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「まず最初に言っておきたいのは、あなたがどのくらいコントロールを手放そうとするかに応じて、わたしはあなたを通じて語りかけられるのだということです」


偽者、偽のアイデンティティにしがみついている状態か、
コントロールを手放そうとしているか。


わたしたちは一瞬前の瞬間を捨てなければなりません。
自分のために何かをすることをやめなければなりません。


「手放す」とは、今あるものを「あるなあ」と認めることです。


何も拒絶せず、今この瞬間を認めることです。
いま←→過去(私)


このどちらかです。偽のアイデンティティの維持を放棄することは
偽のアイデンティティを「あるなあ」と認めることです。



わたしが宥しの道を選んだのは、それだけが、傷口の上にがっちりとかけられた時間という錠を開くことができるからです。時間がなくなれば、傷もなくなります。


過去を手放せば、悲しみの種もなくなります。かんたんな話ではありませんか?


時間は傷をリアルなものに見せます。しかし、ひとつとしてリアルな傷などはありません。


あなたが一瞬でも時間を消すことができたら、できることは保証しますが、救いということが理解できます。その無時間の瞬間には、過去にあなたが言ったりしたりしたことは、何ひとつ意味をもちません。その瞬間には何ひとつ、所有しているものはありません。過去もなければ未来もなく、アイデンティティもありません。それは純粋な存在の瞬間、非-分離、非-判断の瞬間です。


それはあなたみずからは知らずして、あらゆる時間のなかに住む瞬間です。あなたはすでに天国にいるのに、そのことに気づかないのです。


あなたは天国にいますが、その天国はあなたには受けいれがたいものです。天国はあなたのエゴも、計画も、夢も、支援しません。天国はあなたの苦闘も、学びも、そして宥しのプロセスも支援しません。


天国では、宥しの必要がないのです。なぜでしょう。それは天国ではだれにも罪がないからです。天国では何ひとつ正すべきことは存在しないのです。この瞬間にもまた、正すべきものは何もありません。忘れないでください。


すべてはたったいまオーケーであって、あなたがたが世界のどこかしらを正す必要もなく、わたしがどこかを正す必要もないのです。


これを理解するには、宥しのプロセスを実践する必要があります。だれか、または何かが誤っていると思ったら、そういう考えを抱いた自分を宥してください。自分が誤っていると思ったら、そう思った自分を宥してください。


自分自身に言うのです。「これは誤っているように見えるが、わたしにいったい何がわかるだろう。わたしが見たくない、でも見るべきものが、ここにあるのかもしれない。だからこそ誤っていると思ったのだろう。自分が見たくないからだ」


非難したいものごとを、進んでよく見てください。それこそ罪悪感を脱ぎ捨てる道です。


あなたが誤りだと思うものでも人でも、それはあなたが自分自身の誤っていると思っている箇所を見せてくれているだけです。兄弟よ、それはあなたの罪悪感なのです。もっとよく見てください。でなければ、それはあなたの人生をむしばみつづけます。


勇気をもってください。いまこそ果敢であってください。あなたを悩ましているのは、あなたの罪悪感にすぎないのを見てください。あなたを悩ませるすべてのものごとを見て、それを深刻に受けとめた自分を宥してください。やましいところのある人だけが、自分の狂った世界の中のものごとを何でも深刻に受けとめます。


あなたの旅の中で宥されねばならぬ人間はたったひとり、それはあなたです。あなたが裁判官です。あなたが陪審員です。あなたが容疑者です。


友よ。あなたが他人にこれこれをしたと思いこんでいるのは、自己処罰のひとつの形にすぎません。罪悪感をもって生きねばならないと信じているのは、かれらではなく、あなたなのですから。


自分に罪があると思えば思うほど、自分自身を痛めつけます。罪を他人に投影してその人を痛めつけても、あなたの罪悪感を増すだけです。この恐怖心の迷宮から抜け出す唯一の道は、宥しを実践することです。


いろいろなものを判断・批判している自分を宥すことによって、誤っているとみなす、すべてのものを宥しなさい。自分自身へのあわれみ、自分が批判した他人に対するあわれみをもって、自分のしたいちいちの判断や批判をながめます。それらを正当化しないでください。


いまこの瞬間に、恐怖心、判断、そして期待はくつがえります。あるのはこの瞬間のみ、あなたがいま世界をどう見ているかが、あるのみです。


世界が恐ろしいものに見えるなら、自分自身の恐怖心に直面してください。
世界をあれこれ批判してながめるなら、自分が自分をどう批判しているかに直面してください。自分の恐怖心や批判がましさを宥すとき、それらは出ていきます。


宥しが鍵になるのは、傷口をつかんでいる時の指をそれが開かせるからです。時間のないところに、傷はありえません。


兄弟よ、あなたにはいかなる罪もありません。なのにあなたはそうでないと信じています。そう信じるかぎり、あなたには宥しが必要です。


自分が人を傷つけることができる、あるいは人に傷つけられると、あなたは誤って信じこみました。それが、あなたがたの世界を動かしている思考です。


ときには、まったくそのとおりに見えることもわたしは知っています。しかし今となってはそれは真実ではなく、かつても真実ではなかったのです。なぜなら、兄弟よ、天国はここにあるからです。そしていま、あるからです。


あなたは自分が見ることを選んだものを見ます。あらゆる知覚は選択だからです。あなたが、見えるものに自分流の意味を押しつけなくなったとき、あなたの目が開いて、判断や批判から自由になった世界が終わりのない美しさに輝いているのを目にするでしょう。



マハラジ  あなたはどこから、何のために来たのかね?


質問者 私はアメリカから来ました。そして、私の友人はアイルランドから来ました。私は6カ月前に来て、アーシュラムからアーシュラムへと旅してきました。私の友人はひとりで来たのです。


マハラジ  あなたは何を見てきたのだろうか?


質問者 私はシュリー・ラマナアシュラムにいました。またリシケーシも訪れました。シュリー・ラマナ・マハルシについてのあなたの意見をうかがえるでしょうか?


マハラジ  私たちはともに、同じ原初の状態のなかにいる。しかし、あなたはマハルシの何を知っているのかね?あなたはあなた自身を名前と身体だと見なしている。だから、あなたの知覚するものすべては名前と身体なのだ。


質問者 もしあなたがマハルシに出会うならば、何が起こるでしょうか?


マハラジ  おそらく、私たちはまったく幸せに感じるだろう。二、三の言葉を交わしさえするかもしれない。


質問者 しかし、彼はあなたを解脱した人として認識するでしょうか?


マハラジ  もちろんだ。人が人を認識するように、ジニャーニはジニャーニを認識するのだ。あなたはあなたが体験したことのないものを賞賛することはできない。あなたはあなた自身であると考えているものだ。だが、あなたはあなたが体験していないものをあなた自身として考えることはできないのだ。


質問者 技師になるためには工学を学ばなければなりません。神となるためには何を学ばなければならないのでしょうか?


マハラジ  あなたはすべてを忘れなければならない。神はすべての欲望と知識の終焉なのだ。


質問者 あなたは、単に神になろうとする欲望を放棄することで、私が神になると言われるのでしょうか?


マハラジ  すべての欲望が放棄されなければならない。なぜなら欲望を持つことで、あなたはあなたの欲望の形を取るからだ。何の欲望も残っていないとき、あなたは自然な状態へと戻るのだ。


質問者 私が完成に到達したということを、どうやって知るのでしょうか?


マハラジ  完成を知ることはできない。あなたは未完成だけを知ることができるのだ。知識が存在するには、そこに分離と調和がなければならない。あなたはあなたではないものを知ることができる。だが、あなたの真の存在を知ることはできないのだ。あなたはあなたであるものとしてだけ在ることができる。そのアプローチ全体が理解を通してのものだ。それは偽りを偽りとして見るというものだ。しかし理解するために、あなたは外側から観察しなければならない。


質問者 ヴェーダーンタのマーヤー、幻想の概念は、顕現にあてはめられます。それゆえ、私たちの顕現の知識は信頼できません。しかし、非顕現の知識は信頼できるはずです。


マハラジ  非顕現の知識といったものはない。それは不可知だ。知ることができるのは現実のものだけなのだ。


質問者 どうして、知る者が知られないまま残るのでしょう?


マハラジ  知る者は知られるものを知っている。あなたは知る者を知っているだろうか?誰が知る者を知る者なのだろうか?あなたは非顕現を知りたいと言う。あなたは顕現を知っていると言えるだろうか?


質問者 私はものごとと概念を、そしてそれらの関係を知っています。それらの総計が私のすべての経験なのです。


マハラジ  すべて?


質問者 ええ、すべての現実の体験です。現実に起こらなかったことを知ることができないのは認めます。


マハラジ  もし顕現がすべての現実体験と体験者の総計であるなら、その合計のどれほどをあなたが知っていると言うのだろう?


質問者 私自身に関係する感覚的な体験のいくらかです。


マハラジ  それでさえもない。あなたはあなたが反応することだけを知っている。誰が何に反応するかを知ってはいない。あなたは、「私は在る」に接触することであなたの存在を知るのだ。「私はこれだ」「私はあれだ」は想像なのだ。


質問者 私は顕現を知っています。なぜなら、私はそれに参加しているからです。そのなかでの私の部分はたいへん小さいものであり、それは認めます。それでも、それはその全体性と同じほど現実なのです。そして、もっと重要なことは、私がそれに意味を与えるということです。私なしには、世界は暗く沈黙しているのです。


マハラジ  ホタルが世界を照らすというのかね!あなたが世界に意味を与えるのではない。あなたはそれを見いだすのだ。あなた自身のなかに深く潜っていきなさい。そしてすべての意味があふれだす源を見いだしなさい。間違いなく、意味を与えることができるのは表面的なマインドではないのだ。


質問者 何が私を限定し、表面的にしてしまうのでしょうか?


マハラジ  全体は開いていて、手に入るものだ。だが、あなたはそれを手にしない。あなたは自分自身だと考えている小さな個人に執着している。あなたの欲望はかぎられていて、野望は取るに足らないものだ。結局、知覚の中心がなければ、どこに顕現があるというのだろう?知覚されなければ、顕現は非顕現と同じだ。あなたは知覚する点、すべての次元に対する無次元の源なのだ。全体としてのあなた自身を知りなさい。


質問者 ひとつの点が、どのように宇宙を包含できるというのでしょうか?


マハラジ  ひとつの点のなかには、無限の宇宙を包むに充分な空間がある。許容量に欠けることはない。自己限定だけが唯一の問題なのだ。しかし、あなた自身から逃げだすことはできない。どれほど遠くへ行こうとも、あなたは自分自身に、そして無であり、しかもすべての源であるこの点を理解する必要性に戻ってくるのだ。


質問者 私はインドにヨーガの教師を探しに来たのです。いまだに私は探しています。


マハラジ  どの類のヨーガをあなたは学びたいのだろうか?獲得のヨーガだろうか、放棄のヨーガだろうか?


質問者 それらは最終的には同じ結果になるのではないでしょうか?


マハラジ  どうして同じでありうるだろう?一方は隷属させ、他方は解放する。動機がもっとも重要なのだ。自由は放棄を通してもたらされる。すべての所有は束縛なのだ。


質問者 私が力強さと勇気をもってつかむものを、なぜ放棄しなければならないのでしょうか?そして、もし私が強さをもっていなければ、どうして放棄できるでしょう?私にはこの放棄の必要性が理解できません。私が何かを欲しいとき、どうしてそれを追求すべきではないのでしょうか?放棄は弱者のためのものです。


マハラジ  もしあなたが放棄する智慧と力をもっていないのなら、ただあなたの所有物を見てみなさい。ただ見るという行為がそれらを焼き尽くすだろう。もしあなたがマインドの外側に立つことができるなら、じきに所有物と欲望を放棄することがもっとも明白な分別ある行為だと知ることだろう。あなたが世界をつくり出しておいて、それからそれについて心配するのだ。利己的になることはあなたを弱くする。あなたに欲望をもつだけの勇気と力があると考えるなら、それはあなたが若く、経験不足だからだ。例外なく、欲望の対象物はそれを獲得する手段を破壊する。そうして、それ自体も衰え果ててしまうのだ。結局、すべては最善の結果をもたらす。なぜなら、それはあなたに毒を避けるかのように欲望を避けさせるからだ。


質問者 どのようにして無欲を訓練すればいいのでしょう?


マハラジ  訓練の必要はない。放棄という行為さえ必要ない。ただ、あなたのマインドをそらしなさい。それだけだ。欲望とは単にある想念にマインドを固定させることだ。それに注意を払わないことで、その常道にはまる習慣を捨て去りなさい。


質問者 それだけですか?


マハラジ  そうだ。それだけだ。欲望や恐れが何であれ、それにとどまっていてはならない。自分で試みてみなさい。ときおり、あなたは忘れてしまうかもしれない。だが、それは問題ではない。すべての欲望と恐れを追い払うまで、すべての反応が自動的になるまで試みることだ。


質問者 人はどのようにして感情なしに生きていくことができるのでしょうか?


マハラジ  あなたは欲しいだけすべての感情をもつことができる。だが、引き起こされた感情の反応に注意しなさい。完全に自己決定し、外面からではなく、内面から導かれなさい。より良いものを確保するために、ひとつのものをあきらめるのは本当の放棄ではない。あきらめなさい。なぜなら、あなたはそれが無価値であることを理解するからだ。放棄していくにしたがって、あなたは自然に知性と、力と、無尽蔵の愛と、喜びのなかに成長していく自分を見いだすだろう。


質問者 なぜ、それほどまでにすべての欲望と恐れを放棄することが強調されるのでしょうか?それらは自然なものではないのでしょうか?


マハラジ  それらは自然なものではない。完全にマインドによって作られたものだ。あなたに必要なものは何もないということを知るために、すべてを放棄しなければならないのだ。あなたが必要とするものは非実在であり、あなたの努力は無意味だ。あなたは所有物があなたを守ると想像している。実際は、それらがあなたを傷つきやすくするのだ。あなた自身が「あれ」や「これ」として指し示すことができるすべてから離れたものであることを自覚しなさい。あなたは感覚的体験や言語的解釈によって到達することのできないものだ。それから立ち去りなさい。人格化を拒否しなさい。


質問者 あなたの話を聞いた後、私は何をすればよいのでしょうか?


マハラジ  聞くことだけでは本当の助けにならないだろう。それを心にとどめ、熟考し、私が語っていることを私に語らせようとするマインドの状態を理解しようとしてみなさい。私は真理から話している。両手を開き、受け取りなさい。あなたはあなたが考えているものではないのだ。私が保証しよう。あなたがもっているあなた自身のイメージは記憶によってつくられたまったく偶然の産物なのだ。


質問者 私は私のカルマの結果です。


マハラジ  一見、あなたであるように見えるもの、それはあなたではない。カルマは、あなたが繰り返し学んできたひとつの言葉にすぎない。あなたはけっして今まで、そしてこれからもひとりの個人ではないのだ。あなた自身を個人だと考えることを拒絶しなさい。自分が誰それだということを疑わないかぎり、希望はもてない。あなたが目を開くことを拒むとき、何を見せられるというのだろう?


質問者 カルマとは、私を完成へと衝き動かす神秘の力だと私は思っています。


マハラジ  それは人びとがあなたに言ったことだ。あなたはすでに今ここで完成している。完成することができるようなものはあなたではない。あなたはあなた自身ではないものをあなただと想像しているのだ。やめなさい。重要なのは停止そのものであって、あなたが何をやめようとするかではないのだ。


質問者 カルマが私に、私であるものに成るよう駆りたてたのではありませんか?


マハラジ  何も駆りたててはいない。あなたはあなただと信じるものだ。信じるのを止めなさい。


質問者 ここで、あなたは座り、私に話しています。あなたにそれを強いるのはカルマです。


マハラジ  何ひとつ、私に強いるものはない。私はする必要のあることをするだけだ。だが、あなたはたくさんの不必要なことをする。調べることを拒むことがカルマをつくり出すのだ。あなた自身の苦しみに無関心であることが、それを永続させるのだ。


質問者 それは本当です。この無関心に終止符を打つことができるのは何でしょうか?


マハラジ  無執着、あるいは慈悲の波が内面から衝動として起こらなければならない。


質問者 この衝動に私の方から出会いに行くことができるでしょうか?


マハラジ  もちろんだ。あなた自身の状態を見てみなさい。世界の状態を見てみるがいい。


質問者 私たちはカルマ、輪廻、進化、ヨーガ、師と弟子についての話を聞いてきました。これらすべての知識をどうすればいいのでしょう?


マハラジ  すべてを捨て去っていくがいい。忘れるのだ。概念や信念の重荷を捨て去って、先へと進んでいきなさい。すべての言語的構造、すべての相対的真実、すべての実体的な対象物を放棄しなさい。絶対なるものは、絶対的な献身によってだけ到達できるのだ。半端な気持ちではいけない。


質問者 私は何か絶対的な真実からはじめなければなりません。そのような何かがあるでしょうか?


マハラジ  ある。それが「私は在る」という感覚だ。それからはじめなさい。


質問者 それ以外の何も真実ではないのでしょうか?


マハラジ  ほかのすべては真実でもなければ、偽りでもない。それが現れると真実のように見え、否定されるとそれは消え去るのだ。一時的なものは神秘的だ。


質問者 私は実在は神秘的なのだと思っていました。


マハラジ  どうしてそうありうるだろう。実在はシンプルで、オープンで、明らかで、優しく、美しく、そして喜ばしいものだ。それは矛盾からの完全な自由なのだ。それはつねに新しく、つねに新鮮で、かぎりなく創造的だ。存在と非存在、生と死、すべての区別がそのなかで溶けあっている。


質問者 すべてが偽りだということは認めます。しかし、それが私のマインドを消し去ることができるでしょうか?


マハラジ  マインドとはそれが考えていることなのだ。マインドを真実にするために、真実を考えなさい。


質問者 もしものごとの形が単なる現れでしかないなら、実際には、それらは何なのでしょうか?


マハラジ  実際には、知覚だけがある。知覚する者と知覚されるものは観念であり、知覚しているという事実は現実のものだ。


質問者 絶対なるものはどこから来るのでしょうか?


マハラジ  絶対なるものは知覚の誕生する場所だ。それが知覚を可能にするのだ。しかし、分析のしすぎはあなたをどこへ導きもしない。あなたのなかには分析もマインドも超えた存在の核心がある。あなたはそれを行為のなかでだけ知ることができる。日常生活のなかで、それを表現しなさい。そうすれば、その光はつねに明るく光り輝くだろう。マインドの真正な機能とは、あなたに何が存在しないのかを伝えることだ。だが、もしあなたが明確な知識を望むなら、マインドを超えた彼方へ行かなければならない。


質問者 すべての宇宙のなかには、ただひとつでも価値あるものがあるのでしょうか?


マハラジ  ある。愛の力だ。


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