咲き誇る大輪の花 20180802

最近中国についてフィオラは気になることを言っていました。
片翼(かたつばさ)だと。習近平(習の羽が一枚もげた)の独裁を解除するための枠組みができて、翼が片方もげてこれから錐もみ飛行のように墜落していくのか、翼が一枚でも今まで以上に締め付けを厳しくして反対者全員を封殺するのか、あの2015年8月の天津爆発以降で中国に関して言及したのはこれが初めてです。3年で「霊界が推し進めたという中国浄化プロジェクト」が本当に意味を成したのか気がかりです。n


最善の手法は知っていますよね? それは組み立て方を知っていることではなく、あなたが知る限りの最高の存在に対して万全の導管となるよう常に己を磨き捧げる覚悟を奏上することなのです。Fiora


太陽が3日間隠れ、闇に覆われるという予言をどこかで目にしたことがあるのですが、
7月20日のシベリアのニュースを見て、部分的な日食のように「起こりえない現象ではない」のだなと感じました。ギョッとしますし、この規模が3日間からそれ以上になれば与える影響も桁違いになるのでしょうけど。
注目したのは、(外に出ると)何か重いものが胸を抑えているような感覚がしたとの証言でした。n


蓄積が生んだモンスターだよお! みんなそうですね。n


米政権、2000億ドル相当の中国製品への25%関税提案を計画=関係筋


[ワシントン 31日 ロイター] - 関係筋によると、トランプ米政権は2000億ドル相当の中国製品に25%の輸入関税を提案することを計画している。当初発表は10%だった。


計画は早ければ1日に発表する可能性があるという。関税率を倍以上に引き上げる計画はブルームバーグ・ニュースが最初に報じた。


これまでのところ中国政府から反応はみられていない。


トランプ政権は7月10日、2000億ドル相当の中国製品に10%の関税を適用する方針を明らかにし、食品や家具、化学品、鉄鋼、アルミニウムなど数千に上る対象品目リストを公表していた。


同案については一般からの意見を求めるパブリックコメント期間が8月30日まで設けられているものの、関税率の提案を25%に引き上げれば米中の対立が深まる恐れがある。公聴会も同月20─23日に開かれる予定となっている。


関税が発動される場合は通常、パブリックコメントが締め切られてから数週間後に発動される。


米通商代表部(USTR)の報道官は、関税率引き上げ提案や、それに伴うパブリックコメント期間の変更に関してコメントを避けた。


米政府は7月初めに340億ドル相当の中国製品に対し25%の関税を発動し、中国も同規模の関税措置で対抗した。米政府はさらに、追加で160億ドル相当の中国製品に対する関税を数週間以内に発動する準備を進めている。


2000億ドル相当の中国製品に対する関税が発動されれば、消費者への影響が一段と大きくなると見込まれる。


米中ビジネス協議会のシニアバイスプレジデント、エリン・エニス氏は、これらの製品に対する10%の関税でも問題だが、25%になればはるかに問題が深刻になると指摘。「対象となる製品を考慮すると、消費財を含め、中国からの輸入全体の約半分が関税に直面することになる。コストの増加分は消費者に転嫁されるため、大部分の米国人の財布に影響を与えるだろう」と述べた。


ブルームバーグが関係筋の話として報じたところによると、ムニューシン米財務長官と中国の劉鶴副首相の代表は交渉を再開させるために非公式協議を行っている。



日中に太陽が3時間だけ消える異常事態がシベリアで発生、陰謀論も


2018年7月30日 11時44分
GIGAZINE(ギガジン)





by J Lippold


シベリアに位置するロシア連邦の構成主体の一つ、サハ共和国は永久凍土に覆われた極寒の地です。シベリアでは10月から4月にかけての長い冬が終わり夏になると、人々はメガネや顔を凍らせたりしてしまうリスクなしで外出できるようになります。そんな住人にとって貴重な7月の太陽が、「日中なのに3時間ほど見えなくなってしまった」と報じられています。


Sun blanked out in Arctic Siberia


Substance and 'Devilry' Blamed for 3-Hour 'Solar Eclipse' in Russia


サハ共和国は「世界で最も寒い場所」とも呼ばれ、1926年にはマイナス71.2度という北半球での世界最低気温記録を樹立したオイミャコン村があることでも知られています。面積の40%が北極圏に含まれるサハ共和国では、冬には極夜が訪れて日照時間が2時間を割る地域もあるそうですが、7月には1日20時間以上も太陽が出ているとのこと。


共和国の中央部に位置するEveno-Bytantaysky地区とZhigansk地区の住人は、2018年7月20日の午前11時頃から午後2時にかけて、「太陽が消滅した」と訴えています。地元の人々によれば、突如空が赤黒いものに覆われ、太陽が見えなくなってしまったとのこと。地元の人々が撮影した写真には、空気が赤っぽい色に染まっていることが確認できます。





懐中電灯などを持って外に出た住人もいたそうですが、何か重いものが胸を抑えているような感覚にとらわれたとのことで、「外に出続けることは不可能でした」と地元の人々は証言しています。ある住人は突然外が黒いスモッグに覆われ、湖には黒い汚染層が浮かんだと話しました。


共和国の他の地域ではこのような現象は確認されておらず、太陽が隠れてしまう事態は一定の地域にのみ発生した模様。通常、日食の間は気温が下がることが確認されていますが、サハ共和国の人々は常に低い気温で生活しているため、特に気づいたことはなかったとのこと。





太陽が隠れてしまう事態を目の当たりにした住人たちの間では、さまざまなウワサが飛び交っているとも報じられています。ある人物は「アメリカの衛星がこの地域の放射線レベルの上昇と軍隊の出動を確認した」「UFOの仕業だ」「日食だ」などとウワサされており、行政当局には人々からの「あれは何だったのか説明してくれ」という問い合わせが多く寄せられたとのこと。


人々の間では陰謀論もささやかれていますが、新聞では「森林火災による影響かもしれない」と報じられています。夏季になるとシベリアでは頻繁に森林火災が発生し、2018年の5月から数万エーカー(約数百平方キロメートル)もの森林が火災によって焼かれています。火災で発生した煙や飛散物は数千kmも飛んでいくことがあるそうで、サハ共和国を襲った「日食」の正体は火災による煙やチリだった可能性があります。



京都や横浜も原爆投下の有力候補地だった 東京湾や川崎もリストアップされていた
高橋 浩祐 2018/08/01 08:00
© 東洋経済オンライン


今年8月6日で広島市への原爆投下から73年になる。「原爆」を改めて見つめる出発点として、基本的な事実をおさらいしておこう。


戦争の遂行が最優先され、物資統制などで市民生活が極めて苦しくなった戦中の日本。アニメ映画やテレビドラマ化された人気漫画『この世界の片隅に』は、そんな戦時下の広島市と呉市で懸命に生き抜く人々の暮らしを描いている。そして、このヒット作のおかげで、1945年8月の原爆投下にも改めて関心が集まっている。


広島・長崎への原爆投下は今年8月で73周年を迎える。当時生まれたばかりの赤ちゃんも、今では70歳を優に超えているということだ。


被爆者が高齢化するなか、戦争体験を若者に克明に語れる人々も減っている。筆者は7月19、20両日、公益財団法人フォーリン・プレスセンター(FPCJ)のプレスツアーの一員として長崎と広島で取材した。ここで取材した内容をもとに、「原爆」を改めて見つめる出発点として、基本的な事実をおさらいしてみたい。


アメリカ軍は複数の都市をリストアップしていた


アメリカによる広島と長崎への原爆投下は日本のみならず、世界中で広く知られていることだ。


しかし、アメリカ軍の当初の計画では、東京湾や横浜、川崎、名古屋、京都、大阪、神戸、福岡、熊本なども原爆投下目標の研究対象としてリストアップされていたことはあまり知られていない。日本の降伏が長引き、アメリカがさらなる原子爆弾の開発に成功していれば、これらの都市のいくつかも原爆の爆心地になっていたかもしれない。


第2次世界大戦が激しさを増すなか、アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領が、軍と科学者を総動員して原爆製造の「マンハッタン計画」を秘密裏に始動させたのは1942年8月だった。当初はドイツへの核使用を想定していた。


しかし、広島平和記念資料館発行の『図録 ヒロシマを世界に』によれば、1944年9月、ルーズベルト大統領とイギリスのウィンストン・チャーチル首相が会談し、今後とも原爆開発については最高機密とし、爆弾が完成すれば慎重に考慮したうえで、ドイツではなく日本に対して使用することを決めたとされる。


アメリカは約20億ドル(当時)もの巨費を投じ、国の総力を挙げて「マンハッタン計画」を推進、ウラン爆弾1個、プルトニウム爆弾2個の計3個を完成させた。このうち、プルトニウム爆弾は、構造が複雑なために実験を行う必要があり、1945年7月16日にアメリカ南西部ニューメキシコ州アラモゴードの砂漠で核実験を行った。この世界初の原爆実験は成功した。広島への原爆投下のわずか3週間前である。


東京湾など17カ所が原爆投下の研究対象


では、残り2個の原爆を日本のどこに落とすのか。「マンハッタン計画」の責任者、レズリー・グローブス陸軍准将のもと、1945年4月27日に第1回目標検討委員会がワシントンで招集された。そこでは、東京湾、川崎、横浜、名古屋、大阪、神戸、京都、広島、呉、八幡、小倉、下関、山口、熊本、福岡、長崎、佐世保の17カ所が原爆投下の研究対象として選ばれた。


選定基準としては、(1)直径3マイル(約4.8キロ)以上の広さを持つ都市(2)高度な戦略的価値を持つ都市(3)比較的、空爆による被害を免れた都市――などが確認された。


「原爆投下目標の基準になったのは、一定規模以上の大都市。(アメリカは)原爆の破壊力が実証できる都市を選んだ。その中には京都や横浜、名古屋、大阪といった大都市が含まれていた。このうち、すでにその時点で爆撃で破壊された都市を除外していった」


広島平和記念館資料館の志賀賢治館長は7月20日、外国メディアにこう説明した。


東京、横浜、川崎、名古屋、神戸は、太平洋戦争開戦から4カ月後の1942年4月18日、米空母から飛び立つB25爆撃機によって、日本本土初となる空襲を受けている。アメリカによる本土空襲は1944年から本格化しており、1945年3月10日の東京大空襲では絨毯(じゅうたん)爆撃で約10万人が犠牲になった。川崎も同年4月15日に大規模な空襲を受けていた。


1945年5月11日の第2回目標検討委員会では、爆風で効果的に損害を与えられることなどが条件となり、広島、京都、横浜、小倉の4つの目標都市が選ばれた。京都と広島を優先順位の高いAA級目標に、横浜と小倉をそれより優先順位の低いA級目標に分類した。


京都と横浜が実際の原爆投下の数カ月前まで有力な候補地として残っていたのだ。1945年5月には、初めて使用する原爆の効果が正確に測定できるよう、投下目標都市に対する空爆が禁止された。


アメリカが京都を外した理由


その後、京都と横浜が最終的に除外された。アメリカが京都を外した理由としては、1000年間朝廷があり、日本が誇る古都の京都に原爆を落とすと、戦後日本を占領するうえで日本人の協力が得にくいと考えたからだった。原爆開発の責任者だったグローブス少将(1944年に准将から昇進)は京都攻撃にこだわったが、ヘンリー・スティムソン陸軍長官が反対したという。


「京都を攻撃してしまうと、日本人は2度とアメリカ人の言うことを聞かなくなる。そのような戦略的な判断があった」。志賀館長はこう解説する。


1945年7月25日にトルーマン大統領が承認した原爆投下命令書では結局、広島、小倉、長崎、新潟の4都市が最終的な目標となった。


1945年8月6日午前8時15分。原爆搭載機B29エノラ・ゲイから人類史上初めて原子爆弾が広島に投下された。それに先立ち、日本から南へ約2400キロ、北マリアナ諸島のテニアン島から3機の気象観測機が広島、小倉、長崎の上空に天候調査のため、飛行していた。


志賀館長は「当日、広島の上空は晴れ、小倉は曇りだった。長崎も晴れだったが、広島が順位1位だったので、原爆搭載機(=エノラ・ゲイ)はまっしぐらに広島に向かった。それは気象観測機が現れてから1時間後だった」と説明。「気象観測機が飛んで来た時には空襲警報が出ていた。しかし、その数十分後、『もう大丈夫だよ』と空襲解除警報が鳴った直後に、原爆搭載機が飛んで来た」と話した。


志賀館長によると、当時の広島市の居住者は約30万人で、日本全国では7番目に大きな都市だったという。また、原爆投下時には、通勤・通学者や軍人を含め、推計で約35万人がいた。このうち、約14万人が1945年の年末までに亡くなった。


また、原爆投下当日は、13、14歳の子どもたち約八千数百人が、空襲による被害を少なくするために建物を壊して広い防火帯をつくる作業に励んでいた。このうち、6000人以上が即死をしたという。広島平和記念資料館には、こうした少年少女たちの遺品が数多く飾られている。


グローブス少将の著書『Now It Can Be Told: The Story Of The Manhattan Project』によると、天候が許せば、1945年8月3日以降、できるだけ早く原爆を投下することになっていた。1945年8月2日に出された最終的な野戦命令で、攻撃日を8月6日とし、広島が第1目標、小倉が第2目標、長崎が第3目標と指定された。


なぜ広島は第1目標になっていたのか。その理由として、グローブス少将は広島が軍都であり、広島城本丸には約2万5000人を抱える大日本帝国陸軍第5師団の司令部があったこと、広島には本州と九州を結ぶ物流の拠点となる重要港があったこと、広島が空襲の被害を受けていなかったことなどを挙げている。歴史的に、第5師団に所属する部隊は、日清戦争、義和団事件、日露戦争、青島出兵、シベリア出兵、日中戦争に出動するなど、近代戦争に深く関わってきた。


広島には捕虜収容所がなかった


志賀館長はこれらの理由に加え、広島には捕虜収容所がなかった点も挙げている。


広島への原爆投下から3日後の8月9日。原爆「ファットマン」を搭載したB29爆撃機の当初の目標は小倉だったが、視界が悪いために変更し、長崎へ向かった。長崎への原爆投下では約7万4000人が死亡した。


アメリカが原爆投下を正当化する理由として、
①日本を早期降伏に追い込み、アメリカ人の犠牲を少なくする必要があった
②ドイツ降伏から3カ月以内に対日参戦することを米英ソがヤルタ会談で「密約」していたなか、戦後の日本の占領での支配権を得るため、原爆投下でソ連を牽制した
③実戦で原爆の威力を図るため――といった点がしばしば指摘されている。


しかし、原爆投下の正当性に疑問を呈する学者はアメリカでも多い。特に2発目の長崎への投下は、日本がすでに戦争続行能力を失っていたことから不必要だったとの見方が根強い。スタンフォード大学のバートン・バーンスタイン教授(歴史学)が、当時のアメリカ政府の判断に批判的な見解をとる学者の代表格だ。


筆者が2002年から2003年にかけて留学した米コロンビア大学の国際公共政策大学院(SIPA)の国際関係の授業でも、アメリカによる原爆投下が議論になったが、当時でも、アメリカ人の学生の半数ほどが「長崎への原爆が不必要だった」との認識を抱いていた。使用していたテキストでも「長崎の原爆投下をめぐっては議論がある」と紹介されていた。


原爆はなぜ投下されたのか。人や建物、環境に莫大な被害をもたらし、主戦派が居残る日本軍指導部らに心理的なショックを与え、降伏を早めさせる目的も確かにあっただろう。しかし、ウラン爆弾(広島型)とプルトニウム爆弾(長崎型)の投下は、ともに原爆の威力をあらゆる面ではかる大規模な実験だった可能性が否定できない。


また、日本はなぜ原爆2発を受けるはめになったのか。たとえば、アメリカの原爆の投下命令が下された日の翌日となる1945年7月26日には日本に無条件降伏を要求するポツダム宣言が発表されたが、日本政府はこれを受諾しなかったため原爆投下は確実なものとなった。


世界唯一の被爆国として、北朝鮮をはじめ、世界の非核化を追い求めるのであれば、原爆被害の惨状のみならず、原爆投下に至った原因と責任、回避可能だった策をしっかりと究明し、次世代へと伝えていかなくてはいけないだろう。


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