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伝統的なキリスト教では「汝の隣人を愛せ」と教えています。しかし、実は「自分と同じように」という言葉がそのあとに来るのです。この点を説明したいと思います。
この部屋にいる人のなかで、「できれば隣人を愛したい」と思っていない人はいません。そこで、誰かにひどく傷つけられたとき、相手を愛そうにも、心の傷のために愛せないというジレンマにおちいります。そして、「愛そう」と努力します。それは立派な努力ですが、残念ながら、うまくいきません。それがうまくいかない理由は、自分が欲しいものを他人に与える、という難題を自分に要求しているからです。愛が欲しいのはあなたなのです。ところが、あなたは、自分を愛してくれないと感じる人に、その愛を与えよう、と自分に言いきかせているのです。


ここでちがうやり方を提案しましょう。その人たちを愛さない自分というものを愛するのです。その人たちを嫌っている自分を愛してください。頭でそう考えよ、と言っているのではありません。誤解しないでください。私が言っているのは、心で感じる感情のことです。やってみさえすれば、私が話している温かい気持ちを心で感じられない人はいないはずです。誰かを愛せない自分、誰かを嫌っている自分さえも愛しはじめると、すばらしい魔法の力によって変化が起こり、その状況そのものが温かさを帯び、自分が相手を愛せないからいやな気分になる、ということがなくなります。


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欠乏感に満ちた考えは、自分が愛に値しないという思いから出てきます。愛に値しなければ、外部に欠乏を投影します。コップの水は半分入っていても、半分しかない、というふうに見ます。


自分が愛に値すると知っていれば、他人の言葉や行為を愛の観点から解釈しやすくなります。めったに腹が立ちません。


人生をどう見るかは、自分が愛すべき存在かそうでないか、自分に価値があるかないかの感じかたで決まります。どちらの場合も、あなたは自分の意見をさらに強化するような状況を外界に作り出します。


供給に関する先入観はすべて、過去に生きていることからきます。欠乏は古傷の思い出にすぎません。それがいとも簡単に未来に投影されます。この欠乏的思考を終わらせるには、過去を宥さねばなりません。


あなたは、自分が不当に扱われていると感じていますか。もしそうなら、あなたは欠乏を人生に投影します。不当な扱いを受けていると感じる人だけが、不当に扱われるようになります。


欠乏的思考を終わらせるには、自分が不当に扱われていると感じていることに気づくのが第一歩です。それはあなたの奥深いところにある、自分には価値がないという感覚からきています。


思考を無理に変えようとしないでください。条件づけを逆にしようとして、「わたしはいま現在、愛すべき存在だ」というアファーメーションをくりかえしたりしないように。ただ気づくのです。「わたしはいま、愛すべき存在ではないと感じている、無価値だと感じている。不当に扱われていると感じている。過去に起きた悪い出来事が、また起きるのではないかとおびえている」と。


ハートが緊張し、ぎゅっと縮まることに気づいてください。自分が感情的に閉じてしまっているのに気づいてください。


自分のもとにやってきた情報を、ネガティブなものと見るか、ポジティブなものと見るかはあなたの選択でした。あなたはコップを半分「から」だと見るのを選択しました。犠牲者になることを選びました。


別にかまわないのです。恥じることはなにもありません。これ以上縮みあがる必要はありません。自分を叱咤激励する必要もありません。ただ、自分が何を選んだのか、その結果どういう気分になったのかに気づいてください。それを見極めて、手放します。


「わたしは自分のした選択を見た。不幸な気分になったのがわかった。不幸になりたくはないから、別の選択をしよう。コップには水がまだ半分も入っている、と見よう」


もしこのような言葉を、すっきりと整理された感情の状態で言えるのでしたら、あなたは過去を手放し、傷を手放したことになります。やってみてください。大きな効果があります。


あなたは犠牲者になることをずっと練習してきて、その役割には甚だ習熟しています。ですから練習なしで、いきなり勝利者になれるとは思わないほうがいいでしょう。ただ犠牲者になろうとした選択を見てとり、それを進んで手放そうとしてください。それで十分です。


豊かさの思考とは、自分が愛されていて、今のこの瞬間にも価値ある存在だということを意味します。そうだ、そう感じるぞと思っていても、電話が鳴って、莫大なお金を損したとか、奥さんが家出したとかわかったら、自分にどのくらい価値があると思えますか。改めて聞きますが、いまコップは「から」でしょうか。


そうした恐怖心に根ざした思考があるのだと認めるだけで、変容への長い道のりの第一歩が踏み出せます。自分の感情に正直になることが、スピリチュアルな成長には欠かせません。


無理にポジティブな考え方をすることはできませんが、ネガティブな考え方に気づくことはできます。ネガティブな部分に気づくことは、愛に満ちた行為です。それは希望を含んでいます。「いま起きていることを見たが、もっとうまいやりかたがあるのがわかっている、わたしは別の選択もできるのを知っている」


自分に別の選択を与えることは、個人の購いと再生の仕事です。過去を宥し、手放せば、別の選択のできる状態を準備することになります。あなたが同じ過ちを何度おかしたとしても、あなたにはつねに自分自身を宥す新しい機会があります。


宥しなくしては、欠乏的思考から抜け出すことはできません。そして宥すためには、自分が傷ついたあらゆるケースに気づいていることです。


傷ついたと認めることです。そうすれば、それを宥すことができます。傷を秘密にすれば、過去から逃れられません。


欠乏感は、たいせつな教師です。あなたの環境にあらわれた欠乏部分はすべて、内面の無価値感の反映ですから、その無価値感を意識にのぼらせなければなりません。欠乏の経験は、神があなたを罰しているのではありません。あなたが自分自身に対して、修正すべき信念があることを教えているだけです。


自分がいかに自分自身に愛を惜しんでいるかを見てとることで、自分を愛せるようになります。そして自分自身にどのくらい愛を惜しんでいるかは、他人に愛をどのくらい出し惜しみするかを見ればわかります。


豊かさがあなたの人生に入ってくるのは、なにかいわくありげな呪文を覚えることによってではなく、自分の精神の傷ついた部分に愛をもたらすことを学んだときです。愛はあらゆる分離と競合の感じを癒し、罪や罪悪感をもたない、もともとの完全さの自覚をよみがえらせてくれます。


自分自身の恐怖心、無価値感に進んで目を向ければ、神はあなたの中の神聖な火花にも目がいくようにしてくださいます。


あなたが自分自身を愛したいと思うなら、神の愛があなたのところまで流れてこられるような水路を開かねばなりません。あなたの心の中に豊かさへの扉を開き、あなたのまわりすべてに映しだされている愛の贈り物を見てください。そしてどうか、これらの贈り物の価値や、それがあなたの人生にあらわれた形を、判断・批判しないでください。その価値は問題の余地のないものですし、形はじつに誤解されやすいものなのです。


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質問者 今まで多くの真我を実現した人に会いましたが、解脱した人には一度も会ったことがありません。あなたは解脱した人に会いましたか? それとも、解脱した人は身体をも放棄した人なのでしょうか?


マハラジ 真我の実現と解脱という言葉で、あなたは何を意味しているのだろうか?


質問者 真我の実現とは、世界が意味をもち、物質と本質の統合が遍在する、素晴らしい、平和、善、そして美の体験です。そのような体験は長続きしませんが、忘れることもできません。それは記憶と切望として、心のなかで輝きます。自分の言っていることは理解しているつもりです。私自身そのような体験をしましたから。
解脱とは、その素晴らしい状態のなかに永久にとどまることです。私が尋ねたかったことは、解脱とは身体の放棄も意味するのかということです。


マハラジ 身体のどこが問題なのかね?


質問者 身体は弱く、短命です。それは要求や欲望を生みだし、それが人を悲惨にも限定するのです。


マハラジ だからどうだというのだろう? 身体の表現がかぎられているならば、そうあればいい。しかし、解脱とは自分に押しつけてきた誤った自己の観念から自由になることなのだ。それはどんなに輝かしいものでも、ある特定の体験のなかに含まれるようなものではない。


質問者 それは永遠のものなのでしょうか?


マハラジ すべての体験は時間の限界内にある。何であれ、はじまりあるものは終焉を迎える。


質問者 では、私が言う意味での解脱というものは存在しないのでしょうか?


マハラジ その反対に、人はいつも自由なのだ。あなたは意識しており、また自由に意識できる。誰もそれをあなたから奪い取ることはできない。今まであなたが無意識あるいは非存在であると知ったことがあるだろうか?


質問者 覚えてはいないかもしれませんが、だからといって、それが無意識になったことがないという証明にはなりません。


マハラジ 体験から体験者へと見る向きを変えなさい。そしてあなたができるたったひとつの真の表明、「私は在る」の完全な意味、その重要性を悟るがいい。


質問者 どのようにすればいいのでしょうか?


マハラジ ここでは、「どのように」ということはない。ただマインドのなかに「私は在る」という感覚を保ち、あなたのマインドとその感覚がひとつになるまで、そのなかに没入しなさい。繰り返し試みることによって、あなたはそれへの愛情と留意の正しいバランスをつかむだろう。そして、マインドは「私は在る」という思考─感覚のなかに、揺らぐことなく確立するようになるだろう。何であれ、あなたが考え、話し、行なうにも、この不変で愛情深い存在の感覚は、つねにマインドの背景として消えることなく残るだろう。


質問者 そして、それが解脱なのでしょうか?


マハラジ 私はそれを普通と呼ぶ。努力なく、幸せに、行動し、知り、在ることのどこが間違っているだろうか? なぜ身体の即座の崩壊を期待するような、そんな特別なことと考えるのだろう? 身体に死が訪れることの何が間違っているのだろうか? 身体に対する態度を正し、忘れてしまいなさい。甘やかさず、苦しめず、ほとんどの時間、意識的留意の境界下においておけばいいのだ。


質問者 その素晴らしかった経験の記憶が、私を虜にしています。私はふたたびそれを得たいと望んでいるのです。


マハラジ 取り戻したいと願うから、それを得ることができないのだ。切望の状態がすべてのより深い体験を妨げる。何を欲しているかを正確に知っているマインドには、価値あることなど何ひとつ起こらない。マインドが求め描いているようなものに、たいした価値のあるものなどないからだ。


質問者 それでは、求める価値のあるものとは何でしょうか?


マハラジ 最上のものを求めなさい。最高の幸福、もっとも偉大な自由を。無欲が最大の至福なのだ。


質問者 欲望からの自由は、私が求めているものではありません。私が欲しいのは、切望を満たすための自由です。


マハラジ 切望を満たすのはあなたの自由だ。事実、あなたのしていることはそれ以外の何ものでもない。


質問者 試みるのですが、障害がいつも私を挫折させます。


マハラジ 乗り越えなさい。


質問者 できません。私は弱すぎるのです。


マハラジ 何があなたを弱くさせるのだろう? 何が弱みなのだろうか? ほかの者たちは欲望を満たしているのだ。なぜそうしないのかね?


質問者 エネルギーが欠けているに違いありません。


マハラジ あなたのエネルギーに何が起こったのだろう? それはどこへ行ったのだろうか? あなたはそれをたくさんの反駁する欲望や楽しみの追求にまき散らしたのではないだろうか? あなたには無限のエネルギーの供給がなくなったのだ。


質問者 それがいけないことでしょうか?


マハラジ あなたの目的は小さく低次のものだ。それはより以上を求めない。神のエネルギーだけが無限だ。なぜなら、神は自分自身のために何も求めないからだ。彼のように在りなさい。そうすれば、すべての欲望は満たされるだろう。目標が高く、望みが広大なほど、あなたはより多くのエネルギーを得るだろう。すべての人のためを想って望みなさい。そうすれば、宇宙はあなたとともに働くだろう。だが、もしあなたが自分の喜びのために欲するなら、それを得るためにつらい努力をしなければならない。欲する前に、受けるだけの価値ある人になりなさい。


質問者 私は哲学、社会学、そして教育の研究をしています。真我の実現の夢を見る前に、より精神的成長が必要だと思うのです。私の考えは正しいでしょうか?


マハラジ 生活の糧を得るには、ある特殊な知識が必要だ。一般的な知識が思考の発展を促すことは間違いない。だが、もしあなたが知識を蓄えることで人生を送るならば、あなたは自分のまわりに壁を築くだけだろう。マインドを超えるために飾りたてられたマインドは必要ない。


質問者 では、何が必要なのでしょうか?


マハラジ マインドを信頼せず、それを超えていきなさい。


質問者 マインドの彼方に、私は何を見いだすのでしょうか?


マハラジ 存在と智慧と愛の直接体験だ。


質問者 どうすればマインドを超えていけるのでしょうか?


マハラジ スタート地点は数多くあるが、それらはすべて同じゴールに導く。あなたは行為の結果を放棄しながら、私利私欲のない仕事からはじめるかもしれない。そしてマインドを放棄し、最後にはすべての欲望を放棄するかもしれない。ここでは、放棄が作用する要因だ。あるいは、あなたは欲することも、考えることも、為すこともすべて気にとめず、「私は在る」という思考と感情の内にとどまり、マインドのなかで確固として「私は在る」に焦点を合わせるかもしれない。あらゆる類の体験があなたに訪れるだろう。「私は在る」だけが永遠に変わらず、知覚できるものすべては一時的なはかないものだという知識のなかに、揺らぐことなく在りなさい。


質問者 全人生をそんな修行に費やすことはできません。私には義務と仕事があります。


マハラジ もちろん職務に励みなさい。感情的に巻き込まれず、有益で、苦しみをともなわない仕事は、あなたを因果的に束縛しない。あなたはいくつもの分野に従事し、途方もない熱情とともに仕事をしながらも、内面ではその影響を受けずに、すべてを映しだす鏡のように自由で静かなマインドを保つかもしれない。


質問者 そのような状態が実現可能なのでしょうか?


マハラジ もしそうでなければ話しはしない。なぜ私が絵空事を言うだろうか?


質問者 誰もが聖典を引用します。


マハラジ 聖典のみを知る者は、実際には何も知らない。知ることとは、在ることだ。私は、私が言っていることを知っている。それは人から聞いたことでも、読んだことでもない。


質問者 私はある教授のもとでサンスクリット語を学んでいます。でも、本当はただ聖典を読んでいるだけなのです。私は真我の実現を探求しており、必要な指導を受けに来たのです。どうか、どうすればよいか教えてください。


マハラジ 聖典を読んだのなら、なぜ私に尋ねるのかね?


質問者 聖典は一般的な指示を示しますが、個人は個別の指導が必要です。


マハラジ あなた自身があなたの究極の師(サッドグル)だ。外側の師(グル)は、ただの道しるべにすぎない。あなたの内なる師がともにゴールまで歩いてくれるだろう。なぜなら彼がそのゴールだからだ。


質問者 内なる師には簡単に出会えません。


マハラジ 彼はあなたのなかにいるのだ。困難であるはずがない。内側を見なさい。彼はそこにいる。


質問者 私が内側を見るとき、そこには感覚や知覚、思考や感情、欲望や恐れ、記憶や期待の雲が見えるばかりで、ほかには何も見えません。


マハラジ それらすべて、そしてまた無も見ているそれが内なる師なのだ。彼だけが存在する。それ以外はみな、ただの現れにすぎない。彼があなたの真我(スワルーパ)、自由への確信と希望なのだ。彼を見いだし、しっかりとつかんで離してはならない。そうすればあなたは救われ、安全だろう。


質問者 あなたを信じます。それでも、いざ実際に内なる師を見いだそうとすると、それは私から逃げてしまうのです。


マハラジ 「それは私から逃げてしまう」という考えは、いったいどこからやってくるのだろうか?


質問者 マインドです。


マハラジ そして、マインドを知っているのは誰だろうか?


質問者 マインドを観照するものがマインドを知っています。


マハラジ 誰かがあなたのもとへやってきて、「私があなたのマインドの観照者だ」と言ったのかね?


質問者 もちろん、そうではありません。彼もまた、マインドのなかの別の観念にすぎません。


マハラジ それならば、誰が観照者なのか?


質問者 私です。


マハラジ そのとおりだ。あなたは観照者を知っている、なぜならあなたが観照者だからだ。観照者を目の前に見る必要はない。ここでもまた、在ることが知ることなのだ。


質問者 はい。私が観照者、気づきそのものだということは理解できます。ですが、それがどう私の得になるというのですか?


マハラジ 何という質問だ! どんな利益を期待するというのか? あなたが誰なのかを知ること自体、充分ではないかね?


質問者 自己知識は何の役に立つのでしょうか?


マハラジ それは何があなたではないか、ということの理解を助け、誤った考えや欲望や行為からあなたを自由にするのだ。


質問者 もし私がただの観照者であるなら、正しいとか間違っているということに何の意味があるというのでしょうか?


マハラジ あなた自身を知ることを助けるものが正しく、それを妨げるものは間違いだ。真我を知ることは至福であり、それを忘れることが不幸なのだ。


質問者 観照者意識が真我なのでしょうか?


マハラジ 観照者意識はマインドのなかの実在の反映だ。実在はその彼方にある。観照者とは、それを超えて彼方へと通りぬけていくための扉なのだ。


質問者 瞑想の目的とは何でしょうか?


マハラジ 偽りを偽りと見ることが瞑想だ。それは絶えず続いていかなければならない。


質問者 私たちは定期的に瞑想するように言われています。


マハラジ 真実と偽りの区別、そしてその偽りを自ら放棄していく日々の訓練が瞑想だ。初心者には数多くの種類の瞑想があるが、最後にはすべてがひとつに溶け入る。


質問者 どうか、どれが真我の実現への一番の近道か教えてください。


マハラジ どれが近くどれが遠いということはないが、ある人はより真剣であり、ある人はそれに劣る。あなたに私自身のことを話そう。私は単純素朴な人間だったが、グル(師)を信頼し、彼が私にするようにと言ったことをしたのだ。彼は私に「私は在る」という感覚に集中するようにと言い、私はそうした。彼が、私は考えうる、知覚しうるすべてを超えたものだと言い、私は信じたのだ。私は彼に、私のハートと魂、許されるかぎりのすべての空き時間(家族を支えるための仕事があったため)とすべての注意を捧げた。真剣な修練と信頼の結果、私は三年のうちに真我(スワルーパ)を実現したのだ。あなたに合う道を選ぶがいい。真剣さが進歩の度合いを決定する鍵だ。


質問者 私へのヒントはないのでしょうか?


マハラジ 「私は在る」という気づきのなかに、揺らぐことなく確立しなさい。これがはじまりであり、またすべての努力の終わりだ。


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