簒奪(さんだつ)


それしかできない(表現方法のない、パターンが非常に限られている)日常の語りかけに対する反応として、大雑把な自己主張で機会(小さな声を聴き取る)を簒奪しているのはあなたです。
大神様の与えてくださった”御心に近づく”機会を簒奪しているのです。Fiora


歯茎


チコちゃんで茎と歯茎の対応関係についてやっていました。
葉が歯で茎が歯茎という植物と体の呼び名の関係があるそうです。歯茎タイムリーでびっくりです。n0903


世界はカクテルのようなもの


地上には異なる種類の法則がある一定の割合で混ぜ合わされています。それはカクテルのようなもので、科学はたった一種類のカクテルの配合を真理と仮定して動いています。カクテルを生んだ巨人のごときバーテンダーがまったく異なるカクテルを幾種類も創造している可能性も考慮してしかるべきです。n


なにひとつ隠すものがない場合には、あなたの意識の光は、もはや恥ずかしい秘密の罪の意識にくもらされることはありません。もう、うそでとりつくろう必要はありません。あなたの人間関係は、あれこれの思惑や下心に妨げられません。シンプルさと明晰さが人生を支配します。もう欺瞞はないからです。


だれでもたったいま、この明晰さに到達することができます。自分の考えや感じ方のすべてを、ためらいなく打ち明けて話す勇気さえもてればです。それは兄弟姉妹への信頼の行為にもなります。それはまた、進んで自分をさらけだし、弱さを見せるという意志でもあります。


あなたに恐怖心があっても、それを人に話せば、その恐怖心とその下にある罪悪感は隠れていられなくなります。


告解の目的とは、他人から赦免を受けとるということではないのです。欺瞞の暗闇を投げ捨て、恐怖心と罪悪感に意識の光をあてることなのです。告解を聞く人は、裁判官ではなく、証人なのです。どんな人が証人でもいいのです。自分の役割は批判や告発ではなく、共感をもって耳を傾けることだと理解している人であるならば。


過ちをおかさない人はいません。わざとであろうと、そうでなかろうと、たがいに衝突することはよくあることです。あらゆる衝突が止められると考えるのは、おろかしいことです。人間としての自分の弱さをよく知らない人だけが、そのような地に足のつかない高邁な理想を追い求めるのです。そして、自分の人間らしさを受けいれられない人が、どうして自分の聖性を受けいれられるでしょうか。


過ちは、修正をもたらしてくれる贈り物です。あらゆる小賢しいはからいや欺瞞を表面に浮上させてくれる、その機会を祝福してください。心(マインド)の暗い場所をのぞきこむ機会に感謝し、その中身を意識的検証の光の中に持ちこんでください。


あなたが過ちをむりに正当化すると、それにしがみつき、何度も自己弁護をくりかえすことになります。莫大な時間とエネルギーのむだです。


兄弟のことをよく思えないのであれば、彼にそう言って、宥しを求めます。それは相手を台座にのせてまつりあげるということではなく、自分が自己嫌悪と絶望の底なしの穴に落ちこまないための方策なのです。


この世界がくもって見通しが悪いのは、あなたが過ちを認める勇気を欠いているからです。あなたにできることは、せいぜい、自分の過ちを隠す能力を磨くということくらいでしょう。それは悲しいことですし、自己欺瞞のゲームです。それをやめてください。


兄弟を信頼してください。あなたよりも上にいるのだと判断するのではなく、隣にならんでいる対等な相手なのだと認めてください。


自分自身に対し、告白します。また伴侶や、上司、路上の見知らぬ人に対しても、告白してください。人にどう思われてもいいではありませんか。


友よ、真実を思いめぐらしてください。わたしや兄弟から、なにか苦しみから抜け出す秘訣のようなものを聞き出すことはできません。苦しみを終わらせるには、あなたの人生のあらゆるごまかしを終わらせなければなりません。それは自分自身に対して、わたしに対して、兄弟に対して、真実を語ることによってのみ達成されます。


勇気をもって過ちを認めれば、それらの過ちを宥し、自分自身を、悩み、苦労、欺瞞から解き放つことができます。真理は人生で実践されないかぎり、十全に受けいれられたとは言えません。


あなたがたひとりひとりは、神の愛と恵みという宝石の多くの面のひとつなのです。それぞれが、それぞれの神性のシンプルな表現のしかたをもっています。ひとつの面の美しさは、別の面の輝きを打ち消すことはなく、むしろ両者の広がりと光を強めます。ある面を輝かせるものは、ほかのすべての面を輝かせるのに役立ちます。


実践してください。あなたのものの感じ方の透明さを妨げる判断・批判という不純物をとりさりなさい。ハートを流れる愛を妨げる競争心、妬み、貪欲をとりさりなさい。恐怖心や、自分に不足があるという思い、あなたのした干渉、そしてあなたの悲しみを告白しなさい。秘め隠した考えや感情の闇に、意識の光をあててください。


修正できないような過ちはありえません。宥されないようなふるまいはありえません。これがわたしの教えです。


誰かに腹を立てたり、人生そのものに嫌気がさしたりしたとき、そう感じるのはかまいませんが、一見原因らしく見えるものは、じつは真の原因ではないのだ、ということを覚えていてください。怒ったり寂しかったり不安になったりしている本当の理由は、あなたが思っている理由とは別のものです。まったくちがいます。人生という物質界のなかで、望むものを手にできないのではないかという不安よりも、もっともっと深刻な不安、もっと強烈な怖れがそこにはあるのです。


人の持つ不安がどんなに強烈なものであったとしても、神からあまりにも遠くかけ離れてしまって、自分はもう神のところへ戻れないのではないか、という不安に比べると、そうした不安はものの数ではありません。自分は神のところに行けるほどの価値がないのではないか、という巨大な怖れを人は持っています。これは圧倒的な力を持った無意識の怖れであり、誰のなかにもあるものです。どうかそれに目を向けてください。


忘れないでほしいのは、怖れとともにその解決法も姿を現すということです。それらは表裏一体をなしています。自分のなかに魂のうずき──”大いなる故郷”へ帰りたい、心の平安を得たい、愛が欲しい、怖れをなくしたい──こうした気持ちがあることを認め、それを感じるようにしてください。それは魂の奥深くから送り出されてきた叫びです。


自分と自分以外のものをつねに分断するエゴの動きの枠外に出ると、魂の叫びや苦痛そのもののなかに、じつはすばらしい解決がひそんでいたことを発見します。それらはいっしょに現れます。不安を感じることを怖れないでください。あまりに長いあいだ思考の世界に生きてきたので、自分が生き生きとダイナミックに存在する神であるという体験をしていないのだ、ということに気づいてください。あなたは純粋な目覚めた意識なのです。



私はよく、「どうすればこの『止めた(stopped)』状態に留まることができますか?」と訊かれます。


でも「止める」というのはある状態を指しているのではありません。


沈黙(silence)、静寂(stillness)も然りです。


これは非常に重要な違いです。


あなたには頭の中を比較的落ち着いた状態にできますし、身体をリラックスした状態にすることもできます。


けれども私がここで言っている静寂とは、本質的に決して動かないものなのです。


それはいつでも「止まって」います。


すべての理性活動、行動は、この決して動かない静けさの中に現れ、存在し、そして再び消えていきます。


すべての状態には、始まりがあり、経過があり、そして終わりがあります。


それは、幸福だったり悲しかったり、非日常的だったり日常的だったり、高揚していたり沈滞していたりします。


けれども、状態とは無関係の存在、それがすなわちじっとして動かない静寂です。


意識とはすなわち静寂です(Awareness is stillness)。


そしてあなたはすでに、この静寂なのです。


あなたの理性は、理性の活動について、またはどうすれば活動を止められるかについて、忙しく考えているかもしれません。


でもそれはみな、どんな状態でもない存在、つまり静寂そのものの中で起きています。


決して変化しない静寂、それが、意識的に繰り返すことのできるものであるとか、あなたにうまくできなかったりするものであるとか、そういった考えをあなたの頭の中から追出すことができれば、静止したもの、存在そのものが、つまりあなた自身であるということがついにあなたにはわかるはずです。


静止「したい」という衝動は理性の活動から来るものであり、理性の活動は、静止の中で起きているのだということに気づいてください。


この静けさは、死んでいるのでも空っぽなのでもありません。


それは意識(consciousness)そのものであり、気づき(awareness)そのものなのです。


そしてあなたがそのawarenessです。


「静止しなくてはいけない、静止していよう、どうして自分は静止することができないのだろう?」という思考、それを観察し、経験しているのは、この静寂そのものです。



質問者 私の質問は、「何が真理の証拠なのか?」ということです。すべての宗教の信奉者は、形而上学的、政治的、哲学的、あるいは倫理学的のいずれにせよ、彼らのものが唯一の真理だと確信させられています。ほかのすべては偽りであり、彼らの揺るぎない信念を真理の証拠と見なしています。彼らは、「私は納得した。それゆえ、それは真理に違いない」と言うのです。私にとってはいかなる宗教、哲学、教義、あるいは観念体系も、どんなに完全で、感情的に訴え、内面的矛盾を持たないとしても、それ自身の真理の証拠にはならないように見えるのです。それは衣服のようなもので、時間や環境によって、流行の流れにしたがって変化していくものです。それでは、誰かの信念に依存しない真の宗教、あるいは哲学というものがありうるのでしょうか?聖典でさえも同様です。なぜなら、それも誰かの信仰に依存するからです。信頼することに依存しない、主観的ではない真理があるのでしょうか?


マハラジ 科学はどうだろうか?


質問者 科学は堂々巡りです。それは感覚とともに、はじめた場所で終わるのです。それは経験を扱い、そして経験とは主観的なものなのです。二人の個人が同じ体験をすることはありえません。それでも彼らは同じ言葉で表現するかもしれません。


マハラジ あなたはマインドを超えた彼方の真理を探さなければならないのだ。


質問者 私はもう充分なほどの超越状態を体験してきました。どんな薬物でも、安価に、そして即座にそれを誘発できるのです。呼吸や精神的な訓練によって起こされた伝統的なサマーディ(三昧)もまた、たいした違いはありません。酸素サマーディや二酸化炭素サマーディがあり、思考の連鎖やマントラの復唱による自己誘導されたサマーディもあります。単調性は眠気をもたらすだけです。いかに荘厳なものであれ、私にはサマーディを真理の証拠として受け入れることはできません。


マハラジ サマーディとは体験を超えたものなのだ。それは特質のない状態だ。


質問者 体験の不在は不注意によるものです。それは注意とともにふたたび現れます。目を閉じることが光の不在を証明するわけではありません。実在を否定的な状態に帰属させることは、どこへも私たちを連れてはいかないでしょう。否定そのものが肯定を含んでいるのです。


マハラジ ある意味では、あなたは正しい。だがあなたは何があなたのマインドのなかに描いている真理で、どのような証拠があなたを満足させるのかを説明することもなく、真理の証拠を求めているということがわからないだろうか? もしあなたの証明を信頼するなら、あなたは何であれ証明することができるのだ。しかしあなたの証拠が本物だと何が証明するのだろう? あなたが知っているのは、あなたが存在するということだけであるのを、私はたやすくあなたに容認させることができる。あなたが持つことのできる唯一の証拠は、あなたなのだ。だが私は実在(リアリティ)と単なる実存(イグジスタンス)を同一視しない。実存は一時的であり、つねに時間と空間のなかにある。一方、実在は不変ですべてに浸透しているのだ。


質問者 私は何が真理か、何によって証明できるのかも知らないのです。どうか私を私自身の源に投げ返さないでください。私は何ももっていないのです。ここではあなたが真理を知る人であり、私ではありません。


マハラジ あなたは真理の証拠としての証言を拒絶している。あなたにとっては他者の体験は役に立たないものだ。多くの証人の間で一致した表明による結論も、あなたはすべて拒否してしまう。それゆえ、何があなたを満足させる証拠なのかを私に伝えるのはあなたなのだ。何があなたの評価にとって有効な証拠だろうか?


質問者 正直なところ、何が証拠となるのか自分でもわからないのです。


マハラジ あなた自身の体験でさえもかね?


質問者 私の体験でもなければ、私の存在でもありません。それらは私が意識していることに依存するものです。


マハラジ では、あなたが意識していることは何に依存するのだろうか?


質問者 わかりません。以前なら、私の身体によって、と答えたことでしょう。現在では、身体は二次的で根本的なものでないとわかるので、存在の証明として考えることができません。


マハラジ 過ちと不幸の源である「私は身体だ」という観念をあなたが放棄したことは喜ばしいことだ。


質問者 私は知的に放棄したのです。しかし、個人としての特定の存在感覚はいまだに私とともにあります。「私は在る」と言うことはできますが、私は何なのかを言うことはできません。私が存在していることは知っています。しかし、何が存在しているのか、私は知りません。どのように表現してみても、私は未知に直面するのです。


マハラジ あなたの存在そのものが真理なのだ。


質問者 もちろん、私たちは同じことを話しているのではありません。私は何か抽象的な存在ではありません。私は個人であり、限定され、その限定に気づいています。私は事実です。しかし、私はもっとも非現実的な事実なのです。個人としての一時的な存在の上に構築できるようなものは何もありません。


マハラジ あなたの言葉はあなたよりも賢明だ! 個人としてのあなたの存在は一時的なものだ。だが、あなたはただの個人なのだろうか? あなたは本当に個人なのだろうか?


質問者 どうやって答えればいいのでしょうか? 私の存在の感覚は、私は在ることだけを証明します。それは私から独立したものは何も証明しません。私は相対的存在です。相対的な創造主と創造物の両方なのです。絶対的真理の絶対的証拠──それは何なのでしょうか、どこにあるのでしょうか? 単なる「私は在る」という感覚が実在の証明になりうるのでしょうか?


マハラジ もちろん、なりはしない。「私は在る」と「世界は在る」は関連し、条件づけられている。それらは名前や形を投影するマインドの傾向のせいなのだ。


質問者 名前と形、観念と信念、しかし真理ではありません。もしあなたに出会わなかったなら、私は真理も含めたすべての相対性を受け入れたことでしょう。そして推測によって生きることを学んだことでしょう。ですが、私はあなたに出会い、絶対なるものが手の届くところにあり、もっとも望むべきものであるということをあなたから聞きました。平和、至福、永遠、不死といった言葉が、苦痛と恐れからの自由を示すものとして、私の注意を引いたのです。生来の本能である快楽の追求と好奇心が呼び起こされ、私はあなたが開いた領域を探検しはじめました。それらはみなもっとも魅力的であり、それゆえ当然、私は尋ねるのです、「それは達成できるものなのでしょうか? それは真理なのでしょうか?」と。


マハラジ あなたは「砂糖が甘いことを証明してくれれば、それをもらうよ」と言っている子供のようだ。甘さの証明は砂糖のなかにではなく、口のなかにあるのだ。それが甘いことを知るためには、味を知らなければならない。ほかに方法はない。もちろん、あなたは「それは砂糖でしょうか、それは甘いのでしょうか?」と尋ねることからはじめることができる。そしてあなたが味わうまでは私の保証を受け入れる。ひとたび味わえば、すべての疑いは消え去るのだ。そしてあなたの知識は直接の、揺るぎのないものとなる。私は、あなたに私を信じるように頼みはしない。ただ、はじめるのに充分なだけは信頼してほしい。それぞれの段階がそれ自体を証明、あるいは反証するのだ。あなたは真理に先立って真理の証拠がほしいようだ。では、証明の証明はどうなるのかね? 見なさい、あなたは後退しているのだ。それを止めるためには、証拠を求めることをやめ、真理としての何かを、まず受け入れなければならない。それが何かは重要ではない。それは神、あるいは私、あるいはあなた自身かもしれない。どの場合でも、あなたは何か、あるいは誰か未知なるものを真理として受け入れるのだ。さて、もしあなたが、たとえ一瞬でも受け入れた真実にしたがって行為するならば、すぐにもつぎの段階に移るだろう。それは闇のなかで木に登るようなものだ。最初の枝に足をかけて、はじめてつぎの枝をつかむことができる。科学はそれを実験的研究方法と呼ぶ。論理を証明するために、先達の実施指導にしたがって実験を進めていくのだ。霊的探求における実験の連鎖をヨーガと呼ぶのだ。


質問者 多くのヨーガがありますが、どれを選択すれば良いのでしょうか?


マハラジ もちろん、すべてのジニャーニは、彼がもっとも親密に知っている自分の歩いた達成への道を提案することだろう。しかし、彼らのほとんどは非常に寛大であり、探求者の必要に適した助言をするのだ。すべての道はマインドの浄化へとあなたを導く。不純なマインドは真理を不透明にする。純粋なマインドは透明だ。真理はそれを通して容易に、明らかに見ることができるのだ。


質問者 すみません。しかし、私には私の困難を伝えるすべを見つけられません。私は真理の証拠について尋ねていたのです。そして、それに到達する方法を与えられたのです。私がその方法にしたがい、ある望むべき、すばらしい状態を達成したとします。どのようにしてその状態が真実のものだと知ることができるのでしょうか? すべての宗教は信仰からはじまり、ある恍惚状態を約束します。その状態は実在のものでしょうか? それとも信仰の産物でしょうか? なぜなら、もしそれが誘発された状態なら、はじめから私は関わらないでしょう。たとえばキリスト教徒は言います。「イエスはあなたの救世主です。信じなさい。そして罪から救われなさい」と。私が罪を犯しているキリスト教徒に、イエスへの信仰にもかかわらず、どうしてあなたは罪から救われてはいないのかときくと、彼は、「私の信仰心が完全ではないからです」と答えるのです。またしても、私たちは悪循環のなかにいます。完全な信仰なしには解放もありません。解放がなければ、完全な信仰心もないのです。完全な信仰心というものはありません。それゆえ、解放はないのです。満たすことの不可能な条件を強いられ、それから、それらを満たしていないことを非難されるのです。


マハラジ あなたは現在の目覚めの状態が、無知から起こるものだということを認識していない。あなたの真理の証拠についての質問は、実在における無知から生まれたものなのだ。「私は在る」という点で、あなたは意識のなかの感覚的、精神的状態に触れている。一方、実在は瞑想されず、触れられず、体験されないままだ。あなたは二元性をあまりにも当然のことと見なしていて、それに気づいてさえもいない。だが、私にとって多様性や変化は分離を生みださないのだ。あなたは実在が名前と形から離れてあると想像している。だが、私にとって名前と形は、実在の絶えず変化する表現であり、それから離れてはいないのだ。あなたは真理の証拠を求めている。だが私にとっては実存すべてが証拠だ。あなたは実存(イグジスタンス)から存在(ビーイング)を切り離し、実在(リアリティ)から存在(ビーイング)を切り離している。だが、私にとってはすべてがひとつなのだ。どれほど目覚めの状態の真実性に確信をもっていようとも、私が自分の話でしているように、あなたはそれを永久不変のものだと宣言することはない。しかし、それでも私は私たちの間に違いを見ない。ただあなたはものごとを想像しているだけであり、私はそうしないだけなのだ。


質問者 最初にあなたは私から真理に関して尋ねる資格を奪い、それから私に想像について非難するのです! あなたにとって想像であるものが、私にとっては真理なのです。


マハラジ あなたがそれを調べてみるまではそうだろう。何もあなたを非難しているわけではないのだ。ただ、賢明に質問するよう求めているだけだ。あなたの知らない真理の証拠について探し求めるよりも、あなたが知っていると信じている証拠について調べてみなさい。そうすれば、あなたは何も確信できるものがなく、人伝え聞いたことを信じているだけだと知るだろう。真理を知るためには、あなた自身の体験を通らなければならないのだ。


質問者 私はサマーディや超越状態がひどく恐ろしいのです。その原因が何であろうとも。酒、喫煙、高熱、薬物、呼吸、歌、揺さぶり、踊り、旋回、礼拝、セックス、断食、マントラ、あるいはめまいのするような抽象観念は私を目覚めの状態から追いだし、未知ゆえに何か驚くべき体験を与えるのです。しかし、その原因がやめば、結果は消え去り、残るのは記憶だけです。容易に忘れることはできませんが、それでも消え去るのです。
すべての方法とその結果を放棄しましょう。なぜなら、結果は方法に縛られているからです。新たな質問をしましょう。真理を生みだすことはできるのでしょうか?


マハラジ あなたが探しにいけるような真理の住処がどこかにあるというのかね? そしてどうやってそれを見つけたと知るのだろうか? それを試すためのどんな試金石をもっていくというのだろう? あなたは「真理の証拠とは何か?」という最初の質問に後戻りしたのだ。その質問自体に何か間違いがあるに違いない。なぜなら、あなたにはそれを何度もくり返す傾向があるからだ。なぜ真理の証拠が何かと尋ねるのだろうか? あなたが真理を直接知らないから、そして騙されることを恐れているからだろうか? 真理とは「真理」という名前をつけた何かであり、もし本物なら、それをもつことは有益だとあなたは想像しているのだ。だからあなたは騙されることを恐れているのだ。あなたは真理を買いに来た。だが、商人を信頼することができない。あなたは偽造品や模造品を恐れているからだ。


質問者 私は騙されることを恐れているのではありません。私が私自身を騙すことを恐れているのです。


マハラジ だが、あなたは本当の動機に無知であることによって自分を騙しているのだ。あなたは真理を求めている。だが、実際には永遠に続く安楽を探しているだけなのだ。いかなるものも、どんなマインドの状態も永遠に続きはしない。時間と空間のなかではつねに限界がある。なぜなら時間と空間自体が限定されているからだ。そして時間を超えたもののなかでは「永遠に」という言葉は意味をもたない。「真理の証拠」についてもまた同様なのだ。非二元性の領域ではすべてが完全で、それ自体の証拠であり、意味と目的なのだ。すべてがひとつであるところでは、どのような支えも必要とされない。あなたは永久性が真理の証拠だと想像している。より長く継続するものが、より真理に近いのだと。時間が真理のはかりとなってしまった。そして時間がマインドのなかにあるため、マインドが判定者となり、真理の証拠をマインドそのもののなかに探求するのだ──まったく不可能で絶望的な仕事だ。


質問者 あなたが「何も真理ではない。すべてが相対的なのだ」と言われるのなら、私も同意したでしょう。しかし、あなたは真理、実在、完全な知識はあると主張しています。それゆえ、「それは何なのでしょうか、どうやって知ることができるのでしょうか?」と尋ねているのです。それでは、何が私に「そうです。マハラジの言うとおりです」と言わせるのでしょうか?


マハラジ あなたは証明、証拠、権威の必要性にしがみついている。まだ真理が示され、「見なさい、ここに真理がある」と言われる必要があると想像しているのだ。そうではない。真理は努力の結果、旅路の果てにあるのではない。それは今ここに、その熱望と探求そのもののなかにあるのだ。それはマインドや身体よりも近い。「私は在る」という感覚よりも近いのだ。あなたがそれを見ないのは、あなた自身からずっと遠くを、存在の核心の外を見ているからだ。あなたは真理を対象化し、あなたの証明と審査の基準に合うべきだと言い張っている。だが、それはものごとや思考にしか当てはまらないのだ。


質問者 あなたの言われることから察するに、真理は手の届かないところにあり、私にはそれについて語る資格がないということです。


マハラジ あなたには資格があるばかりではなく、あなたが真理そのものなのだ。ただあなたは偽物を真理だと勘違いしているだけだ。


質問者 あなたは、「真理の証拠について尋ねてはならない。真理でないものだけに関わりなさい」と言われているようです。


マハラジ 真理の発見は、偽りを識別することのなかにあるのだ。あなたは存在しないものを知ることができる。在るものは──あなたはただ在ることができるだけなのだ。既知にとって、知識は相対的なものだ。ある意味では、知識は無知の片割れなのだ。無知のないところに知識の必要があるだろうか? それ自体では、無知も知識も存在していない。それらは単なるマインドの状態であり、また本質的に不変である意識の運動の現れなのだ。


質問者 真理はマインドの領域内にあるのでしょうか、それともそれを超えているのでしょうか?


マハラジ そのどちらでもない。それは両方だ。それを言葉で表すことはできない。


質問者 表現不可能(アニールヴァーチャーニヤ)……これがつねに私の聞いてきたことです。それが私を賢くすることはありません。


マハラジ それがしばしば無知を覆い隠すことは本当だ。マインドはそれ自体がつくり出した言語で働くことができる。ただ、それ自体を超えていくことはできないのだ。感覚的でも精神的でもなく、しかも、それなしには感覚的なものも精神的なものもありえないものが、感覚的なものや精神的なものに含まれることはありえないのだ。マインドには限界があることを理解しなさい。マインドを超えていくには、沈黙とひとつにならなければならないのだ。


質問者 行為が真理の証拠だと言うことはできるでしょうか? 真理は言語化することはできませんが、行動に表すことはできるかもしれません。


マハラジ 行為でも無為でもない。それはどちらも超えているのだ。


質問者 人は「そうです。これこそ真理です」と言うことができるのでしょうか? あるいは彼は偽りを否定することに制限されているのでしょうか? 言い方を変えれば、真理は純粋な否定なのでしょうか? あるいはそれが断言となる瞬間がやってくるのでしょうか?


マハラジ 真理は描写できない。だが、体験されることができるのだ。


質問者 体験は主観的であり、分かち合うことができません。あなたの体験は、私を今いるところに置き去りにするのです。


マハラジ 真理は体験できるが、それは単なる体験ではない。私はそれを知っていて、あなたに伝えることができる。だが、あなたがそれに対して開いているときだけだ。開いているとは、ほかの何も求めないということだ。


質問者 私は恐れと欲望でいっぱいなのです。それは私が真理を知るには適格ではないということでしょうか?


マハラジ 真理は良いふるまいに対する褒美でも、何かの試験が通ったことへの賞でもない。それをもたらすことはできないのだ。それは原初のもの、不生、存在するすべての太古の源なのだ。あなたは適格だ。なぜならあなたは在るからだ。あなたが真理に値する必要はない。それはあなた自身のものなのだ。ただ、それを追いかけることによって、それから逃げだしてはならない。沈黙しなさい。静かで在りなさい。


質問者 もし身体を落ち着かせ、マインドを静かにさせなければならないのなら、どのようにすればいいのか教えてください。自己覚醒のなかで、私は身体とマインドが私のコントロールを超えた原因によって動かされているのを見ます。遺伝と環境が私を絶対的に支配しています。宇宙の創造者である偉大な「私は在る」も、薬物によって一時的に、あるいは一滴の毒によって永久に消し去ることができるのです。


マハラジ またしても、あなたは自分を身体と見なしている。


質問者 たとえ私が骨、肉、血としてのこの身体を退けたとしても、いまだに思考、感情、記憶、想像でできた希薄な身体として残るのです。それでさえ非─私として退けても、私は意識として残ります。それもまたある種の身体なのです。


マハラジ あなたの言うとおりだ。だが、そこで止まる必要はない。その彼方へと行きなさい。意識も、その中心の「私は在る」さえも、あなたではないのだ。あなたの真の存在は完全な非─自己意識だ。粗大、微細、あるいは超越、何であれすべての自己同一から完全に自由なのだ。


質問者 私自身が彼方のものだと想像することはできます。しかしどのような証拠があるのでしょう? 在るためには、私は誰かで在らねばなりません。


マハラジ それは正反対だ。在るためには、あなたは誰でもない人にならなければならない。あなた自身を何か、あるいは誰かだと考えることは死、そして地獄だ。


質問者 古代エジプト人は薬物や魔術の影響によって身体から追いだされ、実際に外側に立ち、横たわった自分の姿を見るという秘教儀式の存在を認めてきました。このことが彼らに死後の存在の実在を確信させ、国家と寺院に多大な利益をもたらす究極的な運命への深い関心を生みだし、身体を所有する個人との自己同一化の儀式が存続したのです。


マハラジ 身体は食物からできている。そしてマインドは想念からできている。それらをあるがままに見なさい。あなたが何であるのかを知る必要はない。あなたが何ではないかを知れば充分なのだ。あなたであるものを知ることはけっしてない。なぜならすべての発見が克服すべき新たな次元を開くからだ。


質問者 それは永遠に無知であり続けるという意味でしょうか?


マハラジ それは無知がけっして存在しなかったことを意味するのだ。真理は発見のなかにあり、発見されたもののなかにあるのではない。そして、発見にははじまりも終わりもないのだ。限界を疑いなさい。そして超えていきなさい。一見、不可能と見える仕事を自らに託しなさい。それが道なのだ。


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