過去や未来を現在の瞬間に引きずり込んで、偽の自己を悲劇や喜劇の主人公に仕立てようとしている自分に気づいても、あせらず気を楽にしてください。この過去や未来のドラマの主人公はわがままで、常に自分が正しいと思いたがり、権力を欲します。それに抵抗しないで、リラックスして、いまの瞬間に意識を向けましょう。大きく呼吸しましょう。浮かんでは消える想念を眺め、生まれては消える音を聞き、たえず変化する目前の景色を眺めましょう。意識を完全にこの瞬間に向けます。そうすると、一瞬ののちに次の一瞬が来、それをくり返しているだけだと気づきます。生きる目的は、いのちが躍動するすばらしいこの純粋な瞬間を一瞬一瞬楽しむことだとわかります。キリスト教ではこれを、子供のようになりなさい、と教えます。


子供を現在から引き離そうとすると、しばらくは大人のためにそうしてくれますが、チャンスがあればすぐに現在に戻ります。小さい子供にとって、自分がいま見たり匂いを嗅いだり触ったり味わったり聞いたりしているもの以外はこの世に存在しません。まわりのものについて考えたりはしません。まわりのものは自分がすみずみまで体験するためにあるのです。これは平和に満ちたすばらしい境地です。子供と同じ境地を味わうには、子供がするように、この瞬間、目の前にあるものが何であれ、それと関わろうとする意志をもてばいいのです。



もっとも深い意味では、意識のもつ潜在的創造性がグリッドを決めます。または、別の言い方をすると、すべて神から生まれます。けれどもこの創造力の中にはあなた自身の<個人的な>グリッドも含まれています。あなたのグリッドはあなた自身の可能性や必要性にしたがって創られ、非個人的な神の性質と個人的なあなたの過去やカルマや欲望の両方をあわせもっています。あなたは、いま自分だと思っている人間として姿を現している目覚めた意識です。<あなた>は、完全に目覚めた人間とはどういうものかという可能性のすべてを体験するために肉体をまといます。そこで、まだ体験していないことで体験する必要のあることをグリッドに設定します。自分がすでに体験して理解したことはグリッドに入れません。
たとえば過去生で僧侶だった人がいて、僧侶としての人生が不完全だったとします。僧侶であることを完全に理解する必要があるので、この理解されていない部分が別の人生に戻ってくるわけです。


自分が嫌っている相手や感情を本当に知ると、嫌悪感はなくなります。自分を怖がらせるものや自分にはとても対処できないと思う状況に人は嫌悪感を抱くのです。恐怖を感じる状況をみずから体験しないですむためには、その状況にまつわる心理を感じ取り、理解しようとする意志をもてばいいのです。また、自分とその状況とは何の関係もないのだ、そうした嫌悪したくなる状況を現在演じている人間と自分とのあいだにははっきりとした区別があるのだ、という非現実的な思いこみをなくせばいいのです。その人たちが演じてくれていることに感謝しましょう。おかげで、あなたは彼らという鏡の中に自分自身を見る機会をあたえられ、みずからそれを直接体験せずにすんでいるわけです。
どういう形であれ、あなたがほかの人に同情したり、共感したりするとき、あなたはもはやその相手から分離されてはいません。


前にも言いましたが、自分が嫌だと思うものが人であれ、状況であれ、何であれ、あなたがそれを見たり考えたり想像したりできるということは、それがあなたの中にもあるということです。あなたの中になければ、あなたはそれを見たり、それについて考えたり想像したりできないからです。何かに嫌悪感を感じたら、それが自分のグリッドの中にあって、自分はそれから逃げ出さないで体験する必要があるのだと気づくと、嫌悪感は自然になくなります。



質問者 私たちは女性二人で、イギリスからインドを訪ねてきました。私たちはヨーガに関してほとんど知らず、ここに来たのも、インドにおいて霊的な師はたいへん重要な役割を果たしていると聞いたからです。


マハラジ ようこそ。あなた方はここで何も新しいことを見いだしはしないだろう。私たちのしている仕事は時を超えているのだ。一万年前も同じだったし、一万年後もまた同じだろう。いくつもの世紀が変わりつづけるだろうが、苦しみと苦しみの終焉という人類の問題は変わらないのだ。


質問者 先日、七人の若い外国人たちが数日の宿泊のために宿を求めてやって来ました。彼らはボンベイで講話をしている彼らのグルに会いに来たのです。私も彼に会いました。たいへん風貌の良い若い男性で、実際とても有能な人のようでした。しかし、彼には平和と沈黙の雰囲気が漂っていました。彼の教えはカルマ・ヨーガ、帰依、グルに仕えることなどを強調した、伝統的なものです。『ギーター』のように、非利己的な仕事が解放をもたらすと彼は言うのです。彼は野心的な計画をたくさんもち、多くの国々で瞑想のセンターをはじめる信奉者たちを訓練しています。どうやら、彼は彼らに権威だけでなく、彼の名のもとに仕事をする力も与えているようです。


マハラジ  そうだ。力の譲渡といったものは存在するのだ。


質問者 彼らと一緒にいたとき、私は不可視になったような奇妙な感覚をもちました。帰依者たちは彼ら自身をグルに明け渡すことで、私までもグルに明け渡したのです!何であれ私が彼らのためにしたことは、彼らのグルが私を通してしたことであって、私はただの道具としか見なされませんでした。私は単に右か左に回された蛇口でしかなかったのです。そこにはどんな個人的な関係性もありませんでした。彼らは少しだけ、私を彼らの信仰に帰依させようと試みましたが、わずかに抵抗を感じるなり、私に注意を払うのをやめました。彼らどうしでさえ、それほど理解しあっているようには見えませんでした。彼らを繋いでいるのはグルへの興味だけなのです。私にとっては、それは冷たく、ほとんど非人間的でさえありました。自己を神の手にある道具と見なすことはひとつの考えです。しかし、「すべては神である」ゆえに注意や思いやりをすべて否定することは、残酷さにも近い無関心に導くでしょう。結局すべての戦争は「神の名」のもとに行われたのです。人類の全歴史は「聖なる戦争」の連続です。人は戦争のさなかほど非個人的になることはないのです!


マハラジ 強要したり、抵抗したりすることは、存在しようとする意志に含まれるのだ。存在しようとする意志を取り除いてみなさい。何が残るだろうか?存在と非存在は、時間と空間のなかの何かに関係している。今とここ、そのときとそこ。これもまたマインドのなかにある。マインドは類推のゲームをしているのだ。それはつねに不確実で、不安に悩まされ、落ち着きがない。あなたはある神かグルの単なる道具として扱われたことに憤慨し、個人として扱われるべきだと主張している。なぜなら、あなたは自分の存在に確信がなく、個人として在ることの安楽と安心を手放したくないからだ。あなたは、これがあなただと信じているものではないかもしれない。だが、それはあなたに継続性を与えてくれる。あなたの未来は現在のなかに流れ込み、精神的衝撃もないまま過去となる。個人的存在を否定されることがこわい。だが、あなたはそれに直面し、人生全体とのあなたのアイデンティティを見いださなければならないのだ。そうすれば、誰が誰に使われたのかという問題はなくなるだろう。


質問者 私が注意を払われたのは、彼らの信仰に帰依させようと試みたときだけでした。私が抵抗したとき、彼らは私に興味を失ったのです。


マハラジ 人は改宗や偶然から弟子になったりはしない。普通、そこには何生をも通して保たれてきた昔からのつながりがあり、愛と信頼として花開くのだ。それがなければ弟子としての地位はありえない。


質問者 何があなたに教師となるように決心させたのでしょうか?


マハラジ  私はそう呼ばれることによってそうなったのだ。誰が誰に教えるというのだろう? 私であるもの、それがあなたであり、あなたであるもの、それが私なのだ。私たちすべてに共通なのは、「私は在る」という感覚であり、「私は在る」を超えた彼方に、かぎりない光と愛があるのだ。私たちがそれを見ないのは、どこかほかを見ているからだ。私は空を指し示すことができるだけだ。星を見るのはあなたの仕事だ。ある人は星を見るまでにより時間がかかる。ある人はより早い。それらは彼らの視野の明瞭さと探求への真剣さにかかっているのだ。その二つは彼ら自身のものでなければならない。私はただ、励ますことができるだけだ。


質問者 弟子となったとき、何をするべきなのでしょうか?


マハラジ 各々の教師たちは、彼らのグルの教えや、彼ら自身が真我を実現した方法と専門用語を用いて教える。その枠組のなかで弟子の個性に適したように調整されるのだ。弟子は思想と探求における完全な自由を与えられ、心ゆくまで質問するように奨励される。彼はグルの地位と能力に関して絶対的な確信をもっていなければならない。さもなければ、彼の信頼は絶対的ではないだろうし、彼の行為も完全なものではないだろう。あなたのなかの絶対性が、あなたを超えた絶対性へと連れていくのだ。絶対的真実、愛、無欲は、真我の実現への決定要因だ。それらは誠実さによって到達されるのだ。


質問者 弟子になるには家庭や所有物を放棄しなければならないと私は理解しています。


マハラジ それはグルによって異なる。何人かの師は成熟した弟子たちに苦行者や隠遁者となるように求める。何人かは家族生活と義務を奨励する。彼らのほとんどが典型的家族生活は禁欲生活よりも困難であり、より成熟しよりバランスのとれた人格に適していると考えている。初期の段階では、禁欲生活の戒律が適切だと言えよう。それゆえ、ヒンドゥの文化では二十五歳までの弟子たちは清貧、貞潔、服従のなかで、僧のように生きることを求められる。それが結婚生活の苦難と誘惑に立ち向かうに十分な人格を磨く機会を与えるのだ。


質問者 この部屋にいる人びとは、いったい誰なのでしょう? 彼らはあなたの弟子なのでしょうか?


マハラジ 彼らに尋ねるがいい。人は言語のレベルで弟子となるわけではない。自分の存在の深い沈黙のなかで弟子となるのだ。選択によって弟子になることはできない。それは自己意志というよりも、運命の問題なのだ。誰が師なのかはさほど問題ではない。彼らは皆、あなたにとっての最善を願っている。弟子の正直さと誠実さ。それが重要なのだ。正しい弟子は、つねに正しい師を見いだすだろう。


質問者 有能な、愛すべき師のもとで真我の探求に見を捧げた人生に祝福を感じますし、その美しさを見ることができます。不幸にも、私たちはイギリスに戻らなければならないのです。


マハラジ  距離は問題ではない。もしあなたの欲望が強く真実ならば、それを満たしていくことがあなたの人生を形づくるだろう。種子をまき、後は時節の到来にまかせなさい。


質問者 霊的な人生における進歩のしるしとは何でしょうか?


マハラジ すべての不安からの自由。安心と喜びの感覚、内面での深い平和と外面でのあふれるエネルギーだ。


質問者 どうやってそれを得るのでしょうか?


マハラジ 私はそれらすべてをグルの聖なる臨在のもとに見いだしたのだ。私自身は何もしなかった。師は私に静かにしなさいと言い、そして、私はできるかぎりそうしたのだ。


質問者 あなたの臨在は、あなたの師と同じほど強力なものなのでしょうか?


マハラジ どうして私に知ることができるだろう? 私にとっては彼の臨在が唯一の臨在なのだ。もしあなたが私とともに在るのなら、あなたは彼の臨在のなかに在るのだ。


質問者 どのグルも、彼自身のグルを私に差し向けます。その出発地点はどこにあるのでしょうか?


マハラジ  宇宙のなかには悟り、そして解放のために働いている力があるのだ。私たちはそれをサダー・シヴァと呼んでいる。彼はすべての人のハートのなかにつねに存在している。それが統合の要因だ。統合が解放し、解放が統合するのだ。究極的には、私のものやあなたのものは何も無い。すべてが私たちのものなのだ。あなた自身とひとつでありなさい。そうすればあなたはすべてとひとつになり、宇宙全体が我が家となるだろう。


質問者 単に「私は在る」にとどまることによって、これらすべての栄光がやってくると言われるのでしょうか?


マハラジ  複雑なことではなく、シンプルなことが確実なのだ。しかし、人びとはシンプルなこと、簡単でつねに手に入るものを信頼しない。私が言うことを素直に試みてみたらどうだろうか? それは一見、小さく、無意味に見えるかもしれない。だが、それは巨大な樹に成長していく種子のようなものなのだ。あなた自身に機会を与えなさい!


質問者 ここにたくさんの人びとが座っていますが、彼らは何のためにここにやってきたのでしょうか?


マハラジ 彼ら自身に出会うためだ。家庭は彼らにとってあまりにも世俗的なのだ。ここでは何も彼らを妨げない。日々の苦悩を去り、彼ら自身の本質に触れる機会を得ることができるからだ。


質問者 気づきの訓練とはどのようなものでしょうか?


マハラジ 訓練の必要はない。気づきはつねにあなたとともにある。あなたが外面に対して与える注意を、内面に向けるだけだ。何も新しく、特別な周囲の気づきが必要なわけではない。


質問者 あなたは個人的に人びとを助けることもあるのでしょうか?


マハラジ  人びとは彼らの問題を討論するためにやってくる。彼らは何らかの救いを引き出しているようだ。


質問者 人びととの会話はいつも公のものでしょうか、それともあなたは個人的に話すこともあるのでしょうか?


マハラジ それは彼らの望みによる。個人的には、私は公的や私的という区別をもっていない。


質問者 あなたにはいつも会えるのでしょうか、それともあなたはほかの仕事をもっているのでしょうか?


マハラジ あなたはいつも私に会うことができる。ただ、朝と夕方がもっとも都合の良い時間だ。


質問者 霊的な師より高い位の仕事はないと私は理解しています。


マハラジ あなたの動機がもっとも重要なのだ。


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