一筋の意味がわかりますか?


他が道具にすぎなくなる、ということです。状況も現象も体感もすべてが道具です。あなたが認めた価値は、その一者しかないため、すべてが一者に仕えるための道具となるのです。足元に気をつけて一歩一歩というより、一者しか見ないままで一歩一歩歩んでいけるような者なのかと問われ続けるようなものです。理論的にその「道」は存在しても、そういう魂(その道を歩んでいける魂)かどうかは別です。確かにあるのは、いまの己です。いまの己の意識レベル、制限想念、自己課題と認識したもの、欲望、絆、そしてそれらすべてを超越するあなたです。n


あなたの人生に起こるすべての出来事は、明確な深い意味と目的を持っています。


自分が行うこと、経験することのすべてが、自己に対する理解を深めるプロセスの一部となります。


あなたのなかにある「神を見つけたい、”大いなる故郷”へ帰りたい」と切望する気持ちは、神から切り離された自分というものがあって、神を見つけるためには、どこかへ行ったり、何かをしたりしなければならないとまだ信じている、そういう部分の自分なのです。


人生のいいものすべてが欲しいと人は言います。欲しがらないで、すべてになってください。あなたは、自分が求めるものそのものなのです。そこに達するために越えなくてはならない障害は何もありません。ただしその境地に達するには、自分は神から分離した存在であるという考えを捨てなければなりません。


体験そのもののなかに”神の本質”が含まれています。悟りとか、神を見つけるということの神秘は、まさにこの点にあります。


何も私は、むずかしくてつらいことをしなさいと言っているのではありません。





体験のなかに含まれているものに気づいてほしいのです。





人がそれに気づくのを邪魔する些細なことが山ほど存在するので、注意してください。人を堂々めぐりさせるのは、じつにこうしたつまらない事柄です。


「あれが欲しかったのに」
「もっと私に関心を払って」
「気持ちを傷つけられたわ」


こうした無意味なことが無数にあります。けれどもそれらの背後に隠れているのは、値段のつけようもないほどみごとな真珠であり、永遠に光り輝く”大いなる光”であり、尽きることのない慈悲であり、自分の”存在”のすばらしい神秘の実感なのです。


愛とは、何かをしたり、頭であれこれ考えることではありません。自分のなかや自分のまわりにあって、自然に流れ動くものが愛なのです。そして、その人のあり方そのものが”崇高なる愛”なのです。


愛とは行為や行動をさすのではありません。愛のただなかにいるときに人が鮮明に意識するのは、愛とは自分のあり方そのものだという事実です。人のあり方そのものが愛だとすれば、誰かに対して「あり方」をどうするということはできません。愛とはあなたの本質そのものであり、あなたのあり方なのです。あなたそのものということは、あなたには自分でそれをコントロールできないということです。それは”大いなる源”(すべてを生みだした根源的エネルギー)から与えられ、はじめから人間にそなわっているものです。すべてのものはこの”大いなる愛”から創りだされます。ですから、自分が愛であることを感じている人は、この状態が全く自分のコントロールの範囲外にあることを理解しています。どんな人が目の前に現れようとも、愛がその瞬間を支配する感情だからです。とても風変わりな人が現れても、その人に対する深い思いやりと、相手への理解が心のなかからわき起こってきます。これが”大いなる愛”です。


愛は、自分の意思の力で生みだしたり、あるべきだと要求したりできるものではないということを忘れないでください。あなたにできることは、愛を体現していると思う道にしたがうことだけです。


自分を愛情深い人間だと思っている人は、もう一度その考えを見直してください。自分を「愛情深い人間だ」と考えるのは、人間のエゴがふりかざしたがる最大の幻影です。


では、自分が本当に愛情深い人間かどうか、どうしたらわかるのでしょうか。あなた方にとって、その答えはあまりにシンプルすぎて、受け入れがたいかもしれませんが、こういうことです。自分の心をよぎるすべての人、自分の目の前に現れる人のすべてに対して、温かい思いやりの心とその人たちの気持ちを理解する心を持つことができたとき、その人は本当に愛情深い人ということができます。



マハルシ それには、「私は心や現象を超越した真我である」という強烈な確信が必要とされます。


マハルシ たとえ心が活動的であろうと、それが何だと言うのでしょう? それはただ根底に在る真我の上でさ迷っているだけです。心が活動している間でさえ、真我をとらえなさい。


マハルシ ただ「私は真我である」という断固たる確信が必要なだけです。他の活動は、むしろあなたにヴェールを覆っているのです。


マハルシ つまり、確信が弱かったのです。

(対話406)


今よりも深く祈ったり、自分をもっと浄化したり、より敬虔な生活をしたりすることができる、という考えは誤っています。あなたはすでに浄化されており、敬虔であり、祈りに満ちています。
あなたという”存在”の持つ、純粋ですばらしい基本要素を取り出して、それをちがう形にねじ曲げてしまうのは、あなたの思考する頭なのです。ときにはねじ曲げられた形は不快な形です。


朝起きて、「今日一日、夫(妻)に対してやさしく接するように努力しよう。心を大きく開き、ものごとの本質をはっきり見るように努力しよう。平和と愛と喜びと美で自分を満たすように努力するのだ」と心に決めます。じつはそのあいだ、エゴは嘲笑しているのです。なぜならこの<努力する>ということこそが、エゴが望んでいる態度だからです。エゴは、あなたがこのねじ曲げられた形から目をそらさず、それを元どおりにする努力を続けることを望んでいます。


あなた方がここで理解するようになるのは、どんな感情もどんな考えもどんな行動も<それ>である、ということです。<それ>というのは神のことです。あなたの一部が新しい体験を求めているあいだ、別の部分はすでにそれを体験しているのです。自分の”存在”のうちで<ただ体験している>部分とつながることができると、あらゆることに喜びを感じるようになります。たとえ死ぬほどの恐怖や煮えたぎる怒りのまっただなかにあっても、それを喜んで体験している部分が自分のなかにあることを感じるようになります。あなたのなかの最も深い部分は、善と悪、快と苦とを区別しません。ただ体験していることを感じているだけです。


これまで人は、自分の体験に名前をつけるように教え込まれてきました。その結果、自分の体験について考えるという作業に一生を費やします。
「あの感情は嫉妬であり、嫉妬はいけないことだ」
エゴは、あなたが何かを体験するのではなく、体験について考えることを望みます。


エゴはあなたが問題を定義づけることを喜びます。
「私の悪い点は、やさしさに欠けていることだ」


問題を定義づけるやいなや、エゴはそれを念頭から追い払ってしまいます。定義してしまったらそれでおしまい、というわけです。さもなくばエゴは、その問題を際限なく頭で分析するという作業にあなたを従事させます。どちらにしろ、あなたはもうそれを体験していないわけですから、失敗です。


それぞれの人生の瞬間を味わいつくすということこそが、神であるということなのです。人生のそれぞれの瞬間を実感するには、どんな意識状態になくてはならないか、に気づく必要があります。


それに達するための第一歩は、思考がいかにその邪魔をしているか、ということに気づくことです。頭はさまざまの手を使ってきますが、どの策略もじつはおなじです。これらの策略が、固定化した考えのパターンを形成していて、それが人をみじめにするのです。


こうしたパターン化した考えが、あなたの関心を引いては、日々の生活に緊張を生み出します。これらの考えが集まって、群れを形成します。そして人は、できごとをあるがままに体験するのではなく、異なった考えや行動を取るように習慣づけられます。


マハルシ いつであれ、どこであれ、一人ひとりが見ているのは、ただ自分の真我だけです。彼は世界や神を、自分の在り方にしたがって見ているのです。
ダルマプトラ(ユディシュティラ)は世界中の人々が何かしらの徳を持ち、何かしらの理由で自分自身よりも優れているのだと考えました。一方、ドゥルヨーダナにとって、この世はたった一人の善人さえいないところに見えたのです。
それぞれが自分自身の本性を映し出しているのです。

(対話531)


体の死は、眠りに入るのに似ている。スピリットが魂を呼びよせると、魂は「シール」、あるいは「チャクラ」と呼ばれている体の中のエネルギー・センターを通りながら上昇していく。魂とは記憶であるが、それは、頭の中心に位置する最後のシールである第七シール、すなわち脳下垂体と呼ばれる部分を通って体の細胞組織から離れていく。魂がここを通過するとき、しばしば風の音を聞きながらトンネルを通過するような感じとして体験される。トンネルの向こうに見える光が、あなたの存在の光、あなたの存在のスピリットである。魂が体を離れると、体はその役目を終え、その存在は自由な「魂としての自分」になる。これはほんの一瞬の間に起きることで、痛みはまったくない。


死の瞬間、すべては光り出し、恐ろしいほど明るくなってくる。なぜなら、この天界から去る瞬間、あなたは物質の濃密さから抜け出し、光の存在に戻るからだ。そこでのあなたは強力なマインドと感情だけの存在で、光の体があなたの体となる。そして、自分の光の体を通して受け容れた思考によって、その電気的な状態が変わるのである。そこからは、あなたは七つの天界のうちのひとつに行くことになる。あなたがどの天界に行くかは、この天界にいたときに感情的に表現されていた態度によって決まるのである。


「気づき」あるいは「意識の理解レベル」にも、七つの段階がある。その七つの理解とは、「生殖と生存」、「恐れと苦痛」、「力」、「感じる愛」、「表現する愛」、「すべての生命の中に見える神」、そして「私は神である」だ。


この天界、この天国は、「見せる天界」と呼ばれている。なぜならここでは、自分の創造的な力、そして感情という形で表現している自分のどんな態度であろうと、それらを物質の中に見ることができるからだ。この天界は、七つの中でただひとつ、暗闇がその上をおおっている天界であり、光の音楽を耳にできないただひとつの天界でもある。ここに生まれてくる存在たちは、偉大なる「知っている状態」から生まれてきながらも、結局は、社会意識のプログラミングを受けて「何も知らない状態」へと追いやられてしまうのだ。それがここで起こることである。そして、この天界で先に進むのがしばしば非常に困難なのも、やはりこのためである。


私はこれから、ある天界のことを話そう。もしあなたがその天界を見れば、その場所はあなたの内面に深い悲しみをもたらすことだろう。そこは、意識の第一レベルと第二レベルで自分を表現している。たくさんの存在たちがいる天界だ。そこは平野のような場所で、平らである。そこには何があるのだろうか?そこでは山々や川、草や花や空を、光の形で見ることはできない。何十億という存在が、その光の化身のまま横たわり、無限に続く列をなしているのが見えるのだ。彼らはそこに、眠っている状態で横たわり、自分たちは死んでいるという幻の中に生きている。なぜなら彼らは、死後の生は存在しないということを頑なに信じているからだ。彼らの思考は、今でも生きていて、磁気を発し、強く律動し、活発なエネルギーを持っているにもかかわらず、彼らは自分が死んでいると思い込んでいるのだ。本当はまだ生きているにもかかわらず……。このことを憶えておいてほしいのだが、どんなことであろうと、われわれが何かを固く信じれば、われわれはそれが真実であると確信してしまうのである。そして、われわれが真実として知っていることは、どんなことであろうと、現実へと変容するのだ。われわれの創造性と意志は、それほどまでにパワフルなのである。


そこにいる存在たちの多くは、自分が死ぬと、救世主が戻ってくるまでは、自分は死んだ状態のままでいると教えられた。そして恐れと、神の愛から切り離されてしまうかもしれないという気持ちから、その教えを真実として受け容れたのだ。こうして、死ぬ直前の最後の瞬間に、彼らは自分が復活を待つ場所に行くのだということを信じていたのである。したがって、このレベルには、自分よりも偉大だと信じている誰かによって復活させてもらうのを待っている存在たちが、どこまでも列をなして並んでいる。われわれは彼らを目覚めさせようとしたことがある。その結果、少数の存在が目覚め、起き上がった。だが、彼らのほとんどは、悪魔のようなものが現れ、自分たちを誘惑して起こそうとするとも教えられていたのだ。そして、このことも、彼らは真実として知ってしまっているのだ。そのため、誰が起こそうとしても、彼らは目覚めるのを拒むのである。自分が生きていることに気づき、眠りから目覚めるまで、あと何千年もかかってしまうかもしれない。きわめて残念な教えである。


これが、苦痛があるただひとつの場所だ。あのような考えを固く信じ込み、それを絶対的な「知っている状態」にしてしまった存在たちの天界である。そこには、見わたす限り、眠った状態で横たわる兄弟たちの姿がある。ほかのすべての天界は、壮大な生命そのものだ。



質問者 あなたのもとを訪れる西洋人たちは、しばしば奇妙な困難に直面します。解脱した人、賢者、真我の実現者、神の体験者、世界を超越した人という概念自体が、彼らにとっては未知のものなのです。彼らのキリスト教文化のなかにある聖者の概念はみな、信心深く、法を固く守り、神を恐れ、仲間を愛し、祈りに満ち、法悦に浸る傾向があり、いくらかの奇跡が確認される、といったものです。ジニャーニ(真我の実現者)という概念そのものが、西洋文化にとっては何か風変わりで信じがたい、異質なものなのです。彼の存在が受け容れられたときでさえ、奇妙な姿勢と精神的態度から自発的に引き起こされた多幸症(ユーフォリア)の実例のように、彼は疑いの目で見られます。意識の新しい次元という概念自体が、彼らには信じがたい、ありそうもないものなのです。
真我の実現の体験、その原因、はじまり、進展、そして達成、また日常での実際の修練に関して、ジニャーニ自身から話を聞く機会をもつことは、彼らにとって助けになるでしょう。彼の語ることの大半は奇妙に、または無意味にさえ映るかもしれませんが、それでも実在の感覚、実際の体験の雰囲気、言葉では言い表せない、しかしとてもリアルな、送られるべき模範的人生の核となるものが残るでしょう。


マハラジ 体験は伝達不可能かもしれない。人は体験を伝えられるだろうか?


質問者 はい。もしその人が芸術家ならば。芸術の本質は感情と体験の伝達です。


マハラジ 伝達を受け取るには、あなたは受動的でなければならない。


質問者 もちろんです。そこには受け取る人がいなければなりません。しかし、もし伝達者が伝達しなければ、受信者がいったい何の役に立つというのでしょうか?


マハラジ ジニャーニはすべての人のものだ。彼は誰であろうと彼のもとにやってくる人たちに、たえず完全に彼自身を与える。もし与える人でなかったら、彼はジニャーニではない。何であれもっているものを、彼は分かちあうのだ。


質問者 しかし、彼は彼で在るものを分け与えられますか?


マハラジ つまり、彼はほかの者たちをジニャーニにできるかということだろうか? そうだとも、そうでないとも言えよう。ジニャーニはつくり出されるものではないからだ。彼らが真の本性に、彼らの源に帰り着いたとき、彼ら自身で実現するのだ。私はあなたをすでにあなたであるものに作り変えることはできない。私にできるのは、私の旅してきた道へとあなたを招待することだけだ。


質問者 それは私の質問の答えになっていません。私は高次の意識の可能性自体を否定する、批判的で懐疑的な西洋人たちのことが頭にあったのです。近年、麻薬が彼らの物質主義的見解に影響をあたえることなく、彼らの不信仰の突破口を作りました。麻薬があろうとなかろうと、身体は主要な事実として残り、マインドは二次的なままです。マインドを超えたところに、彼らは何も見ないのです。仏陀以外、真我の実現の状態は「あれではなく、これでもない」という否定的言語で記述されてきました。それは避けられないものなのでしょうか? 記述できないのなら実例で示せないのでしょうか? 記述された状態が言葉を超えるとき、どんな言語による記述も及ばないことは、私も認めます。しかし、それは言葉のなかにもあります。詩は表現不可能なものを言葉に置き換える技です。


マハラジ 宗教詩人ならばいくらでもいる。あなたの望みがかなうように、彼らに援助を求めるがいい。私に関して言えば、私の教えは単純だ。信頼し、私の言うようにしてみなさい。もしあなたがたゆまずそれを続けるならば、あなたの信頼は報われたと知るときが来るだろう。


質問者 興味はもっても信頼できない人たちはどうすればいいのでしょう?


マハラジ もし彼らが私とともにとどまるならば、私を信頼するようになるだろう。ひとたび彼らが信頼すれば、私のアドバイスにしたがい、彼ら自身で発見するだろう。


質問者 私が今尋ねていることは、訓練ではなく結果です。あなたはその両方をもっています。あなたは訓練に関してはすべてを語る用意がありますが、結果に関しては分かちあうことを拒みます。あなたの状態は言葉を超えていると伝えるか、私たちが違いを見るとき、あなたは、違いはなにもないと言うだけです。どちらの場合も、私たちはあなたの状態への洞察を得ることなく取り残されるのです。


マハラジ あなた自身の状態への洞察もないのに、どうして私の状態への洞察を得ることができるだろう? 洞察の手段自体が欠けているとき、まずそれを見いだすことが重要ではないだろうか? それは盲目の人が視力を回復する前に、絵を描くことを学びたがるようなものだ。あなたは私の状態を知りたがる。だが、あなたの妻や召使の状態を知っているのかね?


質問者 私は何かヒントがもらえたならと思っただけです。


マハラジ 私はすでに、あなたが違いを見るとき私は見ないという、とても意味深い手がかりを与えた。私にとってはそれで充分だ。もしあなたがそれで充分ではないと思うならば、私はただ繰り返そう。それで充分だ。それについて深く熟考しなさい。そうすれば、私が見ているものをあなたも見るだろう。
どうやらあなたは、即座の結果にはつねに長い準備が先行するということを忘れて、即座の洞察を求めているようだ。果実が落ちるのは突然だが、成熟には時間がかかるのだ。
にもかかわらず、私を信頼しないさいと私が言うとき、それはただあなたが動き出すのに充分なほどの、わずかな時間だ。あなたが熱心であればあるほど、わずかな信念でこと足りる。なぜなら、すぐにあなたの信頼は正しかったとわかるからだ。あなたは私が信頼に足るかどうか証明してほしいのかね?
どうしてそれができよう、そしてなぜ? 結局、私が差しだしているのは、西洋の科学において現在主流となっている科学的アプローチなのだ。科学者が実験とその結果を描写するとき、通常あなたは彼の声明を信頼とともに受け容れ、彼の実権を記述通りに繰り返す。ひとたび同じ、あるいは類似した結果を得たら、もはや彼を信頼する必要はない。あなたは自分の経験を信頼するからだ。それに励まされて、あなたは実験を進め、最後には本質的に同じ結果に達するのだ。


質問者 インド人のマインドは文化的にも、教育的にも、抽象的実験をするにふさわしい素養をもっています。インド人にとって「至高の実在の直接的知覚」といった言葉は意味をなし、彼の内奥の存在からの反応を呼び起こすのです。西洋人にとって、そういった言葉は意味をなしません。キリスト教のさまざまな理念と照らしあわせてみても、キリストの戒めや、神の十戒との結びつきを超えて考えることはありません。実在の直接の知識は、願望を超えるどころか思いもつかないことなのです。あるインド人は、「絶望的だ。西洋人には無理だろう。彼らにできはしない。真我の実現については黙っていたほうがいい。有用な人生を送り、インドでの再誕生を待つほうがいい。それならばチャンスはあるだろう」と言いました。ある人は、「真実はすべての人にとって等しくある。しかし、それを把握する能力を皆が等しく付与されているわけではない。能力は願望とともにやってくる。それは帰依に、そして最終的には真我への完全な自己献身へと成長する。正直で誠実に、そして鉄の決意で障害を乗り越えるということにおいては、西洋人は東洋人と等しいチャンスをもっている。彼に必要なのは興味をもつということだけだ」と言っています。自己知識に対する興味を喚起させるには、彼はその有益さについて確信させられることが必要なのです。


マハラジ あなたは個人的体験を伝達することは可能だと信じるのかね?


質問者 わかりません。あなたは見る者と見られるものの同一、統合について語ります。すべてがひとつであるとき、伝達はありうるでしょう。


マハラジ ある国を直接体験するには、実際そこへ行き、住んでみなければならない。不可能なことを求めてはならない。霊的成就をおさめた人は、疑いなく人類に利益をもたらすだろう。だが、別の個人に恩寵をもたらすには、親しい個人的な関係が必要だ。そのような関係は偶然では生まれないし、誰もが要求できるものではない。逆に、科学的アプローチは皆に開かれている。「信頼、試み、経験」、これ以上何が必要だろう? 求めない者に、どうして真理のお仕着せができよう? どちらにしてもそれは不可能なことだ。受け取る者がいなければ、与える者に何ができるだろうか?


質問者 外的形態を使って内的体験を伝えるのが芸術の本質です。もちろん、外面が意味深くあるには、内面に対して繊細でなければなりません。人はどのようにして感性を育んでいくのでしょうか?


マハラジ あなたがどのように表現しようと同じことだ。与える者は数多くいるが、どこに受け取る者がいるだろう?


質問者 あなたは自分の感性を分かちあうことができるでしょうか?


マハラジ それはできるが、分かちあいは相互に行き交う道だ。分かちあうには二人が必要なのだ。私の与えたいことを受け取る用意のある人がいるだろうか?


質問者 私たちはひとつだとあなたは言いました。それで充分ではありませんか?


マハラジ 私はあなたとひとつだ。あなたは私とひとつだろうか? もしそうなら、あなたは質問しなかっただろう。もしそうでないなら、もしあなたが私の見るものを見ないのなら、あなたのものの見方を改善する方法を示す以上の何が私にできるというのだろうか?


質問者 あなたが与えられないものなら、あなた自身のものではないのです。


マハラジ 私は何ひとつ自分のものだと主張していない。「私」がないとき、どこに「私のもの」があろうか? 二人の人が樹を見ている。ひとりは木の葉の合間に隠れている果実を見て、もうひとりは見ない。それ以外は、二人の間には何の違いもない。見ている者は、ほんのわずかな注意で、もうひとりも見ることができることを知っている。だが、分かちあうという問題はここでは起こらない。信じてほしい。私はあなたに真実を分かちあうことをためらって、けちになっているのではない。その反対に、私はまったくあなたのものだ。私を食べ、飲みなさい。だが、あなたは「ください、ください」と言葉で繰り返しながら、差しだされたものを受け取ろうともしないのだ。私が見ているものをあなたも見ることができるよう近道を示しているのに、あなたは古い思考、感情、そして行為の習慣にしがみつき、私に非難を浴びせている。自己知識は提供されたり、受け取られたりするような所有物ではない。それは与えたり、受け取ったりできるようなもののない、まったく新しい次元にあるのだ。


質問者 少なくとも、日常生活におけるあなたのマインドの内容に関して、何らかの洞察をもらえませんか? 食べ、飲み、話し、眠る──あなたの側ではどのように感じられるのでしょうか?


マハラジ 生活における一般のことは、私もあなたと同じように体験している。違いは私が体験しないことのなかに現れる。私は恐れや欲望、憎しみや怒りを体験しないのだ。私は何も頼まず、何も拒まず、何も蓄えない。これらに関して私は妥協しない。おそらく、これが私たちの間にある際立った違いだろう。私は妥協せず、自己に対して真正だが、あなたは実在を恐れているのだ。


質問者 西洋人の観点からすれば、あなたのやり方には何か不安にさせるものがあるのです。片隅にひとり座って、「私は神だ。神は私だ」と繰り返すことはまったく狂っているように見えます。どうやって西洋人たちに、このような修練が最上の正気へと導くと納得させればよいのでしょうか?


マハラジ 自分を神だと主張する人も、それを疑う他人も、ともに惑わされている。彼らは彼らの夢のなかで話しているのだ。


質問者 もしすべてが夢なら、目覚めとは何なのでしょうか?


マハラジ 真の目覚めの状態を夢の国の言語で表すことができるだろうか? 言葉では表現できない。それらはただの象徴なのだ。


質問者 またしても、言葉では実在を伝えることができないという同じ弁解です。


マハラジ もし言葉が欲しいなら、太古の力をもつ言葉をあなたに授けよう。どれでもいい。絶え間なく繰り返してみるがいい。それらは驚きをもたらすだろう。


質問者 あなたはまじめなのですか? 正しい文化的、宗教的背景から生まれた信仰と信念を完全に欠いているにもかかわらず、西洋人に「オーム」や「ラーム」または「ハレ・クリシュナ」を絶え間なく繰り返させるというのでしょうか? 熱烈な信心もなしに、機械的に同じ音を繰り返すことで、彼が何を達成するというのでしょう?


マハラジ いけないかね? 衝動と秘められた動機が重要なのであって形式ではない。もし彼が真我を見いだすためにするならば、何であれ彼のすることは間違いなく彼自身へと導くだろう。


質問者 その手段の有効性のために信仰は必要ないのでしょうか?


マハラジ 結果への期待でしかない信仰ならば、まったく必要はない。ここでは行動が大事なのだ。何であれ、あなたが真実のためにすることは、あなたを真実へと連れていくだろう。ただ、正直に、誠実でありなさい。どのような形を取るかは問題ではない。


質問者 それなら、自分の熱望に表現を与える必要はどこにあるのでしょうか?


マハラジ 必要はない。何もしないこともまた良いことなのだ。ただの熱望、思考や行為によって薄められていない、純粋で凝縮された熱望は、あなたをすばやくゴールへと連れていくだろう。本物の動機、それが重要であってやり方ではない。


質問者 信じられません! 絶望間際の、退屈で単調な復唱が効果的でありうるのでしょうか?


マハラジ 繰り返しているという事実そのもの、退屈と絶望、そしてまったくの確信の欠如にも関わらず、忍耐と粘り強さをもって闘いつづけていることが、実に決定的なことなのだ。やり方自体が重要なのではない。その背後にある真剣さがもっとも重大なのだ。そこには内なる後押しと、外からの引きつける力がなければならない。


質問者 私の質問は典型的な西洋のものです。西洋では、人びとは原因と結果、手段と結果という言語で考えます。特定の言葉と絶対的実在との間にどのような因果関係があるのか、彼らには理解できないでしょう。


マハラジ まったく何もない。だが、言葉とその意味、行動と動機の間には関連がある。霊的修練は意志の主張と再主張なのだ。あえてそれに挑む人でないかぎり、真理を差しだされても受け取らないだろう。恐れから気の進まないまますることが、唯一の障害なのだ。


質問者 何を恐れるというのでしょうか?


マハラジ 未知なるものだ。存在ではなく、知識ではなく、行為でもない。彼方なるものなのだ。


質問者 つまり、達成への手ほどきは分かちあえても、その結果を分かちあうことはできないということでしょうか?


マハラジ もちろん、結果を分かちあうことはできる。それこそ私が絶え間なくしていることだ。しかし、私の分かちあいはひとつの沈黙の言語なのだ。聞き方を学び、理解しなさい。


質問者 私には、どうして信念なしにはじめることができるのか、理解できません。


マハラジ しばらく私とともにいるがいい。あるいは私の言うことに心を捧げなさい。そうすれば確信は現れるだろう。


質問者 誰もがあなたに出会う機会があるわけではありません。


マハラジ あなた自身に出会いなさい。あなた自身の自己とともに在りなさい。それに耳を傾けなさい。それに従いなさい。それを育み、たえず記憶のなかにとどめておきなさい。あなたにほかの指導は必要ない。あなたの真理への衝動が日々の生活に影響を及ぼしているかぎり、すべてはうまくいくだろう。あなたの生を誰も傷つけることなく生きなさい。無害であることは、ヨーガのもっとも強力な修行形式なのだ。そして、それがあなたをすばやくゴールへと導くだろう。これが、私がニサルガ・ヨーガ、自然のヨーガと呼ぶものだ。それは平和と調和、友情と愛に生きる技だ。その結実が、永遠で原因のない幸福なのだ。


質問者 それでもこれらはみな、いくらかの信仰を必要条件とします。


マハラジ 内面に向かいなさい。そうすれば、あなたは自己を信頼するようになるだろう。そのほかすべてにおいて、確信は体験から来るのだ。


質問者 ある人が私の知らない何かを知っていると告げたとき、私には「私が知らず、あなたが知っていることとは何でしょうか?」と聞く権利があります。


マハラジ では、もし彼がそれは言葉では伝えられないと言ったならどうするかね?


質問者 私は彼を念入りに観察し、理解しようとします。


マハラジ それこそまさしく私があなたにしてほしいことなのだ! 相互理解の流れが確立するまで興味をもち、注意を注ぎなさい。そうすれば分かちあいはやさしいだろう。あなたはより大きく開かれた意識のなかに入り、そのなかで分かちあうのだ。なかに入っていき、分かちあうことを望まないことが唯一の障害なのだ。私はけっして違いに関して話さない。私にとって違いというものはないからだ。あなたは違いを見る。だから、それを私に見せるのはあなた次第だ。ぜひとも見せてほしいものだ。そのためには、あなたは私を理解しなければならない。だが、そのときには、もはやあなたは違いについて話さないだろう。ひとつのことを理解すれば、あなたは達成したことになる。あなたを知ることから妨げるのは機会の欠如ではなく、理解したいことにマインドの焦点を合わせる能力に欠けるからだ。あなたが知らないことをマインドにとどめることができるならば、それはその秘密をあなたに解き明かすだろう。だが、もしあなたが浅はかで、短気で、見ること、そして待つことに充分誠実でないなら、あなたは月を求めて泣く子供と同じなのだ。


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