今日はオリビア・オン推しです。癒されるから。


意外と、見失いやすいポイントは
「この自分の専門家となるために生まれている」ということではないでしょうか。


この自分を70億人の地上の兄弟の中で一番詳しく突き詰められるのは誰でしょうか?
それは本人です。


神が与えた役割とは、それではないでしょうか。
神の愛を、この窓をとおして、兄弟に伝えたい。神の望みはそういうことではないでしょうか。



あなたはこれまで、自分自身の罪悪感と恐怖心のまじりこんだ愛をあなたに注いだ人たちから、いわば条件つきの愛を学んできました。それがあなたのモデルでした。恥じるにはおよびません。そうなのだな、と気づけばよいのです。


あなたは子供時代からずっと、人が好意的な反応を示したときだけ、自分には価値がある、というふうな自己評価のしかたを条件づけられてきました。自分の価値は、外部のものによって確立されると学んできました。それは基本的な誤りで、これまでのあなたの人生全般にわたってずっといすわってきたものです。


すべての”侵害・押しつけ”に気づき、それに付随した感情を解放しなければなりません。そうすることによって、あらゆる傷ついた存在は、条件つきの愛から、条件なき愛の経験へと移行していきます。


癒しのプロセスにおいて、あなたは生物的両親からは受けとったことのない無条件の愛を、自分にそそぐことを学びます。このプロセスであなたは生まれかわり、外部の権威者ではなく、自分の内なる”愛の源”を親として育まれます。


あなたの内部の傷ついた存在に愛をそそぐには、まず他人の反応の上に自分の価値をおく、という考え方を逆転させなければなりません。ゆっくりと、あなたはいま、ここで、そのままの自分自身をまるごと条件ぬきで認め、尊重するよう、自分を訓練しなおしてください。あなた以外のだれもこれを肩代わりできません。


魂はみな、この自己尊重の問題ととりくもうとして、この物理的経験のなかに入ってくるのです。しかしこの世界にそう長くも滞在しないうちから、本来もっている愛する能力に条件が押しつけられ、他人をもその経験にまきこんでいきます。この条件をゼロにもどすことが、なによりもたいせつです。


もし魂が、自分は物理世界の経験の犠牲者だったと信じながらこの世界を去ってゆくと、その信念を矯正するために、またここへひきもどされることになります。


しかし、もし魂が、自分の価値は自分の心(マインド)と経験の外部のいかなるものにも人にもかかわりがない、という真実に目覚めれば、その魂は”愛の源”にみずからをおくことになり、虐待の夢から覚めることでしょう。


虐待から目覚めるというのは、自分がそのままでは愛されない、という幻想を拒絶することです。自分自身に無条件の愛をあげることで、愛を実践してください。


まことの愛は、変わることがありません。それはあらわれる形とは無関係に存在します。この永遠かつ遍在する、形なき愛の”源”は、あなたの内側にあります。そこにこそ信頼をおくべきです。いったん”愛”がハートに確立されれば、二度と幸福を外側に探す必要はなくなります。


人生には、人がやってきて、また去っていきます。あなたを大事にしてくれる人もいるでしょう。不親切な人もいるでしょう。あなたは愛を受けいれます。もしくは、愛の欠如を、その実態、つまり傷ついた人が救いを求める叫びとして受けいれてください。あなたがそうしたように自分の内側に愛の”源”を探すよう、人にも勧めてください。なぜなら、その人たちのこまごました問題はあなたに解決できるものではないとよくわかるからです。その人たちの人生の悲劇は、本人が進んでハートと心の中をのぞきこもうとしないかぎり、手のつけようがありませんから。


無条件に愛する人は、自分の自由にも、他人の自由にも制限をもうけません。愛をむりに保とうとはしません。


愛という行為には、複雑なところはこれっぽっちもありません。ただ、愛を出し惜しみはじめたときに複雑になっていって、やがてその人が与えるものは愛ではなくなります。


自分自身を愛している人は、ひとりになることがこわくありません。ひとりでいるということは、自分をさらに深く愛し、受けいれるひとつの機会だからです。ただ呼吸をつづけ、経験の一歩を踏み出すごとに愛を広げてゆくだけでよいのです。


愛は、対等なものどうしのあいだにしか存在できません。愛は、内側の深いところで、自分を愛し尊重することを知ったものどうしのあいだにしか存在できません。


あなたの旅の行先はもう保証ずみです。わたしがいまいるところに、あなたも来るのです。そのときには、あなたは”愛”こそ自分なのだと、すみずみまで確実に知ることでしょう。”愛”はあなたの中で生まれたり死んだりしたことはありません。それはあなたと切り離せません。それこそあなたのほんとうのアイデンティティなのです。



質問者 私はあなたに質問し、あなたは答えています。あなたはその質問や答えを意識しているのでしょうか?


マハラジ  実際には、私は聞いても答えてもいない。出来事の世界のなかで、質問が起こり、答えが起こる。何も私には起こらない。すべてはただ起こるのだ。


質問者 そして、あなたは観照者なのでしょうか?


マハラジ  観照者とはどういう意味だろうか?ただの知識にすぎない。雨が降り、そして今、雨はやんだ。私は濡れないままだ。雨が降ったのは知っている。だが、私は影響されない。ただ、雨を観照しただけだ。


質問者 完全に悟りを得た人、自然に至高の状態に在る人もまた、食べたり、飲んだりするように見えますが、彼はそれに気づいているのでしょうか?


マハラジ  意識がそのなかで起こる宇宙意識は、意識のエーテルと呼ばれる。意識の対象物すべてが宇宙を構成している。それら両方を支え、そして超えて在るのが至高の状態、完全な静寂と沈黙の状態だ。誰であれ、そこに行けば消え去る。言葉やマインドで到達することはできない。あなたはそれを神、パラブラフマンあるいは至高の実在と名づけるかもしれない。しかし、それらはマインドによって与えられた名前だ。それは、名前も内容もなく、努力もなくして自然な状態、存在も非存在も超えたものだ。


質問者 それでも、人は意識にとどまるのでしょうか?


マハラジ  宇宙がマインドの身体であるように、意識は至高なるものの身体だ。至高なるものは意識しないが、それが意識を発現させるのだ。


質問者 私の日々の活動は、その多くが習慣によって自動的に行われています。広範囲の活動に気づいてはいても、一瞬一瞬、詳細にわたってではありません。私の意識がより広く深くなるにしたがって、細部への関心は退き、広範囲の方向へと私を開いてくれます。ジニャーニにも、少なからずそういったことが起こるのでしょうか?


マハラジ  意識のレベルでは、そうだ。至高の状態においては、そうではない。至高の状態は分割不可能で、完全にひとつであり、ひと塊の実在なのだ。それを知るためのただひとつの方法は、それになること、それとして在ることだ。マインドはそれに到達できない。それを知覚するために感覚器官は必要ない。それを知るためにマインドは必要ないのだ。


質問者 神はこうして世界を動かしているのですね。


マハラジ  神は世界を動かしてはいない。


質問者 それでは、誰がそれをしているのですか?


マハラジ  誰もしてはいない。すべてはひとりでに起こるのだ。あなたが質問をし、あなたが答えを供給している。そして質問するとき、あなたは答えを知っている。すべては意識のなかの戯れなのだ。すべての分割は幻想だ。あなたの知ることができるのは偽物だけだ。真我に、あなた自身がならなければならないのだ。


質問者 観照されている意識があり、観照している意識があります。二番目のものが至高なるものなのでしょうか?


マハラジ  二つのものがある。個人と観照者つまり観察者だ。それらをひとつとして見て、それを超えたとき、あなたは至高の状態にある。それは知覚不可能だ。なぜなら、それが知覚を可能にするものだからだ。それは存在と非存在を超越している。それは鏡でも鏡のなかのイメージでもない。時を超えた実在、信じがたいほど堅固で、確固たるもの、それがそれである。


質問者 ジニャーニは観照者なのでしょうか、それとも至高なるものなのでしょうか?


マハラジ  もちろん至高なるものだ。だが、彼は普遍的観照者でもある。


質問者 しかし、彼は個人としても在るのでしょうか?


マハラジ  あなたが自分自身を個人だと信じるならば、至る所に個人を見る。実際には、個人というものは存在しない。あるのは記憶と習慣の脈絡だけだ。真我を実現した瞬間、個人は消え去る。アイデンティティは残る。だが、アイデンティティは個人ではない。それは実在そのもののなかに本来備わっている。個人はそれ自身のなかに存在をもっていない。それは観照者のマインドに映った「私は在る」という感覚であり、また、存在のひとつの様式なのだ。


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