マハラジ あなたがののしるほど、あなたの世界のどこが悪いというのだろうか?


質問者 それは苦痛に満ちています。


マハラジ 自然は快くもなければ、苦痛に満ちたものでもない。それはみな、知性と美にあふれているのだ。苦痛と快楽はマインドのなかにあるものだ。あなたの価値観の尺度を変えなさい。そうすれば、すべては変わるだろう。快楽と苦痛は、単に感覚を乱すものにすぎない。それらを同等に扱いなさい。そうすれば、そこには至福だけがあるだろう。そして、世界はあなたがつくり出すものだ。ぜひ、幸せな世界をつくり出すがいい。満足だけがあなたを幸せにすることができるのだ。満たされた欲望は、より多くの欲望を生みだす。すべての欲望に近づかず、自然にやってくるものに満足していることは、非常に実りある、満ち足りた状態への前提となる、必須の状態なのだ。一見空虚で不毛に見えることに、不信をもってはならない。私を信じてほしい。欲望を満たすことが惨めさを生みだし、欲望から自由になることが至福なのだ。


質問者 私たちはものを必要とします。


マハラジ もしあなたが不必要なものを望まなければ、必要なものはやってくるだろう。しかしながら、この完全な無執着と無関心の状態に達する人はごくまれなのだ。それは非常に崇高な、まさに解放の入口にある状態だ。


質問者 この二年間というもの成果がなく、私は寂しく虚ろな状態で、しばしば死が来るのを祈っていたのです。


マハラジ あなたがここへ来たことで、ものごとは起こりはじめている。それを起こるがまま起こらせるがいい。最後には、ものごとがそれ自体でうまく収まっていくだろう。未来に向かってあなたが努力をすることはない。未来はそれ自体であなたにやってくるだろう。しばらくの間、あなたは意味も確信も失ったまま、今同様に眠り歩きを続けるだろう。しかし、この時期は過ぎていく。そして、あなたは仕事が順調に進み、成果をあげるのを見ることだろう。心が虚ろで離れていくことは、誰でも、いつのときでもあるものだ。それはもっとも望まれる瞬間なのだ。なぜなら、それは魂が精神的な拠り所を棄て去り、遠くへと航海をはじめたことを意味するからだ。古かったものは終わりを告げ、新たなるものがまだ訪れていないとき──これが無執着だ。もしあなたが恐れるならば、この状態は悲痛なものとなるだろう。しかし、本当に何も恐れることはないのだ。教えを思い出しなさい。何であれ、あなたがであうものを超えていきなさい、ということを。


質問者 仏陀たちは、覚えるべきことを覚えるように指導してきました。しかし、正しい瞬間に、正しいことを思い出すのは、私にはあまりにも困難なのです。私にとっては、忘れることが法則であるかのようです。


マハラジ あらゆる状況が欲望と恐れの嵐をもたらすとき、思い出すのは易しいことではない。記憶から生まれた切望は、記憶の破壊者でもあるのだ。


質問者 どうやって欲望と闘うのでしょうか? 欲望より強いものは何もありません。


マハラジ 生命の水は、求むべき、あるいは憎むべき対象物の岩の上へと、怒号とともに打ちつけている。洞察と無執着によって岩を取り除くのだ。そうすれば、同じ水は深く、静かに、速やかに流れるだろう。しかもより力強く、より大量に。それについて理論的になることはないのだ。充分考慮するだけの時間をもつがいい。もしあなたが自由を望むならば、もっとも身近な一歩をおろそかにしてはならない。山を登るときのように、一歩もはずすことはできない。一歩でも足りなければ、山頂には到達されないからだ。


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