苦しみの特効薬


以前、私はこの世界を地獄のように感じていたと書きました。過去に封じ込めた感情が満杯になっていて、とっても苦しいと感じていました。どこを探しても特効薬は見つからなかったんです。


そしてすごく意外なところに、0円で手に入る手軽な特効薬が私の人生に登場しました。
これインチキ宣伝でもなんでもないですよ。なんだかそれっぽい始まりになってしまいました。


結論から書きますけど「ただある」んです。4文字。


これですね、いま馬鹿馬鹿しいと思った方は誤解されていると思います。


今のありのままの自分を許す、って言われても最初はピンとこないし「行為」だと思ってしまうと空転します。


でも本質はエックハルト・トールの魔法の処方箋だって「ただある」と同じことなんです。フィオラの円舞もそうです。「今無条件に自分を許せる人しか愛は思い出せません」


この特効薬は瞬間的に作用します。1分以内に完全に心の痛みは止まるはずです。薬品じゃないですから副作用もありません。


それは現実逃避!という批判も当たりません。なぜかというと、この視点は、痛みだけ止めたまま体は現実?で活動できるからなんです。見れますし、横断歩道も渡れます。


ですから正直言うと、今とても苦しんでいる方のほうがそれを見つけるのはかなり有利なんだと思います。苦しみがセンサーになるんです。


1、心理的な苦しみを完全停止させられる視点がある。
2、それは選択し続けることができるため、一種の心の安全地帯でもある。
3、さらにさらにお得なことにこれを選び続けるとこの安全地帯を標準の居場所にもできる。


そして向き合う勇気が、感情がセンサーになります。あなたの不快感はなにも間違ってないということです。ただし他人にではなく、自分に向き合うんです。
これがどれだけすごい効力を持っているか、深刻に悩んでいる最中の方は実践するまで気づかないんです。


フィオラは


思考がまったくない状態でもわたしは生きているの?
それを確認しようと意図してください。そしてそのまま待ちなさい。
もしそんなわたしが今この瞬間に生きていたら、それがほんとうのわたし。


だそうです。
実際にやらないと意味がわかりません。感覚が変わるのを体感してください。


何か感覚が切り替わったと思うぐらいちょっとフッと楽になる感じが感じられましたか?
意識の反転なんですね。その場所に居座らないと意味がないんです。


いま解釈はありません。いま判断はありません。解釈や判断の「前」の段階なんです。
何かを捨てよう!とか、何かを獲得しよう!とかの「前」なんです。解釈していませんから。


近すぎて気づけないとは、どういう意味だったのか。
新しい思考が生まれるのは癖であって、真我ではないんです。


真我はいまいます。いま決してみつかりません。いまあるんです。意味が伝わってきますか?


あなたの「なにかする」前の中心。いまの「起点」なんです。
バーソロミューの表現なら


欲望を抱くことと執着を捨てることは同じことの表と裏にすぎません。あなたが本当に求めているのは、欲望を抱くことも執着を捨てることも両方とも存在する意識状態です。普通、欲望は何かに向かう気持ちを指し、執着を捨てるのは何かから離れる気持ちを指します。ここで必要なのは、その両方を含みながら、どちらの方向性も含まない言葉、強いて言えば、あらゆるものを完全に受け入れるという意味の言葉です。執着を捨てるというのは、ほとんどの人にとって、エネルギーを失い、興味あることから身を引き、無関心になることを意味します。けれども実際は、真に執着を捨てた人は完全にその瞬間に意識があって、すべてにいつでも関心を向けることができます。


受容するとかしないとか。抵抗するとかしないとか。
これらは「なにかする」論議で「後」の話なんです。
バーソロミューも「強いて言えば」という表現を用いています。


苦しみをいますぐ止めたい方、どうか起点にもう特効薬があることに気づいてください。
あなたは特効薬を持ってるんです。買う必要なんかありません。あなたがそれです。
苦しむ必要などないんです。


いまこれを読んでくださっている一人一人の星(魂)は、本来自我の信じているようなそんなものじゃないんです。


わたしたちに共通の内なる起点をまず思い出してください。


ただある、のみ。常にある、ことを思い出してください。


わざとなぞなぞしてるんじゃないんです。言葉で描写ができないんです。
言葉でできるのは指すことだけです。


いますぐ確認(体感)できます。いまあるものですが、
いま(対象として)見つかるようなことはありません。どんな画期的なアイデアも違います。


知ることは決してできません。あること、だけができます。
ですから気づくのに滅茶苦茶苦労するんです。


気づいた!というのも誤解です。気づいた!という想念なんです。
これは、かなり痛い落とし穴なんです。いつでもこれに落ちる可能性はあるんです。
だからこそ、ただある。


ただある、ことは何でもアリでもいいじゃない。だってそれしかないし。なんですね。
意見が違っていいじゃない。だって変わらないし。ということです。
間違ったことなど、ないんです。あなたもわたしも大丈夫です。震えている自分を愛していることを思い出してください。あなたは一人ぼっちじゃありません。



土台はなにか。
他にあるという観念を除きなさい。他にはありません。


わたしは心中(しんちゅう)の皇(すめらぎ)と言ったのです。
誰の心中ですか。
生命の樹です。それは相です。
その中にあらゆる概念の空白地帯を見出しなさい。



あ、忘れてた。去年の6月でしたねたしか。真鍮の皇(一文字モードだと思ったので真鍮を忘れ去りました)と言われたのが皇の最初でした。そのとき世界樹のことも同時にイメージで通達されてました。世界樹、生命の樹。わたしたち全体が一本の大きな木なのだということだとは思います。フィオラはやはり虚空と皇を比喩に混ぜてきます。昨日の茜色がなぜかというのは太陽おそらく球体の源を示し、今日は同じ皇を生命の樹と。ビッグバンの光点「球」の爆発後の分化を「樹」と呼んでいるのかもとは思います。時間概念は地球上からの観測ですから、球と樹は同時にいま存在している「はず」です。そして「他にあるはず」とか言ったらまたお叱りをしばらく受けることになりそうですので気をつけます。意味不明なことは意味不明としていまここにあります。マインドのなかに。



質問者 あなたのもとを訪れる西洋人たちは、しばしば奇妙な困難に直面します。解脱した人、賢者、真我の実現者、神の体験者、世界を超越した人という概念自体が、彼らにとっては未知のものなのです。彼らのキリスト教文化のなかにある聖者の概念はみな、信心深く、法を固く守り、神を恐れ、仲間を愛し、祈りに満ち、法悦に浸る傾向があり、いくらかの奇跡が確認される、といったものです。ジニャーニ(真我の実現者)という概念そのものが、西洋文化にとっては何か風変わりで信じがたい、異質なものなのです。彼の存在が受け容れられたときでさえ、奇妙な姿勢と精神的態度から自発的に引き起こされた多幸症(ユーフォリア)の実例のように、彼は疑いの目で見られます。意識の新しい次元という概念自体が、彼らには信じがたい、ありそうもないものなのです。真我の実現の体験、その原因、はじまり、進展、そして達成、また日常での実際の修練に関して、ジニャーニ自身から話を聞く機会をもつことは、彼らにとって助けになるでしょう。彼の語ることの大半は奇妙に、または無意味にさえ映るかもしれませんが、それでも実在の感覚、実際の体験の雰囲気、言葉では言い表せない、しかしとてもリアルな、送られるべき模範的人生の核となるものが残るでしょう。


マハラジ  体験は伝達不可能かもしれない。人は体験を伝えられるだろうか?


質問者 はい。もしその人が芸術家ならば。芸術の本質は感情と体験の伝達です。


マハラジ  伝達を受け取るには、あなたは受動的でなければならない。


質問者 もちろんです。そこには受け取る人がいなければなりません。しかし、もし伝達者が伝達しなければ、受信者がいったい何の役に立つというのでしょうか?


マハラジ  ジニャーニはすべての人のものだ。彼は誰であろうと彼のもとにやってくる人たちに、たえず完全に彼自身を与える。もし与える人でなかったら、彼はジニャーニではない。何であれもっているものを、彼は分かちあうのだ。


質問者 しかし、彼は彼で在るものを分け与えられますか?


マハラジ  つまり、彼はほかの者たちをジニャーニにできるかということだろうか?そうだとも、そうでないとも言えよう。ジニャーニはつくり出されるものではないからだ。彼らが真の本性に、彼らの源に帰り着いたとき、彼ら自身で実現するのだ。私はあなたをすでにあなたであるものに作り変えることはできない。私にできるのは、私の旅してきた道へとあなたを招待することだけだ。


質問者 それは私の質問の答になっていません。私は高次の意識の可能性自体を否定する、批判的で懐疑的な西洋人たちのことが頭にあったのです。近年、麻薬が彼らの物質主義的見解に影響をあたえることなく、彼らの不信仰の突破口を作りました。麻薬があろうとなかろうと、身体は主要な事実として残り、マインドは二次的なままです。マインドを超えたところに、彼らは何も見ないのです。仏陀以外、真我の実現の状態は「あれではなく、これでもない」という否定的言語で記述されてきました。それは避けられないものなのでしょうか?記述できないのなら実例で示せないのでしょうか?記述された状態が言葉を超えるとき、どんな言語による記述も及ばないことは、私も認めます。しかし、それは言葉のなかにもあります。詩は表現不可能なものを言葉に置き換える技です。


マハラジ  宗教詩人ならいくらでもいる。あなたの望みがかなうように、彼らに援助を求めるがいい。私に関して言えば、私の教えは単純だ。信頼し、私の言うようにしてみなさい。もしあなたがたゆまずそれを続けるならば、あなたの信頼は報われたと知るときが来るだろう。


質問者 興味はもっても信頼できない人たちはどうすればいいのでしょう?


マハラジ  もし彼らが私とともにとどまるならば、私を信頼するようになるだろう。ひとたび彼らが信頼すれば、私のアドバイスにしたがい、彼ら自身で発見するだろう。


質問者 私が今尋ねていることは、訓練ではなく結果です。あなたはその両方をもっています。あなたは訓練に関してはすべてを語る用意がありますが、結果に関しては分かちあうことを拒みます。あなたの状態は言葉を超えていると伝えるか、私たちが違いを見るとき、あなたは、違いはなにもないと言うだけです。どちらの場合も、私たちはあなたの状態への洞察を得ることなく取り残されるのです。


マハラジ  あなた自身の状態への洞察もないのに、どうして私の状態への洞察を得ることができるだろう?洞察の手段自体が欠けているとき、まずそれを見いだすことが重要ではないだろうか?それは盲目の人が視力を回復する前に、絵を描くことを学びたがるようなものだ。あなたは私の状態を知りたがる。だが、あなたの妻や召使の状態を知っているのかね?


質問者 私は何かヒントがもらえたならと思っただけです。


マハラジ  私はすでに、あなたが違いを見るとき私は見ないという、とても意味深い手がかりを与えた。私にとってはそれで充分だ。もしあなたがそれで充分ではないと思うならば、私はただ繰り返そう。それで充分だ。それについて深く熟考しなさい。そうすれば、私が見ているものをあなたも見るだろう。どうやらあなたは、即座の結果にはつねに長い準備が先行するということを忘れて、即座の洞察を求めているようだ。果実が落ちるのは突然だが、成熟には時間がかかるのだ。にもかかわらず、私を信頼しないさいと私が言うとき、それはただあなたが動き出すのに充分なほどの、わずかな時間だ。あなたが熱心であればあるほど、わずかな信念でこと足りる。なぜなら、すぐにあなたの信頼は正しかったとわかるからだ。あなたは私が信頼に足るかどうか証明してほしいのかね?どうしてそれができよう、そしてなぜ?結局、私が差しだしているのは、西洋の科学において現在主流となっている科学的アプローチなのだ。科学者が実験とその結果を描写するとき、通常あなたは彼の声明を信頼とともに受け容れ、彼の実権を記述通りに繰り返す。ひとたび同じ、あるいは類似した結果を得たら、もはや彼を信頼する必要はない。あなたは自分の経験を信頼するからだ。それに励まされて、あなたは実験を進め、最後には本質的に同じ結果に達するのだ。


質問者 インド人のマインドは文化的にも、教育的にも、抽象的実験をするにふさわしい素養をもっています。インド人にとって「至高の実在の直接的知覚」といった言葉は意味をなし、彼の内奥の存在からの反応を呼び起こすのです。西洋人にとって、そういった言葉は意味をなしません。キリスト教のさまざまな理念と照らしあわせてみても、キリストの戒めや、神の十戒との結びつきを超えて考えることはありません。実在の直接の知識は、願望を超えるどころか思いもつかないことなのです。あるインド人は、「絶望的だ。西洋人には無理だろう。彼らにできはしない。真我の実現については黙っていたほうがいい。有用な人生を送り、インドでの再誕生を待つほうがいい。それならばチャンスはあるだろう」と言いました。ある人は、「真実はすべての人にとって等しくある。しかし、それを把握する能力を皆が等しく付与されているわけではない。能力は願望とともにやってくる。それは帰依に、そして最終的には真我への完全な自己献身へと成長する。正直で誠実に、そして鉄の決意で障害を乗り越えるということにおいては、西洋人は東洋人と等しいチャンスをもっている。彼に必要なのは興味をもつということだけだ」と言っています。自己知識に対する興味を喚起させるには、彼はその有益さについて確信させられることが必要なのです。


マハラジ  あなたは個人的体験を伝達することは可能だと信じるのかね?


質問者 わかりません。あなたは見る者と見られるものの同一、統合について語ります。すべてがひとつであるとき、伝達はありうるでしょう。


マハラジ  ある国を直接体験するには、実際そこへ行き、住んでみなければならない。不可能なことを求めてはならない。霊的成就をおさめた人は、疑いなく人類に利益をもたらすだろう。だが、別の個人に恩寵をもたらすには、親しい個人的な関係が必要だ。そのような関係は偶然では生まれないし、誰もが要求できるものではない。逆に、科学的アプローチは皆に開かれている。「信頼、試み、経験」、これ以上何が必要だろう。求めない者に、どうして真理のお仕着せができよう?どちらにしてもそれは不可能なことだ。受け取る者がいなければ、与える者に何ができるだろうか?


質問者 外的形態を使って内的体験を伝えるのが芸術の本質です。もちろん、外面が意味深くあるには、内面に対して繊細でなければなりません。人はどのようにして感性を育んでいくのでしょうか?


マハラジ  あなたがどのように表現しようと同じことだ。与える者は数多くいるが、どこに受け取る者がいるだろう?


質問者 あなたは自分の感性を分かちあうことができるでしょうか?


マハラジ  それはできるが、分かちあいは相互に行き交う道だ。分かちあうには二人が必要なのだ。私の与えたいことを受け取る用意のある人がいるだろうか?


質問者 私たちはひとつだとあなたは言いました。それで充分ではありませんか?


マハラジ  私はあなたとひとつだ。あなたは私とひとつだろうか?もしそうなら、あなたは質問しなかっただろう。もしそうでないなら、もしあなたが私の見るものを見ないのなら、あなたのものの見方を改善する方法を示す以上の何が私にできるというのだろうか?


質問者 あなたが与えられないものなら、あなた自身のものではないのです。


マハラジ  私は何ひとつ自分のものだと主張していない。「私」がないとき、どこに「私のもの」があろうか?二人の人が樹を見ている。ひとりは木の葉の合間に隠れている果実を見て、もうひとりは見ない。それ以外は、二人の間には何の違いもない。見ている者は、ほんのわずかな注意で、もうひとりも見ることができることを知っている。だが、分かちあうという問題はここでは起こらない。信じてほしい。私はあなたに真実を分かちあうことをためらって、けちになっているのではない。その反対に、私はまったくあなたのものだ。私を食べ、飲みなさい。だが、あなたは「ください、ください」と言葉で繰り返しながら、差しだされたものを受け取ろうともしないのだ。私が見ているものをあなたも見ることができるよう近道を示しているのに、あなたは古い思考、感情、そして行為の習慣にしがみつき、私に非難を浴びせている。自己知識は提供されたり、受け取られたりするような所有物ではない。それは与えたり、受け取ったりできるようなもののない、まったく新しい次元にあるのだ。


質問者 少なくとも、日常生活におけるあなたのマインドの内容に関して、何らかの洞察をもらえませんか?食べ、飲み、話し、眠る――あなたの側ではどのように感じられるのでしょうか?


マハラジ  生活における一般のことは、私もあなたと同じように体験している。違いは私が体験しないことのなかに現れる。私は恐れや欲望、憎しみや怒りを体験しないのだ。私は何も頼まず、何も拒まず、何も蓄えない。これらに関して私は妥協しない。おそらく、これが私たちの間にある際立った違いだろう。私は妥協せず、自己に対して真正だが、あなたは実在を恐れているのだ。


質問者 西洋人の観点からすれば、あなたのやり方には何か不安にさせるものがあるのです。片隅にひとり座って、「私は神だ。神は私だ」と繰り返すことはまったく狂っているように見えます。どうやって西洋人たちに、このような修練が最上の正気へと導くと納得させればよいのでしょうか?


マハラジ  自分を神だと主張する人も、それを疑う他人も、ともに惑わされている。彼らは彼らの夢のなかで話しているのだ。


質問者 もしすべてが夢なら、目覚めとは何なのでしょうか?


マハラジ  真の目覚めの状態を夢の国の言語で表すことができるだろうか?言葉では表現できない。それらはただの象徴なのだ。


質問者 またしても、言葉では実在を伝えることができないという同じ弁解です。


マハラジ  もし言葉が欲しいなら、太古の力をもつ言葉をあなたに授けよう。どれでもいい。絶え間なく繰り返してみるがいい。それらは驚きをもたらすだろう。


質問者 あなたはまじめなのですか?正しい文化的、宗教的背景から生まれた信仰と信念を完全に欠いているにもかかわらず、西洋人に「オーム」や「ラーム」または「ハレ・クリシュナ」を絶え間なく繰り返させるというのでしょうか?熱烈な信心もなしに、機械的に同じ音を繰り返すことで、彼が何を達成するというのでしょう?


マハラジ  いけないかね?衝動と秘められた動機が重要なのであって形式ではない。もし彼が真我を見いだすためにするならば、何であれ彼のすることは間違いなく彼自身へと導くだろう。


質問者 その手段の有効性のために信仰は必要ないのでしょうか?


マハラジ  結果への期待でしかない信仰ならば、まったく必要はない。ここでは行動が大事なのだ。何であれ、あなたが真実のためにすることは、あなたを真実へと連れていくだろう。ただ、正直に、誠実でありなさい。どのような形を取るかは問題ではない。


質問者 それなら、自分の熱望に表現を与える必要はどこにあるのでしょうか?


マハラジ  必要はない。何もしないこともまた良いことなのだ。ただの熱望、思考や行為によって薄められていない、純粋で凝縮された熱望は、あなたをすばやくゴールへと連れていくだろう。本物の動機、それが重要であってやり方ではない。


質問者 信じられません!絶望間際の、退屈で単調な復唱が効果的でありうるのでしょうか?


マハラジ  繰り返しているという事実そのもの、退屈と絶望、そしてまったくの確信の欠如にも関わらず、忍耐と粘り強さをもって闘いつづけていることが、実に決定的なことなのだ。やり方自体が重要なのではない。その背後にある真剣さがもっと重大なのだ。そこには内なる後押しと、外からの引きつける力がなければならない。


質問者 私の質問は典型的な西洋のものです。西洋では、人びとは原因と結果、手段と結果という言語で考えます。特定の言葉と絶対的実在との間にどのような因果関係があるのか、彼らには理解できないでしょう。


マハラジ  まったく何もない。だが、言葉とその意味、行動と動機の間には関連がある。霊的修練は意志の主張と再主張なのだ。あえてそれに挑む人でないかぎり、真理を差しだされても受け取らないだろう。恐れから気の進まないまますることが、唯一の障害なのだ。


質問者 何を恐れるというのでしょうか?


マハラジ  未知なるものだ。存在ではなく、知識ではなく、行為でもない。彼方なるものなのだ。


質問者 つまり、達成への手ほどきは分かちあえても、その結果を分かちあうことはできないということでしょうか?


マハラジ  もちろん、結果を分かちあうことはできる。それこそ私が絶え間なくしていることだ。しかし、私の分かちあいはひとつの沈黙の言語なのだ。聞き方を学び、理解しなさい。


質問者 私には、どうして信念なしにはじめることができるのか、理解できません。


マハラジ  しばらく私とともにいるがいい。あるいは私の言うことに心を捧げなさい。そうすれば確信は現れるだろう。


質問者 誰もがあなたに出会う機会があるわけではありません。


マハラジ  あなた自身に出会いなさい。あなた自身の自己とともに在りなさい。それに耳を傾けなさい。それに従いなさい。それを育み、たえず記憶のなかにとどめておきなさい。あなたにほかの指導は必要ない。あなたの真理への衝動が日々の生活に影響を及ぼしているかぎり、すべてはうまくいくだろう。あなたの生を誰も傷つけることなく生きなさい。無害であることは、ヨーガのもっとも強力な修行形式なのだ。そして、それがあなたをすばやくゴールへと導くだろう。これが、私がニサルガ・ヨーガ、自然のヨーガと呼ぶものだ。それは平和と調和、友情と愛に生きる技だ。その結実が、永遠で原因のない幸福なのだ。


質問者 それでもこれらはみな、いくらかの信仰を必要条件とします。


マハラジ  内面に向かいなさい。そうすれば、あなたは自己を信頼するようになるだろう。そのほかすべてにおいて、確信は体験から来るのだ。


質問者 ある人が私の知らない何かを知っていると告げたとき、私には「私が知らず、あなたが知っていることとは何でしょうか?」と聞く権利があります。


マハラジ  では、もし彼がそれは言葉では伝えられないと言ったならどうするかね?


質問者 私は彼を念入りに観察し、理解しようとします。


マハラジ  それこそまさしく私があなたにしてほしいことなのだ!相互理解の流れが確立するまで興味をもち、注意を注ぎなさい。そうすれば分かちあいはやさしいだろう。あなたはより大きく開かれた意識のなかに入り、そのなかで分かちあうのだ。なかに入っていき、分かちあうことを望まないことが唯一の障害なのだ。私はけっして違いに関して話さない。私にとって違いというものはないからだ。あなたは違いを見る。だから、それを私に見せるのはあなた次第だ。ぜひとも見せてほしいものだ。そのためには、あなたは私を理解しなければならない。だが、そのときには、もはやあなたは違いについて話さないだろう。ひとつのことを理解すれば、あなたは達成したことになる。あなたを知ることから妨げるのは機会の欠如ではなく、理解したいことにマインドの焦点を合わせる能力に欠けるからだ。あなたが知らないことをマインドにとどめることができるならば、それはその秘密をあなたに解き明かすだろう。だが、もしあなたが浅はかで、短気で、見ること、そして待つことに充分誠実でないなら、あなたは月を求めてなく子供と同じなのだ。



この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。
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