久しぶりにManaさんの記事(10月25日)から引用させていただきます。とてもわかりやすくて好きです。ビリヤードで球が動いているところを見たら、キューによって突かれたに(ちがいない)と推進力の原因を想像してしまうようなものです。球が球だけで主体のない運動(現象)が「起こっている」という気づきの認識は、意識の深層に一度落ちないと「思い出せない」ことの一つです。n0023


本来、私たちは「空(くう)である」「無我である」と、
何度も書いてまいりましたので、


理屈としては分かる、
という方も多いのではないかと思います。


でも、「そうは言っても実感が湧かない。現に、この僕(この私)がこのブログを読んだり、頭をひねっているわけで、やっぱりそういう自分がいるじゃないか」と、


思ってしまう人が
大半かもしれません。


デカルトが言った「我思う、ゆえに我あり」を
支持してしまうのです。


しかしながら、
「我思う、ゆえに我あり」には、すでに【思い込み】が潜り込んでいたのです。


つまり、
「行為が為されるなら、
その行為を行う『主体』が先に存在しなければならない」という思い込みです。


確かにこれは、
誰もがそう思う極めて自然なモノゴトの「とらえ方」です。


毎日の生活でも
便利に機能し、役立ってくれています。


それでも、これは妄想であり、
思い込みでしかありません。


私たちは
頭の中で「言葉」で考えますが、


その肝心の言葉も、
私たちの思い込みを引き継いでいますから、


『主語』が先にあって、
そのあとに『述語』がある、という構造を持っています。


まず、『主語』となる何かがあって、
それが何かをする、どうにかなっていく、という「とらえ方」が根本にあります。


でも、本当は
そうではありません。


『述語部分』、つまり
「どうこうする」「どうこうなる」という【現象】が起こっているだけであって、


そこに『主語』となる『主体』を
人間が【あとづけ】でかぶせて考えているのです。


例えば、「火が燃える」と
私たちは言いますが、


先に「火」が存在して
それが燃えるわけではありません。


「泉」もそうです。
水が湧き出してくる場を泉と呼ぶのであって、


先に泉というものが
独自に独立して存在しているわけではないのです。


私たちも同じです。


私たちのカラダは
様々なものが通過する場であり、その際に様々な反応が起こります。


体温の熱もそうだし、
呼吸もそうだし、感情もそうだし、


実に多種多様な反応が
カラダで起こります。


その都度その都度の反応に、
あとづけで「私」というラベルをかぶせ、『主語』として設置し、


そうやって一貫した「私」が存在していると思いなして、
そこに執着して「苦」を作っていきます。


でも、主体となる「私」が
先に在るのではないし、


それが本を読んだり、
頭をひねったり、眠ったりするのではありません。


あくまでも、このカラダにおいて、
「読み・ひねり・眠り」という「現象」が起こっているだけです。


だから、ブッダ釈尊の「カラダ」に
釈尊と呼ぶべき『主体』が宿っているのではないのです。


あなたの「カラダ」に
山田A子という何かが宿っているのではないのです。


そういう一貫した「自分」が
ちゃんと存在すると妄想して、その幻夢に一体化することと、


今まで「私」だと思ってきたものは
条件によって起こっていた「反応」に過ぎなかったのだと見極めることの間には、


まさに
雲泥の差があります。


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