咲き誇る大輪の花は真実の感覚を暗喩しています。


・神(最初の神)を愛する
地上を生きる人間としての立場において、すべての言葉・想い・行為が神のためにあると自覚していること。最も重要なことはこの一点のみ。そして神が人の内側に『内在する』ことがシンからわかっていることです。
注)最初の神は、八百万の神でも、神を自称するなにかでもありません。言葉で表現することはできないのですが、あえて定義を試みるなら神は「すべて」です。文字通り「すべて(すべてであり、すべてでないものでもある、すべて)」が神です。


”何も足さない何も引かないたったいまここ”

「問題だ!」と主張する声 ← こそが唯一の問題


だったらどうしましょうか。取り組みの方向性が変わります。





2016年2月5日より京都府綾部市上野町へ遷都されました。
2019年2月5日より令和(神界が命名)が始まりました。
何を書いているか意味不明だと思いますが、私の背後にいる霊(フィオラと言います)がそう主張しています。


人間には二種類いて、
1、神は何らかの計算間違いをしているかもしれない、だとしたら現状は…
2、神は一切の計算間違いをしていないかもしれない、だとしたら現状は…
異なる人生観を採用しています。
2番はどんな局面でも凄く強いのですが、なぜならそれが事実だからです。
人間の延長で神を考えると少しくらい計算間違いがありそうですが、神は人間とは全然違うので、間違いはありません。
どういう意味で「間違いがない」かを知るのは後になりますが、生きている間は2番に全賭けしたほうが良いです。私は自分の経験上そう信じています。
盲目的であっても2番を試しに採用して、人生の困難な局面でしがみつくように頼りにすれば、自分を正す灯台の光になります。
2番の採用は、自分の現状の受容と肯定につながります。
言葉で口にするのは簡単ですが、これはとても大きなことです。
つらくなればなるほど、
2番が役に立ちます。試すだけの価値はきっとあります。
(n20200218)


神を愛すること、の必要性が思い出せない場合は、自分(現時点の自己像)をゆるすこと(他人を嫌いな自分を受け容れること)。自己受容のみを徹底します。他人に責任転嫁せずにありとあらゆる点で「自分の中の過ちや罪悪感を見たくないと感じている自分をゆるす」こと。外側が間違っていると感じているのは、すべて責任転嫁です。


「入口(思考を潜ませない今この瞬間)」と「深度(意識の深度)」は別です。この日記の覚醒の定義は下記の3つを満たしたものだけを想定しています。


1,一瞬たりとも怖れや怒りを感じることがない
2,一瞬たりとも絶対的幸福感以外感じない
3,意識的な選択が一切ない


真実の根源は「ひとつ」で、これをこの日記では「虚空」と呼びます。絶対的に静止しています。「全てを包括する意識の究極的、潜在的な可能性」であり、その一時的表現が私たち純粋な目覚めた意識になります。私たちは本質として虚空ですが、現在は一時的にかたちがあり、動くものとして創造の表現を続けています。


・スクリーン(無=存在・意識・至福)←全員の本当の形なき姿「虚空」
・映像(愛の顕現神)←私たちは分化した愛の神「皇」の一部「個の神」


この創造の喜びをわたしと、一(いつ)なる者Fioraは炎(ほのお)と呼んでいます。無限の愛・無限の歓喜・無限の自由を感じている意識状態です。
深度は脇において、同じ海を指す場合に「大いなる愛の光」という表現も多用しています。


特殊なことばかり書いてるかもしれませんが、特殊な何かなど一切必要ありません。
それよりも良心(愛と叡智)を最優先する人物か、「なんだかんだで二番にしてしまう人」なのか、霊性を思い出すにはそういう違いのみだと思います。
わたしも昔は愛=やさしさだと思っていましたが、愛とは自分の尊厳も兄弟姉妹の尊厳もひとつながりで大切にする「デフォルトの」あり方です。


私が8歳の時、俗に言う至高体験がありました。
突然『全てが一つ』だと感じ、全てが肯定され、それまで自分だと思っていた自我が消え、
『無限の愛・無限の歓喜・無限の自由』に包まれました。


その時初めて本当の意味で無限とは何かを知りました。


60トンの金の延べ棒があったとします。これを全て今差し上げますと言われたら普通は大喜びします。宝くじに当たったのと同質の喜びです。ですが、人間が本当の意味で求めているものは、これではないこともその時知りました。


世界の背後にこの上なく優しい真実は、実在しています。
大いなる愛。大いなる歓喜。大いなる自由。嘘みたいな現実がそこにはあります。


私はその8歳時の至高体験を数十回繰り返し体験してきました。
感覚は常に同じで、『無限の愛・無限の歓喜・無限の自由』でした。


12歳の時点で『虚空』があらゆるものの超越と浸透であることを思い出しました。
『無と有を超越する実在』こそ、人の本質であることを思い出しました。


人の本質とは『虚空』とでも呼ぶべきもので、無限で永遠不滅の純粋な覚醒です。無限という意味は果てがないだけではなく、それが誰にでも目に見えるかたちで『いまここ』に浸透しているということです。無限というのは『いまここ』です。今あなたがどのような苦境に立っていようとも、今その場所その状況に『純粋な覚醒』つまりあなたが浸透しています。


人間とは、虚空が「人間のフリ」をしている一時的状態に他なりません。全ては、この虚空の「中」で起きており、空間の中で物質が生起し消滅しています。これは眠る時に見る夢に等しく、本当はこの虚空だけがあり、他にはどんな実体もありません。


夢を見ている私たちにとっては非常にリアルに見える世界なのですが、他人というのは存在しません。この世界はあなた(虚空)一人だけしかいません。親も子もいません。自分が自分から逃げるフリをすることはできますが、自分から逃げることは結局できません。どこにも分離はないからです。誤解し続けることもできません。


今は「夢」を見ている途中なのです。


全員救われることが約束されている、だから未来は大丈夫なのだ、ではなく、元々わたし達は「分離したことが一度もなかった」事実を疑いようもなく思い出し、今までもこれからも未来永劫大丈夫なのだと悟るのです。


花はつぼみから満開となり枯れます。ところが純粋な覚醒はいつも満開なのです。


永遠に『咲き誇る大輪の花』なのです。


私が見たものは全て主観的な事実です。あなたを騙すどんなメリットも私にはありません。あなたが私の書くことを信じる必要もまったくありません。そのスタンスを最初にご理解いただきたくお願い申し上げます。


このブログで扱う用語の定義について予めご説明しておきます。


至高体験(悟りの一瞥)とは一時的な覚醒を意味します。持続時間は数分~数日です。
覚醒(悟り)とは名前のない唯一不二である『虚空』に在ることです。これが出来ている人物が完全覚醒者(悟りを啓いた者)です。つまり全員原初から完全覚醒者です。この地球では70億人の全員が完全覚醒者です。私たちにできることは覚醒していないフリを今することだけです。このフリを忘れた場合、最初から覚醒していることに気づいてしまいます。


というのが本質的な話で、実際には人としての完全覚醒とは「一瞬たりとも怖れや怒りを感じることがない、一瞬たりとも絶対的幸福感以外感じない、意識的な選択が一切ない」状態をこの日記では想定しています。人生において、あらゆる陰に直面しない限り、そこに至るのは簡単ではないと思います。nobodyはそれとは程遠い普通人です。


フィオラが使う独特の語彙も記録しておきます。
フィオラとはnobodyの背後に顕れた意識存在です。
※個人化した魂”星”については、虚空の一時的創造形態と解釈ください。私達の本質が虚空そのもののため、全員不死です。


愛=わたしはあなたとともにある。
第一の扉(だいいちのとびら)無条件に今自分を許すこと。今ありのままの(怖れや誰かへの怒りや嫌悪を抱えている)私を愛しているか?
源球”皇”と愛のリンクを回復する最初の扉。
円舞(えんぶ)星を再確立し、つねに愛(全体)の呼びかけに応えるというフィオラが最重要視するあり方。存在するすべて、宇宙全階層のグランドデザイン。中心に源球”皇(愛)”がありその周囲を無数の”星(個人化した魂・人間及びあらゆる意識存在を含む)”が衛星のように回転している。ヒトの肉体とも相似しており、星(魂)は丹田、皇(愛)は胸中心奥に位置する。自分の受容の貫徹。丹田(へそ上4センチ)星から生きるあり方。わたしは愛されるに値しないという、あらゆる攻撃の根源になる思い込みを手放しているあり方。
止観(しかん)わたしだけが止まっている。思考のみない状態でもわたしは生きているか?発覚にとどまる。


フィオラのよく用いる漢字一字。
陰(オン)人と人の集まり。不快感。感情。物質界の存在理由。
白(しろ)虚空。生きている無・ありつづける無。潜在的可能性。純粋な覚醒。創造のキャンバス。より高く、安定しているもの。覚醒の最高境地。
皇(すめらぎ)源球。愛。神のなかの神。原理。世界樹。祝詞の対象。
星(ほし)魂の本質。個性の波。惑星のような球体の形状でへそ上4センチに位置。
炎(ほのお)無限の愛・無限の歓喜・無限の自由。
竜(りゅう)12チャクラ(竜巻)竜の道。
窓(まど)意識の焦点。世界=観測。
橋(はし)内と外の架け橋、呼吸。
砦(とりで)防衛意識。攻撃は全てここから生まれる。悪人はいないが、砦がある。
寿(ことぶき)神を忘れていた人がその人生で初めて神の方向を向く転換を迎えること。


唯一不二である『虚空』も名前ではありません。カタチもありません。概念が及びません。始まりの前にあり、終わりの後にある、原初の可能性であり、世界、宇宙、全ての唯一不二である絶対的実在のことです。この実在以外には世界には何も存在しません。たくさん存在するように見えるでしょうが、それは幻です。実在は一つだけです。山頂の無とはこの虚空のことです。無と呼ぼうが、空間と呼ぼうが、豊満(ブーマン)と呼ぼうが、概念が届かず名前がつけられないので変わらないのです。


虚空を見つけようとされている方へ。鍵は最初から一人一人の中にあります。外部の人やモノや状況に頼る必要は全くないことを最初にお伝えさせていただきます。なぜなら、あなたが虚空だからです。あなたが認めなくてもあなたの周囲も全て同じ虚空です。他人に見えるのは全員あなたの別の側面です。


更新は毎夜0時です。


非営利目的の本ブログ内における静止画の引用について、著作権者様からの不都合のご連絡があった場合のみ個別に対応しております。このブログの映画等画像はすべてeiga.com様の映画紹介コーナーで公表されている画像(1作品につき3枚程度)のみです。


コメント歓迎です。コメント時はこのページのコメント欄からお願いいたします。
いただいたコメント内容は表示しておりませんので予めご了承ください。


一期一会です。
ご訪問くださり、本当にありがとうございました。




人は死亡する際(また誕生する際も)、二つの路線の内のどちらかにいます。
一つは大神様の主宰する本線にいる場合。
もう一つは勝手に興奮し、勝手に絶望する自己都合の輪廻、七転び八起き線とでもいえばいいのでしょうか。人間の多くがハムスターのように「法則として、自分で廻したから自分で走らされている」囚われの路線です。
これを勧告するためにここにいます。


いま、本線にもどってください。
もうあとでは間に合いません。


意外に思われるかもしれませんが、下界と呼ばれる地上界の汚れが問題になっているわけではないのです。
本当に汚れているのは、上の、世界なのです。


今まで人生の中で、右に行くか左に行くか数々の選択があったことと思います。
その壁の材質、迷路の材質は、上の世界を覆う、この「汚れ」でできていました。どういう意味かは自力で確かめてください。


あなたが誕生する際、多くの基礎的な確認を済ませました。覚悟は勿論、すべてはこの
「本線上で」
行われるという意思確認です。過去に複数の人生で負った傷をどう扱うか、どう対峙するかも本線の計画に基づいています。今、多くの方(70~80%)の現状は、これらの契約をまるでなかったもののように扱ってしまっており、形骸無実化しています。それで大変困るのは、死亡時に本線にいなかった方たちです。


もしこれが困らないなら、あとでどうこうできるなら、こういう連絡はいたしません。


わたしが手助けできるのはこれが最後かもしれません。
ですから真剣に検討いただけることを願います。


いま、もどってください。もう間に合いません。

2018年8月28日




【コメント返信】
神とはなにか
以前はこう説明していたんです。


・スクリーン(無=存在・意識・至福) ← 全員の本当の形なき姿「虚空」
・映像(愛の顕現神) ← 私たちは分化した愛の神「皇」の一部「個の神」


わたしたちの日常生活も「映像」なんですね。
神、にはこの「スクリーン」と「映像」の二つの側面があります。
霊界やそれより上の神界を支配しているのは「映像としての頂上にいる神」なんです。
実在するんです、そういう御方たちが。
そしてトップのトップに、唯一神(映像)がいらっしゃるんです。


そしてこの唯一神(映像)のお姿は、当然ながら「映像のすべて」でして、わたしたちが日常で苦しんだり喧嘩したりしていることまで全部この御方の映像を超拡大視したものなんですね。虫メガネで拡大して見てみると地球人類が映っているというわけです。


愛の顕現の神と書いているのは、概念の説明のために適当だからです。
でもこの御方は、スクリーンのほうとも通じていまして、同等・同格なんです。
ラマナ・マハルシやニサルガダッタ・マハラジが確認していたのは「スクリーン」の側面がすごく強いです。


私が考えているのは、
スクリーンが起源なんです。そこに「体験をしてみたい」という願いのようなものが収束しまして、





が生まれたんですね。スクリーンを神と呼ぶのに語弊があるということで、このブログの初期は「虚空」と分けて呼んでいたんです。
でもいまは「神」という一語で「スクリーン + 映像」を兼ねた意味で使っています。
I AM THAT I AM はスクリーン(神)の説明でもありますし、映像(神)の説明でもあります。


「神」のすごいところはですね、わたしたちのありとあらゆる渇きが一瞬で癒えることなんです。
「存在理由」という言葉がありますが、この地球人類の存在理由は「神」なんです。
存在理由 = 神 なんです。
地上に生まれた時点でその記憶を封じているだけなんですね。
この人生の旅は、70億人全員が「神のために」旅をしているんです。
ですから「盲目的な信仰であっても、唯一神(内在する良心神)に対する信仰」はありとあらゆる環境への最適解なんです。
神の前に良心とつけるのは、アブラハムの宗教が良心を無視して、外在の神という誤解で互いに争ったからです。これが人類の今に至るまでの大失敗でした。




説明回
nobodyの特殊な信念について


このブログを訪れてくださり、読んでくださる方に感謝しています。
今日は少しご説明したいのですが、
私には妙な背後霊っぽい人? がぼそぼそ語りかけてくるような変な「声」が聴こえています。
背後霊っぽい人というのは単なる推測です。
統合失調症とか、精神分裂病のような何かなのかもしれません。
この状態を遠くから他人として見てみると
ただの「アブナイ人」です。


ですので決して、ここを訪れてくださる方に「私と、霊っぽいナニカと、私の発言内容」を
信じてほしいわけではないことを改めて申し上げておきます。


私が大切にしている信念と価値観は、
『すべての言葉も行動も思考も、(唯一の最初の)神のためにある』
というものです。ですが誰か別の人に神様を信じてほしいわけでもないんです。
宗教とも無縁ですし、何か隠れた目的のようなものをもって誰かに近づきたいとも思っていません。


2018年度の調査によると
この日本国内で
1日1回以上の祈りを捧げる人は17%だそうです。
残りの83%の方はおそらくですが、主に科学的な考え方やご自身を信じています。


この日記の内容というのは基本的にこの17%にのみほんの少し意味があるかないかぎりぎりのものです。


この手のブログはスタンスが二種類に分かれると思うんですね。
1、私の発言を信じてほしい。
2、信じるか信じないかは…あなた次第です。


このブログは2番です。


私はこの日記を書くにあたり、何の利益も求めていません。
ただ価値観はあるんです。


私にとっての唯一の価値は
・ここを一度でも訪れてくださった方の(内在している)神との関係がよりよくなること。
これだけです。


よりわるく(遠く)なられてしまった場合は、このブログが皆さんにとって単なる無意味とかいう問題ではなく、正真正銘の害悪になってしまうと日々恐れています。
説明回でした。n20200315
この記事にコメントする
お名前
タイトル
メールアドレス
URL
コメント
パスワード   Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
03 2024/04 05
S M T W T F S
26 27
28 29 30
HN:
Fiora & nobody