星のこと あなたの魂のこと


これは私が以前からこの日記に早く書かなきゃと思っていたのにいつまでも後伸ばしにしてしまって、書きたい気持ちと中途半端に書けないという気持ちが交錯しているので、書いた方がいいと感じる部分だけ先に書きます。


こんな話を以前聞いたことがあります。


5×5の法則
才能5段階評価×努力5段階評価=結果25段階評価
最小1から最大25までの結果が出るという枠組みです。
基本的にどの分野にもこれが適用できるという観念です。


この観念自体はまったく問題ありません。
もう少し現実に沿って書こうとするなら、私はこう書きます。


5×5×5の法則
才能5段階評価×努力5段階評価×自分らしさの肯定5段階評価=結果125段階評価


人は星があることを大抵忘れています。死んだら無になると思っている場合も多いし、生まれる場所や環境を「コントロールできなかった」と信じている人も多いです。


結論から言うと、あなたの星は誰にも負けません。他人に負けることはありません。


兄弟姉妹には真似のできない本質を一人一人が宝石のように輝かせているのが真実です。
どの光の存在も代理はできません。創造の神より与えられた本当のギフトです。
覆い隠されても消えません。銃で撃たれても傷つきません。


自分が嫌い、私には(なんらかの)罪があると固く信じていることは自由です。
ですが、あなたはあなたの星を誤解されているだけです。誰かが吹き込んだ嘘よりも、自分の星を信じることです。どこまでもどこまでも信じるんです。


あなたはわたしよりも下の存在だというフリをする人はいくらでもいます。
今後も出てくるでしょう。
彼らがあなたに抱かせたいのは罪悪感です。そうすればあなたは彼ら(自我の傷の投影)の望むことをするからです。


罪悪感を抱かせようとする者は混乱しているだけです。そして、彼らそのものが愛なんです。
あなたに内側の罪悪感を気づかせようとする真の存在の愛なんです。
どんなに憎しみあってもかまいません。ただしあの世に戻ったら肩を叩いて打ち上げです。
兄弟姉妹は味方なんです。敵ではありません。


あなたの星は無敵です。
あなたが本当のあなたらしくあることを、みんな待っているんです。


光のオーケストラは、あなたのすべてを愛しています。


あなたの魂の個性を何より大切にしていただきたいというのがフィオラと私の祈りです。



あなたがたはすでに現れた可能性のみ現実と呼びますが、
花の蕾に内在する可能性はたったいまあるのです。
この潜在的可能性の中心で「実際に」憩うことを自由と表現するのです。
まずそこに辿りつかなければなりません。
分離を見ているかぎりどこにも行き着きません。
起きていながらどこにも分離を見ないことが瞑想です。



マハラジ  あなたがあなたを含むすべての証明なのだということを、まず悟るべきだ。あなたの存在を証明できるものは何もないのだ。なぜなら、他者の存在もあなたによって確認されなければならないからだ。あなたは完全に、あなた自身によって在るのだということを覚えておきなさい。あなたはどこからも来なかったし、どこへも行かない。あなたは時間を超えた存在、そして気づきなのだ。


質問者 私たちの基本的な違いは、あなたは真実を知り、私が知っているのは私のマインドの作用だけだということです。それゆえ、あなたの言うことと私の聞くことにはであいがないのです。言葉は同じでも、あなたが言うことは真実であり、私の理解することは偽りです。この私たちの間の隙間をどうやって埋めればよいのでしょうか?


マハラジ  これがあなた自身であるという考えを放棄しなさい。そうすれば隙間はなくなるだろう。自分自身を分離していると考えることで、あなたは隙間をつくり出したのだ。隙間を埋める必要はない。ただ、隙間をつくらないことだ。すべてはあなたであり、あなたのものなのだ。そこにはほかに誰もいない。これが事実なのだ。


質問者 何と奇妙な!同じ言葉自体が、あなたにとっては真実であり、私にとっては偽りなのです。「そこには他に誰もいない」、何と明かな嘘でしょう!


マハラジ  嘘でも真実でもかまわない。言葉は重要ではないのだ。問題はあなた自身についてあなたが持っている考えなのだ。なぜなら、それがあなたを妨げているからだ。それを捨て去りなさい。


質問者 幼年時代から、私は名前と形に限定されていると考えるように教えられてきたのです。単なる反対の表明だけで、精神的な轍(わだち)を消し去ることはできません。定期的な洗脳が必要でしょう。もし可能であるならば。


マハラジ  あなたは洗脳と呼び、私は轍を平らにするためのヨーガと呼ぶ。何度も同じ思考を思いめぐらすように強いられてはならない。進みなさい。


質問者 言うは易く行うは難しです。


マハラジ  子どもみたいなことを言ってはならない。苦しむより変えることのほうが易しいのだ。幼稚さから脱却しなさい。それだけだ。


質問者 そういったことは為されることではなく、起こることです。それらは起こるのです。


マハラジ  すべてはつねに起こっている。だが、あなたはそれに用意ができていなければならない。用意のできていることが成熟なのだ。あなたが真理を見ないのは、マインドに用意ができていないからだ。


質問者 もし実在が私の本性ならば、どうして用意ができていないということがありうるのでしょうか?


マハラジ  用意ができていないのは、恐れているからだ。あなたはあなたが何であるかを恐れている。全体性があなたの目的地だ。だが、あなたは自己のアイデンティティを失うのが怖い。これが幼稚さだ。あなたは欲望と恐れ、意見と観念というおもちゃにしがみついているのだ。すべてをあきらめ、真実がそれ自身を主張できるよう用意をしなさい。この自己主張は、「私は在る」という言葉にもっともよく表されている。それ以外何も存在をもってはいないのだ。これに関しては、あなたは絶対の確信をもてるはずだ。


質問者 もちろん、「私は在る」であり、また「私は知る」でもあります。そして、私は誰それであるということを知っており、身体の所有者であり、他の所有者との多様な関係のなかにいるということを知っています。


マハラジ  それはすべて、今のなかに持ちこまれた記憶なのだ。


質問者 私が確信できるのは、今あることだけです。過去と未来、記憶と想像、これらは精神的状態です。しかし、それらが私が知るすべてであって、それらは今在るのです。あなたはそれらを放棄するように言いますが、いったいどうやって今を放棄できるのでしょうか?


マハラジ  あなたはいやおうなく、つねに未来のなかに進んでいるのだ。


質問者 私は今から今へと進んでいるのです。私はまったく動いてなどいません。他のすべては動いても、私は動きません。


マハラジ  認めよう。だが、あなたのマインドが動いている。現在のなかで、あなたは動であり不動でもある。あなたはあなた自身を動と見て、不動を見落としたのだ。マインドを裏表にひっくり返しなさい。動を無視しなさい。そうすれば、あなたはあなた自身を常在で不変の実在、言語を絶する、しかし岩のように確固たるものとして見いだすだろう。


質問者 もしそれが今なら、なぜ私は気づかないのでしょうか?


マハラジ  あなたがそれに気づかないという考えに固執しているからだ。その考えを捨て去りなさい。


質問者 それは私を気づかせてはくれません。


マハラジ  待ちなさい。あなたは同時に壁の両側にいることを望んでいる。それはできる。だが、壁を取り去らなければならないのだ。あるいは壁とその両側はひとつの単一の空間であり、そこに「ここ」と「そこ」という観念は適応しないということを自覚しなさい。


質問者 比喩は何も証明しません。私の不満はひとつ、なぜ私はあなたの見ていることを見ないのでしょう、なぜあなたの言葉は私のなかで真実として響かないのでしょうか?ということです。これくらいは教えてください。ほかのすべては待てます。あなたは賢く、私は愚かです。あなたは見て、私は見ません。どこに私は智慧を見いだせばよいのでしょうか?


マハラジ  もしあなたが愚かだということを知っているならば、あなたはまったく愚かではないのだ。


質問者 自分が病気だと知ることがそれを癒さないように、自分を愚かだと知ることは私を賢明にはしません。


マハラジ  あなたが病気だと知ることが、健康になることのはじまりではないかね?


質問者 いいえ、違うのです。比べればわかります。仮に、私が生来盲目であって、あなたは物に触れることなしにそれを知ると私にいいます。私は触れなければなりません。私は見るということの意味を知らずに、自分が盲目であることに気づくのです。同様にあなたが主張することを私が理解できないとき、私には何かが欠けているということを知るのです。あなたは私について本当に素晴らしいことを語ります。あなたによれば、私は永遠で、遍在し、全知の、至上の幸福であり、存在するすべての創造者、維持者、破壊者、すべての生命の源、存在の本質、神、そしてあらゆる創造物にとっての最愛の者だということです。あなたは私を究極の実在、すべての存在のゴールとその源と同等だと言います。私はただ無視するだけです。なぜなら、私自身は欲望と恐れの小さな包み、苦しみの泡、暗黒の海中の、意識の一瞬のひらめきだと知っているからです。


マハラジ  苦痛以前にあなたは存在し、苦痛が去った後もあなたは残る。はかないのは苦痛であり、あなたではない。


質問者 すみません。しかし、私にはあなたの見るものが見えないのです。生まれた日から、死ぬ日まで、苦痛と快楽は人生の模様を織り込んでいくでしょう。誕生以前と死後の存在について私は何もわかりません。私はあなたを容認も否定もしません。あなたの言われることは聞きます。ただ私はそれを知らないのです。


マハラジ  今、あなたは意識がある。そうではないかね?


質問者 どうか、以前と以後については聞かないでください。私は今のことだけを知っているのです。


マハラジ  それで充分だ。あなたは意識している。それをつかみなさい。あなたが意識していない状態がある。無意識の存在と呼ぶものだ。


質問者 無意識ですか?


マハラジ  意識と無意識はここではあてはまらない。存在は意識のなかにある。本質は意識に依存しない。


質問者 それは虚空でしょうか?沈黙でしょうか?


マハラジ  なぜ言葉巧みになるのかね?存在は意識に浸透し、そして超越する。客観意識は純粋な意識の一部分であり、それを超えることはないのだ。


質問者 意識でも無意識でもない純粋な存在状態を、どのようにして知るに至ったのですか?すべての知識は意識のなかにのみ存在するのです。マインドの停止といった状態はあるかもしれません。そのとき意識は観照者として現れるのでしょうか?


マハラジ  観照者だけが出来事を記録する。マインドの停止状態では、「私は在る」という感覚さえも消え去る。マインドなしに「私は在る」はないのだ。


質問者 マインドがないということは思考がないということです。思考としての「私は在る」は静まり、存在の感覚である「私は在る」は残ります。


マハラジ  マインドとともにすべての体験は静まる。マインドなしには体験者も体験もありえない。


質問者 観照者は残るのでしょうか?


マハラジ  観照者は単に体験の存在と不在を記録するだけだ。それは、それ自体では体験ではないが、「私は観照者だ」という思いが立ち現れたとき、それは体験となる。


質問者 私が知っていることといえば、マインドはときどき作用し、ときどき止まるということです。精神的沈黙の体験を、私はマインドの停止と呼んでいます。


マハラジ  それを沈黙、または虚空、あるいは停止とでも呼ぶがいい。事実は体験者、体験すること、体験の三つが不在だということだ。観照のなか、気づきのなかでは、自意識、あれやこれとしての存在の感覚はない。自己同一化されない存在が残るのだ。


質問者 それは無意識の状態なのでしょうか?


マハラジ  それは何とでも関係している。それは対極のものだ。それはまた、すべての対極の中間であり、その彼方でもある。それは意識でも無意識でもなく、その中間でもその二つを超えたものでもない。それはそれ自体で在り、体験やその不在といった何かとの関係はない。


質問者 なんと奇妙な!あなたはそれが体験であるかのように話をします。


マハラジ  私がそれについて考えたとき、それは体験になるのだ。


質問者 目に見えない光が花に遮られて色となるように、それは体験となるのでしょうか?


マハラジ  そうだ。それは色のなかにあるが、色そのものではない。


質問者 古くからおなじみのナーガールジュナの四重否定です。これでもなく、それでもない、その両方であり、そのどちらでもない。めまいがしそうです!


マハラジ  あなたの困難は、実在を意識の状態と考えることから生じるのだ。あたかも実在が多様な尺度をもった属性か特質かのように、あなたは「これは真実で、あれは真実ではない。そしてこれは部分的に真実で、部分的に偽りだ」と言う傾向がある。


質問者 私ならこう言うでしょう。結局、意識は苦痛をともなったときに問題となるのです。永遠の至福の状態では、質問は起こりません。すべての意識は快楽と苦痛の混合なのです。なぜでしょうか?


マハラジ  すべての意識は限定され、そしてそれゆえ苦痛に満ちているのだ。意識の根底には体験への衝動という欲望が横たわっている。


質問者 つまり、欲望なしに意識はないということなのでしょうか?では、無意識であることにどのような利点があるのでしょう?もし私が苦痛からの自由のために快楽を差し控えなければならないとしたら、私ならどちらも取っておくでしょう。


マハラジ  苦痛と快楽の彼方に至福があるのだ。


質問者 無意識の至福に何の価値があるのでしょうか?


マハラジ  意識でも無意識でもない、実在だ。


質問者 意識へのあなたの反対理由は何でしょうか?


マハラジ  それは重荷なのだ。身体とは重荷だ。感覚、欲望、思考、これらはみな重荷なのだ。すべての意識は葛藤だ。


質問者 実在は真の存在、純粋な意識、無限の至福と描写されています。それが苦痛とどう関わってくるのでしょうか?


マハラジ  苦痛と快楽は起こる。だが、苦痛は快楽の値段であり、快楽は苦痛の報酬なのだ。人生のなかでも、しばしばあなたは傷つけることで喜び、喜ばすことによって傷ついている。苦痛と快楽がひとつだと知ることが平和なのだ。


質問者 これらはみな疑いなく、たいへん興味深い話です。しかし私のゴールはもっとシンプルなものです。私は人生において、より多くの快楽とより少ない苦痛が欲しいのです。どうすればいいのでしょうか?


マハラジ  意識がそこにあるかぎり、苦痛と快楽は避けられない。対極のものと自己同一化することが、意識の、「私は在る」の本性なのだ。


質問者 これらすべてが私にとって何だというのでしょうか?それは私を満足させてはくれません。


マハラジ  あなたは誰だろうか?誰が不満なのだろうか?


質問者 私は苦痛と快楽の人間です。


マハラジ  苦痛と快楽はともにアーナンダ(至福)だ。私は今、こうしてあなたの前に座り、直接の不変の体験から話している。苦痛と快楽は、至福の海の波の頂きと谷間だ。その底深くには完全な充足があるのだ。


質問者 あなたの体験は本当に不断のものでしょうか?


マハラジ  それは時を超えた、不変のものだ。


質問者 私の知っているのは欲望と苦痛への恐れだけなのです。


マハラジ  それはあなたが自分自身についてそう考えるだけだ。やめなさい。あなたが習慣をただちに打ち破れないなら、あなたが慣れ親しんできた考え方に注目し、その偽りを見破りなさい。習慣を問いただすことはマインドの義務だ。マインドがつくり出したことは、マインドが破壊しなければならない。あるいはマインドの外側に欲望はないと認識しなさい。そして外側にとどまりなさい。


質問者 正直なところ、私にはすべてがマインドによってつくられたという説明が信頼できません。目が手段であるように、マインドもまた手段にすぎません。あなたには知覚されたものが創造されたものだと言えますか?私は窓のなかにではなく、窓を通して世界を見ます。私たちに共通の基盤があるために、あなたの言うことはすべて筋が通って聞こえますが、あなたの基盤が実在のなかにあるのか、マインドのなかにだけあるのか私にはわかりません。ただマインドに映るものとしてとらえることはできます。それがあたにとってどんな意味をもつのか私にはわかりません。


マハラジ  あなたがマインドのなかに立場を置くかぎり、あなたは私をマインドのなかに見るだろう。


質問者 言葉は理解するために何と不適切なのでしょう!


マハラジ  言葉なしでは、理解する何がそこにあるというのだろうか?理解する必要は誤解から起こるのだ。私の言うことは真実でも、あなたにとっては、それはただの理論となってしまう。どうすれば、あなたはそれが真実だと知るようになるだろうか?聞きなさい、覚え、熟考し、視覚化し、体験しなさい。あなたの日々の生活においてそれを生かしなさい。私に対して忍耐強くありなさい。特に自分自身に対して忍耐強くありなさい。なぜなら、あなたがあなたのただひとつの障害だからだ。道はあなたを通ってあなたを超えていく。特定のものだけを真実、意識、そして幸福だと信じているかぎり、そして非二元性の実在を何か想像上の抽象的理念として拒否するかぎり、あなたは私が観念と抽象的理念を与えていると見なすだろう。しかし、ひとたびあなたが自己の存在の真実に触れたなら、私が言い表してきたことが、あなたにとってもっとも身近で、もっとも親愛なるものだということがわかるだろう。



この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。
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