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人生で、あれもこれもと多くのことをしようとすればするほど、死は恐ろしいものになります。死は、それらの行為の終わりだからです。それは思考の終わり、他人の考えや行動に感情的に反応することの終わりともなります。死は分離の終わり……つまり身体の終わり、条件づけられた心(マインド)の終わりです。


身体を抜け出たときには、もはや考える心、計画を立て、夢を描き、プランをひねりまわす心はありませんが、人と人の交流は一瞬にして起きます。なぜでしょうか。


心には本来、制限がないからです。時間や空間に縛られてはいません。あらゆる障壁を突きぬけます。


あなたが、そしてあなたがたが、経験にあわせて切りつめ、制限した心のこの部分のみが、人生では体験されていました。


死は主観的なものの終わり、分離された心の終わりです。それはあなたが理解しているような形の交流の終わりです。なぜならあなたの心の交流は、分離した個別のふたつの心のあいだでしか経験されていないからです。そういうコミュニケーションの経験は幻想にすぎません。つまりそれは、制限なきものであるはずの経験の、極端に制限された描写にしかすぎないのです。


死が近づいた人は、この世の知覚の制限をこえた現実(リアリティ)があることを知っています。その世界では、交流はひとりでにそしてすべてをふくむ形で起きます。言い換えると、あなたが考えていることを知らない人はなく、しかしそれはあなたにとってなんの不都合でもありません。あなたも、ほかのみなが考えていることを知っているからです。


そこには人に秘密にされている個人的考えはありませんから、あらゆる制限の強い考えは、制限の少ない考えによって、すみやかに是正されます。自己という感覚は、思考によって定義されていますから、思考自身が制限をこえて拡大してゆくにつれ、”自己”もたえまなく拡大してゆくような感じになります。


おもしろいことに、たったいまこの瞬間にも、あなたは苦労や意識的な努力なしに、制限なき存在と交流しているのです。あなたの身体は光に浸されています。ハートは無条件の愛を受けとることができ、心は真理を直接に把握できます。こうしたことは、あなたが静かにして体験したいと思いさえすれば、すべて可能です。


いったん肉体を離れたあなたには、もう選択はありません。準備ができていようがいまいが、その経験の中に入ります。もしそれに抵抗するなら、真理を徐々に段階的に体験させてくれる、また新たな制限された肉体へと吸いこまれてゆきます。もしあなたに無条件の愛の経験をする準備ができていれば、あなたはいままでに抱いたすべての恐怖心と、自分に課したことのあるすべての制限を通りぬけて、恐怖心と制限を超えた場所へと移行してゆきます。そこはいわゆる天国と呼ばれるところです。


天国に入ること、生死のサイクルに終止符を打つこと、ニルヴァーナ(涅槃)に入ること、カルマを超越すること、条件づけられた心を抜け出すこと、これらはみな同じひとつのことです。すべて、意識の旅の最終目標です。万人がみな、ここにいたります。だれでも最後にはそれを達成します。


あらゆるスピリチュアルな修行の形態は、あなたがたの時間の節約のために存在しているにすぎません。それらはいま、ここにある無条件の愛と恵みの体験へと、あなたを招きよせます。行為を止め、思考を止め、はからいや計画を捨てることへと招きます。沈黙の中での自分自身との一体感へと、つれていきます。兄弟たちのあなたに対する思考や行動を、あなたが自分をどう考えているかの鏡として見るようにさせてくれます。


それらの修行は、人生の縦糸横糸を、たったひとつの考え、ひとつの呼吸、ひとつの行為へと単純化します。あらゆる事件、あらゆる関係、あらゆるハートや心の動きは、神の意識を運ぶ器なのだということを教えてくれます。
(ひとつの行為という言い方が良い意味でひっかかる。これは表現、描写として可能性を感じる。行為は無数にあるのに、それらすべてをたったひとつの行為に単純化できるとしたら、それはどんな行為なのだろう?何を、する、ことなのだろう?)


あらゆる教義、あらゆる空虚で大々的な儀式を捨て去りなさい。まことに、平和や歓喜、幸福への呼び声は、あなたのハートと心のなかにあります。この呼びかけに応えることは、小径(こみち)に足を踏み入れることです。それをなんと呼ぶかは重要ではありません。それをどんなふうに言いあらわすかも重要ではありません。与えるという小径が、あなたの前に開かれます。あなたが与えれば、あなたはそれだけ他人からも受けとります。


この小径には、独得の簡素な美しさと神秘性があります。あなたが思い描くようなものとはまったくちがいます。それでいて、それは次のステップを踏み出そうとすれば、その足をどこに置くべきかをちゃんと教えてくれるのです。


スピリチュアリティの王道というものは、直線的に進むものではありません。あらかじめ決まっているようなものではありません。「これをせよ。あれをせよ。そうすればこれこれのことが起きるだろう」ということはいえません。


なんであれ、なされることは、内面深くからなされねばなりません。それはみずみずしく、明確で、ハートの中心からでなければなりません。ひとりでにおのずと起きねばなりません。


過去をひきずっていたり、恐怖心があったりすれば、信頼は失われ、奇蹟は起きはしないでしょう。恐怖心と無縁な考え、そして「なすべき」「救うべき」「癒すべき」という強制から自由な行為は、本質的に奇蹟的なものです。それは時空の法則から自由でありながら、しかもひとりでに楽々とその法則にかなっています。


なぜ、これらのことが真実であるのでしょうか。それは、前もって予習されていないからです。条件づけられた心から出てきていないからです。ひとりでに起き、完璧に信頼しているからです。こうした思考や行動は、生ける祈りです。


それはこうあるべきだということもないし、うまくいったからといってくりかえすべきでもありません。それはあなたの学びの成果ではありません。それは、あなたが無条件の心と、生き生きとしたかかわりをもったからです。


あなたの魂の奥底には、目覚めへの呼び声が埋めこまれています。ほかの人には聞こえないような声です。ほかの人の言葉に耳を傾けるなら、あなたは決してその呼び声をきくことはありません。


あなたにであれ、人にであれ、与えられた贈り物すべてに奇蹟がふくまれています。


この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。
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