3月ですね。まずごめんなさい、宣言していたこいさんの「今この瞬間への旅」の話は2月中にできませんでした。


お詫びに私が言いたかったことをかいつまんで言いますと、


答えは常に「いま」に「いる・留まる」ことであり、(せめて観照視点の理解後に)「いまに所属するもの・既にいまここにあるもの・いま起こりつつあるもの」と「共に(最重要)」レベル4(ただ在る)から体験していることが重要で、そのためには「常にある」を切り札に意識を同一視から外し続けることだと思いますと言いたかったんです。


(なぜ「共に」が重要かと言うとレベル4は非顕現→顕現を体験していることです。同一視の癖を外しながら「留まる」ためには、「物理的な留め金」が強力に作用することを私は軽視しすぎているとフィオラに叱られたからです)


「常にある」は私が知るかぎり最強のマントラの一つだと思っています。


フィオラがいろいろ言うんで、いったんその話は置いて、その日その日書かなきゃと思っていることに絞ります。1ヶ月これを書こうなどと考えると、それが残留思考になってしまってかえって気になります。



クレア(Clair)
昨日、観照視点の有効範囲を肉体の半径10mみたいな書き方をしましたが、実際は違います。有効範囲は無限です。地球の裏側で起きていることも、過去や未来で起きていることも、時間・空間を超越して情報を入手することができます。ひとつだから。虫の知らせ、というのが一般的ですよね。


フィオラのような意識存在(故人を含む)と話すことも、予知や透視能力を扱う者も、すべてこの虚空の中で起きています。観照視点はその入り口の初歩の初歩です。ここから発現するこれらの能力のことをすべてひっくるめて「クレア(Clair)」と言います。
(この語彙自体はドリーン・バーチュー博士の造語ですが、フィオラがクレアを説明するよう求めているため書きます)


クレアは今後観照視点が常識になるにつれて、一般的に用いられるようになり、チャネリングの時代は終わります。なんだか携帯やスマホの普及みたいですよね。ただ、力を理解する上での最低限の理解として、愛が伴わない場合、力はその分制限されるという基本を理解しなくてはなりません。


たとえば覗き見をするような方に透視能力が身につくことはありません。強力な力が発現するのは愛を体現する方だけです。それはなぜでしょうか?


愛とは、分離がないときに感じるものです。事実の世界には分離はありませんから、存在するすべての階層で愛を感じていない人や時間や空間などどこにもありません。


ところが人にとっては、分離という「錯覚」があります。この錯覚が虚空に消えるまでは、愛は思い出すことができません。この世界にヒトとして生まれた目的だと私は思います。どんなヒトも本心ではわかっているんです。


分離を透(とお)し、愛を体現することが生きる意味だと本性からわかっています。
他のことと、愛のどちらを優先するか迷う場合、愛だけ優先すればいいんです。後のことは運命とやらの責任です。愛は人を「自由にさせ」人に「罪悪感を抱かせない」ものです。


観照視点と同じく、「忘れられた」贈り物です。人の本質は愛であり、あり方そのものが愛です。


愛は分離の錯覚が消えるたびに蘇るものです。愛=全体の優先です。クレアの発現も、どこまで分離の錯覚が消えているか、また計画上のその人の役割として、いまその力が必要かが当然考慮されています。



小麦とパンケーキ


マハラジはこう言いました。私は小麦のことはよく知っている。パンやケーキのことはよく知らない。小麦とは虚空のことです。パンケーキとは現れの階層のことですね。


あの世とか、魂とか、転生とか、宇宙人とか、スピリットとか、クレアとか、全部パンケーキです。小麦だけが重要なんだという意見には、私は賛成できません。簡単な話です。なぜ地球にヒトとして生まれたの?ということです。一回一回の人生に目的があるなら、その可能性が一番高いのは「真我実現」でしょうか?


それだと統計的に霊性には「興味を示さない」人口割合が多すぎると思うのです。その人たちはどうしてそういう行動パターンを示すんでしょう。人生にはもっと一人一人オーダーメイドの目的があるようにしか思えません。


生前に人生の計画を立てる場合には、ヒトの理性では及びもつかない叡智を利用できるはずです。わざわざ無駄なことをするでしょうか?


ですから魂の階層の探求も、極めて重要だと思っています。



質問者 賢者の日々のマインドの状態とはどのようなものでしょうか?彼はどのように見、聞き、食べ、飲み、目覚め、働き、そして休むのでしょうか?彼の境地が私たちのものと異なるという証拠は何でしょうか?いわゆる実現したと言われる人びとの証言以外に、客観的に彼らの状態を証明する方法はありません。何か観察可能な違いが彼らの生理学的な、そして神経反応、物質代謝、または脳波、あるいは心身相関の構造のなかにあるのでしょうか?


マハラジ  あなたは違いを見つけるかもしれないし、見つけないかもしれない。すべてはあなたの観察の能力にかかっている。しかしながら客観的な違いがもっとも重要なものではない。問題は彼らの見地と彼らの態度にある。それは超然として、冷静で、完全に無執着で在ることだ。


質問者 ジニャーニの子どもが死んだとき、彼は悲しみを感じるのでしょうか?彼は苦しまないのでしょうか?


マハラジ  彼は苦しむ人たちとともに苦しむ。出来事自体が重要なのではない。だが、生きていようと死んでいようと、身体のなかにいようと外にいようと、彼は苦しむ人たちに対して慈悲に満ちている。やはり、彼の本性は愛と慈悲なのだ。彼はすべての生命とひとつであり、行為のなかでひとつであることが愛なのだ。


質問者 人びとは死をとても恐れています。


マハラジ  ジニャーニに恐れるものは何もない。だが彼は恐れている人を哀れむ。つまるところ、生まれること、生きること、そして死ぬことは自然なことだ。恐れることは自然ではない。もちろん起きていることに注意は払われる。


質問者 あなたが病気だと想像してください。医師が、あなたの病状は深刻なもので、あと二、三日しかもたないだろうと言ったとします。あなたの最初の反応は何でしょうか?


マハラジ  無反応だ。線香の火に燃えつきるときがくることが自然なように、身体が死ぬのは自然なことだ。それはまったく重要な問題ではない。重要なことは、私は身体でもマインドでもないということだ。私は在る。


質問者 あなたの家族は絶望するでしょう。彼らに何と伝えるのでしょうか?


マハラジ  よく言われることだ。恐れてはならない。人生は続いていく。神があなたたちを守るだろう。私たちはすぐにまた一緒になるだろう、といったことだ。だが、私にとってこの動揺全体は無意味なものだ。なぜなら、私は生きるとか死ぬといった想像をする実体ではないからだ。私はけっして生まれなかった。私に死ぬことはできないのだ。私には覚えることも忘れることもない。


質問者 死者への祈りはどうなるのですか?


マハラジ  もちろん、死者への祈りを捧げるがいい。それはとても彼らの意にかなうだろう。彼らは嬉しく思う。ジニャーニはあなたがたの祈りを必要としていない。彼自身があなた方の祈りへの応えなのだ。


質問者 死の後、ジニャーニはどのように旅立っていくのでしょう?


マハラジ  ジニャーニはすでに死んでいる。あなたは彼にもう一度死ぬことを期待するのかね?


質問者 もちろん、身体の崩壊はジニャーニにとっても重要な出来事に違いありません。


マハラジ  ジニャーニに重要な出来事というものはない。誰かが最高の目的を成就したときを除いては。そのときだけは、彼のハートも喜ぶ。それ以外のすべてに対して彼は関心がない。宇宙全体が彼の身体であり、すべての生命は彼の生命なのだ。都会でひとつの電球が消えたとき、それがネットワーク全体に影響を与えることはない。同じようにひとつの身体の死が全体に影響を与えることはないのだ。


質問者 特定の存在は、全体にとって問題ではないかもしれませんが、特定の存在にとっては問題です。全体とは抽象的なものですが、特定の存在は具体的なものであり、現実です。


マハラジ  それはあなたがそう言うだけだ。私にとってはその反対だ。全体が現実で、部分は来ては去るものだ。特定の存在は誕生、再誕生し、名前と形を変えていく。ジニャーニはその変化を可能にする不変の実在なのだ。しかし、彼はあなたに確信を与えることはできない。それはあなた自身の体験とともにやってこなければならないのだ。私にとってはすべてがひとつであり、すべてが同等だ。


質問者 罪と徳はひとつであり、同じものなのでしょうか?


マハラジ  それらはみな人間のつくり出した価値だ。それらは私にどんな意味を持つというのだろう?結果的に幸福をもたらすなら、それは徳だ。結果的に不幸をもたらすものは罪だ。どちらもマインドの状態だ。私の境地はマインドの状態ではないのだ。


質問者 私たちは見るということの意味を理解できずにいる盲人のようです。


マハラジ  あなたの好きなように言うがいい。


質問者 沈黙の修練はサーダナとして効果的なものでしょうか?


マハラジ  何であれあなたが悟りを得るためにすることは、あなたを悟りへと近づける。何であれあなたが悟りを覚えることなしにする行為は、あなたを悟りから遠ざける。だが、なぜそうことを複雑にするのかね?ただ、あなたはすべてのものごとや思考を超えているということを覚えておきなさい。あなたが成りたいもの、あなたはすでにそれなのだ。だだ、それを心にとどめておきなさい。


質問者 あなたの言うことは聞いていますが、私には信じられないのです。


マハラジ  私もまた同じ立場にいたのだ。だが、私はグルを信頼し、彼はそれが正しいことを証明した。もしできるならば、私を信頼しなさい。私の言うことを心にとどめておきなさい。何も望んではならない。なぜなら、あなたは何ひとつ欠いてはいないからだ。探すということ自体が見つけるということを妨げるのだ。


質問者 あなたは本当にすべてのことに無関心なようですね!


マハラジ  私は無関心なのではない。公平なのだ。私には、私と私のものへの選り好みがないのだ。かごいっぱいの土とかごいっぱいの宝石はどちらも不要なものだ。生と死はどちらも同じことだ。


質問者 公平さがあなたを無関心にするのです。


マハラジ  その反対に、慈悲と愛が私の核だ。すべての偏愛を離れ、愛することに自由なのだ。


質問者 仏陀は、悟りの概念は非常に重要なものだと言いました。ほとんどの人たちは、悟りのために努力している人たちがいることはもちろん、そのようなものがあるということさえ知らずに生きています。ひとたび、彼らがそれについて耳にしたなら、けっして絶えることのない種子がまかれたのです。それゆえ、彼は毎年八カ月間、彼の比丘(びく)たちに絶え間なく教えを説くように送りだしたのです。


マハラジ  「人は食物、衣服、住居、知識、愛情を与えることができるが、最上の贈り物は悟りの福音だ」と私のグルはよく言ったものだった。あなたの言うとおりだ。悟りは最上の贈り物だ。ひとたびそれを得たら、誰もそれをあなたから取り上げることはできない。


質問者 もし西洋であなたがこのように話したら、人びとはあなたを狂人だと思うでしょう。


マハラジ  もちろん、彼らはそう思うだろう!無知なる人びとにとって、彼らに理解できないことはすべて狂気なのだ。それが何だというのだろう?彼らは彼らのままであればいい。私が私であることに何の益もなく、彼らが彼らであることに何の過ちもない。至高の実在は無数の方法でそれ自身を顕現する。果てしない数の名前と形がある。同じ海の中にすべては立ち現れ、すべては溶けあう。すべての源はひとつだ。原因と結果を探し求めることはマインドの娯楽にすぎない。存在するもの、それは愛すべきものだ。愛は結果ではなく、存在の基盤そのものだ。どこへ行こうと、あなたは存在と意識と愛を見いだすだろう。いったいどうして、何のために選り好みをするのだろうか?


質問者 洪水や地震のような自然災害が、何千何百万の命を奪うことがあっても、私を悩ましはしません。しかし、ひとりの人間が人の手によって死ぬとき、私は途方もなく悲しみます。不可避のものにはそれ自体の威厳があります。しかし、殺すことは避けることができるものです。そしてそれゆえ、醜く恐ろしいものなのです。


マハラジ  すべては起こるように起こるのだ。自然なものであれ、人為的なものであれ、災難は起こる。怖がる必要はないのだ。


質問者 原因なしに何かがありうるのでしょうか?


マハラジ  すべての出来事のなかに宇宙全体が反映されている。究極的な原因の由来を調べることは不可能だ。因果律の概念自体はただの考え方にすぎない。原因のない存在の出現を想像することはできない。しかしながら、それが因果関係の存在を証明するわけではないのだ。


質問者 自然にはマインドがありません。それゆえ、責任はありません。しかし、人にはマインドがあります。なぜ人のマインドはそれほどまでに邪悪なのでしょうか?


マハラジ  邪悪さの原因もまた遺伝や環境などの自然なものだ。あなたは性急に非難しすぎる。他者について思い煩うことはやめなさい。あなた自身のマインドを最初に扱いなさい。あなたのマインドもまた、自然の一部分であることを自覚すれば、二元性は消え去る。


質問者 私に計り知れない不思議としか言えません。マインドがどうして自然の一部分でありうるのでしょうか?


マハラジ  なぜなら自然はマインドのなかにあるからだ。マインドなしで自然がどこにあるだろうか?


質問者 もし自然がマインドのなかに在り、マインドが私自身のものならば、私は自然を制御できるはずですが、それは事実ではありません。私の制御を超えた力が、私の行動を決定するのです。


マハラジ  観照の姿勢を発達させなさい。そうすれば、あなたは無執着が制御をもたらすということを自らの体験をもって見いだすだろう。観照している状態は完全な力をもっている。そこには何も受動的なことはないのだ。


この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。
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