『光』を言葉で描写することはできません。
本質的にできないのです。


どのような言葉や概念も『光』には届かず、逆に『光』は個人や無機物を含む全てに浸透しています。
石ころ、山、川、海、惑星、恒星、バクテリア。全てにです。
ですからこちらからは届かず、向こうからはあらゆるものを侵食する。侵食範囲は無限です。
誇張しているのではなく、文字通り本当に、無限です。


言うならば目で見ることのできない光
『透明な光』です。


口の中の味はどんな味ですか?と問われ
それは甘くもない、苦くもない、辛くもない、酸っぱくもない、しょっぱくもないと感じられる全ての味を否定することでようやく「指差す」ことができるようなものです。


あらゆる概念を越えた先にある、世界を包含する最奥の実在です。
そして世界そのものです。


古来より人は『光』を感得する境地を明確に意識しています。
多くの場合は宗教というカテゴリーで積み上げた経験ですが、どの分野の人間でも究極の境地は同じものを指しているように思います。


例えば剣。伊藤一刀斎が書き残した「一心刀」の境地は万物一如と表現されています。
後世の弟子の山岡鉄舟は「無想剣」の境地を我ナケレバ敵ナシと表現しています。
(鉄舟は夢想剣ではなく無想剣と表記しているようです)


画家やピアニストにしても同じではないでしょうか。


画家が絵を描いている時、画家がいなくなる。
ピアニストがピアノを弾いている時、ピアニストがいなくなる。


自我が消滅する境地は、体験した人間にしか実在を知りえません。
我々が通常自我だと思っている自分は薄い膜で隔離された何もない空間のようなもので、その膜が風船のように割れた時に「中には何もなかった」ことと「外などもともとなく一つであった」ことを同時に感得します。


今日もありがとうございました。
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Fiora & nobody