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言葉で指そうとする活動は「指」です。
その指の先にある実在は「何か」ですが表現できません。
なぜ表現できないのかというと
指の前に存在している何かだからです。
すべての指は手遅れです。


言われた言葉
書かれた言葉がどんなものであろうと
それは単なる「指」です。
言葉、そして想念はどんなものであろうと
「指」です。


では実在はどこにあるのか?
ここにあり、わたしたちが実在です。


では実在はどこにあるのか?
この質問自体を観察している何か自体がそれです。
それと表現した時点で離れたものを指しています。実際は離れていませんから「これ」です。


これを言い換えれば
「わたしは在る」です。


わたしは在るを言い換えれば
バレーボールで相手チームのサーブを待っているときの沈黙
「…」
想念のないこの沈黙の意識が存在していることは明白です。


いつも存在しています。
歌を歌い終わると沈黙が場を支配します。
常にあるのは沈黙であり、歌は一時的に歌われるだけです。


では私たちの意識は歌を意識しているでしょうか、沈黙を意識しているでしょうか。


ワイパーのように通り過ぎる歌にいつも右往左往しています。
だから


「どこに?」と問うことが唯一の間違いで
「在る」のが唯一の正解です。


わたしは在るとは
沈黙であり無想であり


それは「想念がないこと」ではありません。
なぜなら「想念がないこと」は一つの想念だからです。


無想(わたしは在る)とは
「私」を現さないときの自然な自覚意識です。


「私」がいると想像さえしなければ
わたしたちはいつも「これ」です。



束縛が概念であるため、あなたがそれを信じている間は、束縛からの自由もそれに関連したもう一つの概念でしかない。自由とは、その両方の概念から自由になることなのだ。



至高の帰依とは、実在に帰依することです。
映像ではなく、スクリーンのみに帰依することです。


八正道の正見(しょうけん)とは
「私」を現すことなく見ていることではないでしょうか。


私+見る、か


…(私を現すことなく見ている)
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