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人間の意識に関する基本法則のひとつ──自分を怒らせるものは自分と関係があり、ゆえに自分とつながっている──を思い出してごらんなさい。常に高潔かつ賢明かつ神聖であろうなどとしないでください。そうした努力をやめたら、わたしの言わんとすることが見えてきます。あなた方は誰でも、人を傷つけたり人がいやがることをした経験があるはずです。まわりの人間に対する言動や思考において一点の非の打ち所もないと言える人がここにいますか。やさしく思いやりのある態度や寛容な態度をとるときもあれば、怒ったり人を非難したり暴力的になったりするときもあるでしょう。人間の心の中にはこれらのすべてが共存しています。


自分は他人よりも優れているとか、あんなひどいことは自分だったら絶対しないなどと思う人は、自分で自分をだましています。ある種の極限状況の下では、どんな人でも、賞賛すべきすばらしい行為をすることもできれば、あまり誉められない行為をすることもできるのです。人間の行為はすべてその両極端のどこかにあって、それが人間であることです。あらゆる人と自分が似ていることを認めてはじめて、他人に対する怒りや状況に対する怒りが静まってきます。


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あなたに一番つらくあたっているのは、あなた自身です。あなたの兄弟姉妹も同じなのですが、あなたもまた自分がどこか欠けていて価値がない、という基本的な感覚に悩まされています。自分がおそろしい失敗をおかしていて、遅かれ早かれ、権威ある人間、または抽象的なスピリチュアルな存在──たとえば神とかカルマの法則とかいったもの──によって罰せられるだろうと感じています。


自己の価値に関するこのような未解決の問題が、具体的にあなたの状況となって現れているわけです。つまり、それらを実現化させるために、ここにいるということになります。あなたは、自分の罪悪感を増幅させるような両親を選び、自分でその罪悪感に気づくことができるようにしました。ですから両親を責めてみても、あなたがたがじつは愛にもとづいて設定したこの状況を変えることはできません。唯一の脱出口は、自身の罪悪感や恐怖心に根ざした信念や人間関係のパターンに気づき、その気づきを広げてゆくことです。


だれか特別な人を探して、両親からは得られなかった愛をもらおうとしても、うまくいきません。ただ圧力釜の温度をあげるだけです。選んだ異性が、じつは関係を修復すべき親とそっくりだったと気づいても、驚くにはあたりません。あなたは自分の傷と、しっかり向き合うしかありません。両親、伴侶、子どもは、あなた自身の癒されるべき場所を示してくれています。あなたもまた、かれらの人生において、そういう役割をはたしています。


これは良いとか悪いとか、こうであるべきだといったさまざまの条件・制約によって成立しているこの世界の中で、だれかに無条件の愛を求めても、失敗は目に見えています。なぜなら、兄弟姉妹のほうも自己の無価値感から行動しますから、あなたの期待するような愛は与えられませんし、あなたもまたそうです。一番よい道はおたがいが自分の必要とする愛への気づきを高めていくこと、自分の責任で、自分にその愛を与えはじめることでしょう。


自身の傷に対して自分で愛を与えるという責任をとらないうちは、攻撃──防御、罪悪──非難という悪循環から抜け出ることはできません。怒り、傷つけられたという思い、裏切られた感じ、それらはあたかも正当なように見えますが、おたがいのいさかいの火に油を注ぐだけでなく、自分は愛されないし、愛する能力もない、という無意識の信念をたえず強めていきます。


自分自身がどれほど自己を憎悪しているかに気づく必要があります。鏡をのぞいて、そこに自分の信じていることがそっくり映っているのがわかるまでは、まずは日々出会うすべての兄弟姉妹を鏡として、自分が自分をどう見ているのかを知ることができます。この実践は特にむずかしくはありませんが、天国への最短距離というわけではありません。自分の見ているものは、よその人への教訓なのだと考えがちだからです。


この世界のいまわしい心理戦争からのがれるには、投影というゲームをやめることです。このゲームは自分の無意識の中の死への衝動を、それは悪いというせまい道徳倫理で、自分の目からもおおい隠してしまいます。皮肉に聞こえるかもしれませんが、自分は正しくて悪いのは兄弟なのだと主張しているその瞬間に、あなたは自分自身の罪悪感と劣等感を拡大しているのです。


非難の悪循環から抜け出るには、非難をやめるしかありません。ただし、覚悟してください。苦しみの円環から抜け出ようとすると、世間からはよく言われないでしょう。まず最初に攻撃の矢面に立たされるのは、この世界の投影ゲームに参加しない人たちです。あなたがたがわたしの生涯から教訓を受けとるとしたら、まずはそのことです。


自分自身の恐怖心をだれかに投影せず、自分のものとして自覚する人は、この世界のゲームをおびやかすのです。自分自身の殺人衝動を認め、その根を自分の意識の中に探そうとする人は、社会をとりまとめている道徳倫理をおびやかします。


人間社会においては、正義があり、悪事があります。正義をおこなう人は報われ、悪事をはたらく人は罰せられます。つねにそのようになっていました。


わたしの教えは、この基本的前提をゆるがします。まず、ごく表面的なレベルでは、悪人は罰せられるべきだという考えに抵触します。処罰せよという大合唱にわたしは立ち向かい、宥しを主張しつづけるでしょう。


より深いレベルでは、わたしの教えは、これこれの行いをしたらその人は非難されるべきだ、という考えそのものにも抵触します。だれかが誤った行いをしたら、それは当人が誤った考えを抱いたからです。その考えが誤りであることに気づけば、行いを変えられます。ですから、その人をそちらの方向に導くことは社会の利益になります。しかし、もしそこに処罰が持ちこまれたら、その人の誤った考えにはさらに拍車がかかり、さらに罪悪感が増し加わるでしょう。


「悪事をふたつ重ねても、ひとつの善事にはならぬ」という言い回しを聞いたことがありますか。これこそ、わたしの教えの中心にあるものです。あらゆる悪事は、正しいやりかたで修正されなければなりません。それ以外の修正方法は、攻撃となります。


相手の議論をねじ伏せようとしたり、まちがいだぞと言い負かそうとしても、相手はいこじになるだけです。それは暴力的なやりかたです。これに対して、わたしのやりかたは非暴力的です。わたしの場合は、こうすれば問題は解決するという解答を実際に行動で見せてあげます。それは苦しんでいるものに対し、攻撃ではなく、愛をもたらします。このやりかたは、本来の目的にかなっています。


よくないこととは、罪悪感を教え、苦痛や苦しみが必要なのだという信念を確立することです。正しいこととは、愛を教え、それにあらゆる苦しみを乗りこえる力があるのを示すことです。かんたんに言えば、正しくあればよくないことはできないし、よくない場合には正しいことはできません。正しくあるために、正しいことを行いなさい。


愛の感じられないやりかたでは、真に愛することはできません。ほんとうに正しい人間なら、誤りを攻撃する態度はとれません。誤りはもちろんなくすべきです。しかし、すべての誤りの根源は恐怖心ですから、恐怖心の撲滅が誤りの修正につながります。


愛という反応だけが、恐怖心を無力にできます。信じられないのでしたら、ためしてごらんなさい。あなたが、恐怖心を起こさせるだれか、あるいはそういう状況を愛してみれば、恐怖心は消えてしまうでしょう。これはほんとうです。それは愛が恐怖心の解毒剤であるからというよりも、むしろ恐怖心は「愛の不在」だからです。ですから、愛があらわれたところに、恐怖心はいすわることはできません。


あなたがたのほとんどは、恐怖心についてはかなり理解していますが、愛についてはほとんど知りません。あなたは神を恐怖し、わたしを恐怖し、おたがいを恐怖しています。


なぜ恐怖を抱くのですか。それは、自分に愛される値打ちがなく、おたがいを愛する能力もないと信じているからです。


たったひとつ、この信念を変えさえすればよいのです。人生のすべてのネガティブなものは、自分についてのこの誤った信念をぬぎすてたとたんに、はがれ落ちます。


友よ、あなたは自分で考えているようなものではありません。ネガティブな信念や行動の単なる集合体ではありません。自分ではそう信じているでしょうが、そうではありません。


あなたはわたしと同じように、神の子です。神の真実と善は、あなたの真実と善です。この事実を一瞬でも受けいれるならば、あなたの人生は変容します。この事実を一瞬でも兄弟についても受けいれるなら、あなたがたのあいだの葛藤は終わります。


あなたが目にしているのは、自分の信念の直接の結果です。自分が罪深いと信じていれば、罪深い世界があらわれます。罪深い世界は罰せられることになるでしょうし、あなたも同じ運命をこうむるでしょう。


「神はあなたを打ち倒される。神は世界を滅ぼされる。神が復讐をなされる」これらの言葉こそ、友よ、あなたの考えていることなのです。これらは──冒瀆的に聞こえるかもしれませんが──あなたがたのほうがわたしに押しつけた、ばかげた考えです!幸い、わたしにはわかっています。これが、あなたがたが自分を痛めつけるための粗雑なやりかただということが。


こんな小手先の操作は問題を先送りにするだけです。そのうち、あなたも飽きてくるでしょう。罪悪という考えかたぜんたいを、個人としてのあなた──そして集団としてのあなたがた──はやがて拒絶するようになり、故郷へ帰りたくなるでしょう。


友よ、あなたがたが完全に正直になり、責任を引き受けることになるその瞬間がくることを、わたしは確信し、喜びをもって待ちのぞんでいます。あなたが自分の兄弟の善をひとつのものとして見る日には、神からあなたをへだてるすべてのものがはがれ落ちて、あなたは輝かしい姿でわたしのわきに立つことになるでしょう。


そのとき、あなたは一点の疑いもなく、あなたを愛している神の愛を知るのです。そのとき、あなたは”彼女”がただの一度もあなたを見捨てたことがなかったのがわかるでしょう。たとえあなたが”彼女”の罰が自分にくだり、世界は破壊されるだろうという血迷った考えにとらわれていたさなかにもです。そのとき、あなたは自分の心の創造の力を知り、そして神と別個にではなく、神とともに創造することを選ぶでしょう。


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質問者 世界が幻想(その無常さではなく)であるという論理を否定している、ある有能な人びとによって書かれた非常に興味深い本があります。彼らによると、最低位から最高位にわたる生きものの階層が存在し、各々の有機体の複雑性のレベルが意識の深さ、広さ、強靱さを反映していると言います。成長のための形態の進化、意識の向上、無限の可能性の表現などにおいて、一貫してひとつの至高の法則が支配しているというのです。


マハラジ  そうかもしれない。あるいはそうでないかもしれない。たとえそうであったとしても、それは単にマインドにおける視点にすぎない。だが事実は、宇宙全体(マハーダーカーシュ)はただ意識(チダーカーシュ)のなかにのみ存在し、そして私自身は至高の絶対性(パラマーカーシュ)のなかに在るのだ。純粋な存在のなかに意識が現れる。意識のなかで、世界は出現し消滅していく。存在するものはすべて私であり、すべては私のものだ。すべてがはじまる以前にも、そしてすべてが終わった後にも──私は在る。すべては私のなか、すべての生きるもののなかに輝く「私は在る」という感覚のなかにその存在がある。非存在でさえ私なしには考えることもできない。何が起ころうとも、観照者としての私がそこにいなければならないのだ。


質問者 なぜあなたは世界の存在を否定されるのでしょうか?


マハラジ  世界を否定してはいない。私は世界を、広大な未知のなかの既知全体としての意識、その意識のなかの現れとして見ている。
はじまり、そして終わるもの、それはただの現れにすぎない。世界は現れるとは言えても、存在するとは言えない。その現れは、ある時間の比率においては非常に長い間続くだろうが、ほかの比率では非常に短いかもしれない。だが、結局は同じことだ。何であれ時間の範囲内にあるものは、はかなく実在性がない。


質問者 間違いなく、あなたはあなたを取り巻く現実の世界を見ています。あなたはごく普通にふるまっているように見えますよ!


マハラジ  それはあなたにとってそう見えるだけだ。あなたの意識界全体を占めるものは、私にとっては微小片にすぎない。世界は続いていく。だが、ほんのつかの間だ。記憶が、世界は継続するとあなたに考えさせるのだ。記憶のなかに生きていない私にとって、世界は意識のなかのつかの間の現れにすぎない。


質問者 あなたの意識のなかにですか?


マハラジ  「私」や「私のもの」といったすべての観念、「私は在る」という観念さえ意識のなかに在る。


質問者 それでは、あなたの「絶対存在(パラマーカーシュ)」は無意識のなかにあるのでしょうか?


マハラジ  無意識という概念も意識のなかに存在する。


質問者 それでは、あなたが至高の境地に在るとどうやって知るのでしょう?


マハラジ  なぜなら、私はそのなかに在るからだ。それはただ自然な状態なのだ。


質問者 それを描写できますか?


マハラジ  それは原因なく、依存なく、関係なく、分割せず、創造せず、揺らぐことなく、問うことなく、努力によっては到達できないものとして、否定においてのみ表現することができる。どのような肯定的な定義も記憶によるものであり、それゆえ適切ではない。しかし私の境地は至高の実在であり、それゆえ可能であり、実現でき、達成できるものなのだ。


質問者 あなたは時を忘れて抽象世界のなかに没頭しているのですか?


マハラジ  抽象世界は知的な、言語的なものであって、睡眠や気絶のなかで消滅し、時間のなかでふたたび現れる。私は永遠なる今のなかに、私自身の境地(スワルーパ)のなかに在るのだ。過去と未来はマインドのなかだけに在る。私は今に在る。


質問者 世界も今に在ります。


マハラジ  どの世界のことだろう?


質問者 私たちを取り巻く世界です。


マハラジ  あなたの世界はあなたのマインドのなかに在り、それは私のものではない。あなたとのこの会話でさえ、あなたの世界のなかにあるだけだというのに、私の何を知っているというのだろうか?私の世界があなたの世界と同一だと信じる理由は何もない。私の世界は知覚されたままの実在、真実だ。ところがあなたの世界は、あなたのマインドの状態にしたがって現れては消える。あなたの世界は何か相容れないものであり、あなたはそれを恐れている。私の世界は私自身であり、わが家同然だ。


質問者 もしあなたが世界ならば、どうやってそれを意識することができるのでしょうか?主観的意識はその対象から区別されるものではありませんか?


マハラジ  意識と世界はともに現れ、ともに消える。それゆえ、それらは同じ状態の二つの相なのだ。


質問者 眠りのなかで私は存在しないのに、世界は続いています。


マハラジ  どうやってそれを知ったのだろうか?


質問者 目覚めとともに知るのです。記憶がそう言っています。


マハラジ  記憶はマインドのなかに在り、マインドは眠りのなかで続く。


質問者 それは部分的に停止しています。


マハラジ  だが、世界のありようは影響されないままだ。マインドがそこにあるかぎり、あなたの身体と世界はそこにある。あなたの世界はマインドでつくられ、主観的で、マインドに閉ざされ、断片的、個人的で、記憶の糸にしがみついている。


質問者 あなたの世界もまたそうなのですか?


マハラジ  いいや、私の世界は実在であり、あなたの世界は想像にすぎない。あなたの世界は個人的な、私的な、分かちあうことのできない、あなたにとってだけ親密なものなのだ。あなたはあなたが見るように見、聞くように聞き、あなたの感情を感じ、あなたの想いを考え、誰もそこに入りこめない。あなたの世界のなかで、あなたは本当に孤独だ。あなたが人生と呼ぶ、絶えず変わりつづける夢に囲まれながら。私の世界は開かれた世界だ。すべてに共通し、誰にでもアクセスできる。私の世界には共有性、洞察、愛、実在の質がある。個が完全であり、個のなかに全体性がある。すべては一であり、一がすべてなのだ。


質問者 あなたの世界は私のと同じように人びとや物でいっぱいなのでしょうか?


マハラジ  いいや、それは私自身で満ちている。


質問者 あなたは私たちのように見たり聞いたりするのでしょうか?


マハラジ  そうだ。私も見たり、聞いたり、話したり、行動するように見えるだろう。しかし、あなたの呼吸や消化作用がただ起こるように、私にとってそれらはただ起こるのだ。「身体─精神」器官がそれらの面倒を見、私は関わらない。あなたが髪の毛の成長を心配する必要がないように、私も言葉や行動についてマインドを煩わせたりはしない。それらはただ起こる。そして私は気にかけない。なぜなら、私の世界ではけっして何も間違いは起こらないからだ。


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