幽霊よりアヤフヤ


個人というのは個を分けている(と本人が思っている)「境界」を強く思い込めば思い込むほど苦しみます。私の担当分、つまり俗に言う”縄張り”の中で障害が生じたから「私のせい」だと強く感じたり、「私、は何か失った」という精神的ダメージを自分で想像してしまったり、その分の感情に左右されやすくなります。境界が薄い、アヤフヤであればあるほど、「苦しまなく」なります。なぜなら苦しむのは「私」だけだから、本来は”流れに苦しみはない”からなんです。海(ひとつ)が存在するだけで、個別の”波”は幻影に過ぎないという比喩が使われますが、自分の人生を波と見るかどうかは本人の見方です。見方は自由です。誰も何も強制していません。ただ確かに言えるのは、波の境界線を強く強く意識している場合は「苦しむ」ので、その見方は緩めるという選択肢がありますよ、と提示されることもあります。n1827


地獄に降りる蜘蛛の糸


4つ要素があります。


0、糸の先にあるもの
1、蜘蛛の糸
2、怪物(避けたいもの)
3、回避行動(受取拒否)


簡略化したい場合は2番と3番のみを用いて、回避行動(受取拒否)そのものが糸(意図)切りになっていることを理解していただきます。
2番の怪物は、あなたが特に嫌がるものの姿カタチを纏わせます。オーダーメイドの嫌がらせです。その時0番の(意図)をあなたは知りません。
どんな物事や過去に当てはめてみても構いません。回避行動(受取拒否)がどのような結果につながったか、自分で確かめてみるのです。1番、2番、3番を”みる”際に0番をどう感じていたかがどのように影響しているかも含めてです。Fiora


あらすじ

釈迦はある日の朝、極楽を散歩中に蓮池を通して下の地獄を覗き見た。罪人どもが苦しんでいる中にカンダタ(犍陀多)という男を見つけた。カンダタは殺人や放火もした泥棒であったが、過去に一度だけ善行を成したことがあった。それは林で小さな蜘蛛を踏み殺しかけて止め、命を助けたことだ。それを思い出した釈迦は、彼を地獄から救い出してやろうと、一本の蜘蛛の糸をカンダタめがけて下ろした。
暗い地獄で天から垂れて来た蜘蛛の糸を見たカンダタは「この糸を登れば地獄から出られる」と考え、糸につかまって昇り始めた。ところが途中で疲れてふと下を見下ろすと、数多の罪人達が自分の下から続いてくる。このままでは重みで糸が切れてしまうと思ったカンダタは、下に向かって「この糸は俺のものだ。下りろ。」と喚いた。すると蜘蛛の糸がカンダタの真上の部分で切れ、カンダタは再び地獄の底に堕ちてしまった。
無慈悲に自分だけ助かろうとし、結局元の地獄へ堕ちてしまったカンダタを浅ましく思ったのか、それを見ていた釈迦は悲しそうな顔をして蓮池から立ち去った。


類似の物語

スウェーデンの女流作家セルマ・ラーゲルレーヴが1905年に書いた『キリスト伝説集』(岩波文庫)の「わが主とペトロ聖者」が類似した話となっている。わが主(イエス)が地獄に向けて放った天使につかまって上がってこようとしたペトロ聖者の母親が、一緒につかまって上がってこようとした人々を振り落としたために、天使は母親を放してしまい、結局また地獄へ落ちてしまう話となっている。なお、ケーラスは日本で『カルマ』を再版する際に『聖ペテロの母』に依拠したと思われるエピソードを加えている。
イタリアとスペインには「天国に居るシエナのカタリナが地獄に居る母親を天国に引き上げようとするが、母親は自分にしがみ付いた魂に悪態をついたため地獄に戻され、カタリナは天国よりも母の居る地獄へ移った」という内容の民話が伝わっている。
山形県、福島県、愛媛県には、『地獄の人参』という話が伝承されている。ストーリーは「あるところに欲張りな老婆がいて、その報いで地獄に落ちた。地獄の責め苦に耐え切れず、閻魔大王に『何とか極楽に行かせて欲しい』と頼んだところ、『何か一つでも良いことをしたことはないのか』と問われる。そこで老婆は、隣人(旅の僧)に腐ったニンジン(薬用のオタネニンジンの切れ端)を恵んだ話をする。閻魔大王はニンジンを出し、それにすがって極楽へ行くよう命じるが、蜘蛛の糸の話と同様、最後は亡者を追い払おうとして地獄へ転落する」というものである。これが古来の伝承か、あるいは芥川の小説が翻案されて作られた新たな説話かは不明である。この話は『まんが日本昔ばなし』でアニメ化されている。
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