セウォル号事件のことで


思い出すのは事故直後から船内で10回以上流れたという「全員、その場で動くな」という愚劣な命令です。事情の説明はなく、救助申請すらすぐに出さず、怪我人への配慮もゼロで、問題だらけだったこの事件の最大の誤りはやはり「全体、止まれ」この命令でした。もし、自由に個人が動いていれば、このような被害にはなりませんでした。画一的に全体主義のように「止まれ」と命令され、思考も「停止」する。「止まれ」の根拠は何ですか? 背景の事情を説明されることなく「止まる」のですか? これが「Yes」なんです。「全体、止まれ」という命令の恐ろしさはそこにあります。「お前とお前は止まれ」だったら、被害はここまで拡大していません。「全体、止まれ」だから、隣の人の目も気にして、止まるんです。社会にとって最も怖いことの一つが、この「全体、止まれ」だと、人権、自由、視点の多様性をゆるさない社会へ転がり落ちることだと思いました。中国、ロシア、北朝鮮を笑えません。日本人はこれからの日本社会の生命線を理解すべきです。明治維新が成功したのは、幕府お上の「全体、止まれ」で思考停止するような者ばかりではなかったからです。n


逆向きで歩く


ことで流れに沿って歩く人たちの鼓動や息づかいを強く感じることになり、そこに隠された本質に気づきやすくなるという側面はあると思います。あえて逆らっているわけではなく、摩擦や衝突まがいの接触から多くの直感を得るものではないでしょうか。表道の本質や価値を一番理解しているのは実は裏道を行く人かもしれないです。n


すべり台の手すり


如雨露の水をよく通す穴のことを書いていて、手離れがいいというのは、すべり台の手すりに掴まらないで勢いよくすべっていく人のことだと思いました。すべりを抑制するのは手すりに手をかけ減速することです。手すりには想念を挟むたびに何らかの接触が発生します。それが減速とは限りませんが、少なくともコースは曲がっていきます。理想のコーナリングのために想念で手をかけるのは悪いことではありません。ですがそれをしている「私」を強く描けば描くほど本来のすべりの勢いはやはり削がれます。「私が、やった」感はマイナスにしかならない気がします。事実は「私は、やってない」からです。真我探求(アートマ・ヴィチャーラ)の反対で、世界探求(ローカ・ヴィチャーラ)においては主人公である想念の私(アハム・ヴリッティ)が必須です。その分発露した自分の利己性に自分で苦しみます。それを他人や環境のせいにするようになったらもう迷路です。ロケットみたいにすっ飛んで行く人は、手すりにまったくと言っていいほど触れていない気がしたんですね。n


解決法を探すのをやめるという唯一の解決法を除いて、解決法はないのだ。


あなたは世界のなかに平和と調和を求めながら、あなた自身のなかにそれをもつことは拒んでいるのだ。


教えを思い出しなさい。何であれ、あなたがであうものを超えていきなさい、ということを。


質問者 幻影には段階があるのでしょうか?


マハルシ 幻影そのものが幻影なのです。幻影はそれを超えた者によって見られるはずです。そのような「見る者」が幻影の支配を受けるでしょうか? 「見る者」が幻影の段階について語ることなどできるでしょうか?
映画の画像がスクリーンの上に投影されています。火は建物を灰へと焼き尽くし、水は船を難破させるかのように見えます。それでも、画像がその上に映し出されるスクリーン自体は、焼けることもなければ濡れることもありません。なぜでしょうか? なぜなら画像は実在ではなく、スクリーンが実在だからです。
同様に、鏡の中の反映は移り変わりますが、反映されたものの量や質に鏡が影響を受けることはありません。
それゆえ、世界は「一なる実在」の上に現れた単なる現象でしかなく、実在が現象から影響を受けることはないのです。実在はただ一つです。
幻影に関する議論は、見る角度の違いによるのです。

(対話446)


マハルシ 神や神の本質などについて考えたことはありますか?


質問者 そのような問題について読んだり話したりしたことはあります。


マハルシ もしそれと同じことを感覚を通して表現せずに心の中で熟考するなら、それが瞑想なのです。

(対話152)


マハルシ ヴィバクティ(分離)があるかぎり、バクティ(帰依)がなければならず、ヴィヨーガ(分離)があるかぎり、ヨーガ(合一)がなければなりません。二元性が存在するかぎり、神と帰依者は存在せざるを得ないのです。探求(ヴィチャーラ)についても同様です。ヴィチャーラがあるかぎり、二元性もあることになります。しかし源に融け入れば、そこには「一なるもの」だけが在ります。それはバクティにおいても同様です。帰依によって神を実現すれば、そこに存在するのは「一なるもの」だけでしょう。神もまた真我の中で真我によって考えられたものです。それゆえ、神は真我と同一なのです。もし神への帰依心を抱きなさいと言われた人がすぐさまそのとおりにするなら、それでよいでしょう。しかし自らを振り返って「そこには二人がいる。神と私だ。遥か彼方にいる神を知るよりも、より身近で、より親しい『私』を知りたい」と言う人もいるのです。このような人にこそ、真我探求の道(ヴィチャーラ・マールガ)が説かれるべきです。実際、真我探求と帰依には何の違いもないのです。

(対話154)


上流階級の教養あるインド人女性リーナ・シャラバーイの質問に、シュリー・バガヴァーンが答えた。


マハルシ 平静な状態が至福の状態です。『ヴェーダ』の中の「私はこれだ、あるいはあれだ」という宣言も、心の平静を得るだけのためにあるのです。


質問者 それでは、一つの目的を持って探求することは間違いなのですね?


マハルシ もし到達されるべき目的地があるとすれば、それは永遠のものではありえません。目的地は、すでにそこにあるものでなければなりません。私たちは自我によって目的地に到達しようとしています。しかし目的地は自我が現れる以前から存在しているのです。目的地は私たちの誕生、つまり自我の誕生以前から存在しています。私たちが存在するため、自我も存在するように見えるのです。


(中略)


マハルシ 実現はすでにそこに在ります。想念から自由になった状態だけが真の境地であって、実現といったような行為はないのです。真我を実現していない人がいるでしょうか? 自分の存在を否定する人がいるでしょうか?


(中略)


マハルシ 心を殺したいと思っているのは、心そのものではないでしょうか? 心がそれ自体を殺すことはできません。それゆえ、あなたの仕事は心の真の本性を見いだすことにあるのです。そうすれば、心が存在していないことを知るでしょう。
真我が探求されたとき、心はどこにも見当たりません。真我の内にとどまれば、心の心配をする必要はなくなるのです。


(中略)


マハルシ 誰が自分以外のもの(外側にあるもの)を見るのでしょうか? 最初に自我が現れ、外側に物事を見ます。自我が立ち現れなければ、真我だけが存在し、自分以外のものは何もなくなるのです。
自己の外側に何かがあるとしたら、それは内側に見る者がいることを暗示しています。その見る者を探し出せば、疑いや恐れは起こらなくなるでしょう。恐れだけではありません。自我を取り巻くすべての想念も、それとともに消え去るのです。


(中略)


マハルシ もし単一性があるなら、そこには二元性もあるということです。一という数が、その他の数を生じさせるからです。しかし真理には一も二もありません。「それ」はあるがままなのです。


(中略)


「あなたは自我ではない。実在を実現しなさい」と言われたにもかかわらず、なぜまだ自我と自分自身を同一視するのでしょうか? それはちょうど「薬を飲むときに猿のことを考えてはならない」という諺のようなもので、不可能なことです。普通の人々にも同じことが起こります。実在について教えられたのに、なぜ「私はシヴァである」や「私はブラフマンである」に瞑想し続けるのでしょう? その真の意義を見極め、理解しなければなりません。単に言葉を繰り返したり、それについて考えたりするだけではだめなのです。
実在とはただ自我を失うことです。

(対話146)



(1) バクティとは何か?
木から落ちたアンコラの実が再び木と一つになるように、あるいは鉄が磁石に引き寄せられるように、ひとたび立ち現れた想念もその源に戻って消え去る。これがバクティである。想念の源はイーシュヴァラ神の御足元(みあしもと)にある。神の御足を愛すること、それがバクティである。(第61節)


(2) バクティの結実。
神の御足という超越的な空(そら)の上で生まれた帰依心(バクティ)に溢れる雲は、至福の雨を降らし、心という湖を満ち溢れさせる。そのとき初めて、無益な輪廻転生を果てしなく繰り返してきたジーヴァの真の生きる目的は遂げられるのである。(第76節)


(3) バクティの在処。
源であり終着地でもある神々に帰依することは、同じように原因と結果をともなった結実をもたらす。永久の至福の内に在るためには、永久の至福の源である神の御足に帰依心を捧げなければならない。(第83節)


(4) バクティは体験が重要なのであって、単なる言葉は重要ではない。
論理や論争に何の益があるのか? 人生の危機やガターパタ(論理家たちが好んで用いる論法)が助けになると言うのか? ならば、なぜそれについて考えたり討論したりすることで人生を無駄にするのか? 口を動かすのはやめなさい。ただ神の御足だけを想い、甘露(ネクター)を飲みほしなさい! (第6節)


(5) 帰依心の結実は不死性である。
神の御足をハートの内奥に植えつけた人を見たとたん、死は大昔にマールカンデーヤに出会ったときの悲惨な出来事を想い出して、一目散に逃げ出す。他の神々はみな、シヴァ神の御足元に頭(こうべ)を伏せ、ただ彼だけを礼拝する。そのような私心なき礼拝を受けることは、シヴァ神にとっては自然なことだ。
彼の妻である解脱の女神は、いつも彼の一部としてそばに寄り添っている。(第65節)


(6) ただ帰依心さえあれば、ジーヴァであることに影響されはしない。
いかに身体が移り変わろうと、神の御足元に失われるのは心だけ。そして至福は溢れ出す! (第10節)


(7) 帰依心が弱まることはけっしてない。
いつであれ、いかにあれ、ただ心だけを「至高なるもの」の中に失いなさい。それがヨーガ、それが至福だ! それがヨーギー、至福の化身なのだ! (第12節)


(8) カルマ・ヨーガもバクティである。
神を礼拝するのに花々や物を捧げるのは厄介なこと。ハートというたった一本の花をシヴァの御足に捧げて安らぎなさい。こんな単純なことさえ知らずに、さ迷い続けるのは何と愚かなことか! (第9節)


(9) このカルマ・ヨーガはサンサーラを終わらせる。
帰依者が人生のどの段階(アーシュラマ)にあろうと、ひとたび神を想うだけで、シヴァはサンサーラという重荷を帰依者から解放して、彼自身で背負うのだ。(第11節)


(10) バクティ(帰依)はジニャーナ(真我の知識)である。
シヴァの御足元に心を失うことこそが帰依である。無知は消え去った! これが叡知! これが自由だ! (第91節)

(対話428)


風になったとき、自分がこれまでどれだけ限られた存在であったか、そして自然界の力がどれだけ自由であるかが、よくわかった。風になったとき、私は形を持たない見えない力となったのだ。それは脈動する光であり、分割できないものであった。風としての私は、谷や峡谷の間を通りぬけ、山々や海や雲の層の中を通りぬけて、自由に動くことができたが、私の姿を見ることができる者はいなかった。そして、風のように、木々の葉をエメラルド・グリーンから銀色に変えたり、大木を動かすこともできたし、赤ん坊の肺や愛する者の口の中に入り込んでから、ふたたび雲の中に戻ってそれを押しやることもできた。風になったとき、私は最高の動力となったのだ。それは、けっして飼い慣らすことのできない激しい動きであり、完全に自由であった。つまり、重さからも、大きさからも、時間からも解放されていたのである。


風になったとき、人間は自分自身について無知であれば、どれほど小さく無力であるか、そして知識の中へと自分を広げていけば、どれほど偉大になれるかを、私は理解した。ただ単に望むことを通して、長い間何かについて熟考すれば、それが何であろうと人間はそれになるのだということも知った。もしある人間が、自分は不幸で、魂もなく、無力なのだと自分にずっと言い続ければ、その人間はそれを信じるようになり、実際にそうなってしまうのだ。自分を「風の主(あるじ)」と呼ぶならば、その人間は風の主になる。私が風の主となったように。そしてもし人が自分自身を神と呼ぶならば、その人間は実際に神となるのである。


あなた方のこの場所も、あなた方が存在しなければ、創造性のスープの中に埋もれた混沌とした惑星にすぎなかっただろう。あなた方がいなければ、四季はめぐらず、花も咲かず、太陽も昇らず、風も吹かなかったことだろう。なぜなら、自分たちの意図的なデザインによってこの世界を創造したのは、あなた方であるからだ。そして、すべてのものは、あなた方の内面に宿る神に栄光をもたらすという目的のために、意図的に生み出されたものだからだ。


自分自身を理解することによってより偉大な存在になりたいという欲求を「父」に与えたのは、何だったのだろうか? 「愛」である。熟考する思考のまさに本質の部分、その真の目的は、愛である。神の自分自身に対する愛こそが、自分自身について熟考し、独自の拡大された形になりたいという欲求を、神に与えたのである。


この愛による動きによって、あなた方すべてが生まれたのだ。というのも、神が自分自身を抱き容れ、愛することによって、さらに偉大な存在となったとき、あなた方全員が、神が拡大していったものそのものとなったからだ。あなた方の一人ひとりが、同じこの驚くべき瞬間に、はじめて熟考されることによって、拡大された思考の輝かしい一部分となったのである。


「父なる神」の最初の創造物となったあなた方は、一人ひとりが神から生まれた神、すなわち「父」の息子となり、神のマインドと呼ばれる神聖なる知性の一部分となったのである。神々であるあなた方は、神自身によるただひとつの直接の創造物なのだ。あなた方だけが、「父」を完全に複製した創造物なのである。なぜなら、「父」が拡大された形があなた方だからだ。「父」のすべては、彼の愛する息子たちをすべて合わせたものの中に、限りない状態で存在しているのである。



質問者 今まで多くの真我を実現した人に会いましたが、解脱した人には一度も会ったことがありません。あなたは解脱した人に会いましたか? それとも、解脱した人は身体をも放棄した人なのでしょうか?


マハラジ 真我の実現と解脱という言葉で、あなたは何を意味しているのだろうか?


質問者 真我の実現とは、世界が意味をもち、物質と本質の統合が遍在する、素晴らしい、平和、善、そして美の体験です。そのような体験は長続きしませんが、忘れることもできません。それは記憶と切望として、心のなかで輝きます。自分の言っていることは理解しているつもりです。私自身そのような体験をしましたから。
解脱とは、その素晴らしい状態のなかに永久にとどまることです。私が尋ねたかったことは、解脱とは身体の放棄も意味するのかということです。


マハラジ 身体のどこが問題なのかね?


質問者 身体は弱く、短命です。それは要求や欲望を生みだし、それが人を悲惨にも限定するのです。


マハラジ だからどうだというのだろう? 身体の表現がかぎられているならば、そうあればいい。しかし、解脱とは自分に押しつけてきた誤った自己の観念から自由になることなのだ。それはどんなに輝かしいものでも、ある特定の体験のなかに含まれるようなものではない。


質問者 それは永遠のものなのでしょうか?


マハラジ すべての体験は時間の限界内にある。何であれ、はじまりあるものは終焉を迎える。


質問者 では、私が言う意味での解脱というものは存在しないのでしょうか?


マハラジ その反対に、人はいつも自由なのだ。あなたは意識しており、また自由に意識できる。誰もそれをあなたから奪い取ることはできない。今まであなたが無意識あるいは非存在であると知ったことがあるだろうか?


質問者 覚えてはいないかもしれませんが、だからといって、それが無意識になったことがないという証明にはなりません。


マハラジ 体験から体験者へと見る向きを変えなさい。そしてあなたができるたったひとつの真の表明、「私は在る」の完全な意味、その重要性を悟るがいい。


質問者 どのようにすればいいのでしょうか?


マハラジ ここでは、「どのように」ということはない。ただマインドのなかに「私は在る」という感覚を保ち、あなたのマインドとその感覚がひとつになるまで、そのなかに没入しなさい。繰り返し試みることによって、あなたはそれへの愛情と留意の正しいバランスをつかむだろう。そして、マインドは「私は在る」という思考─感覚のなかに、揺らぐことなく確立するようになるだろう。何であれ、あなたが考え、話し、行なうにも、この不変で愛情深い存在の感覚は、つねにマインドの背景として消えることなく残るだろう。


質問者 そして、それが解脱なのでしょうか?


マハラジ 私はそれを普通と呼ぶ。努力なく、幸せに、行動し、知り、在ることのどこが間違っているだろうか? なぜ身体の即座の崩壊を期待するような、そんな特別なことと考えるのだろう? 身体に死が訪れることの何が間違っているのだろうか? 身体に対する態度を正し、忘れてしまいなさい。甘やかさず、苦しめず、ほとんどの時間、意識的留意の境界下においておけばいいのだ。


質問者 その素晴らしかった経験の記憶が、私を虜にしています。私はふたたびそれを得たいと望んでいるのです。


マハラジ 取り戻したいと願うから、それを得ることができないのだ。切望の状態がすべてのより深い体験を妨げる。何を欲しているかを正確に知っているマインドには、価値あることなど何ひとつ起こらない。マインドが求め描いているようなものに、たいした価値のあるものなどないからだ。


質問者 それでは、求める価値のあるものとは何でしょうか?


マハラジ 最上のものを求めなさい。最高の幸福、もっとも偉大な自由を。無欲が最大の至福なのだ。


質問者 欲望からの自由は、私が求めているものではありません。私が欲しいのは、切望を満たすための自由です。


マハラジ 切望を満たすのはあなたの自由だ。事実、あなたのしていることはそれ以外の何ものでもない。


質問者 試みるのですが、障害がいつも私を挫折させます。


マハラジ 乗り越えなさい。


質問者 できません。私は弱すぎるのです。


マハラジ 何があなたを弱くさせるのだろう? 何が弱みなのだろうか? ほかの者たちは欲望を満たしているのだ。なぜそうしないのかね?


質問者 エネルギーが欠けているに違いありません。


マハラジ あなたのエネルギーに何が起こったのだろう? それはどこへ行ったのだろうか? あなたはそれをたくさんの反駁する欲望や楽しみの追求にまき散らしたのではないだろうか? あなたには無限のエネルギーの供給がなくなったのだ。


質問者 それがいけないことでしょうか?


マハラジ あなたの目的は小さく低次のものだ。それはより以上を求めない。神のエネルギーだけが無限だ。なぜなら、神は自分自身のために何も求めないからだ。彼のように在りなさい。そうすれば、すべての欲望は満たされるだろう。目標が高く、望みが広大なほど、あなたはより多くのエネルギーを得るだろう。すべての人のためを想って望みなさい。そうすれば、宇宙はあなたとともに働くだろう。だが、もしあなたが自分の喜びのために欲するなら、それを得るためにつらい努力をしなければならない。欲する前に、受けるだけの価値ある人になりなさい。


質問者 私は哲学、社会学、そして教育の研究をしています。真我の実現の夢を見る前に、より精神的成長が必要だと思うのです。私の考えは正しいでしょうか?


マハラジ 生活の糧を得るには、ある特殊な知識が必要だ。一般的な知識が思考の発展を促すことは間違いない。だが、もしあなたが知識を蓄えることで人生を送るならば、あなたは自分のまわりに壁を築くだけだろう。マインドを超えるために飾りたてられたマインドは必要ない。


質問者 では、何が必要なのでしょうか?


マハラジ マインドを信頼せず、それを超えていきなさい。


質問者 マインドの彼方に、私は何を見いだすのでしょうか?


マハラジ 存在と智慧と愛の直接体験だ。


質問者 どうすればマインドを超えていけるのでしょうか?


マハラジ スタート地点は数多くあるが、それらはすべて同じゴールに導く。あなたは行為の結果を放棄しながら、私利私欲のない仕事からはじめるかもしれない。そしてマインドを放棄し、最後にはすべての欲望を放棄するかもしれない。ここでは、放棄が作用する要因だ。あるいは、あなたは欲することも、考えることも、為すこともすべて気にとめず、「私は在る」という思考と感情の内にとどまり、マインドのなかで確固として「私は在る」に焦点を合わせるかもしれない。あらゆる類の体験があなたに訪れるだろう。「私は在る」だけが永遠に変わらず、知覚できるものすべては一時的なはかないものだという知識のなかに、揺らぐことなく在りなさい。


質問者 全人生をそんな修行に費やすことはできません。私には義務と仕事があります。


マハラジ もちろん職務に励みなさい。感情的に巻き込まれず、有益で、苦しみをともなわない仕事は、あなたを因果的に束縛しない。あなたはいくつもの分野に従事し、途方もない熱情とともに仕事をしながらも、内面ではその影響を受けずに、すべてを映しだす鏡のように自由で静かなマインドを保つかもしれない。


質問者 そのような状態が実現可能なのでしょうか?


マハラジ もしそうでなければ話しはしない。なぜ私が絵空事を言うだろうか?


質問者 誰もが聖典を引用します。


マハラジ 聖典のみを知る者は、実際には何も知らない。知ることとは、在ることだ。私は、私が言っていることを知っている。それは人から聞いたことでも、読んだことでもない。


質問者 私はある教授のもとでサンスクリット語を学んでいます。でも、本当はただ聖典を読んでいるだけなのです。私は真我の実現を探求しており、必要な指導を受けに来たのです。どうか、どうすればよいか教えてください。


マハラジ 聖典を読んだのなら、なぜ私に尋ねるのかね?


質問者 聖典は一般的な指示を示しますが、個人は個別の指導が必要です。


マハラジ あなた自身があなたの究極の師(サッドグル)だ。外側の師(グル)は、ただの道しるべにすぎない。あなたの内なる師がともにゴールまで歩いてくれるだろう。なぜなら彼がそのゴールだからだ。


質問者 内なる師には簡単に出会えません。


マハラジ 彼はあなたのなかにいるのだ。困難であるはずがない。内側を見なさい。彼はそこにいる。


質問者 私が内側を見るとき、そこには感覚や知覚、思考や感情、欲望や恐れ、記憶や期待の雲が見えるばかりで、ほかには何も見えません。


マハラジ それらすべて、そしてまた無も見ているそれが内なる師なのだ。彼だけが存在する。それ以外はみな、ただの現れにすぎない。彼があなたの真我(スワルーパ)、自由への確信と希望なのだ。彼を見いだし、しっかりとつかんで離してはならない。そうすればあなたは救われ、安全だろう。


質問者 あなたを信じます。それでも、いざ実際に内なる師を見いだそうとすると、それは私から逃げてしまうのです。


マハラジ 「それは私から逃げてしまう」という考えは、いったいどこからやってくるのだろうか?


質問者 マインドです。


マハラジ そして、マインドを知っているのは誰だろうか?


質問者 マインドを観照するものがマインドを知っています。


マハラジ 誰かがあなたのもとへやってきて、「私があなたのマインドの観照者だ」と言ったのかね?


質問者 もちろん、そうではありません。彼もまた、マインドのなかの別の観念にすぎません。


マハラジ それならば、誰が観照者なのか?


質問者 私です。


マハラジ そのとおりだ。あなたは観照者を知っている、なぜならあなたが観照者だからだ。観照者を目の前に見る必要はない。ここでもまた、在ることが知ることなのだ。


質問者 はい。私が観照者、気づきそのものだということは理解できます。ですが、それがどう私の得になるというのですか?


マハラジ 何という質問だ! どんな利益を期待するというのか? あなたが誰なのかを知ること自体、充分ではないかね?


質問者 自己知識は何の役に立つのでしょうか?


マハラジ それは何があなたではないか、ということの理解を助け、誤った考えや欲望や行為からあなたを自由にするのだ。


質問者 もし私がただの観照者であるなら、正しいとか間違っているということに何の意味があるというのでしょうか?


マハラジ あなた自身を知ることを助けるものが正しく、それを妨げるものは間違いだ。真我を知ることは至福であり、それを忘れることが不幸なのだ。


質問者 観照者意識が真我なのでしょうか?


マハラジ 観照者意識はマインドのなかの実在の反映だ。実在はその彼方にある。観照者とは、それを超えて彼方へと通りぬけていくための扉なのだ。


質問者 瞑想の目的とは何でしょうか?


マハラジ 偽りを偽りと見ることが瞑想だ。それは絶えず続いていかなければならない。


質問者 私たちは定期的に瞑想するように言われています。


マハラジ 真実と偽りの区別、そしてその偽りを自ら放棄していく日々の訓練が瞑想だ。初心者には数多くの種類の瞑想があるが、最後にはすべてがひとつに溶け入る。


質問者 どうか、どれが真我の実現への一番の近道か教えてください。


マハラジ どれが近くどれが遠いということはないが、ある人はより真剣であり、ある人はそれに劣る。あなたに私自身のことを話そう。私は単純素朴な人間だったが、グル(師)を信頼し、彼が私にするようにと言ったことをしたのだ。彼は私に「私は在る」という感覚に集中するようにと言い、私はそうした。彼が、私は考えうる、知覚しうるすべてを超えたものだと言い、私は信じたのだ。私は彼に、私のハートと魂、許されるかぎりのすべての空き時間(家族を支えるための仕事があったため)とすべての注意を捧げた。真剣な修練と信頼の結果、私は三年のうちに真我(スワルーパ)を実現したのだ。あなたに合う道を選ぶがいい。真剣さが進歩の度合いを決定する鍵だ。


質問者 私へのヒントはないのでしょうか?


マハラジ 「私は在る」という気づきのなかに、揺らぐことなく確立しなさい。これがはじまりであり、またすべての努力の終わりだ。


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