今後ほとんどの人にとって大事だなと思うことは、
死後の知識を基本は押さえておくこと。
故人には祈りが生きているわたしたちと同様に通用するので、感謝の祈りを捧げ導きを頼むこと。
光の存在に導きが必要であること、感謝して受け容れる開かれた態度であることを「意識的に表明すること」(特に重要)
そして個人差が激しくむずかしいかもしれませんが可能であれば、
創造主(サムシング・グレート)を信じ、
主のもとで今日が運ばれてきた(与えられた)運命に感謝すること。(最重要)


創造主を信じ、与えられた今日に感謝する姿勢と同じくらい大切なのは
ラマナ・マハルシやニサルガダッタ・マハラジが残した導き「真我実現」に全身全霊で集中することだけです。


1、神(創造主)への愛
2、自分(この自分)への無条件の宥し(他人への宥しではなく)
3、光の存在たちへの協力要請
4、故人および先祖代々のルーツ(DNA)への感謝


1番があれば自動的にすべて整いますが、ほとんどの場合は神を信じる根拠がないので、
繰り下がって2番さえあればすべて整います。


3番は知識のトラップで、これら光の存在たちは
意識的に協力要請をしない限り、「不介入の原則」があるため協力してくれません。
魂の成長を促す計画を邪魔しないために、本人からの協力要請がない限り不介入だそうです。
さらに光の存在たちは「私的な目的」での協力要請はあっさり無視します。
あくまでもすべての兄弟姉妹(自分含む)に最善の結果をもたらすことに寄与できる願いだけに力を貸してくれます。


4番は今日を与えてくれた神に感謝することと同様なのですが、
直接の連なりであるDNAを伝播させたすべての存在、支えてくれたすべての存在に感謝することです。両親もです。どういう確執があってもです。故人、ご先祖様たちは別のモードに移行しただけであって、ばっちりつながっていますので、このルーツへの無意識状態(または怒りや恨み)は足元から自分を危うくします。どちらかというと、現世的に助けてくれるのはご先祖様たちとの良好な関係であって、光の存在たちではありません。


神の光と肉体、この二つは今日生きていることは「誰から与えられたものか?」ということです。これは足元です。


人間の悪意に遭遇して何も信じられなくなった人でさえ、
神の愛を信じることはできます。それが怖ろしくてできない場合も、
今日動いている心臓に、どうしようもない自分の感情に、この自分を宥すことはできます。




フィオラが「神を信じなさい」という言葉を口にしたとき、
私は内心(なに古くさいこと言ってるんだろうこの人)と感じていました。


(神など、信じることはできない)
(”そんなもの”が存在する保証はどこにある?)
(この世はエゴがエゴとぶつかりあうだけのちっぽけな場)
これらの( )内の声が、魂を覆っている淀みであることに気づいていないわけです。


神を信じられないということは、完全な記憶喪失ということです。
記憶喪失は狙っている状態でもありますので別に構わないのですが、いずれ、嫌でも何でも、神の存在に向き合い、己が今日生きているのは誰のおかげなのか、ルーツを探らねばならなくなります。強制的に、そうなります。


神を信じる、という言葉の真意は、堕落した宗教の影響で見失われるようになりました。
神の名を唱えて人を殺すような輩とその業が、人類をいつまでも苦しめる鎖になっています。


神は、愛のなかにあります。
それは、自分と他人への思いやりのなかにあるということです。


自分と他人への思いやりから外れない人間は、
つねに神とともにあるということです。とても簡明です。


それは今日発揮した自分への思いやりであり、
今日発揮した他人への思いやりです。


ことはシンプルです。出し惜しみに愛はありません。


愛か、愛が怖れに阻まれて出力されていないか、どちらかです。


積もり積もれば山となります。
人類に累積する問題というのはすべて、
今日愛が怖れに阻まれて出力されなかった結果の累積以外の何物でもありません。




わたしがこちらの世界(この世)に来てから思い出したことの中で、
光(虹の各色の「光線」)が飛び回り舞っている姿、
その光線の一筋一筋の先端に人間の「顔」が浮かび上がっている奇妙な姿を覚えています。
(頭部ではなく、顔)


想像すると気持ち悪いですよね。
顔だけ普通で、後はカラフルな光線です。


彼らをもし光の存在と呼ぶなら、彼らの感じているもの、計画しているものは超楽しいです。あの世と比べると、この地上は「どんよりと暗くて」とてもつらいところです。


向こう側では「神、大いなる愛の根源」がつねに直覚されているので、
この地上のように遮られた感覚、神と分離しているような感覚は一切ありません。
不満足感なんて、向こうには欠片もありません。


何に満足しているのか?
と聞かれたなら
神がともにあることに満足しているとみな答えるでしょう。


次元が下になるということ、三次元まで振動を落とすということは
肉体の振動に合わせることであり、それだけでわたしたち(魂)にとっては非常につらいことです。




ある程度思い出した人間はこう感じます。
「自分が見たことは本当だ」
「だから」
「他人が見たことも本当だ」


虚空の特徴のおもしろいところは、どれだけ馬鹿げたものも
即現実化させてしまうところです。


この世には時間差があるため目視できないだけです。


ですので、「馬鹿げた世界観」というのは存在しません。
虚空が可能にするフラットな世界観の連なりが無数に相互リンクしているだけです。


これは全体で一つの海なのですが、深度が違うんです。


深海(神界)からの導きを受けながら、この世を歩むためには兄弟姉妹の力も借りなければなりません。


自分のアンテナが自分の方針としては第一ですが、
兄弟姉妹にしか見えない視界とアンテナがあります。


それらを吸収・活用しない限り、自分の視界だけを信頼できるものとするのはやはり傲慢です。


先日ここに書いたK岡さんのようなサイキックな力も役に立つものでもありますし、
何よりも7つのメッセージを教示するような意識存在がいるのは強みです。


わたしがアンテナ役の方に信頼を寄せるのは
ご本人うんぬんというよりむしろ
高位の意識存在とどれだけ密接な関わりをもっていて「向こう側から好かれているのか」
ということです。


向こう側から好かれている人物は、なんとなくわかります。


ここでそれを顕すことが、
宇宙を統一する大いなる愛の光のためになる、神のためになる場合=その人です。


本人の都合は関係ありません。
神のためになることと、本人の意思願望が完全一致している場合のみ、宇宙はどんな無茶苦茶なこともやってのけます。


本人が、神の願望に合わせなくてはいけないのであって
逆ではありません。


自己尊重とは、神の都合を信頼することでもあります。


今日をありがとうございました。


追記


神の願望と書いていて思ったのですが、多くの人が
「神の願望とはなんだと思いますか?」という質問に対しては
「愛」と答えると思うんです。


では神の願望である「愛」を
自分という一人の人間が、いつ、どれほど実践しているのか、
それはどうでしょうか。


愛とは、選択肢の正解のようなものなのでしょうか?
それとも、愛とは、「わたし」のことなのでしょうか。


愛とは、その人そのものです。

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