氷河期のこと


2014年12月14日
あの選挙のあった日にフィオラは突然「氷河期が始まりました」と言ったのを覚えています。詩的な意味なのか、それとも安倍政権の危険性について言ったのか解釈ができず記録だけ残していました。でも、下の2014年をピークに黒点数が減少に転じているというのを聞いて、本当に、冗談抜きで「氷河期」に向かうことを言っているのかもしれないと感じるようになりました。n


「ミニ氷河期」が到来するという予測がある。
太陽の活動度は表面に見える黒点から判断されるが、2014年をピークに黒点の数は減少に転じている。これは300年ほど前の江戸時代に世界中が寒冷化した時期と良く似ている。すなわち、1645年から1715年までの70年間に黒点が減り、地球の平均気温は1.5度ほど下がった。その結果、ロンドンのテムズ川やオランダの運河が凍結し日本では大飢饉となった記録が残っている。我々地球科学者が「江戸小氷期」と呼んでいるものだが、将来にわたり今の勢いで猛暑が継続するかどうかは必ずしも確定的ではないのだ。
鎌田 浩毅(かまたひろき)/京都大学大学院人間・環境学研究科 教授


民間のロケット打ち上げ失敗


先日某民間ロケットが失敗した原因が「計測系の一時的な異常動作」だと解明されたとニュースになってましたが、一時的な異常、それが原因であってもなくても、落ちたという結果だけがあるなと思いました。原因は真偽不明で、結果だけが確実に目の前にあります。n


AFPBB News
地球は「温室」化の瀬戸際 人が住めなくなると警鐘
2018/08/07 13:16


【AFP=時事】化石燃料による大気汚染がこのまま続けば、地球は危険な「温室」状態が永続することになりかねない──。欧州などの研究者らが6日、そう警告する論文を米科学アカデミー紀要(PNAS)に発表した。環境保護と経済成長を両立させるグリーン経済への転換を地球規模で早急に実現する必要があると訴えている。


デンマークのコペンハーゲン大学(University of Copenhagen)やドイツのポツダム気候影響研究所(Potsdam Institute for Climate Impact Research)、オーストラリア国立大学(Australian National University)などの研究者がまとめた論文によると、このまま極地の氷が解け、森林が伐採され、温室効果ガスの排出量が増え続けていくと、地球は転換点となるしきい値を超える。そうなれば気温は産業革命前よりも4~5度上昇し、海面は現在よりも10~60メートル上昇する。


21世紀末までに各河川は氾濫し、沿岸地域は暴風雨にさらされ、サンゴ礁は消滅。地球の平均気温は過去120万年間のどの間氷期よりも高温になるという。


「温室化した地球(Hothouse Earth)」が現実のものになれば、地球は人が住める場所ではなくなってしまう」。論文の共同執筆者であるスウェーデンのストックホルム・レジリエンス・センター(Stockholm Resilience Centre)所長、ヨハン・ロックストローム(Johan Rockstrom)氏は危機感をあらわにする。


論文は、地球の気温が産業革命前比で2度上昇すると、この転換点を迎える可能性があると指摘する。すでに1度上昇しており、10年間に0.17度の割合で上がり続けている。


「平均気温が2度上昇すると重要な転換要素が活性化され、気温がさらに上昇する。これによって他の転換要素がドミノのように次々と活性化されていき、地球全体がさらに高温になる」。研究チームはそう予測する。


論文の共著者でポツダム気候影響研究所の所長を務めるハンス・ヨアヒム・シェルンフーバー(Hans Joachim Schellnhuber)氏は、こうした連鎖が起きるようになれば「地球というシステムの全体が新たなモードに入ることになりそうだ」とみる。


論文の予測は、地球の転換点に関する先行研究を基にしている。ほかにも、二酸化炭素(CO2)濃度が現在と同じ400ppmだった500万年前の鮮新世などの状況も参照した。


論文は、地球の世話役として人間は今すぐにでも生活スタイルを変える必要があると強調。化石燃料を、最終的に廃棄物をゼロにする「ゼロエミッション」のエネルギー源で置き換えていくことや、植林のようなCO2吸収に関する戦略をさらに考え出すことを提言している。


シェルンフーバー氏は「地球の気候が産業革命前から2度上昇のぎりぎり手前で安全にとどまっていられる保証はない」と警鐘を鳴らしている。



【駅に残る戦争の記憶】あの日の惨状「忘れられない」血の海、折り重なる死体 西鉄筑紫駅列車銃撃事件
8/12(日) 8:04配信
西日本新聞


【駅に残る戦争の記憶】あの日の惨状「忘れられない」血の海、折り重なる死体 西鉄筑紫駅列車銃撃事件


「筑紫平和シンボル」として保存されている旧筑紫駅待合所。米軍機による機銃掃射の弾丸が貫通した跡が残る


15日は、平成最後となる「終戦の日」。悲惨な記憶を胸に刻むため、西日本新聞に掲載された過去の記事をあらためて紹介したい。これは、多くの人々が行き交った駅にまつわる物語である―。


それは太平洋戦争末期の1945年8月8日のこと。福岡県筑紫野市筑紫の西日本鉄道筑紫駅付近で、惨劇が起きた。上りと下りの電車が米軍戦闘機の機銃掃射を受け、少なくとも乗客64人が亡くなり、100人余りが負傷した。戦後70年。地元ではあらためて事件体験者の話を聞き、証言集をまとめたり、平和劇を創作したりするなど事件と向き合い、語り継ごうとする活動が行われている。


証言集「語り継ぐ筑紫駅惨劇の記憶-戦後70年」を制作したのは、62~73歳の市民13人でつくる「筑紫駅惨劇の記憶を残す会」。


会員は、地元の筑紫コミュニティセンターが昨年度、開講した市民講座「筑紫駅空爆の記憶を残そう」の受講生が中心。2008年に西鉄筑紫駅列車銃撃事件の被害者や目撃者の証言をまとめたルポルタージュ「筑紫れくいえむ」を出版した元本紙記者坂井美彦さん(83)と児童文学作家ひろ子さん(79)夫婦の指導を受け、昨年7月に取材を始めた。地元を中心に証言者を探したが、体験者がすでに亡くなっているなど難航したという。


市民たちが作成した証言集「語り継ぐ筑紫駅惨劇の記憶」


証言集はA5判カラー刷り97ページ。受講生たちが取材した事件体験者7人の聞き書きを、感想を交えて紹介している。また、講座とは別に事件を調査してきた元中学教諭相戸力さん(61)などの協力で、ほかの体験者4人の証言も収録した。


体験者たちは「電車の中は真っ赤な血の海」「切符売り場に3~4人が折り重なって、頭から血を流している人、腕がもげてお尻まで血だらけの人」などと惨状を証言。受講生たちは「戦争はすべての人がつらい思いを引きずる『あってはならないこと』『忘れてはならないこと』」「平和の中で生き続けることがどんなに幸せなことか」などと感想をつづっている。


証言集は千部作成。8日に筑紫コミュニティセンター隣接地に保存されている事件当時の筑紫駅待合所で催される慰霊祭や、同センターで開かれる記念事業で参加者に無料配布するほか、小中学校などに寄贈する。記念事業では証言集を基にした朗読劇も上演する。


会員の真鍋尚義さん(69)は「事件を知る人は少なくなっており、今が最後の機会。胸に迫る生の証言が聴けて貴重な経験だった。事件を忘れず、語り継いでいきたい」と話した。


終戦のわずか1週間前のその日、いったい何が


太平洋戦争末期の1945年8月8日、筑紫野市筑紫の西鉄筑紫駅付近で起きた米軍機数機による列車銃撃事件。終戦のわずか1週間前のその日、いったい何が起きたのか。事件の生存者や目撃者にあらためて聴いた。


西鉄の資料によると、その日、下り列車(2両編成)が福岡駅を出発したのは午前9時52分。井尻駅で空襲警報のため約1時間停車し、満員の乗客200人余りは車外に避難した。


列車を運転していたのは、学徒動員により同年2月から大牟田線に運転士として乗務していた旧南筑中(久留米市、現南筑高)生徒50人のうちの1人、当時16歳の江口昭三さん(86)=小郡市在住=だった。


江口さんによると、乗客の多くが軍人で、民間人は3分の1ほどだったという。警報解除後、列車は運転を再開。昼近く、筑紫駅を目前にしたところで、江口さんの隣に立っていた軍人が叫んだ。「敵機来襲!」


江口さんはとっさにブレーキを作動。そこへ米軍機が右斜め前方から急降下し、機銃掃射を始めた。すさまじい爆音と悲鳴。列車は筑紫駅ホームに入ったところで止まった。江口さんは列車を飛び降り、車体の下に潜り込んだ。そこにはすでに幼子を抱えた若い母親と年配の男性がいて、必死に念仏を唱えていた。弾丸にはじかれた石が飛び散り、目も開けられない。


戦闘機が去り、車内に戻った江口さんは惨状に立ちすくんだ。一面の血の海、山と折り重なる死体。家族の名を呼び、泣き叫ぶ声。甘いような、酸っぱいようなにおいが鼻を突いた。


やがて軍のトラックが来て遺体を積み込み始めた。その数、トラック5~6台分もあったろうか。江口さんは突然、憲兵隊に連行された。車掌(久留米高等小女子挺(てい)身(しん)隊員)と上司の乗務区長も一緒だった。訳の分からぬまま翌日昼すぎまで事情聴取を受けた。食事はおろか水一滴すら与えられない。何を聴かれたかも覚えていない。「貴様!」。ただ怒号を浴び続けた。


「バシッ」右太ももに衝撃


一方の上り列車。当時15歳で、大刀洗飛行場(朝倉市など)の技能者養成所生徒だった吉野忠利さん(85)=宮若市在住=はその日、甘木駅から乗車し、宮の陣駅で久留米駅発の列車(2両編成)に乗り換えた。車内は満員で、吉野さんは後部車両の乗降口のそばに立っていた。周囲とは肩が触れ合う込み具合だった。


筑紫駅の手前約1キロの地点を走行中、「バラバラッ」と爆音がしたかと思うと、隣の男性が血しぶきを上げ、崩れ落ちた。頭に被弾したのだろう。吉野さんは血しぶきをもろに浴びた。


ほぼ同時に列車は停車。吉野さんは飛び降り、線路脇に伏せた。頭上を米軍機が旋回し、波状的に銃撃してくる。見上げる吉野さんの目に操縦席から下をのぞき込む米兵が見えた。


「バシッ」と右太ももに衝撃を受けた。弾丸が貫通していた。手ぬぐいで締め上げて止血し、必死で近くの森へ逃げ込んだ。


実家が筑紫駅のそばで自転車預かり所を営んでいた藤文枝さん(76)=福岡市南区在住=は当時6歳。その時、実家の表にいた。


「ヒュー、カチカチ」という音とともに下り列車が白煙を上げていた。列車の窓から人が転げ落ち、散り散りに逃げていく。藤さん方にも何人も逃げてきた。


銃撃は数分でやんだが、辺りは負傷した人たちで大混乱となった。血だらけの女性が藤さんを見て「早くこっちに来い」と叫んだ。錯乱し、わが子と見間違えたのか。左肩の背に銃弾が突き刺さった男性が「取ってくれ」と狂ったように叫んでいた。


駆けつけた兵隊や父親たち近所の者が総出で雨戸を担架に遺体や負傷者を運んだ。遺体は宝満川沿いに並べた。数十体はあった。


藤さん方の座敷の白壁には、逃げ込んだ負傷者が苦しんで手を付いた血まみれの手形が残った。壁の表面を削っても、奥まで血がしみ込み、消えなかった。


「あの日のことは忘れようにも忘れられない」


江口さんは46年、南筑中を卒業後、西鉄に入社。くしくも筑紫駅に勤務した。毎日水をまき、花を飾り、事件の犠牲者の「み霊安かれ」と祈る毎日だったという。その後も毎年8月8日は妻と2人で筑紫駅へ行き、花を供えて犠牲者の冥福を祈った。夫婦のひそやかな法要は戦後50年の節目まで続いた。


「あの日のことは忘れようにも忘れられない」。江口さんは絞り出すように話す。今は地元行政区が毎年8月8日に慰霊行事を催す。「西鉄が法要すべきだ」。江口さんは訴える。


藤さんの実家の近くには、下り列車に乗って銃撃に遭い、片脚を失った若い女性がいた。戦後、何年もたった頃、藤さん方にその女性が立ち寄った。ふと戦争の話になった。「戦争の話はやめて!」。女性は声を荒らげたという。


死者数、身元、襲撃した部隊 筑紫野市教委が調査へ


西鉄筑紫駅列車銃撃事件は公式な調査記録がなく、犠牲者数など不明な点が多い。事件から70年を機に、筑紫野市教育委員会が調査に乗り出している。


西鉄の資料では、死者数は上り列車が乗客約20人中8人、下り列車が乗客約200人中56人とされる。


だが、上り列車に乗っていた吉野さんは「車内は満員で乗客は100人以上いたはず。死者が8人だけというのはありえない」と話す。市教委の聞き取り調査では死者数が「150人以上」との証言もあるという。市教委は人数だけでなく、犠牲者の身元の特定についても調査を進めている。


銃撃した米軍戦闘機部隊の特定も課題の一つ。事件当日の午前、旧八幡市(北九州市)などがB-29爆撃機の大編隊による空襲を受けており、時間経過からその護衛戦闘機が帰還の「ついでに」列車を襲撃したというのが通説だ。市教委が米軍資料を調べたところ、その日の八幡空襲の護衛機は「P-47」だった。


だが市教委の聞き取り調査で、襲撃機は「P-51」だったとの複数の目撃証言があるという。P-51とP-47では機体の形状が大きく異なる。襲撃機がP-51なら、八幡空襲とは別の部隊だった可能性も生じる。


(この記事は2015年8月6日付と7日付で紙面に掲載、内容は当時のものです)


西日本新聞社



法科大学院細る九州 志願者減止まらず6校が2校に 合格上位校に流出も 九大、福大、生き残りへ知恵絞る


九州で、法曹の担い手を育成する法科大学院が危機的状況に陥っている。司法制度改革の目玉として設置された2004年、九州7県で6校が立ち上がったが、志願者数の減少に歯止めがかからず、久留米大、鹿児島大、熊本大に続き、今年6月、西南学院大が撤退を表明。法曹界を目指す人材が九州から流出する懸念が強まり、存続する九州大と福岡大の2校は、生き残りを模索している。


「存続したいと考えてきたが、これ以上は難しい」。西南学院大の宮崎幹朗法科大学院長は6月、記者会見で法科大学院の学生募集を19年度から停止すると厳しい表情で発表した。これまでに65人の司法試験合格者を出したが08年度から定員割れ状態に陥り、18年度の入学者は定員20人に対して6人にとどまった。


法科大学院の累積赤字は約20億円。志願者、入学者の減少、財政面への影響も考慮し、募集停止を決めたという。宮崎院長は「改善を見込むことは困難だと判断した」と話した。


      ■


法科大学院は全国で厳しい状態が続く。文部科学省によると、志願者は制度が創設された04年度の7万2800人をピークに減少の一途。18年度は8058人と9分の1まで減った。全国に74校あった法科大学院も、西南学院大を含めて38校が撤退を表明。「当初は法科大学院がなければ法学部に学生が集まらないので必須という風潮があった」と、九州の大学関係者は見通しの甘さを吐露した。


福岡市の司法書士前田美穂さん(38)は、17年度に廃止された久留米大の1期生。多様な人材を輩出することを理念の一つとした法科大学院が、社会人や法学部以外の卒業生の受け入れを掲げたことに感銘、医療機器販売会社を辞め、04年度に入学した。


文学部卒で法律の基礎知識はなかったが修了。司法試験に3回挑戦し、いずれも不合格だった。3回目の成績順は2900番台。「年間3千人程度」とした政府が当初掲げた目標合格者数内だっただけに「すごくショックだった」。


経済のグローバル化や知的財産分野の拡大で法曹需要が伸びるという政府の予測は外れた。前田さんは「仕事がなくて困っている弁護士もいると聞く。合格していても、厳しい人生を送っていたかもしれない」。


      ■


法科大学院の志願者減少には、11年の予備試験導入が拍車を掛けた。年齢制限がなく、経済的な負担も少ないため本来は法科大学院に通えない学生らを救済するルートだった。しかし法科大学院を修了しなくても司法試験の受験資格が得られるとあって、予備試験の挑戦者は増加している。


加えて予備試験通過者は司法試験の合格率が高く、17年の合格者は290人、合格率72・5%で、いずれもトップだった。


一方、17年に司法試験合格者が100人を超えたのは慶応大、東京大、中央大、京都大、早稲田大。関東、関西の合格上位校への志向は年々高まっており、九大の堀野出法科大学院長は「九大から関東、関西の法科大学院への進学者もいる」と打ち明ける。


ただ、九大も手をこまねいているばかりではない。定員に満たなければ2次募集も実施。学生募集を停止している熊大とは17年に連携協定を締結し、熊大の学部生に九大法科大学院をPRする。「九州の優秀な学生を九大で迎えられるようにしたい」と堀野院長。


福大は13年度から授業料を年100万円から60万円に大幅減額。個別指導体制の充実で司法試験合格率を上昇させている。村上英明法科大学院長は「成績は上向いているが存続について楽観視できない。毎年毎年が勝負」と言う。


九州弁護士会連合会の宮城哲弁護士(沖縄県)は「地方で育った法曹関係者は地元の問題に関心が高く、地方に法科大学院がある意義は大きい」と強調。同会は講義への弁護士派遣や年1回の統一模試実施などで九州の法科大学院を支援しており、今後は琉球大も含め九州・沖縄の3校の存続に向けて「さらにどんな協力ができるのか検討する」と充実を図る考えだ。


=2018/08/06付 西日本新聞朝刊=


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