生きようとするから活きないこともある


人は、愛を感じさせてくれる人物や対象を愛しているというよりも、愛を感じているただ中の気持ちそのものの愛を愛していると表現した先輩がいました。愛を愛しているのであって、愛と関連づけた対象物や因果を愛しているわけではありません。つまり愛の周辺には、「愛そのもの」と「愛ときっと関連しているだろうという推測」この二つの要素が多分に混同されているのです。この人またはコレが愛の源なんだろうたぶん、という推測は愛ではないのです。「私はこの人を愛している」はただの誤解に過ぎず、「愛を愛していることをこの人に関連づけて思い出すことがある」だけという主張です。
身体を生き延びさせようとすることが「生きよう」とすることなら、「活き活きとしている」ことはそれとは違います。前者は意思で、後者は状態です。前者は前のめりで、後者はまっすぐ、直立しています。この「生きよう」と「活き活きとしている」が愛の周辺に蔓延している推測と愛そのものの関係に似ているという話です。
特別なことをしようとしないことが唯一の特別な道(未知)、そういう可能性が「全員を照らしている」可能性もあると思うのです。n


何か目に見えたら、それではありません。何か考えが浮かんだら、それではありません。あなたのすることでもありません。けれどもこうしたことの中に常にあるものです。


『わたしはイライラしている』と言うときの<わたし>はどんな感覚ですか。
『わたしは落ち着いている』と言うときにもその感覚がありますか。
あなたの中には決して変化しない何かがあります。それは生まれることも消えることもなく、いま起きていることを完全に知っています。何かがすべてを観察し、すべてを感じ、すべてに反応します。それから離れないでください。


「もっとやるんだ」、「もっとうまくやれ」、「もっと速くやれ」とマントラは言いますが、そんなに急いでどこに行くというのでしょうか。こうした言葉にせき立てられても、それでもっと速く<神を見つける>ことができるわけではありません。それより役に立つのは、すわって心を静め、リラックスすることです。あれもこれもしなければと思うのをやめて、ただ在ることです。今の自分ではいけないと語りかけてくる内なる声が何なのかを見きわめることです。あなた方の住んでいる世界は、多くの条件づけがなされている世界で、喜びや感動する心、ただ元気でいる幸せなどは、どうもそれだけでは十分でないと教えます。


マハルシ 想念とは無数の過去世において蓄積されたヴァーサナー(心の潜在的傾向、性癖)でしかありません。それを絶滅させることが目標です。ヴァーサナーから自由になった状態が原初の状態、純粋で永遠なる状態なのです。

(対話80)


もっとも深い意味では、意識のもつ潜在的創造性がグリッドを決めます。または、別の言い方をすると、すべて神から生まれます。けれどもこの創造力の中にはあなた自身の<個人的な>グリッドも含まれています。あなたのグリッドはあなた自身の可能性や必要性にしたがって創られ、非個人的な神の性質と個人的なあなたの過去やカルマや欲望の両方をあわせもっています。あなたは、いま自分だと思っている人間として姿を現している目覚めた意識です。<あなた>は、完全に目覚めた人間とはどういうものかという可能性のすべてを体験するために肉体をまといます。そこで、まだ体験していないことで体験する必要のあることをグリッドに設定します。自分がすでに体験して理解したことはグリッドに入れません。
たとえば過去生で僧侶だった人がいて、僧侶としての人生が不完全だったとします。僧侶であることを完全に理解する必要があるので、この理解されていない部分が別の人生に戻ってくるわけです。


自分が嫌っている相手や感情を本当に知ると、嫌悪感はなくなります。自分を怖がらせるものや自分にはとても対処できないと思う状況に人は嫌悪感を抱くのです。恐怖を感じる状況をみずから体験しないですむためには、その状況にまつわる心理を感じ取り、理解しようとする意志をもてばいいのです。また、自分とその状況とは何の関係もないのだ、そうした嫌悪したくなる状況を現在演じている人間と自分とのあいだにははっきりとした区別があるのだ、という非現実的な思いこみをなくせばいいのです。その人たちが演じてくれていることに感謝しましょう。おかげで、あなたは彼らという鏡の中に自分自身を見る機会をあたえられ、みずからそれを直接体験せずにすんでいるわけです。
どういう形であれ、あなたがほかの人に同情したり、共感したりするとき、あなたはもはやその相手から分離されてはいません。


前にも言いましたが、自分が嫌だと思うものが人であれ、状況であれ、何であれ、あなたがそれを見たり考えたり想像したりできるということは、それがあなたの中にもあるということです。あなたの中になければ、あなたはそれを見たり、それについて考えたり想像したりできないからです。何かに嫌悪感を感じたら、それが自分のグリッドの中にあって、自分はそれから逃げ出さないで体験する必要があるのだと気づくと、嫌悪感は自然になくなります。


至上者(かみ)に知性が帰入せぬ者は
心も統御されず 知性も安定せず
平安の境地は望むべくもない


質問者 どうすれば眠りを打ち破ることができるでしょうか?


マハルシ その活動や結果を意識せずにいなさい。

(対話356)


「どうかアハム・スプラナ(「私─私」の光)についてご説明ください」


マハルシ 眠りの中では「私」は知られていません。目覚めるとともに、「私」は身体、世界、非真我と結びついた形で知覚されます。そのような結びつきを持った「私」がアハム・ヴリッティ(「私」という想念)と呼ばれ、そのアハムが真我だけを表すとき、アハム・スプラナと呼ばれるのです。これはジニャーニ(真我を実現した人)にとって自然なものです。ジニャーニはそれをジニャーナと呼び、バクタはバクティと呼びます。アハム・スプラナは(眠りの状態も含めて)常に存在しているにもかかわらず、知覚されずにいます。それを眠りの中で知ることはできません。それはまず目覚めの状態において認識されなければならないのです。なぜなら、それは三つの状態すべての根底にある自己の本性だからです。
努力は目覚めの状態でのみ為されるべきものです。努力することで、真我は今ここで実現されるのです。実現された後には、真我が目覚め(ジャーグラト)、夢見(スワプナ)、眠り(スシュプティ)に妨げられることなく、常に、絶えず存在していることがわかるでしょう。それゆえ、真我はアカンダーカーラ・ヴリッティ(途切れることのない体験)なのです。
本来のヴリッティは(眠りでは不在なため)短期間のものです。それは(目覚めと夢見のときだけに)限定され、ある方向に向けられた意識なのです。あるいは、それは想念や感覚などを認識することによって分割された絶対意識とも言えるでしょう。
ヴリッティは心の働きですが、途切れることのない意識は心を超越しています。これが解脱した人(ジニャーニ)の自然な、原初の状態です。それは途切れることのない体験です。相対的意識が静まったとき、それはそれ自体を顕わにします。アハム・ヴリッティ(「私」という想念)は途切れるものですが、アハム・スプラナ(「私─私」の光)は途切れることなく永続的なものです。その光は思考が静まったときに輝き出すのです。

(対話307)



なにひとつ隠すものがない場合には、あなたの意識の光は、もはや恥ずかしい秘密の罪の意識にくもらされることはありません。もう、うそでとりつくろう必要はありません。あなたの人間関係は、あれこれの思惑や下心に妨げられません。シンプルさと明晰さが人生を支配します。もう欺瞞はないからです。


だれでもたったいま、この明晰さに到達することができます。自分の考えや感じ方のすべてを、ためらいなく打ち明けて話す勇気さえもてればです。それは兄弟姉妹への信頼の行為にもなります。それはまた、進んで自分をさらけだし、弱さを見せるという意志でもあります。


あなたに恐怖心があっても、それを人に話せば、その恐怖心とその下にある罪悪感は隠れていられなくなります。だれかを批判する考えが浮かんだとき、それを否定したり、そんなことはないとごまかしたり、あいつこそが悪いのだと投影したりすることもできます。しかし、それに気づいて、その考えに癒しをもたらすこともできます。人を攻撃する考えを隠すこともできますし、告白することもできます。


教会での告解(こっかい)の儀式は、儀式というもののつねとして、その本来の目的を果たさなくなっています。本来の目的とは、他人から赦免を受けとるということではないのです。欺瞞の暗闇を投げ捨て、恐怖心と罪悪感に意識の光をあてることなのです。告解を聞く人は、裁判官ではなく、証人なのです。その人はローブを着ている必要もありませんし、なにか権威ある立場にいなければならないこともありません。どんな人が証人でもいいのです。自分の役割は批判や告発ではなく、共感をもって耳を傾けることだと理解している人であるならば。


過ちをおかさない人はいません。わざとであろうと、そうでなかろうと、たがいに衝突することはよくあることです。あらゆる衝突が止められると考えるのは、おろかしいことです。人間としての自分の弱さをよく知らない人だけが、そのような地に足のつかない高邁な理想を追い求めるのです。そして、自分の人間らしさを受けいれられない人が、どうして自分の聖性を受けいれられるでしょうか。


過ちはこれからもあるでしょうから、過ちをおかすたびに、ありがたく思うようにしてください。過ちは、修正をもたらしてくれる贈り物です。あらゆる小賢しいはからいや欺瞞を表面に浮上させてくれる、その機会を祝福してください。心(マインド)の暗い場所をのぞきこむ機会に感謝し、その中身を意識的検証の光の中に持ちこんでください。


あなたが過ちをむりに正当化すると、それにしがみつき、何度も自己弁護をくりかえすことになります。莫大な時間とエネルギーのむだです。もしあなたがそれをしていることに気づかなければ、一生それをやりつづけ、それが人生の目的になってしまいます。


むしろ過ちを告白すれば、すべての時間を言い訳にあてる必要がなくなります。自分のごまかしを認めれば、過去という限界に縛りつけられることもなくなります。あらゆる衝突をオープンに認めてください。兄弟のことをよく思えないのであれば、彼にそう言って、宥しを求めます。それは相手を台座にのせてまつりあげるということではなく、自分が自己嫌悪と絶望の底なしの穴に落ちこまないための方策なのです。それはあなたが恐怖心や不正直さ、罪悪感をもたずに生きるための薬なのです。この薬を飲んでください、友よ。前にもわたしはこの薬をさしだしましたが、もう一度、さしだします。


この世界がくもって見通しが悪いのは、あなたが過ちを認める勇気を欠いているからです。あなたが兄弟とともに演じている、見せかけ、ふりのゲームのせいです。兄弟よりも自分のほうが倫理的で正しい、ということがありえると、あなたは本気で信じていますか。


あなたにできることは、せいぜい、自分の過ちを隠す能力を磨くということくらいでしょう。それは悲しいことですし、自己欺瞞のゲームです。それをやめてください。


兄弟を信頼してください。あなたよりも上にいるのだと判断するのではなく、隣にならんでいる対等な相手なのだと認めてください。兄弟があなたを非難するとき、彼は自分自身をも非難しているのです。


自分自身に対し、告白します。また伴侶や、上司、路上の見知らぬ人に対しても、告白してください。人にどう思われてもいいではありませんか。あなたは革命的な教えを伝えているのです。あなたの告白によって、ほかの人も自分自身の過ちを、あわれみをもって見てよいのだとわかるのですから。


自分の過ちを認める人は、人々への燈台のようなものです。その人は、自分の闇のマントを脱ぎ捨てたのです。そのひとを通じて光が輝きます。その心が、透明で、真実が楽々と流れでるすきとおった通路になっているからです。


兄弟はすぐに、この人は信頼できるとわかり、その手をとろうとします。このような人は真の司祭です。自分自身の罪を宥したので、それを他人の罪にも及ぼすことができます。この人の権威は外部からではなく、内部から来ます。宗教的な権威者と世間で認定されているわけではありません。でもそのもとへ来る人はすべて、この人こそ力のある人だと知り、信頼し、自分を打ち明けます。


これが告解ということの真実です。どんな男でも女でも聴聞司祭になりえます。わたしの名前をかたってあなたがたに伝えられている、いかなるうそをも信じないでください。常識を働かせてください。


もしあなたが、うそを許容できなくて宗教に背を向けてしまったのだとしたら、それを恥じることはありません。ごまかしを教え、自分だけを権威者とし、罪悪感を植えつけるような教会に対しては、わたしも背を向けるでしょう。


そうした偽りの教えを拒否するのは、正しいことです。しかし、聖職者の衣をまとった世俗的な偽善者への怒りがあるからといって、わたしと直接に交流することをやめないでほしいのです。他人に教えられたことすべてを忘れ、自分のハートの中にいまある真実だけに思いをめぐらせてみてください。そのハートの中で、あなたとわたしは出会います。わたしの教えや生涯をあざけるような見かけだおしの建物の中ではなく。


友よ、真実を思いめぐらしてください。わたしや兄弟から、なにか苦しみから抜け出す秘訣のようなものを聞き出すことはできません。苦しみを終わらせるには、あなたの人生のあらゆるごまかしを終わらせなければなりません。それは自分自身に対して、わたしに対して、兄弟に対して、真実を語ることによってのみ達成されます。


それによって失うものは、この世のくもりと混乱だけではありませんか。秘密を秘密にしておいて、迷路の中にとどまりますか。それともそれを告白し、暗く曲がりくねった小径(こみち)から抜け出しますか。選ぶのはあなたです。


でも、自分をごまかさないでください。隠蔽や闇の中には救済はありません。救済は、真実の光の中にいる人だれにでも与えられます。その光の中には、恥や罪といった影は残っていることはできません。


勇気をもって過ちを認めれば、それらの過ちを宥し、自分自身を、悩み、苦労、欺瞞から解き放つことができます。兄弟にむかって打ち明けなさい。そうすればいつか、彼もまたあなたを信じて打ち明けるでしょう。真実を否定したり、それを聞かなかったふりをするのはやめてください。わたしはここで、あなたがたに理解できるようなシンプルな言葉で真理を語ったではありませんか。このさきはあなたしだいです。真理は人生で実践されないかぎり、十全に受けいれられたとは言えません。


あなたがたひとりひとりは、神の愛と恵みという宝石の多くの面のひとつなのです。それぞれが、それぞれの神性のシンプルな表現のしかたをもっています。ひとつの面の美しさは、別の面の輝きを打ち消すことはなく、むしろ両者の広がりと光を強めます。


ある面を輝かせるものは、ほかのすべての面を輝かせるのに役立ちます。わたしの中にある光は、あなたの中にもあります。わたしがあなたがたにまさって、神に愛されているわけではありません。兄弟姉妹よ、このことは自分のハートの中でおのずとわかってくるでしょう。どれほど外から教えられたり説かれたりしても、それを信じることはできません。


だからこそ、実践してくださいと、わたしは言います。あなたのものの感じ方の透明さを妨げる判断・批判という不純物をとりさりなさい。ハートを流れる愛を妨げる競争心、妬み、貪欲をとりさりなさい。恐怖心や、自分に不足があるという思い、あなたのした干渉、そしてあなたの悲しみを告白しなさい。秘め隠した考えや感情の闇に、意識の光をあててください。


修正できないような過ちはありえません。宥されないようなふるまいはありえません。これがわたしの教えです。あなたがたは、わたしの言葉だけを通して理解するのではありません。教えたことすべてを、わたしは自分の生涯で示しました。ですから友よ、あなたも同じようにしてください。


存在する全てのものの本質とは何でしょうか? それらの源は何でしょうか? それらの本質は何でしょうか? それらの運命は? これらの問いへのラムサのアプローチは、彼の「ヴォイド」という概念から始まります。ヴォイドは、存在する全てのものが生じる源です。彼はヴォイドを「物質的には何もない広大な無でありながら、潜在的に全てのものでもある」と言う風に描写します。ヴォイドの中には何もありません。つまり動きも活動もありません。神に関する問いへの哲学的なアプローチの多くは(一神教の宗教の神学も含めて)、神というものを、「全知」、「無限」、「絶対」、「超越的」、「不変」の存在とみなしてきました。ラムサの体系では、絶対性、無限性、不変性といった属性は、ヴォイドの持つ性質です。ヴォイドは自己完結的、自己充足的であり、一種の休止した状態、何も必要としない状態です。ヴォイドは、全てを包含する広大なもののように見えるにもかかわらず、その原初の状態では、自分自身について何も知りません。というのも、知るということは、ひとつの活動だからです。


アリストテレス哲学やトマス・アクィナス神学の中に私たちが見いだす、創造者としての神の概念、すなわち「第一原因」、「不動の動者」といった概念は、ラムサによって、「自分自身について熟考し、自分自身を知ろうとするヴォイド」という言葉で描写されます。この「熟考」という行為は、自分自身に気づき、自分自身を知っているひとつの点を生み出すという、ヴォイドの中での独特の動きを象徴しています。自分自身に気づいているこの点は、「ゼロポイント」、「観察者」、「第一意識」、「意識とエネルギー」、「神」と呼ばれています。ゼロポイントは、広大なヴォイドの中に潜在的可能性として含まれている未知のものをすべて体験して既知にする、という原初の意図をたずさえています。これが進化の基礎です。自分自身について熟考したヴォイドは、人間の源であり、起源です。「あなたは神である」というラムサの言葉は、人間は観察者であり、ゼロポイントが肉体化したものであり、創造的な意識とエネルギーである、ということを言っているのです。



質問者 あらためて、私は快楽と苦痛、欲望と恐れの質問をしたいと思います。恐れとは、苦痛の記憶と予測だと私は理解しています。それは有機体とその生活様式の保護のために本質的なものです。欲求が感じられると苦痛に満ち、その期待は恐れでいっぱいになります。私たちは基本的な必要性を満たせないことを、当然のことながら恐れます。欲求が満たされたとき、安心を経験したり、不安が静められたりするのは、もっぱら苦痛が終わるためです。私たちはそれに快楽や喜び、あるいは幸せといった積極的な名前を与えますが、それは本質的に苦痛からの解放なのです。私たちの社会的、経済的、政治的な制度を維持しているのは、この苦痛への恐れです。
私を困惑させるのは、生存とは何の関係もないものやマインドの状態から私たちが喜びを引き出すことです。その反対に、私たちの快楽はたいてい破壊的です。それらは対象物を、また快楽の主体をも傷つけ、破壊します。そうでなければ、快楽と快楽の追求には何の問題もありません。これが私の質問の核心に導きます。なぜ快楽は破壊的なのでしょうか? なぜ破壊的であるにも関わらず、それは求められるのでしょうか?
言っておかなければなりませんが、私は自然が要求する快楽と苦痛のパターンについては考えてはいません。私が考えているのは、過食のようにもっとも粗雑なものからもっとも純粋なものまで、感覚的、そして神秘的なものの両方です。快楽に耽溺することは、たとえどのような犠牲を払おうとも普遍的なものであり、その根本には何か深い意味があるに違いありません。
もちろん、人のすべての活動が功利主義的な、必要を満たすためだけのものとはかぎりません。例えて言えば、遊びは自然なものであり、人間は存在のなかでもっとも遊び好きな動物です。遊びは自己発見や自己開発のための必要を満たします。しかし、遊びにおいてさえ、人間は自然やほかの生きもの、そして彼自身に対して破壊的になるのです。


マハラジ 要するに、あなたは快楽には反対でないが、苦痛と苦しみへの代価には反対だということだ。


質問者 もし実在そのものが至福であるならば、快楽はそれに何らかの形で関係しているはずです。


マハラジ 言葉の上の論理によって話を進めるのはやめよう。実在の至福は苦しみを除外しないのだ。その上、あなたは快楽のみを知り、純粋な存在の至福を知ってはいない。だから、快楽をそれ自体のレベルで調べてみることにしよう。
もしあなたが快楽や苦痛の瞬間にある自分を見てみれば、快楽や苦痛がものごと自体のなかにあるのではなく、状況のなかにあるということを、いつもきまって見つけだすだろう。快楽は楽しむ人と楽しまれるものとの関係性のなかにある。そしてその本質は受容にあるのだ。状況がいかなるものであれ、それを受け入れることが可能ならば、それは心地好く、受け入れがたければ、苦しいのだ。何がそれを受け入れられるようにするのかは重要でない。原因は物質的、心理的、あるいは理由のわからないものかもしれないが、受容がその決定要因だ。相対的に、苦しみは受け入れないことによるものだ。


質問者 苦痛は受け入れがたいものです。


マハラジ どうしてかね? 試したことがあるのかね? 試してみなさい。そうすれば苦痛には快楽が生みだすことのできない喜びがあることを見いだすだろう。なぜなら、苦痛の受容には快楽よりもはるかに深いところへあなたを導くという純然たる理由があるからだ。個人の自我はその本性からして絶えず快楽を求め、苦痛を避けている。このパターンの終焉が自我の終焉なのだ。自我と、その欲望と恐れの終焉は、幸福と平和の源であるあなたの真の本性に帰り着くことを可能にする。絶え間ない快楽への欲望は、内なる永遠の調和の反映なのだ。人が自我を意識しだすのは、選択と決定を要求する、快楽と苦痛の合間での葛藤に捕らえられたときだけだ。この欲望と恐れとの衝突が、人生において正常な、偉大なる破壊者である怒りを生みだす。苦痛がひとつの教訓と警告としてあるがままに受け入れられ、注意をもって深く見入られたとき、苦痛と快楽という分離は打ち壊され、それらはともに、抵抗したとき苦しく、受け入れたとき快いという体験になるのだ。


質問者 あなたは快楽を避け、苦痛を追求するように勧めているのでしょうか?


マハラジ そうではない。また快楽を追求し、苦痛を避けることも勧めはしない。それらが来るがままに受け入れなさい。それらが続く間はその両方を楽しみなさい。そして去るべきとき、それらを去らせるがいい。


質問者 どうすれば苦痛を楽しむことができるというのでしょうか? 身体的苦痛は行動を要求します。


マハラジ もちろんだ。そして精神的にもそれは同じことだ。至福は、その気づきのなかにしりごみせず、苦痛に背を向けないことのなかにあるのだ。すべての幸福は気づきからやってくる。私たちがより意識的であれば、喜びはより深くなる。苦痛の受容、無抵抗、勇気、忍耐──それらは、深く永久に枯渇しない真の幸福、真実の至福の源を開くのだ。


質問者 なぜ苦痛は快楽よりも効力があるのでしょうか?


マハラジ 快楽はたやすく受け入れられる。一方、自我のすべての力が苦痛を拒絶する。苦痛の受容が自我の否定であるように、自我は真実の幸福への道を妨げる。苦痛の心からの受容は幸福の源泉を解放するのだ。


質問者 苦しみの受容も同じように働くのでしょうか?


マハラジ 苦痛という事実に気づきの焦点を当てるのは容易なことだ。苦しみにあっては、ことはそう単純ではない。苦しみに焦点を当てるだけでは、充分ではないのだ。なぜなら知ってのとおり、精神的な人生とはひとつの絶え間ない苦しみの流れだからだ。苦しみのより深い層に到達するには、あなたはその根元まで行き、そして、それらの広大なネットワークを露わにしなければならない。そこには恐れと欲望が緊密に織り込まれ、生命エネルギーの流れは対立して行く手を遮り、互いに破壊しあっているのだ。


質問者 どのようにして私の意識層より完全に下にある混乱を正すことができるのでしょうか?


マハラジ あなた自身とともに在ること、「私は在る」とともに在ることによって、日々の生活におけるあなた自身を、批判するよりも理解しようという意図をもって見守ることによって、何であれ、現れることを完全に受容することによってだ。なぜなら、それはそこにあるのだから。あなたは奥深くにあったものが表層に現れることを励まし、その捕らわれていたエネルギーによってあなたの人生と意識を豊かにするのだ。これが気づきの偉大な働きだ。それは生命とマインドの本性を理解することによって障害を取り除き、エネルギーを解放する。知性は自由への扉であり、そして油断のない注意が知性の母なのだ。


質問者 もうひとつの質問です。なぜ快楽は苦痛のなかに終わるのでしょうか?


マハラジ すべてにはじまりがあり、終わりがある。快楽もまた同じなのだ。期待してはいけない。そして後悔してはいけない。そうすれば、そこに苦痛はなくなるだろう。苦しみの原因は記憶と想像なのだ。
もちろん、快楽の後の苦痛は身体とマインドの誤用によるものだろう。身体はその限度を知っているが、マインドはそれを知らないのだ。その渇望は数かぎりなく、限度を知らない。マインドを最大の努力とともに見守りなさい。なぜなら、そこにあなたの束縛が、そしてまた解放への鍵があるからだ。


質問者 私の質問はまだ完全に答えられていません。どうして人間の快楽は破壊的なのでしょうか? どうして彼は破壊することのなかに、それほど喜びを見いだすのでしょうか? 生命はそれ自身の保護、永続、拡張を気にかけているはずです。このなかで、それは苦痛と快楽に導かれているのです。いったい、どの時点でそれらは破壊的になるのでしょうか?


マハラジ マインドが占拠し、記憶し、期待するとき、それは大げさに見たり、ゆがめて見たり、見落としたりする。過去は未来へと投影され、未来は期待を裏切るのだ。感覚と行動の器官は許容範囲を超えた刺激を受け、必然的に弱ってしまう。快楽の対象物は期待されたことを満たすことができず、誤用によって尽き果て、あるいは破壊されてしまう。快楽が探し求められるところには、過剰な苦痛が結果として生じるのだ。


質問者 私たちは自分自身だけではなく、他者まで破壊してしまうのです!


マハラジ 当然、自分本位とはつねに破壊的なものだ。欲望と恐れは、ともに自己中心的な状態だ。欲望と恐れの間に怒りが、怒りとともに憎悪が、憎悪とともに破壊への激情が立ち現れる。戦争はすべての死の兵器を備え、組織化された憎悪の行為なのだ。


質問者 これらの恐ろしいものごとに終止符を打つ方法はないのでしょうか?


マハラジ より多くの人びとが彼らの真の本性を知るにつれて、いかに微妙なものでも彼らの影響は広まっていき、世界の感情的な空気は和らいでいく。人びとは彼らの指導者にしたがい、そして指導者たちの間に、何人かの偉大なマインドとハートをもち、自己本位から絶対的に自由な人が現れたとき、彼らの衝撃はこの時代の未熟さと罪を不可能にしてしまうだけの十分な影響力を与えるだろう。新たな黄金の時代が現れ、一つの時代を築き、それ自身の完成のうちに倒れていくかもしれない。なぜなら、衰退は機運がその絶頂に達したときにはじまるものだからだ。


質問者 永久的な完成というものはないのでしょうか?


マハラジ ある。だが、それはすべての未完成を包括しているのだ。それがすべてを可能にし、知覚可能にし、興味深くする自己の本性の完成なのだ。それは苦しみを知らない。なぜなら、それは好まず嫌わず、受容も拒絶もしないからだ。創造と破壊は、それがその間でつねに変化しつづけていく模様を織り成す二つの極なのだ。好き嫌いやより好みから自由になりなさい。そうすれば、マインドとその悲しみの重荷は、もはやなくなるだろう。


質問者 しかし苦しんでいるのは私ひとりではありません。ほかの人たちもいるのです。


マハラジ あなたがあなたの欲望や恐れとともに彼らのもとへ行くなら、単に彼らに不幸を加えるだけだ。まず、あなた自身が苦しみから自由になりなさい。そのときにのみ、他者を助けられる期待がもてる。期待する必要さえない。あなたの存在そのものが、ひとりの人間として同胞に与えることのできる最大の助けとなるだろう。


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