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人は一人ひとり違う観点をもっていて、ほとんどの場合、自分の観点から世の中を見ています。<観点>という言葉は、人が世の中を<観>る<点>という意味です。
同じ観点をもてるようにほかの人にできるだけ近づこうとするのですが、分離感はけっしてなくなりません。どんなに相手に近づいても、あなたの観点はかならずどこか相手と違います。


人は過去の体験や感情を丸ごと抱えてまわりの人や出来事に向かい合います。そして同じように過去をひきずっている相手の人間を攻撃します。自分対相手。自分の過去対相手の過去。どちらが正しいのでしょうか。こうした違いはどうすればなくせるのでしょうか。自分と相手のあいだに横たわる境界線を最終的に消してくれるのはただひとつ、”愛”と呼ばれるものです。相手に傷つけられたと感じても、相手が過ちを犯したのだとあなたには思えても、相手の考えが自分のとは違っていても、それでも相手を愛す気がありますか。大きな葛藤があっても、相手に愛そのものを見ようとしますか。


わたしが言っているのは、相手の<過ち>を許すという、優越感をともなった高慢な観点のことではありません。こういう類の許しは、たいていの場合、自分は信心深くて正しい人間だと思っている人が相手の失敗を見下して、上の立場から相手を許してやるという態度です。
これは恩着せがましい態度であって、愛でも許しでもありません。もちろん本人にも相手にもそのわざとらしさが感じられます。本物の愛はこういう風に感じます。


愛はこう言います。『はい、あなたを愛します。ふたりのあいだに違いがあるのはわかっていますが、それでもあなたを愛します』。愛がどういうものか、どうやって愛すればいいかもわからないまま、とにかく相手を愛そうと決心するとき、葛藤がなくなり、ふたりのあいだに空間が拡がります。


ところがほとんどの人は、自分の観点が正しいのであって、誤った観点は打ち負かし、抹殺しなければならないと主張します。こうした態度は恐怖や絶望を生み出します。どちらかが負けると、勝った観点に対して恨みや抵抗がたくさん残ります。この勝負の結果は調和ではなく、怒りに満ちた服従です。ここで必要なのは、ふたつの意見の領域を近づけて交差させ、真ん中に第三の領域、つまり共通の領域を作り出すことです。これがふたつのどちらでもない三番目の見方、三番目の解決法となり、Aが正しいわけでもBが正しいわけでもない三番目の観点となります。ふたりの意志さえあれば、どちらを否定も肯定もしない<愛ある解決法>が生まれます。ふたつの立場が融合した、<わたし>でも<あなた>でもない<わたしたち>という立場です。


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神のすべてのレベルを体験し、それらについてじっくり考えてみることによって、すべての生命についての叡智と理解を得ることができるのだが、「神なる人間」にまだなったことのない者たちは、神のすべてのレベルをまだ体験していない。この天界の壮麗さの一部となるために、この天界に旅した者たち、つまりこの天界を進化させ、山々を動かし、色を創造し、荘厳なるモニュメントを創造した者たちだけが、愛や喜びや創造の複雑さを理解できるのだ。これらの旅人たちだけが(あなたもこの旅人であるわけだが)、永遠というものの理解、そして永遠を追い求める願望を手に入れたのである。なぜなら、すべての生命のために永遠というものを創造したのは、彼らだからだ。というのも、物質の天界がある限り、生命が無限の創造性へと絶え間なく続いていくことができるからだ。したがって、男であること、女であること、人間であることは、まさにひとつの特権である。それは名誉なことなのだ。それはまさに神聖なる生なのである。


あなた方が「天使」と呼んできた言葉がある。あなた方の中にも、このような神聖な存在になることを望む者がたくさんいる。だが、天使でいることには大きな制限がともなう。なぜなら、彼らはまだ人間として生きていないため、バランスのとれた判断力を持っていないからだ。彼らは単なるエネルギーであり、最終的には「神なる人間」になっていく神々である。また、彼らには人間に対する同情心、あるいは思いやりといったものがない。実際にあなたになる前に、見えない世界にいる者にどうやってあなたのことが完全に理解できるのであろうか?人間は天使よりもずっと進化しているのである。なぜなら、天使たちには、人間と呼ばれる制限された形態の中に生きる神についての理解がないからだ。それゆえに、人間と、人間の喜びや悲しみについての彼らの理解は、限られているのである。


私はあなた方に言うが、人間の一員となることは聖なる体験である。というのも、人間になるとき、あなたは神のすべてを体験しているからだ。人間になってはじめて、あなたは天の王国の全領域を旅したことになるのである。


それゆえ、人間になることによって、あなたは自分を堕落させたわけではない。あなたはこのことを理解しなければならない。というのも、人間になったことがなければ、あなたはけっして、天の王国に完全に入るということができないからだ。人生というものに降下したことがないのに、いったいどうやって天国にアセンドすることができるというのか?


人間になることは価値のあることなのだ。それはなるに値するものである。全能の神と呼ばれる、自分の内に宿るこの炎を理解するために、人間になるのは賢明なことである。すべての生命はこの炎でできている。そして、物質でできた至高の知性、すなわち人間と呼ばれるものを通してこの炎を体験すれば、神とは何なのかについて、完全な視野を与えてくれるのだ。そして、あなたが神であるものをすべて完全に理解したとき、あなたは「父」そのものになるのである。


さて、あなた方がこの天界にいるのは、いま宿っている化身の密度を通して神の探求を続けるためだ。あなた方のこの創造的進化を支えているのは、生命と呼ばれるものであり、それはひとつの原子をそのあるべき形に保ち、地球を宇宙空間の中に保持しているのと同じ生命力である。この生命力には、ひとつの普遍的な法則がある。それは、つねに進化し続け、つねに拡大し続け、つねに何かになり続けるということだ。それゆえ、あなたが生きる目的はつねに、生きることを体験してそこから学び、学んだものを統合しながら発展させ、それを生命と呼ばれる根本原理の中に還元していくことなのである。


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質問者 私たちはサティヤ・サイババ* のアーシュラムにある期間滞在していました。また、ティルヴァンナーマライのラマナシュラマムでも2カ月ほど過ごしました。今、私たちはアメリカへ帰国の途上なのです。


* 訳注 サティヤ・サイババ Satya Sai Baba
(1926-)アーンドラ・プラディーシュ州の村プッターパルティに生まれる。マハーラーシュトラ州の偉大な聖者シルディ・サイババの化身であると自ら名乗る。砂糖菓子や花、聖灰を物質化し、遠く離れた弟子の想念を読みとるといった奇跡を行なう世界的に有名なグル。


マハラジ  インドがあなたに何らかの変化をもたらしただろうか?


質問者 私たちは重荷を降ろしたかのように感じています。シュリー・サティヤ・サイババは、すべてを彼に明け渡し、ただ日々をできるかぎり公正に生きるようにと言われました。「正しく在りなさい。あとは私にまかせなさい」と彼は言いました。


マハラジ  シュリー・ラマナアシュラムでは何をしていたのかね?


質問者 私たちは師から授かったマントラを復唱しつづていました。また瞑想もしました。考えることや勉強することはほとんどなく、ただ、静かにしているよう心がけていただけです。私たちはバクティ(帰依)の道を行く者で、哲学はむしろ知らないのです。私たちには考えなければならないことはさほどなく、ただグルを信頼し、人生を生きていくだけです。


マハラジ  バクタ(帰依者)の多くは、すべてがうまくいっている間はグルを信頼する。しかし、問題が起こると彼らは落ちこみ、ほかの師を探しに行くのだ。


質問者 そうです。その危険性については警告されました。私たちは厳しい状況もやさしい状況とともに受け入れていこうと思っています。「すべては恩寵だ」という感情が非常に強くなければなりません。ひとりのサードゥ(修行僧)が東に向かって歩いていると、その方向から強風が吹いてきました。サードゥはただくるりと向きを変えて、西に歩き出したのです。私たちもグルによって与えられた環境に私たち自身を合わせながら、そのように生きたいと願っています。


マハラジ  ただ生命だけがある。生命を生きる人は誰もいないのだ。


質問者 それは私たちも理解します。それでもなお、私たちは、ただ生きるのではなく、自分たちの人生を生きようとしてしまうのです。未来のために計画を立ててしまうことは、私たちにとって根深い習慣なのです。


マハラジ  あなたが計画を立てようと立てまいと、人生は続いていくのだ。だがその人生において、マインドのなかに小さな渦巻きが現れる。それは幻想にふけり、それ自体が人生を支配し、コントロールしていると想像するのだ。
生命そのものは無欲だ。だが、偽りの自己はそれが快く続いてほしい。そのため、それはつねに自己の継続を守ることに没頭しているのだ。生命は恐れず、自由だ。あなたが出来事に影響を与えているという考えをもっているかぎり、解放はあなたのものではない。行為者という観念、自分が出来事の原因であるという観念自体が束縛なのだ。


質問者 どうすれば、私たちは為す者と為されることという二元性を克服できるのでしょうか?


マハラジ  生命を無限で、分割不可能な、つねに存在し、つねに活動的なものとして黙想しなさい。あなたがそれとひとつであると悟るまで。それは難しくなどない。なぜなら、あなたはただ自分の自然な状態に戻るだけだからだ。
すべては内側から現れ、あなたの住む世界があなたの上に投影されているのではなく、あなたによって投影されているとひとたび自覚すれば、恐れは終焉するのだ。この自覚なしに、あなたはあなた自身を外界の身体、マインド、社会、国家、人類、そして神や至高なるものといったものとさえ同一化してしまう。だが、それらはみな恐れからの逃避なのだ。あなたが住む小さな世界の責任を完全に受け入れ、その創造、維持、破壊の過程を見守るときにだけ、あなたはあなた自身の想像による束縛から自由になるのだ。


質問者 どうして私は自分自身をそんなにも不幸だと想像してしまうのでしょうか?


マハラジ  ただの習慣からなのだ。あなたの考え方や感じ方を変えなさい。それらを再検討し、詳細に調べてみなさい。あなたは不注意によって束縛される。注意が解放するのだ。あなたはあまりにも多くのことを当然のこととして受け取ってきた。疑いはじめなさい。もっとも明らかなことは、もっとも疑わしいのだ。あなた自身にこのように問いかけてみるといい。「私は本当に生まれたのだろうか?」「私とは本当にこれなのだろうか?」「私が存在すると、どのようにして知るのだろうか?」「誰が私の親なのだろうか?」「彼らが私を創造したのか、それとも私が彼らを創造したのだろうか?」「私自身に関して言われたことを、すべて信じなければならないのだろうか?」「私とは誰なのか?」と。あなたはあなた自身のための牢獄を築くことに、たいへんなエネルギーをつぎこんできた。今、それを破壊するためにできるかぎりを費やしなさい。事実、破壊することはたやすい。なぜなら、偽物は発見されたそのときに消え去るからだ。すべては「私は在る」という想念にかかっている。それを徹底的に調べるがいい。それはあらゆる困難の根底に存在している。それはあなたを実在から分かつ皮のようなものだ。実在は皮の内側にも外側にもある。しかし、皮そのものは実在ではないのだ。この「私は在る」という想念はあなたとともに生まれてきたのではない。あなたはそれなしでも充分申し分なく生きたことだろう。それはあとになって、身体との自己同一化のために現れた。それがありもしなかった分割という幻想をつくり出したのだ。それがあなた自身の世界のなかで、あなたを異邦人にしてしまった。そして世界を異質な、敵意あるものにしてしまったのだ。「私は在る」という感覚なしでも人生は続いていく。私たちにも「私は在る」という感覚のない平和で幸福なときはある。「私は在る」が戻るとともに、困難がはじまるのだ。


質問者 どうすれば「私」という感覚から自由になれるのでしょうか?


マハラジ  もしあなたがそれから自由になりたいのなら「私」という感覚と向き合わなければならない。あなたが明確にそれを見て完全に理解するまで、それが作用しているときや、落ち着いているときを見守りなさい。それがどのようにはじまり、どのように停止し、何を欲しがり、どのようにそれを得るのかを見なさい。結局、すべてのヨーガは、その源が何であれ、性質が何であれ、目的はただひとつだ。分離された存在という不幸から、広大な美しい絵の中の無意味な点としての存在から、あなたを救い出すことにあるのだ。
あなたが苦しむのは、あなた自身を実在から疎外したからだ。そして今、あなたはこの疎外感からの逃避を探し求めている。あなた自身の強迫観念から逃げることはできない。ただ、それを育むのをやめることができるだけだ。
「私は在る」は偽りだからこそ、それは存続を願う。実在は存続する必要がない──それ自身、破壊不可能なことを知っているからだ。それは形態とその表現の破壊に無関心なのだ。「私は在る」を強調し安定させようと、私たちはありとあらゆることをするが──すべては無駄に終わってしまう。なぜなら、「私は在る」は瞬間から瞬間へと再構築されていくものだからだ。それは絶え間ない仕事なのだ。そして唯一の革新的な解決法は、「私はあれであり、これである」という分離した感覚を永遠に消し去ることだ。存在は残る。だが、自己存在ではない。


質問者 私には明確な霊的野心があります。それを満たすために努力しなければならないのではありませんか?


マハラジ  いかなる野心も霊的なものではありえない。すべての野心は「私は在る」のためのものなのだ。もしあなたが本当の進展を遂げたいのなら、すべての個人的な達成という考えは、あきらめなければならない。いわゆるヨーギの野心というものは、実にばかげたものだ。男性の女性に対する欲望は、永遠の個人的な至福を渇望することに比べれば純真なものだ。マインドとは詐欺師なのだ。より敬虔に見えるほど、裏切りはさらに悪いものとなるだろう。


質問者 ひっきりなしに、人びとは世間の悩みごとをかかえてあなたのもとへやってきます。あなたはいったいどのようにして、彼らに何を言うかを知るのでしょうか?


マハラジ  ただその瞬間、私のマインドに現れたことを告げるだけだ。私には人びとに対応するための企画化された手順といったものはない。


質問者 あなたはあなた自身に確信をもっています。しかし、私のもとに人びとが来るとき、どのようにして私の助言が正しいものだと確信できるのでしょうか?


マハラジ  あなたがどの状態のなかにいるのか、どのレベルで話しているのかを見なさい。もしあなたがマインドから話しているなら、間違っているかもしれない。あなたの精神的習慣が停止しており、状況への完全な洞察から話しているのならば、あなたの助言は本物の返答かもしれない。要点は、あなたも、あなたの前にいる人も、ともに単なる身体ではないと完全に気づいていることだ。もしあなたの気づきが明晰で完全ならば、間違いはありえない。


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