憎しみや罪悪感は、この世界の天気のように、ある日天を覆う雲のように、個々人を覆っています。憎しみは憎しみに連鎖していくし、罪悪感はまた別の罪悪感につながっていくかもしれません。


だからたとえば、神様が両手を広げて飛び込んできてと語りかけてくれても、「私にはその資格がない」と躊躇するのは本人なんです。ここで本人は自分の本音に気づきます。「上の世界にふさわしくないと一番感じているのは私自身だった。他の誰でもなかった」と。


もし向こう側、あの世でこのように躊躇する「セルフ」が自己の本質、その自己の今現在の態度や理解だとするならば、地上に生まれて期待することは、その見つめ直し、解放です。


「どうして大神様がOKと言ってくださっているのに、私は拒否してしまうのか、自分で自分を理解するための旅に出ます。探さないでください」という書置きを残したのかもしれません。n2319





どの人がほんとうはやさしくて勇気があるかなんて、いざという時までわからないです。だからそれまではみんなフラット、持ち点のプラスマイナスはないものと考えています。
この世界で起きていることは、実はオーダーメイドだと、非常に精緻に、本人の成長を引き起こすためだけに出会いが計算されているそうです。


もし、神を責めるのであれば、神は私を「置き去りにしてどこか別の場所に行ってしまった」が事実でなければなりません。もし私たちの恐怖のど真ん中にも神が中心で一緒に見守っていたとなると、神を責めるのは不当で、極大の誤解であり、どうしてそれを「聴こうとしなかったのか?」と後で問われるのは逆にこちら側です。


幻影の議論は「見る角度の違いによる」とマハルシは言いましたが、たとえば今高速道路で運転しているとして、少しでもハンドル操作を誤れば自分と他の人の命を危険にさらすのは確かな現実です。正気でなければならないし、無責任になっていいわけがありません。でも、そこに少しの誤解があるかもしれないです。
この高速道路と運転は現実ですが、
この現実の背後に、この光景の裏に、
「私」と感じられていた意識のフレームが、
最も偉大な神のものだったと気づく時、神は私とともにこの高速道路を体験していたことに気づきます。高速道路で脂汗を流していたとき、汗の流れる感覚やお腹がぎゅっと締め付けられるような恐怖を感じていたのは私だけではなかったと気づくのです。なんのために全知全能の神が高速道路体験をするのかは、こう問うとわかりやすいです。
「今、私は、今すぐあの世に帰って来なさい、もうあなたの役目は終わりましたと言われたら、大人しく帰るだろうか?」
大抵の場合は、もったいないと感じるし、やり残したことがあります。ありがとうとごめんなさいと伝えるべき人もいます。
今、ここに残していただいていることが、ありがた迷惑か本当にありがたいのかは、ここを旅立つ時わかるような気がします。n0526

03 2024/04 05
S M T W T F S
19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30
HN:
Fiora & nobody