自分の幸不幸はただ一つのことにかかっている、つまり、自分が神の一部であると感じられるかどうか。


健康問題、人間関係、仕事、経済事情ありとあらゆる現在の状況は、わたしたちにある選択を起こさせるためです。それは


「いまこの瞬間に、分離を見るか、ひとつであるか」


後者を選ばせることです。



お酒、かまくら、コタツ。共通する目的は?
「暖をとる」です。その動機は?
「寒いから」です。
あなたがたが「ここ」を離れて「どこか」へ行こうとするのは、
「ここは寒い」と感じているからです。
なぜだろう?ではありません。
あなたが炎を求めているのは、
「ここは寒い」と感じているからです。
あなたが炎であり、雪なのです。
ここは寒い。
ここは寒い。
それが事実か「どこか」へ行く前に確かめてください。



質問者 一千年前に、ある人が生き、そして死にました。彼のアイデンティティは新しい身体のなかにふたたび現れました。なぜ彼は前世を覚えていないのでしょうか?そして覚えているとすれば、記憶が意識のなかに運びこまれたのでしょうか?


マハラジ  同じ人が新しい身体に現れたと、どうして知ることができるのだろうか?新しい身体は、そのまま、まったく新しい人を意味するかもしれないのだ。


質問者 ギー(インドの精錬されたバター)がポットに入っていると想像してください。ポットが壊れたとき、ギーは残り、新しいポットに移すことができます。古いポットはそれ自体の匂いを、新しいポットもそれ自体の匂いをもっています。ギーは匂いをポットからポットへと運ぶでしょう。同じように、個人のアイデンティティも身体から身体へと移行されていくのです。


マハラジ  それはそのとおりだ。身体があるとき、その特質は個人に影響する。身体なしでは、私たちは「私は在る」という感覚のなかに純粋なアイデンティティをもつだけだ。だが、新しい身体の中に再誕生したとき、以前体験した世界はどこにあるのだろうか?


質問者 それぞれの身体は、それ自体の世界を体験します。


マハラジ  新しい身体のなかで、古い身体はただの観念だろうか、それとも、記憶なのだろうか?


質問者 もちろん、ひとつの観念です。体験しなかったことを、どうして脳が覚えていることができるでしょう?


マハラジ  あなたは自分の質問に、自分で答えを出したのだ。なぜ観念をもてあそぶのかね?あなたが確信していることに満足するがいい。そして、あなたが確信をもてるたったひとつのことは、「私は在る」だ。それとともに在りなさい。そしてほかのすべてを拒絶しなさい。これがヨーガだ。


質問者 私が拒絶できるのは言葉の上だけです。私にできることといえば、一定の決まり文句を繰り返すことぐらいです。「これは私ではない。これは私のものではない。私はこれらすべてを超えたものだ」と。


マハラジ  充分だ。はじめは言葉で、それからマインドで、そして感情で、それから行為で。あなたの内なる実在に注意を払いなさい。そうすれば光に行き着くだろう。それはバターをつくるためにクリームをかきまわすようなものだ。正確に、誠実にやりなさい。そうすれば結果はかならずやってくる。


質問者 絶対性がどうして過程の結果でありうるでしょうか?


マハラジ  あなたの言うとおりだ。相対性が絶対の結果をもたらすことはありえない。しかし、クリームを撹拌しないことがバターを分離から防ぐように、相対性は絶対性を妨げることができる。内面が外面を促し、外面は興味と努力によって反応する。その衝動をつくり出すのは実在だ。だが、究極的には内面も外面もない。意識の光が創造者と創造物、体験者と体験、身体とそれに宿るものなのだ。これらすべてを投影する、その力に関心を持ちなさい。そうすれば、あなたの問題は終わりを告げるだろう。


質問者 どれが投影する力なのでしょうか?


マハラジ  それは欲望によって促された想像だ。


質問者 私はこのすべてを知ってはいますが、それに対して無力なのです。


マハラジ  それは結果を望むことから生まれた、あなたのもうひとつの幻想だ。


質問者 目的意識をもった行為の何が間違っているのでしょうか?


マハラジ  それは適さないのだ。これらのことに目的や行為といった問題はない。あなたに必要なのは、聞くこと、覚えること、実行することだ。それは食事をするようなものだ。あなたのすべきことは、噛みつき、噛み砕き、飲みこむことだけだ。消化や吸収のように、それ以外はすべて無意識で自動的なのだ。聞き、覚え、理解しなさい。マインドは役者と舞台の両方だ。すべてはマインドのものだ。そしてあなたはマインドではないのだ。マインドが誕生し、再誕生するのであって、あなたではない。マインドは世界とその素晴らしい多様性のすべてを創造する。良い劇にはあらゆる類の登場人物や舞台設定があるように、あなたも世界をつくり出すのに、あらゆるものごとが少しずつ必要なのだ。


質問者 劇のなかでは誰も苦しみはしません。


マハラジ  彼自身が役と自己同一化しないかぎり苦しむことはない。あなた自身を世界と同一化してはならない。そうすれば、苦しむこともないだろう。


質問者 ほかの者たちが苦しむでしょう。


マハラジ  それならば、あなたの世界を完全なものにするがいい。もしあなたが神を信じるならば、彼とともに働きなさい。信じないならば、神となるがいい。世界を劇として見るか、あるいはもてるすべての力で働きかけるがいい。あるいはその両方でもいい。


質問者 死にゆく人のアイデンティティはどうなるのでしょう?彼が死ぬときそれはどうなるのでしょうか?あなたはそれが別の身体のなかで継続していくということに同意しますか?


マハラジ  それは継続する。しかもなお、しないとも言える。すべてはあなたがどう見るかに関わってくるのだ。アイデンティティとは結局何なのか?記憶のなかでの継続性か?記憶なしにアイデンティティを語ることはできるだろうか?


質問者 ええ。できます。子供は両親のことを知らないかもしれません。しかし遺伝した特質はそこにあるでしょう。


マハラジ  誰がそれと同一化するのだろう?記録し比較する記憶をもった誰かとだ。記憶とはあなたの精神生活の縦糸だということがわからないだろうか?そしてアイデンティティは、単に時間と空間のなかの出来事の、ひとつのパターンでしかないのだ。パターンを変えてみなさい、すると、あなたはその人も変えたということがわかる。


質問者 パターンは意味があり、重大なものです。それにはそれ自体の価値があります。綴れ織りは単に色のついた糸にすぎないと言うことで、あなたがもっとも重要なことを見逃してしまいます。それはその美しさです。あるいは本を紙とインクの汚れとして描写することで、その意味は見失われてしまいます。アイデンティティは私たちを独特の、かけがえのないものにする、個性の基盤であるために価値をもつのです。「私は在る」はそのユニークさの直感なのです。


マハラジ  そうであるとも、ないとも言える。アイデンティティ、個性、ユニークさ、それらはマインドのもっとも価値のある側面だ。だがマインドにおいてだけだ。「私は存在するすべてだ」という体験もまた、同等に正当なものだ。特定性と普遍性は不可分だからだ。それらは名づけることのできないものの、内面と外面から見た二つの相なのだ。不運にも言葉は、言及できてもその意味を伝えない。言葉の彼方に目を向けなさい。


質問者 死において、死ぬものは何でしょうか?


マハラジ  「私は身体だ」という観念が死ぬのだ。観照者が死ぬことはない。


質問者 ジャイナ教徒は観照者の多様性と、その永遠の分離を示しています。


マハラジ  それは、ある偉大な人びとによる体験をもとにした彼らの伝統なのだ。ひとりの観照者が無数の身体のなかに「私は在る」として反映される。いかに捕らえがたい微妙なものでも、身体が存在するかぎり、「私は在る」は多数として現れるのだ。身体を超えれば、そこにはひとりしかいない。


質問者 神でしょうか?


マハラジ  創造者とは、世界をその身体としている人だ。名前を超えたそれは、すべての神をも超えているのだ。


質問者 ラマナ・マハルシは死にました。それは彼にとって、どのような違いをもたらしたのでしょうか?


マハラジ  何の違いもない。彼は絶対の実在だった。今でもそうだ。


質問者 しかし、通常の人びとにとって死は違いをもたらします。


マハラジ  死以前に、これが彼自身だと考えていたことが、死後に続いていく。彼の自己イメージは生き残るのだ。


質問者 先日、ジニャーニによって使われる瞑想用の動物の毛皮の話がありました。私には納得できませんでした。慣習と伝統によって、すべてを正当化することはたやすいことです。慣習は残酷かもしれず、伝統は堕落しているかもしれません。それらは説明にはなっても理由として成り立っていませんでした。


マハラジ  私はけっして真我の実現の後に無法が続くと言ったわけではない。解脱した人は、極端なほど法のもとに生きている。しかし彼の法は真我の法であり、社会の法ではない。彼は社会の法を環境と必要性にしたがって守り、あるいは破る。だが、彼はけっして気まぐれでも無秩序でもない。


質問者 私が受け入れがたかったことは、慣習と習慣による正当化です。


マハラジ  私たちの観点の違いが困難を招いたのだ。あなたは「身体―精神」の観点から話し、私は観照から話している。違いは根本的なものだ。


質問者 それでも残酷さは残酷さです。


マハラジ  誰もあなたに残酷であるよう強要してはいない。


質問者 他者の残酷性を利用することは、代用による残酷性です。


マハラジ  もしあなたが生きていく過程を間近に見るなら、あなたは残酷性をあらゆるところで見ることだろう。なぜなら生命は生命によって食物を供給しているからだ。これが事実なのだ。だが、それがあなたに生きていることの罪悪感を覚えさせることはない。あなたは残酷な人生をはじめたことで、母親にかぎりない苦労を与えている。あなたは人生最後の日まで、この危険と死の世界で食事と住居のために競わなければならず、身体にしがみつき、その必要なもののために闘い、その安全を求めなければならない。動物の視点から見れば殺されることは最悪の死の形態ではない。病死や老衰よりはむしろ願わしいものなのだ。残酷さは事実のなかにではなく、動機のなかにある。殺すことは、殺されたものではなく、殺した人を傷つけるのだ。


質問者 賛成します。ですから、人は猟師や屠殺業の仕事を受け容れてはならないということです。


マハラジ  あなたが受け容れることを誰が望んでいるというのかね?


質問者 あなたが望んでいるのです。


マハラジ  それはあなたの見方だ!なんとあなたは急ぎ足で告訴し、有罪を宣告し、判決を下し、死刑を執行するのだろう。なぜ自分からではなく、私からはじめるのだろうか?


質問者 あなたのような人が模範を示すべきなのです。


マハラジ  私の模範にしたがう用意があなたにあるのかね?私は世界に対して死んでいる。何も欲するものがない、生きることさえも。私のようにありなさい。私のようにしなさい。私はあなたの動機しか目にしてはいないのに、あなたは私の服や食事を見て私を裁いている。もしあなたが身体とマインドだと信じて行為するならば、あなたは自己の存在への多大で残虐な罪を犯したことになるのだ。それと比べれば、ほかのすべての残酷さなどものの数ではない。


質問者 あなたは自分が身体ではないという主張のなかに避難しているのです。それでも、あなたは身体をコントロールし、身体がすることすべての責任を負っています。身体に完全な自治を許すことは愚行であり、狂気の沙汰です!


マハラジ  落ち着きなさい。私もまた肉や毛皮のために動物を殺すことには反対なのだ。だが、私はそれを最重要と見なしてはいない。菜食主義は価値ある大義だが、もっとも緊急なものではない。すべての大義名分は、源に帰り着いた人に仕えたとき、最上のものとなるのだ。


質問者 シュリー・ラマナアシュラムにいたとき、私はバガヴァーンがすべてに遍在し、すべてを知覚し、すべての場所にいるのを感じました。


マハラジ  あなたは必要なだけの信仰をもっていたのだ。彼に本当の信仰をもつ者は、彼をいつどこででも見るだろう。すべてはあなたの信仰にしたがって起こる。そしてあなたの信仰はあなたの欲望によって形づくられるのだ。


質問者 あなたがあなた自身にもつ信仰、それもまた、欲望の形ではないでしょうか?


マハラジ  私が「私は在る」というときは、身体を核とした分離した実体という意味ではない。それは存在の全体性、意識の大洋、宇宙全体という意味だ。私には何ひとつ望むものがない。私が永遠の完成だからだ。


質問者 あなたはほかの人びとの内なる人生に触れることができますか?


マハラジ  私が人びとなのだ。


質問者 本質や実体における同一性、あるいは形態の類似という意味ではなく、実際に他者のマインドやハートのなかに入って、彼らの個人的体験に加わることができるかということです。あなたは私とともに、喜び苦しむことができますか、それとも、あなたは私が感じることを観察と分析から推論するだけでしょうか?


マハラジ  すべての存在は私のなかに在る。しかし、脳の内容を別の脳へと引き入れることは、特別な訓練が必要だ。訓練を通して達成できないことは何もない。


質問者 私はあなたの投影ではありませんし、あなたもまた私の投影ではありません。私はあなたのただの創造物ではなく、私自身の権利によって存在しています。この想像と投影の粗野な哲学は、私に訴えかけてきません。誰が誰のイメージだと言うのでしょうか?あなたが私のイメージなのか、私があなたのイメージなのか、あるいは私は私自身のイメージのなかのイメージなのでしょうか!いいや、何かがどこかで間違っているはずです。


マハラジ  言葉はその空虚な本性をうっかり暴いてしまうものなのだ。真実は表現不可能であり、体験されなければならないものだ。私の知っていることを表す、ふさわしい言葉を見つけだすことはできない。私の言うことは、ばかげて聞こえるかもしれない。だが、言葉が伝えようとしていることは無上の真理なのだ。どんなに私たちが論争しようと、すべてはひとつだ。そしてすべては、私たちが「私は在る」として知っているひとつの源であり、あらゆる欲望のゴールを満たすために為されるのだ。


質問者 欲望の根底にあるのは苦痛です。基本的衝動は苦痛から逃れることです。


マハラジ  苦痛の根源は何だろうか?あなた自身を知らないということだ。欲望の根源は何だろう?あなた自身を探そうとする衝動だ。すべての創造物はそれ自身のために骨を折って働く。そしてそれ自身に戻ってくるまで休息することはないだろう。


質問者 それはいつ戻るのでしょうか?


マハラジ  いつでもあなたが戻りたいときに。


質問者 では、世界は?


マハラジ  あなたとともに連れていけばいい。


質問者 私が完成に達するまで、世界を救うことは待ったほうがよいのでしょうか?


マハラジ  もちろん世界を救うがいい。たいしたことができなくとも、その努力はあなたを成長させるだろう。世界を助けることに、何も間違ったことはない。


質問者 確かに、普通の人で偉大な援助を行った人びとがいました。


マハラジ  世界が助けられるべきときが来たとき、偉大な変化をもたらすための意志と智慧と力が、何人かの人びとに与えられるのだ。



この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。
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