ある結果を導くために → 手段を選ばないを選択するなら


それはもう大きな切断の選択であり、切り捨てられたものがどのような大きさでどのような質のものだったのか後でわかることになる気がします。切り捨てる時点で、目に留まらないぐらい素早かったとしても大きな選択、決断が行われています。手段は、それほど重要なのです。日常的な言動で例を挙げるならそれは、人に怒りを見せるかどうか、怒りや不愉快だという伝達をどのように選択しているか、それそのものが本人から見えないほど高速で切り捨てられてしまっている本人と周囲の可能性、ではないかと思いました。n


【詳報】被災と被爆、思い重ねた祈り 両陛下も皇居から
2018/08/06 13:22


広島は6日、被爆73年となる「原爆の日」を迎えました。今年の夏は西日本豪雨災害の被災1カ月とも重なり、復旧と鎮魂という「特別な一日」となった各地の動きをタイムラインで追います。


■のんさん、片渕監督と参列@広島・旧中島本町


今は平和記念公園となっている旧中島本町。午前9時、平和の観音像に焼香台が設けられ、約50人が手を合わせた。原爆で両親と兄、姉を失った浜井徳三さん(84)は「生きている限り慰霊祭を次世代に引き継いでいきたい」と語った。


平和記念式典後に開かれた慰霊式には、戦時下の広島・呉を舞台にしたアニメ映画「この世界の片隅に」(片渕須直監督)で主人公「すず」の声で出演した俳優のんさんも参列した。(永野真奈)





〈旧中島本町とは〉 広島市中心部を流れる元安川と本川に挟まれたデルタの北端にかつて存在した町。現在は、広島平和記念公園となっている。


中島本町を含む旧中島地区(中島本町など6町)の一帯はかつて広島随一の繁華街で、映画館や商店、住宅がひしめいていた。広島原爆戦災誌によると、この同地区には約1300世帯約4400人が暮らしていたが、原爆で壊滅した。


2016年に封切られ、現在まで異例のロングランが続くアニメ映画「この世界の片隅に」では、子ども時代のすずが訪れ、大正屋呉服店(現・広島市平和記念公園レストハウス=改装中)前の通りや浜井理髪館など商店がひしめく様子が、詳細に描かれている。(宮崎園子)


■両陛下、式典をテレビで@東京・皇居


天皇、皇后両陛下は午前8時15分ごろ、お住まいの皇居・御所で式典の様子をテレビで見ながら黙禱(もくとう)した。毎年この日に黙禱を捧げてきた両陛下にとって、今年が在位中最後の黙禱になる。


■豪雨被災地、20人が手合わせ@広島・坂町


西日本豪雨で大きな被害が出た広島県坂町。JR呉線の小屋浦駅近くの原爆慰霊碑の前では原爆の投下時刻に合わせて約20人が手を合わせた。


豪雨でがけが崩れ、慰霊碑は土砂に埋もれた。管理を続けてきた西谷敏樹さん(72)は「今年は8月6日を迎えられないと思った」と話す。


原爆投下後、小屋浦には被爆した人が運び込まれた。住民が救護したが、多くの人が亡くなった。


災害後、地元の建設会社の助けを借り、慰霊碑はきれいになった。西谷さんはその前でこう言った。「原爆の悲惨な一面が、この地もふりかかっていたということを改めて思い起こさせてくれた」(光墨祥吾)


■被爆死した移動劇団に祈り@東京・目黒


東京・目黒。広島に投下された原爆で9人が死亡した戦時中の移動劇団「桜隊」の法要が、五百羅漢寺で行われた。


演劇界の有志らが1975年から、法要に合わせて朗読劇や講演会などの「追悼会」を開き、悲劇を語り継いできたが、会長を務めた俳優の神山寛さんら中心メンバーが相次ぎ死去。今年は開催を断念した。


約30年、会の運営に関わってきた詩人の近野十志夫さん(72)は、他のメンバーとともにこの日の法要に出席し、「核兵器廃絶だけでない、反戦など新たな切り口でもいい。若い人が好きな形で続けられるように、今後の活動の『炎』も演劇界に残せないだろうか」と訴えた。(吉野太一郎)


■安倍首相、核禁止条約には今年も触れず(8:32)


広島市で開かれた平和記念式典にした安倍晋三首相。「唯一の戦争被爆国として、『核兵器のない世界』の実現に向けて、粘り強く努力を重ねていくことは、我が国の使命だ」とあいさつした。約5分にわたり、手元の原稿に目を落として読み上げた。


首相は「近年、核軍縮の進め方について各国の考え方の違いが顕在化している」とし、核兵器のない世界の実現には「被爆の悲惨な実相の正確な理解を出発点として、核兵器国と非核兵器国双方の協力を得ることが必要」と強調。「非核三原則を堅持しつつ、粘り強く双方の橋渡しに努め、国際社会の取り組みを主導していく決意」と述べた。


一方で、昨年7月に国連で採択された核兵器禁止条約については、今年も触れなかった。


あいさつが始まる際、「戦争する国の総理のあいさつは聞きとうないから、帰る」と言って、会場を立ち去る男性もいた。あいさつ中は会場の外から、安倍首相の参列に反対するものとみられるシュプレヒコールが響き続けた。(太田成美)


■被爆電車「歴史の生き証人」@広島・原爆ドーム


原爆投下で被爆しながら今も運行している広島電鉄の「被爆電車」が、原爆ドーム最寄りの停留場に到着した。夏の日差しが降り注ぐなか、停留場で降りた人たちが平和記念公園に次々と向かった。


路面電車に乗って平和記念公園に訪れた広島市南区の佐伯和邦さん(73)は、生後2カ月で被爆。毎年欠かさず、この地を訪れているという。「被爆電車は歴史の生き証人。当時を知る電車が走る姿を見て、この日を忘れないでほしい」と話した。


1945年8月6日の原爆投下で、市内線123両のうち108両が被爆した。その3日後に一部区間で運行が再開され、復興のシンボルにもなった。現在も3両の被爆電車が残され、うち「651号」「652号」の2両は現役で走っている。(小池寛木)


■投下後降りだした「黒い雨」(9:00ごろ)


原爆投下からしばらくして、広島では黒く濁った大粒の雨が降りだした。いわゆる「黒い雨」だ。核爆発で生じた放射性物質や焼けた物のすすなどが上空に達し、雨雲が発生。広島市北西部を中心に、夕方まで降雨が記録されている。


「黒い雨」は作家の故・井伏鱒二の小説になり、後に映画化された。原爆の悲惨さとたくましく生きる人々の姿を描いた漫画「はだしのゲン」作者の故・中沢啓治さんによる初の原爆漫画「黒い雨にうたれて」のタイトルにもなった。


「黒い雨」について、国は爆心地の「東西15キロ、南北29キロ」で降り、うち「東西11キロ、南北19キロ」が大雨地域と分析。1976年、公費で健康診断が受けられる援護対象地域に指定した。がんなどになると被爆者健康手帳が交付される。


一方で、地域から外れた小雨地域やその周辺に住む人からも「『黒い雨』を浴び、健康被害に悩まされている」といった証言が相次いだ。広島市などが地域拡大を求め、厚生労働省は検討会を設けて協議したが、2012年7月に「拡大は困難」と認めなかった。援護区域の拡大や被害救済を求める人たちの「黒い雨」訴訟は、いまも広島地裁で続いている。


■長崎代表・創成館も黙とう@大阪・堺


夏の甲子園に出場している長崎代表の創成館の選手らも、宿泊している大阪府堺市のホテル敷地内の自主練習場で午前8時15分から1分間、広島のある西の方を向いて黙禱した。初戦は、長崎に原爆が投下された9日の予定だ。


メンバーから外れ、補助員としてチームを支える高重輝政さんは広島市出身。原爆ドームから車で10分ほどの中学校に通っていた。「離れていても、いつも広島のことは気になっている」。広島県東広島市出身で11番を背負う戸田達也さんは「初戦の9日も長崎にとって大事な日。いい報告がしたい」と話した。(横山輝)


■甲子園出場の広陵が黙とう@大阪・池田


平和だからこそ野球ができる。第100回全国高校野球選手権記念大会に広島代表で出場している広陵の選手らが、大阪府池田市の宿舎前で整列し、広島の方角を向いて黙禱(もくとう)をした。(新谷千布美)


■広島市長が平和宣言読み上げ(8:16)


広島市の松井一実市長は、平和宣言を読み上げた。「人類は歴史を忘れ、直視することを止(や)めた時、再び重大な過ちを犯してしまう」と訴えた。 bb ■原爆投下時刻、参列者が黙とう(8:15)


73年前のこの時間、広島市上空で原爆が炸裂した。人類史上初めて、市民の頭上に投下されたのだ。


広島市によると、原爆による死没者は今年8月5日現在で計31万4118人。平和記念式典では、名簿の収められた原爆死没者慰霊碑の前で参列者が黙とうを捧げた。


■平和記念式典始まる(8:00)


原爆投下から73年の8月6日。平和記念式典が始まった。


■観測機、広島上空に飛来(7:09)


73年前のきょう8月6日午前7時9分。1機の気象観測機が広島上空に飛来した。太平洋戦争の激戦地、サイパン島の隣島テニアンの基地からアメリカのB29爆撃機がその後を追っていた。機長の母の名で呼ばれた「エノラ・ゲイ」。機内には重さ4トン、全長3メートルの原子爆弾「リトルボーイ」が積まれていた。


広島原爆はウラン235という核分裂物質が使われ、爆発時のエネルギーは火薬の爆弾1万5千トン分に匹敵する。長崎で8月9日に投下されたプルトニウム原爆「ファットマン」とは形も中身も違い、アメリカは2種類の原爆を試したかったともいわれている。


広島には5日夜から6日朝にかけて警戒・空襲警報が出されていた。午前7時31分に観測機が去ると、解除され、安心した市民はいつもの生活に戻っていた。


6日午前8時の広島市の気温は26・7度。観測機は「天気も良好で爆撃可能」とエノラ・ゲイに伝えた。周りの都市のように空襲を受けてこなかった街は、無警戒に近かった。


■平成最後の8月6日を迎えて


昇る陽(ひ)がまぶしさを増し、乱反射した白い光が広島の街を包む。73年前のきょうも、空は晴れ渡っていた。道行く人たちは、半袖から突き出た腕をじりじりと太陽に焼かれながら、職場や学校へと向かっていただろう。


午前8時15分。閃光が走り、熱線と爆風が、街を壊滅させた。たった一発の原子爆弾が、多くの無辜(むこ)の命を奪った。


被爆地となった広島は73年後の今年夏、未曽有の豪雨災害の被災地になった。山裾の家々は土砂に押し流され、県内だけで死者は100人を超えた。平成最後の8月6日は、被災1カ月と重なった。


ただ、この街は幾度も困難から立ち上がってきた。


過去と現在。時を超えて人々を結ぶのは、あの日の記憶と平和への思い。一つの時間軸にさまざまな事象を刻みながら、広島の特別な一日をたどる。(石木歩)

朝日新聞デジタル



酷暑の中、なぜ地球は20年後に「ミニ氷河期」に突入するのか


連日のように猛暑が続いており、埼玉県熊谷市では我が国の観測史上最も高い気温となる41度1分を記録した。これは日本だけのことではなく、アメリカやアフリカでも最高気温50度以上を観測するなど、この夏は世界的に異常な暑さが続いている。しかし、実は、いまの地球は「温暖化」ではなく「ミニ氷河期」に向かっているという事実をご存知だろうか。遠い未来の話ではない。早ければ約20年後に、である。


本稿では私の専門とする地球科学の観点から、なぜこのような事態が起きているのか、そして今後の予想を述べたい。


東京が「熱の島」になっている


折しも8月5日から全国高校野球大会が始まるが、会場の甲子園は今年で100周年を迎える。そこで近年の盛夏が100年前より暑くなっているかどうか、またその原因を最先端の気象学に基づいて考えてみよう。


最初に首都圏3500万人を代表して、東京の最高気温と最低気温の記録を調べてみる。気象庁によれば東京では夏の最高気温は過去100年に1.5度上がり、最低気温は2.7度上がった。すなわち、最低気温の上昇の方が大きいため、朝も晩もより暑苦しく感じるようになってきたのだ。


これについて地球科学的にはスケールの異なる二つの原因が特定されている。すなわち、「ヒートアイランド」と呼ばれる地域的な現象と「地球温暖化」という世界規模の現象である。


パソコンの普及も温暖化に影響


図1:ヒートアイランド現象を起こす原因。(出典=鎌田浩毅著『せまりくる「天災」とどう向きあうか』ミネルヴァ書房)© 文春オンライン 図1:ヒートアイランド現象を起こす原因。(出典=鎌田浩毅著『せまりくる「天災」とどう向きあうか』ミネルヴァ書房)
ヒートアイランド現象とは、都市の中心地域の気温が郊外とくらべて高くなることである。英語を直訳すれば「熱の島」で、気温の分布を見ると都市の中心だけが島のように孤立して暑いことから命名された。夏の大都会が以前とくらべて熱がこもっているように感じられるのはこのためである。


たとえば、東京で気温が30度を超える時間(日数ではなく時間)は、ここ20年で2倍ほどに増えている。また、都心部と郊外との日中の気温差が10度近くになることもしばしば観測されている。


ヒートアイランド現象を引き起こす原因の第1は、建物や工場、自動車などから出る排熱である。経済活動にともなって、工場やオフィスからは大量の熱が排出される。エアコンやパソコンの普及によって、都市からの排熱は年々増加の一途をたどっている。


そして第2は、熱吸収率の高いアスファルトやコンクリートで地面が覆われるようになったことだ。こうした人工物で地面が覆われると、日中、植物が葉の表面から蒸散することで熱を逃がす効果や、大きな樹木が日射を遮る効果がなくなってしまう。また、水を保持する土の地面が減ると、水の蒸発によって温度を下げる効果が減る。


第3は、建物の密集化による風通しの悪さである。都市に高いビルが密集すると、地表近くを通る風が弱くなり、空気が入れ替わりにくくなる。特に高層建築物の谷間では、夜に熱が上空へ逃げにくくなっている(くわしくは拙著 『せまりくる「天災」とどう向きあうか』 ミネルヴァ書房を参照)。


過去400年でもっとも暑い夏


次に、世界全体で見ると平均気温は上昇しており、地球温暖化というグローバルな現象が起きている。専門的には地球温暖化とは、地球の平均気温が過去400年間ではもっとも高くなってきたことを指す。たとえば、詳細な観測データが得られている20世紀以後に限ると、過去100年間に平均気温が0.7度上昇している。そしてこの理由は大気中の二酸化炭素濃度の増加にちがいないと多くの科学者が推測してきた。


具体的に見ると、過去100年間で大気に含まれる二酸化炭素の濃度は、280ppmから380ppmまで上昇した。その原因は、人類が石油や石炭などの化石燃料を大量に燃やしたからである。


では、二酸化炭素が増えるとなぜ気温が上昇するのだろうか? 地球の気温は太陽から来るエネルギーによって決まる。地球が受け取るエネルギーと、地球から出ていくエネルギーが釣り合っているので、地球の温度は一定に保たれている。


たとえば、夏の昼間に車を屋外に駐めておくと、車内がひどく高温になることがある。これは窓ガラスを通って入ってきたエネルギーの一部が車内に閉じ込められ、窓の外に出ていかないからだ。ビニールハウスや温室はこの効果を使っているが、大気中で同様の働きをする気体がある。それが「温室効果ガス」で、具体的には、水蒸気、二酸化炭素、一酸化二窒素、メタン、フロンなどの気体である。


そして温室効果ガスは赤外線を吸収し、太陽からの熱エネルギーをためこんでしまう。もし大気中の濃度が増加すれば、熱エネルギーは宇宙空間に放出されなくなる。


埼玉県熊谷市が暑くなる理由


ここで地表と大気圏と宇宙(大気圏外)とのあいだで起きるエネルギーのやりとりを見てみよう。エネルギーを吸収する温室効果ガスが大気圏にない場合には、太陽から来たエネルギーと等しい量のエネルギーが宇宙へ逃げていく。


ところが温室効果ガスが大量にあると、雲が生じる対流圏のなかでエネルギーが吸収される。吸収されたエネルギーは地上へ戻っていき、地上を暖めるのだ(くわしくは拙著 『地球とは何か』 サイエンス・アイ新書を参照)。


今年の猛暑は日本だけではなく世界的現象なので、こうしたグローバルな地球温暖化が一つの原因にはなる。これに加えて首都圏を始めとして日本の大都市では、先に述べたヒートアイランド現象が加わったものだ。いったんヒートアイランド現象が起きるとエアコンの使用が増え、さらに加速されるという悪循環が起きている。


今夏の関東では南から北へと風が流れ、暑い空気の固まりが北に運ばれ気温上昇が顕著になっている。国内最高気温を記録した埼玉県熊谷市はこうした場所にある。


約20年後に「ミニ氷河期」が到来


こうした猛暑のなか、なぜ現在の地球は温暖化ではなく「ミニ氷河期」に向かっているのだろうか。これには「長期」および「短期」という時間の異なる二つの事象がある。


まず地球を何十万年という地質学的な時間軸で見れば、現在は氷期に向かっている。今から約13万年前と約1万年前には、比較的気温が高い時期があった。また、平安時代は今よりも温暖な時期だったが、14世紀からは寒冷化が続いている。


すなわち、長い視点で見ると、現代は寒冷化に向かう途中の、短期的な地球温暖化にあるというわけなのだ。


加えて、今後の数十年間の気候は大規模な火山活動などによって寒冷化に向かうと予測する地質学者も少なからずいる。確かに、20世紀には大規模な火山活動によって地球の平均気温が数度下がる現象が何回も観測された(くわしくは拙著『 地球の歴史 』中公新書を参照)。


「江戸小氷期」に酷似している


次に、短期的な事象について述べよう。地球の気温は太陽からくるエネルギーに支配されている。こうした太陽の活動が約20年後には現在の60%程度まで減少し、


「ミニ氷河期」が到来するという予測がある。


太陽の活動度は表面に見える黒点から判断されるが、2014年をピークに黒点の数は減少に転じている。これは300年ほど前の江戸時代に世界中が寒冷化した時期と良く似ている。すなわち、1645年から1715年までの70年間に黒点が減り、地球の平均気温は1.5度ほど下がった。その結果、ロンドンのテムズ川やオランダの運河が凍結し日本では大飢饉となった記録が残っている。我々地球科学者が「江戸小氷期」と呼んでいるものだが、将来にわたり今の勢いで猛暑が継続するかどうかは必ずしも確定的ではないのだ。


実際、自然界には長短さまざまな周期の変動があり、最近の異常気象と思われる現象も長い時間軸で捉えなければならない。よって、「長尺(ちょうじゃく)の目」で判断する私は、「ミニ氷河期」という涼しい未来を見据えながら、今年の猛暑をやり過ごしている。英国の哲学者フランシス・ベーコンが説いたように「知識は力なり」。地球科学の知識を「頭を冷やしながら」身につけ、猛暑を乗り切っていただきたいと願う。

鎌田 浩毅(かまたひろき)/京都大学大学院人間・環境学研究科 教授
2018/08/05 07:00
文春オンライン



法科大学院細る九州 志願者減止まらず6校が2校に 合格上位校に流出も 九大、福大、生き残りへ知恵絞る


九州で、法曹の担い手を育成する法科大学院が危機的状況に陥っている。司法制度改革の目玉として設置された2004年、九州7県で6校が立ち上がったが、志願者数の減少に歯止めがかからず、久留米大、鹿児島大、熊本大に続き、今年6月、西南学院大が撤退を表明。法曹界を目指す人材が九州から流出する懸念が強まり、存続する九州大と福岡大の2校は、生き残りを模索している。


「存続したいと考えてきたが、これ以上は難しい」。西南学院大の宮崎幹朗法科大学院長は6月、記者会見で法科大学院の学生募集を19年度から停止すると厳しい表情で発表した。これまでに65人の司法試験合格者を出したが08年度から定員割れ状態に陥り、18年度の入学者は定員20人に対して6人にとどまった。


法科大学院の累積赤字は約20億円。志願者、入学者の減少、財政面への影響も考慮し、募集停止を決めたという。宮崎院長は「改善を見込むことは困難だと判断した」と話した。


      ■


法科大学院は全国で厳しい状態が続く。文部科学省によると、志願者は制度が創設された04年度の7万2800人をピークに減少の一途。18年度は8058人と9分の1まで減った。全国に74校あった法科大学院も、西南学院大を含めて38校が撤退を表明。「当初は法科大学院がなければ法学部に学生が集まらないので必須という風潮があった」と、九州の大学関係者は見通しの甘さを吐露した。


福岡市の司法書士前田美穂さん(38)は、17年度に廃止された久留米大の1期生。多様な人材を輩出することを理念の一つとした法科大学院が、社会人や法学部以外の卒業生の受け入れを掲げたことに感銘、医療機器販売会社を辞め、04年度に入学した。


文学部卒で法律の基礎知識はなかったが修了。司法試験に3回挑戦し、いずれも不合格だった。3回目の成績順は2900番台。「年間3千人程度」とした政府が当初掲げた目標合格者数内だっただけに「すごくショックだった」。


経済のグローバル化や知的財産分野の拡大で法曹需要が伸びるという政府の予測は外れた。前田さんは「仕事がなくて困っている弁護士もいると聞く。合格していても、厳しい人生を送っていたかもしれない」。


      ■


法科大学院の志願者減少には、11年の予備試験導入が拍車を掛けた。年齢制限がなく、経済的な負担も少ないため本来は法科大学院に通えない学生らを救済するルートだった。しかし法科大学院を修了しなくても司法試験の受験資格が得られるとあって、予備試験の挑戦者は増加している。


加えて予備試験通過者は司法試験の合格率が高く、17年の合格者は290人、合格率72・5%で、いずれもトップだった。


一方、17年に司法試験合格者が100人を超えたのは慶応大、東京大、中央大、京都大、早稲田大。関東、関西の合格上位校への志向は年々高まっており、九大の堀野出法科大学院長は「九大から関東、関西の法科大学院への進学者もいる」と打ち明ける。


ただ、九大も手をこまねいているばかりではない。定員に満たなければ2次募集も実施。学生募集を停止している熊大とは17年に連携協定を締結し、熊大の学部生に九大法科大学院をPRする。「九州の優秀な学生を九大で迎えられるようにしたい」と堀野院長。


福大は13年度から授業料を年100万円から60万円に大幅減額。個別指導体制の充実で司法試験合格率を上昇させている。村上英明法科大学院長は「成績は上向いているが存続について楽観視できない。毎年毎年が勝負」と言う。


九州弁護士会連合会の宮城哲弁護士(沖縄県)は「地方で育った法曹関係者は地元の問題に関心が高く、地方に法科大学院がある意義は大きい」と強調。同会は講義への弁護士派遣や年1回の統一模試実施などで九州の法科大学院を支援しており、今後は琉球大も含め九州・沖縄の3校の存続に向けて「さらにどんな協力ができるのか検討する」と充実を図る考えだ。


=2018/08/06付 西日本新聞朝刊=


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