あなたに最もあった、あなたらしいやり方を見つけてください。そして愛したいと強く望むことです。その強い気持ちが正しい道へと導いてくれます。正しい道をあゆんでいけば、必ず最後は叡智と愛の境地へと到達します。真の道を求めると、叡智と愛は姉妹のように一緒についてきます。





神が実在する以上、わたしたちは永遠に愛されています。
永遠に愛される者に与えられるものはほんとうの自由です。
親に愛されていることを自覚している赤ん坊が動くことに貪欲になれるように。


親に愛されていることの自覚が途切れた赤ん坊はどうなるでしょうか。
親を探し、不安になり、泣くんです。


肉体が途切れたら、死ぬんだよ。とか。
あなたは愛している人といずれ死に別れることになるよ。とか。
そういうフィクションを吹き込まれる世界、この世界にやって来ます。やって来ました。
それらがフィクションであることを思い出すことさえ何十年もかかったりします。


意識は、神との再会のタイミング(邂逅のタイミング)さえ定めているはずなので、
決定的な神の無条件、無限の愛を思い出す前に、
人間的な愛と憎しみを学ばせる生涯を複数回用意しているかもしれません。
それはわかりません。
確かにわかるのは、いまがある、ということだけです。


そしてそのいまが、
カメラが引くように後ろに引いていくと、
神の見る視点で歓喜に変わるんです。
私が消滅(いなかったことを瞬間的に直接知覚する)し、
「いま」という神の「光の姿」が栄光と愛と歓喜にあふれていることを思い出します。


その歓喜はどこから出てくるでしょうか。
この出所が意外なところなんです。


それはいまこの瞬間の「自然な動き」です。
なんの条件もモノサシもつけられない
「自然な動き」そのものから、神の歓喜が呼吸していることに
意識が思い出す、覚醒するんです。


それはどうすれば
カメラが引くように「正しく見ることのできる視野」まで下がれるでしょうか。


それは「自然な動きに条件をつけない」こと、
「ゆるす」ことなんです。


特に盲点になるのが、「自分をゆるす」ことです。
「自分をゆるせない」人が、「他人をゆるせない」と勘違いをしているんです。


「他人をゆるせない」というのは単なる誤解です。その当人の誤解です。
「他人をゆるせない」と思い込んでいる人は、今この瞬間、
「自分だけをゆるせない」状況に陥っています。


それをまっすぐ気づかずに(他人への気持ちだと)曲解しているからややこしい事態になっていくんです。
外面的にとっ散らかるのは、
内面的にとっ散らかっているからです。
内面的なとっ散らかりは二択です。
自分(現状の自己像)をゆるしているか、自分をゆるしていないかです。
他人をゆるせない←まちがい
自分だけをゆるせない←正しい


この「自分だけをゆるせない問題」に立ち向かうために
わたしたちは地上に生を受けていて、その問題が一人一人の課題になっているのではないでしょうか。


そのためにこの問題は何度も何度も繰り返されます。
スパイラル(らせん)のように上昇していくというのは比喩ではないのかもしれません。


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