すべてを許容している潜在的可能性
ある、が否定できないのは
ある(ない)ことに気づいていることが「ある」からです。
あることに気づいているは「ある」ですし、
ないことに気づいているも「ある」です。
気づいているだけで「ある」ということですね。
内容が何であれ気づいている。その正体不明の空間を自由と呼んだりします。
ヒトとして生まれると、「ヒトとして」五感に基づいて気づいているのであって、
それ以上ではない、という固定観念にいつのまにか強固に支配されます。
気づいているのは「肉体」にすぎない。視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚の判断も脳なのだ。
そうとしか思えない。
目、耳、鼻、舌、手、統合する脳を失えばそれぞれの感覚も失われてしまう実験結果もある。
だから肉体が活動を停止したとき、意識も消える(だろう、いやそうに違いない)。
そう考えるほうが理にかなっている、ように思えます。
その理と「ある」のどちらが否定できないでしょうか。理論はひっくり返されるのが常ですが、
いま「ある」ことだけはノーベル賞級の科学者が50人束になっても否定できません。
理論でも理屈でもありません。
だっていま「ある」んだもの!
そして、この「ある」は本人にしかわからないのです。
「君はうまくヒトに化けているが、ロボットだね?」
などと科学者に言われ、腕を解剖してみたらターミネーターみたいな金属の骨格が出てきた。
突然の衝撃に私は誰なの!?と混乱しながらも
「ある」はあります。しかし科学者は信じないでしょう。
「君の自意識はMS-DOSで動いているのだよ」
「君には魂などないのだ」
「実に興味深い」
昨日の続きですが、ただ在ることを説明するときにバーソロミューが苦心していたのが、
「行き方を知っていると思い込まないでください」でした。
「私はそこへの行き方を知っている」というのは「想念」であり「顕現」なんですね。
メカニズムがわかった!と思っている時点で、ありふれた落とし穴にはまっているんです。
立ち去る動きです。
こいさんの居酒屋からのコメントで以前教えていただきましたが、
いま、未知に開かれていることは、ありがたいんです。生きてるってことです。
非顕現というのは、知ることはできません。
在る、だけなんです。(永遠に)ただ、在るだけ。
永遠かどうかも思い出すまで判明しません。判明しても、もう記憶です。
ただ、在るだけ。
だから未知に開いている感じなんです。冒険家なんです。
そして同時に、ピュアなんです。記憶で、他人を決めつけないんです。だから喜びが大きいんです。発見に目が輝くんです。子供みたいなんです。
知っていると思い込むのは、「いまに対しては」閉じている態度だということです。
そのままの意味で、いまなにがあるかは決してわかりません。でも確かなのは、
ただ、ある。ということです。
HN:
Fiora & nobody