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私とは?


私ってみんな言いますよね。
今までの全ての記憶の一筋でもあるし、一人のヒトとしてこの肉体を指す言葉でもあります。
それを言わせるのは自我と呼ばれるもの、エゴと呼ばれるものです。
その正体は記憶をいまこの瞬間に持ち込んだときに発生する断続的な瞬間意識です。


この主張が本当なのか、嘘なのか、可能性は二つしかありません。
私とは記憶です。人格ではありません。


私がいないことに気づいた人というのは、「記憶の持ち込み」の「必要性がない」ことに気づいた人たちです。


気づいているというのは万人に与えられた天与のものです。練習とか努力は要りません。
いまこの時点で、地球上のすべてのヒトが出来ています。持っています。
ただし、「気づいていることに気づいていない」人が圧倒的多数であって、
「気づいていることに気づいている」人は激増していますが、まだまだ少数だと思います。


これがなぜかと言えば、気づいている意識(もし観照視点と呼ぶなら観照視点)はマインドが思考まみれになってると覆い隠されるからです。本当にそれだけです。


そして「この世」には存在しない非顕現の「ある」だからです。
常に、私たちの人生とともに「ある」んですが、私たちがそれに気づいていない場合のみ自我だけがいるように思えるんですね。


ご存知のように自我は不器用で、同一視している自己(肉体と思考と感情)を守るために色々やるんですが、決して幸せではないです。いつも本心から遠回りばかりです。


自我がそういう状況に陥ったのは、私たちが現実認識をある時点で歪めてしまったからです。幼少期の物心がついた時ですね。その時、「観照視点を忘れて」しまいました。


忘れたのであって、なくしたのではありません。
その後20年忘れていても、私たちの青春時代のすべてにも一緒にいましたし、苦節を共にしています。じーっと、自我の狂奔する姿を見ていました。


この観照視点を思い出すだけです。もしよろしければご一緒に。



いま、頭蓋骨のなかを意識してみてください。思考がある方は思考を見て、思考がない方は思考がないことを見ます。


思考の場合は、文字や、音や、イメージが見えると思います。
無思考の場合は、何か静寂のような、少し耳鳴りに近い音が聞こえるでしょうか。


思考は大体すぐに頭蓋骨内を「通過」していきますので
ちょっと時間をおけば頭蓋骨内を無思考(耳鳴りみたいなもの)が占拠すると思います。


この無思考は、ただの耳鳴り、空白ですので今までは無視してきましたよね。
ここでちょっと考えてください。誰が、または何が、その耳鳴りに気づいているのですか?


わからないですよね。現時点では、正体不明の何かです。


それ(気づいている正体不明の何か)は、断続的ですか?継続的ですか?
これは観察を続けないとわかりません。


継続していますので、確認してみてください。どんな時も続いています。


この耳鳴り自体は音程などがもちろん変化しますが、耳鳴りに気づいている正体不明の何かは、「機能し続けて」います。


誰が、何が、気づいているんでしょう?またその気づいている範囲、対象はどこまで広がっているでしょうか?


もう少し細かく書きますと、耳鳴りはどうでもいいんです。
耳鳴りに気づいている何かが「ある」ことを耳鳴りは証明しています。
その「ある何か」はどこにありますか?「ある」んですが、非顕現なんです。
イメージもできません。イメージした瞬間に、それは単なる想念として、あなたの頭蓋骨を通過する新たな思考になるだけです。


耳鳴りに気づいている「それ」は、今起こっているあらゆることに気づいています。
頭蓋骨内の一部だけに気づいているのではなく、それはあなたの半径10mで気づくようなことのすべてに気づいています。あなたの肉体も含みますし、何よりも、「あなたのマインド(思考・感情)のすべて」を含んでいます。


「それ」自体は姿を現しませんし、見えない(イメージもできない)、聞こえない、触れない、嗅げない、味わえないにもかかわらず、「あります」。


なぜ「それ」があることがわかるんでしょう。「耳鳴り」が目の前にあるからです。
耳鳴りが実際ある以上、気づいている「それ」はある。ということです。


しかも、心が動揺しているときや、恐怖を感じているときにもまったく影響されずに、機能しています。


「それ」は見る対象ではありません。見る対象であるのは、「それ」に(その視点を忘れてから)初めて触れる方、意識の焦点を反転させる過程の初期段階でだけです。実際どうやっても見えないからです。


「それ」「から」今この瞬間を見てください。
「それ」「から」あらゆる体験をしてみてください。


これは擬似訓練ではありませんし、無理を要求していません。なぜなら、あなたが「それ」であり「非顕現」に「ある」その「なにか」だからです。気づいている「なにか」なんです。


それから見るようにして、感じてみてください。
あなたは、あなたが誰なのか、今まで誤解をしていた可能性はあると感じますか?



質問者 私のなかで、古い自己から独立した新しい自己が出現したことに気づきました。それらはともかく共存しています。古い自己はその習慣的在り方を続け、新しい自己は古い自己をそのままにさせ、しかもそれ自体はそれと同一化しません。


マハラジ  古い自己と新しい自己の間にある主な違いとは何だろうか?


質問者 古い自己はすべてを定義し、説明したがります。それはものごとが言葉の上で互いにつじつまの合うことを求めています。新しい自己は記憶されたことがらとの関係性を求めず、ものごとをありのままに受け入れ、言葉上の説明を気にかけません。


マハラジ  あなたは習慣的なものと霊的なものの違いに、完全に変わることなく気づいているだろうか?新しい自己と古い自己の態度はどのようなものだろう?


質問者 新しい自己は古い自己をただ見るだけです。それは親しくもなく、敵対もしていません。それはただ古い自己をほかのすべてとともに受け入れるだけです。古い自己の存在を否定しませんが、その価値と効力は受け入れません。


マハラジ  新しい自己とは古い自己の完全な否定だ。許容された新しさは本当の新しさではない。それは古い自己が取った新たな態度にすぎないのだ。真に新しい自己は古い自己を完全に抹殺する。二つが一緒に在ることはできない。そこには自己を露わにする過程、古い概念や価値の受け入れを変わらず否定しつづける過程があるだろうか?あるいはそこには相互の黙認があるだろうか?何がそれらの関係だろうか?


質問者 そこに特定の関係はありません。それらは共存しているのです。


マハラジ  あなたが古い自己と新しい自己を語るとき、誰を思っているのかね?二つの間に記憶の継続性があるということは、互いが相手を覚えているということだ。どうして二つの自己を語ることができようか?


質問者 一方は習慣の奴隷であり、もう一方はそうではありません。一方は観念化し、もう一方はすべての観念から自由です。


マハラジ  なぜ二つの自己なのかね?束縛と自由の間には何の関係性もありえない。共存という事実自体がそれらの基本的な統合を証明している。ひとつの自己だけが存在する。そしてそれはいつも今、在るのだ。新旧はともかく、あなたの言うほかの自己とはひとつの形態、自己の別の相なのだ。自己とは単一のものだ。あなたがその自己なのだ。あなたはこうであった自分と、こうなるだろう自分という観念をもっている。しかし、観念は自己ではない。たった今、私の前に座るあなたはどちらの自己だろうか?新しい自己か?


質問者 二つは衝突しています。


マハラジ  どうして存在するものとしないものの間に衝突がありうるだろう?衝突は古い自己の特質なのだ。新しい自己が現れるとき、古い自己は消え去る。新しい自己と衝突を同時に語ることはできない。新しい自己への努力についてでさえ、古い自己が語っているのだ。衝突、努力、闘い、奮闘、変化への熱望が語られるところに新しい自己はいない。衝突をつくり出し永続させる習慣的傾向から、どの程度あなたは自由なのだろうか?


質問者 私が今、別の人になったとは言えません。しかし、以前私が知っていた状態とは異なる私についての新しいことがらを発見し、それらを新しい自己と呼ぶにふさわしいと感じるのです。


マハラジ  古い自己があなた自身なのだ。原因なく、自我の汚れもなく、突然出現する状態を、「神」と呼ぶがいい。種子もなく、根もなく、芽を出さず、生長せず、花も果実もない、存在のなかに突然栄光に満ちて、神秘的で驚異的に現れる、それを「神」と呼ぶがいい。それはまったく予期できず、しかも必然的なもの、かぎりなく親しく、しかももっとも驚嘆すべきもの、すべての期待を超え、しかも絶対に確実なものだ。なぜなら、それには原因がないため、障害がないからだ。それはひとつの法のみにしたがう。自由の法だ。何であれ、継続性や連鎖を含み、段階から段階へと変化していくものは実在ではありえない。実在に発展というものはない。実在は最終的な、完全なもので、関係性を持たないものだ。


質問者 どうすればそれを成しとげることができるのでしょうか?


マハラジ  それについてできることは何もない。だが、あなたは障害をつくり出すのを避けることができる。あなたのマインドがどのように存在のなかに現れたか、どのように作用するかを見守りなさい。マインドを見守るにつれて、あなたは見守る人としてのあなた自身を発見する。あなたが動じることなく、ただ見守っているとき、あなたは見守る人の背後にある光としてのあなた自身を見いだすだろう。その光の源は暗く、未知のもので、それは知識の源だ。その源のみが存在するのだ。その源に帰りなさい。そしてそこに永続的に在りなさい。それは空にも、すべてに遍在するエーテルのなかにもない。神は偉大で素晴らしきすべてだ。私は無だ。何ももたず、何もできない。だが、すべては私から立ち現れる。その源が私だ。その根底と源泉が私なのだ。実在があなたのなかで爆発するとき、あなたはそれを神の体験と呼ぶかもしれない。あるいは、むしろ神があなたを体験していると言えよう。あなたが自己を知るとき、神があなたを知るのだ。実在はひとつの過程の結果ではない。それは爆発なのだ。それは明らかにマインドを超えたものだ。しかし、あなたにできることは、あなたのマインドをよく知ることだけだ。マインドがあなたを助けるのではない。だが、マインドを知ることで、マインドがあなたを無能にしてしまうのを避けることができる。あなたはとても注意深くならなければならない。さもなければ、マインドはあなたを裏切るだろう。それは泥棒を見守るようなものだ。泥棒から何かを期待しているわけではない。だが、あなたは盗まれたくはない。同じように、マインドに対してあなたは何も期待することなく、多大な注意を払うのだ。別の例をとってみよう。私たちは目覚め、そして眠る。一日の仕事の後に眠りはやってくる。さて、私が眠りに行くのだろうか、それともその特質であるように、眠りが私に侵入するのだろうか?言い換えれば、私たちが目覚めるのは私たちが眠っているからだ。私たちは本当の目覚めの状態に目覚めるのではない。目覚めの状態のなかに、無知によって世界は出現し、人を目覚めた夢の世界に連れだす。眠りも目覚めも、ともに正しい名称ではない。私たちは夢を見ているだけなのだ。真実の目覚め、真実の眠りはジニャーニだけが知っている。私たちは目覚めているという夢を見ている。私たちは眠っているという夢を見ている。三つの状態は、ただの異なった種類の夢の状態だ。すべてを夢として見なすことは、あなたを解放する。夢に現実性を与えるかぎり、あなたはそれらの奴隷だ。ある特定のものとして生まれたと想像することで、あなたは特定のものとして在ることの奴隷になってしまう。あなた自身を過程として、過去と未来、そして物語をもつ者として想像することは奴隷状態の本質なのだ。実際には、私たちに物語はない。私たちは過程ではなく、発展もせず、崩壊もしない。すべてを夢と見て、動じずにいなさい。


質問者 あなたに耳を傾けることで何の得があるのでしょう?


マハラジ  私は、あなたをあなた自身に呼び戻している。私があなたに求めることは、あなた自身を見ることだけだ。あなた自身に向かい、あなた自身のなかへと見入ることだ。


質問者 目的は何なのでしょうか?


マハラジ  あなたは生き、あなたは感じ、あなたは考える。あなたの生きること、感じること、考えることに注意を払うことで、あなたはそれから自由になり、それらを超えていく。あなたの人格は消え去り、観照者だけが残る。それから、あなたは観照者をも超える。どのようにそれが起こるのかを尋ねてはならない。ただ、あなた自身の内面を探りなさい。


質問者 個人と観照者の違いは何によるのでしょうか?


マハラジ  どちらも意識の様式だ。一方で、あなたは欲望し恐れる。他方で、あなたは快楽と苦痛によって影響されず、出来事に動揺しない。あなたはそれらが来ては去るにまかせる。


質問者 どのようにして高次の純粋な観照状態のなかに確立するのでしょうか?


マハラジ  意識はそれ自体では輝かない。それは背後にある光によって輝くのだ。意識の夢のような性質を見た上で、意識がそのなかに現れ、存在を与えるその光を見いだしなさい。そこには意識の内容とその気づきがある。


質問者 私は知っています。そして知っているということを知っています。


マハラジ  二つ目の知識が無条件で永遠のものなら、そのとおりだ。知られるものは忘れてしまいなさい。しかし、あなたが知る者だということは覚えていなさい。いつまでも体験に浸っていてはいけない。あなたはつねに不死不生であり、体験者を超えているということを覚えておきなさい。それを覚えていることで、純粋な知識の質である無条件の気づきの光が出現するだろう。


質問者 人はどの時点で実在を体験するのでしょうか?


マハラジ  体験とは変化するものだ。それは来ては去っていく。実在は出来事ではなく、それを体験することもできない。それは出来事を知覚するようには知覚できないのだ。もし実在が出現するのを待っているなら、あなたは永遠に待たなければならないだろう。なぜなら、実在は来ることも去ることもないからだ。それは期待されることではなく、気づくことだ。予想して準備することではない。だが、熱望そのものと実在の探求が、実在の動き、行為、作用なのだ。あなたにできることは、核心を理解することだ。実在は出来事ではなく、起こることでもない。何であれ起こること、何であれ去来するものは実在ではない。出来事はただ出来事として、一時的なものは一時的なものとして、体験は体験として見なさい。そうすれば、あなたにできることはすべて為し終えたのだ。そのとき、あなたは実在に対して傷つきやすくなっている。出来事や体験に実在性を与えていたときのような、よろいはもはやつけていない。しかし、好きや嫌いといった選り好みが入り込んだとたん、あなたは仕切を下ろしたことになるのだ。


質問者 実在はそれ自身を、知識よりもむしろ行為によって表現するのでしょうか?あるいはそれは感情の類なのでしょうか?


マハラジ  行為も、感情も、思考も実在を表現することはない。実在の表現といったものはない。あなたは二元性のないところに二元性を持ち込んだのだ。実在だけが在る。ほかには何もない。目覚め、夢見、眠りという三つの状態は私ではなく、私はそれらのなかにはいない。私が死ぬとき、世界は「ああ、マハラジが亡くなった!」と言うだろう。しかし私にとって、それらは内容のない言葉であり、無意味なのだ。グルの写真の前で礼拝が行われるとき、あたかもグルが目覚め、沐浴をし、食事をし、休息し、散歩に出かけ、そして戻り、皆に祝福を与え、眠りにつくように、すべては起こる。すべてにおいて、きわめて詳細に注意が払われながら。それにもかかわらず、それらすべてには非現実的な感覚がある。それは私の場合も同様だ。すべては必要にしたがって起こる。しかも、何も起こってはいないのだ。私は必要なことをするように見えるが、同時に何ひとつ必要ではなく、人生自体は架空のものだと知っているのだ。


質問者 それでは、なぜ生きるのですか?なぜこれらすべての不必要な、来ては去り、目覚めては眠り、食べては消化するといったことを続けるのでしょう?


マハラジ  何ひとつ私によっては為されない。すべてはただ起こるのだ。私は期待しないし、計画も立てない。ただ出来事が起こるのを見るだけだ。それらが非現実だと知りながら――。


質問者 真我を実現した最初の瞬間から、あなたはつねにこのようだったのでしょうか?


マハラジ  いつものように三つの状態は交替する。そこには目覚め、眠り、そしてまた目覚めがあるが、私には起こらない。それらはただ起こる。私には何も起こらないのだ。そこには不変不動、難攻不落の岩のように動じない何か、ひと塊の純粋な存在―意識―至福がある。私はつねにそのなかに在る。いかなる苦痛も、いかなる災難も、何も私をそこから引き出すことはできないのだ。


質問者 それでも、あなたは意識しています!


マハラジ  そうとも言えるし、またそうでないとも言える。そこには深く、広大無辺な、揺るぎない平和がある。できごとは記憶のなかに記録されるが、それらには何の重要性もない。私はほとんど気がつかないほどだ。


質問者 もし私があなたを正しく理解したとすると、修練によって培うことではこの状態はやってきません。


マハラジ  やってくるということはない。それはつねにそうだったのだ。発見はあった。そして、それは突然のものだった。誕生とともにあなたが世界を突然発見したように、私は突然、真我の存在を発見したのだ。


質問者 それは雲がかかっていて、あなたのサーダナ(修練)が霧を晴らしたのでしょうか?あなたの状態は永久なものでしょうか、断続的なものでしょうか?


マハラジ  絶対的に揺るぎのないものだ。私が何をするにせよ、それは岩のように不動なのだ。ひとたび実在に目覚めたならば、あなたは実在のなかにとどまる。子供は子宮のなかに戻りはしない!それはシンプルな状態だ。極小よりもさらに小さく、極大よりもさらに大きい。それは自明であるにもかかわらず、描写を超えた彼方に在る。


質問者 それへの道はあるのでしょうか?


マハラジ  もしあなたが関心をもつなら、すべてが道となりうる。ただ私の言葉に頭を悩ませ、その完全な意味をつかみ取ろうと試みることは、壁を打ち破るのに充分有効なサーダナだ。何も私を煩わさない。問題が起こっても私は抵抗しない。それゆえ、それは私のもとにとどまらないのだ。あなたの側には、とても多くの問題がある。私の側にはまったく問題がない。私の側に来なさい。あなたには問題をつくり出す傾向があり、私には免疫がある。何であれ起こることは起こるだろう。必要なのは、誠実な関心を持つことだ。誠実さが要なのだ。


質問者 私にできるでしょうか?


マハラジ  もちろんだ。あなたには彼岸に渡る充分な能力がある。ただ、誠実でありなさい。


この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。
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