もっともだいじなものがあなたの敵だとはかぎらない
敵だと決めつける人は大勢いるものの、敵だとはかぎらない。
ここでも大切なことは、しっかりと確かめること。
今日なにがあったって、それが敵だと決めつけるのはまだ早い。
いままでなにがあったって、そのまま敵とはかぎらない。
大敵から(比較して)みたら、いままでのはすべて「味方」だった可能性さえある。n210022

「知性改善論」「神学政治論」といった哲学史に残る名著を著し、近世哲学の一つの潮流を生み出した17世紀の哲学者、ベネディクトゥス・デ・スピノザ(1632 - 1677)。とりわけ彼の哲学は、現代思想にも巨大な影響を与え続け、人間の行為や感情、知性、ひいては社会のあり方にも深い洞察をもたらすものとして今も多くの人々の注目を集め続けています。そんなスピノザが最晩年、自らの哲学的な営為の集大成として、世に問おうとしたのが「エチカ」です。
現代でこそ哲学史上の名著とされる「エチカ」ですが、出版当初は無神論者による冒涜の書として黙殺されました。その理由は、常識を覆すあまりにも革新的なスピノザの思考法にありました。この世界のすべてのものは神のあらわれであり、神は世界に遍在しており、神と自然は一体であるという「汎神論」。それをベースとして、「自由意志の否定」「人間の本質を力だと考える人間観」「活動能力による善悪の再定義」など、常識とは全く異なる考え方が導かれていきます。
「エチカ」を直訳すると「倫理学」。つまりこの本は「人はどうやって生きればよいか」を問うた本である。それは、要するに「生きていく上で、「善い」「悪い」の区別をどうするかという問題だ。スピノザは音楽を例にして説明する。「音楽は憂鬱の人には善く、悲傷の人には悪しく、聾者には善くも悪しくもない」。すなわち、すべては組み合わせ次第であり、そのもの自体に善悪はないという。その視点から善悪を再定義すると、その人の活動能力を増大させるものが善であり、減少させるものが悪だととらえることができる。
古来ものごとの本質は「形」とされてきた。たとえば、馬と牛はその外形や解剖学的な差異で分類される。私たちの知は、本質を固定した「形」とすることで成り立っているのだ。しかし、スピノザは、本質を「力」とみることでこれまでとは違った見方を提示する。たとえば、同種の馬でも、環境や関係や歴史が違えば、野生馬、競走馬、家畜といった風に、自らの力を増大させるために異なった生態を生きることになる。人間もそうした視点でとらえてみると、決められた本質を目指すのではなく、それぞれの特性にあった「力」ののばし方を考えるべきだという発想に変わっていく。
スピノザは十七世紀オランダの哲学者です。一六三二年、アムステルダムのユダヤ人居住区に生まれた彼は、一六七七年にハーグでわずか四十四歳の生涯を終えるまで、生前には二冊の本しか出版していません。
今回、名著として取り上げる『エチカ』を含めた残りの著作は、彼の死後、友人たちの手によって遺稿集として刊行されました。スピノザの思想の核となる部分は、彼が死んでから世に知られるようになったのです。
スピノザが生きた十七世紀という時代は、歴史上の大きな転換点でした。たとえば、いま私たちが知っているタイプの国家はこの時期に誕生しています。この国家形態は「主権」という言葉で特徴づけられますが、私たちが「国民主権」という表現を通じて慣れ親しんでいるこの考え方がヨーロッパで始まるのも十七世紀です。
学問に目を向ければ、デカルト(一五九六~一六五〇)に始まる近代哲学や近代科学が大きく発展してゆくのもこの時期です。ホッブズ(一五八八~一六七九)やロック(一六三二~一七〇四)の社会契約説も登場しました。現代へとつながる制度や学問がおよそ出揃い、ある一定の方向性が選択されたのが十七世紀なのです。
たくさんの哲学者がいて、たくさんの哲学がある。それらをそれぞれ、スマホやパソコンのアプリ(アプリケーション)として考えることができる。ある哲学を勉強して理解すれば、すなわち、そのアプリをあなたたちの頭の中に入れれば、それが動いていろいろなことを教えてくれる。ところが、スピノザ哲学の場合はうまくそうならない。なぜかというと、スピノザの場合、OS(オペレーション・システム)が違うからだ。頭の中でスピノザ哲学を作動させるためには、思考のOS自体を入れ替えなければならない……。
「力=活動能力の増大」がスピノザ倫理学の目標だが、言い換えると「自由」という言葉で表現できる。しかし、この自由は単に制約からの解放ではない。たとえば、魚は水という制約の中でこそ活動能力を発揮できる。水を離れては自由にはなれない。同じように、人間が自由になるとは、何の制約もなくなることではなく、その条件にうまく沿って生きることで活動能力が増大させることなのだ。さらにスピノザは「自由意志」をも否定する。私たちが一つの行為を選ぶとき、実際には非常に複雑な要因がからまっているにもかかわらず、自由意志が唯一無二の原因で選んでいると単純化してとらえてしまっているという。
スピノザ倫理学の肝「活動能力の増大と減少」。ではその増減をどう判定すればよいのか。近代科学は、「数値」「データ」といった他者と共有できる根拠のみを真理の判定基準としてきた。しかし、これは知識が扱えるものの範囲を非常に狭めてしまったと國分さんはいう。スピノザが提示するのは「体験」としての認識。他者と共有できなくても、体験自体が明々白々と真実性を語るような知のあり方が、科学の一方で、確かにありうるという。

〇本質を「形」(エイドス)ではなく「力」(コナトゥス)としてとらえる
ギリシャ哲学(とりわけアリストテレス)以来、ものごとの本質は「形」とされてきました。このとらえ方に、実は意外にも私たち現代人も縛られています。少年時代に昆虫図鑑が大好きだった私は、「昆虫といえば、足が六本、翅は四枚」などなど、昆虫という存在を「形」で分類する極めて強固な博物学的な知というものに知らず知らずに縛られています。この見方でいえば、たとえば蜘蛛は八本足だから昆虫ではないと。
常識では、馬と牛はその外形や解剖学的な差異で分類されます。このように私たちの知は、本質を固定した「形」とすることで成り立っています。しかし、スピノザは、本質を「力」とみることでこれまでとは違った見方を提示するのです。たとえば、一見同じ形態の馬といえども、環境や関係や歴史が違えば、野生馬、競走馬、家畜といった風に、自らの力を増大させるために異なった生態を生きることになります。このように「本質」をとらえると、農耕馬と競走馬よりも、農耕馬と農耕牛の本質のほうが近いというとらえ方になります。
〇「意志という神話」
國分さんは、現代は「意志という神話」にとらえられてしまっている、といいます。これは、「人間は意志次第でどんな行動も決定できる」という神話です。この観点からすると、意志は、ゼロから行動を立ち上げる万能の起点であり、「朝寝坊して遅刻する」のも「お酒がやめられずアルコール依存症を治せない」のも「意志が弱いからだ」ということにされてしまいます。
今、生協でラーメンを食べようと決めて食券販売機のボタンを押す選択は、自らの意志だけが決めているのか? それは最終的に「これだな!」とボタンを押すことを意識が引き受けているだけで、実際にはその選択の背景には、自分が意識化しきれない、多様な原因がからみあっているのではないかというのです。つまり、結果を引き受ける瞬間だけをみて、「意志がすべてを決めている」と錯覚しているだけではないかと。
実は、この瞬間にラーメンを食べようと決めたのは、「昨夜、おいしいラーメンを紹介するテレビ番組をみていて、その記憶が鮮明に残っていた」とか「ちょうど今の体調がラーメンがもつ塩分を欲していた」とか「そもそもその人が麺類を好きだという傾向をもっていた」とか「時間がないので学外ではなく生協でぱっと食べなければならないという時間的制約があった」とか、さまざまな原因がからみあってなされたのであって、何もないところに「自由意志」が立ち上がってすべてを決めたのではないのです。「意志」というものは、数多くあるさまざまなファクターのたかだか些細なファクターにすぎない。それを絶対視すると、人間の行為の在り方を見誤ってしまう。
こうした見方は、現在、精神医療の最前線でも大きな注目を集めています。たとえば「アルコール依存症」などの症例を、意志が弱いから断酒の意志を強くもたせようといった「意志形成支援」というアプローチから、さまざまな原因のからみあいをきちんと見つめ、それを解きほぐしていくことで、よい方向へと欲望を立ち上げることで症状を緩和していこうという「欲望形成支援」(國分さんの造語だそうです)という新たなアプローチへ、ベクトルを変えていこうという動きも現れれているとのことです。
〇真理の基準
國分さんは、私たちが選択した近代が、「何かを知り、それが真かどうかを判断する」基準を、あまりにも狭めているのではないかといいます。たとえば、ウィルスなどの影響でのどの奥が炎症を起こしているとき、それが病気であるかどうかを知るためには、近代医学は、炎症部分がどの程度赤みを帯びているかといった度合いや患部にウィルスがどれだけ発生しているか、体温の上昇を伴っているか、白血球の量がどうなっているのか、といった計測可能で他者と共有できるようなエビデンス(証拠・根拠)をもとに判断します。しかし、この方法では、本人がどれだけ痛いと感じているかといった体験を完全に理解することはできません。現に、物理的・身体的に何ら以上が認められなくても、精神的なトラウマなどが原因になって痛烈な痛みを感じる症例というものがあり、これは、近代医学的な範疇でのエビデンスを示すことができません。
また何かを学ぶという場面においても、たとえば水泳や自転車運転ができるようになるために、どれだけ精密なマニュアルや教本を熟読しても、「泳ぐことができる」「自転車を乗りこなすことができる」という、ある種の真理にはたどり着けません。それらの知は「情報」ではないのです。水泳も自転車も、知識や情報を吸収するだけではなく、試行錯誤や手探りをしながら、ある瞬間、「あ、泳げるということはこういうことだったのか、自転車に乗れるとはこういうことだったのか」ということを直観的に把握することなのです。こうした知は、厳密に計測することも、他者と共有することもできません。
スピノザの哲学にならっていうならば、体験自体が明々白々と真実性を語るような知のあり方が、近代科学や情報の一方で、確かにありうるのです。スピノザの哲学を読み解いていくと、近代が切り捨ててきた「体験という知」のあり方が浮かび上がっていきます。そうした知のあり方は、デカルトに発する、「数値」「データ」といった他者と共有できる根拠のみを真理の判定基準とした知のあり方を決して否定するもではありません。
現代に敷衍していうならば、新自由主義が世界を席巻する中、人間の行為があらゆる領域でマニュアル化され、思考の自由が奪われつつある現代社会に対して、スピノザ「エチカ」は大きな問題提起をしているともいえます。たとえば、笑顔の作り方から付随した商品の売り方に至るまですべてがマニュアル化して、「その人自身が深く考えて、サービスとは何か、どうしたら人が喜ぶのか、どのような工夫が仕事を高めていくのか」といったことを自由に考える余地すら奪われているというファーストフード店に象徴される実態が、あらゆる領域にみられるのが現代社会です。
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