聴く


ある方が先日おっしゃっていた、人生とは「聴く」という動詞ひとつではないか、を思い出しています。


聴こうとするのかは自由選択で、いったい何を、誰から、何故聴こうとするのでしょうか。
理由は無数でも、結果は二択です。


ある人は
聴こうとして、
ある人は
聴こうとしませんでした。


この感性を持つ人は、既に聴こうとしている人なのかもしれません。
自分の主張を脇に置いて、自然に聴こうとする。


人に聴くわけでもないんですね。
ダヴィンチの指摘したとおり、わたしたちは
自然の子供であり、自然の孫に甘んじる必要はありません。


それぞれが父であり母である自然に聴く。
もちろん自然の子供である他の兄弟姉妹に学ぶことも大切です。


聴く、という動詞を忘れないでいたいと感じました。



万人が善である、ということを理解するまでは、自分自身の中にも、他人の中にも、善を見つけるのはむずかしいでしょう。あなたは善を見つけたかと思うと、悪も見つけます。「これは良い。これは悪い」これが、あなたが自分と兄弟をはかるものさしです。


あなたの兄弟は善人でも悪人でもなく、あなたもまたそうです。そして、だれもみな善人でしかありえません。自分の中には悪いところがあると信じているかもしれませんが、それはまちがった信念です。その信念にしがみついているかぎり、自分をむち打ちつづけるか、他人をむち打ちつづけるかです。


あなたがたみなは善人でしかありえない、とわたしが言うとき、それはどういう意味でしょうか。あなたの経験するこの世界を形づくっているのは、思考のみです。心(マインド)からネガティブな考えを追い出すことができれば、まったくちがった世界に住むことになるでしょう。


善である考えしかないような世界では、比較は不可能です。比較がなければ、解釈もなく、失敗も、処罰も、犠牲も、苦悩もありえません。あなたの中にも兄弟の中にも悪はない、善のみである、と理解することで、こうした新しい世界を作り出すことができます。「悪」を現実らしく見せているのは、悪に対する恐怖心なのです。あらゆるネガティブなものは、恐怖心から起こってきます。「悪」という概念自体が恐怖に満ちた考えです。


あなたが生まれもっている善性以外に、いったい何が存在しているのでしょう。それは「自分が善ではないのではないか」という疑いです。恐怖心です。あなたがたの人生は、疑いと恐怖心にたえずおびやかされつづける善性から成り立っています。


経験の中にはつねに疑いと恐怖心が働いていることを知れば、それらの存在を意識できるようになるでしょう。そうすれば、それらは意識というダンスの一部分にすぎなくなります。しだいに非難の調子は薄れていきます。恐怖心は受けいれられるにつれて、徐々に消えてゆくのです。


自分の善性を自覚した心からは、葛藤が消し去られます。心はみずからの善性を自覚した以上、それを他人にもおよぼして考えずにはいられなくなります。聖なるものは、二極対立から自由であり、あらゆる葛藤からも自由です。自分と兄弟姉妹の善はひとつであり同じものであると悟るとき、あなたは聖なるものに対して開かれます。聖なるものは、つねに共有されます。


特権的独占物はすべて、恐怖心が生み出したものです。


神の子の中に、悪でありえるようなものはいません。せいぜいが傷ついているという状態です。そういうときには、自分の苦しみを他人のせいにして攻撃し、非難します。でも、それは悪とはちがうのです。あなたの慈悲心は、ここまで深まるべきです。あなたの宥しに値しないような人間はひとりもいません。あなたの愛に値しないような人間はひとりもいません。


だれかを宥し、愛することがむずかしいようでしたら、むずかしいのです、と言ってください。自分の弱さを正当化するために相手を非難しないでください。あなたが恐怖心をもっているのであれば、そう言ってください。


恐怖心につかまっている人だけが、他人を判断し、批判します。自分の恐怖心を自覚してください。自覚すれば、他人を批判したりしません。恐怖心はつねに知覚をゆがめるものであることが、やがてわかるからです。


真実を言ってください。「神よ、わたしはこの兄弟の姿を正しく見ることができません。相手を判断しようとしているからです。どうか、わたしがこの判断を捨てられますよう。そして、彼のふるまいがわたしにいかなる恐怖心を起こさせたのかが、理解できますように」


あなたが兄弟に対してくだす判断はすべて、自分の嫌いな部分、受けいれられない部分がどこかを正確に語っています。自分自身の痛いところをつかれるのでなかったら、けっして相手を憎むことはありません。だからこそ、怒り、恐怖心、判断を正当化しようとする試みはことごとく、みじめに失敗するのです。それはただ自分の過ちを、だれかの名前で非難するのにすぎないからです。



質問者 どのようにしてあなたが真我を実現したのか、話していただけますか?


マハラジ  三十四歳でグルと出会い、三十七歳にして実現したのだ。


質問者 何が起こったのでしょう?どのような変化があったのでしょうか?


マハラジ  快楽と苦痛による影響が消え、欲望と恐怖から自由になったのだ。私は満たされ、何も必要ではなくなった。純粋な覚醒の大海のなか、宇宙意識の表層で、世界という現象の無数の波が無始無窮に立ち現れては消えゆくのを私は見たのだ。意識としては、それらはすべて私自身であり、出来事としては、それらはすべて私のものだ。ある神秘的な力がそれらを維持している。その力が真我、生命、神と呼ばれるものだ。金の宝飾品の基本素材がすべて金であるように、それらは存在するすべてを究極的に維持する土台だ。そして、それはとても親密に私たち自身のものなのだ!宝飾品から名前と形を取り去れば、金が明白になる。名前と形から、そしてそれらをつくり出す欲望と恐れから自由になりなさい。そうすると何が残るだろうか?


質問者 無です。


マハラジ  そうだ。虚空が残る。だが、その虚空は完全にすべてを満たしている。意識の永遠の可能性が、永遠の現実となるのだ。


質問者 可能性とは未来を意味しているのでしょうか?


マハラジ  過去、現在、未来のすべて、そしてかぎりなくそれ以上だ。


質問者 しかし、虚空は虚空にすぎず、私たちにはあまり役に立ちません。


マハラジ  どうしてそう言えるだろう?連続性のなかに中断がなくても再誕生は可能だろうか?死がなければ再生もありえない。眠りにおける暗闇も、新鮮さと活力の回復をもたらす。死がなければ、私たちは永遠の老衰のなかに沈み込んでいることだろう。


質問者 不死というものは存在しないのでしょうか?


マハラジ  生と死がひとつの存在における二つの層として、互いに必須のものと見られたとき、それが不死だ。はじまりのなかに終焉を見、終焉のなかに始まりを見ることが永遠を示唆している。不死が連続性でないということは明白だ。変化というプロセスだけが続いていく。永遠に存在するものなど何もない。


質問者 気づきは永続するのでしょうか?


マハラジ  気づきは時間のなかにはない。時間は意識のなかにのみ存在する。意識を超えて、どこに時間と空間があるだろう?


質問者 あなたの意識の領域にはあなたの身体も在ります。


マハラジ  もちろんだ。しかし、ほかの身体と異なったものとしての「私の身体」という考えはない。私にとってそれは「私の身体」ではなく「ある身体」であって、「私のマインド」ではなく「あるマインド」だ。マインドが身体の面倒を見る。私が干渉する必要はない。為されるべきことは、通常の自然な方法で為される。生理的機能に関しては、あなたはまったく意識していないかもしれない。だが、思考や感情、欲望や恐れにいたっては、あなたは自己意識に鋭敏になる。私にとっては、これらもまた全体として無意識の内にある。私はさほど意識もせずに人びとと話をし、まったく正しく適切に事を運んでいることを見いだすのだ。あたかも私は自発的にしかも的確に反応し、自動的にこの物質的な目覚めの生を生きているかのようだ。


質問者 この自発的な反応は真我の実現の結果なのでしょうか、それとも訓練によるものでしょうか?


マハラジ  その両方だ。真理の探究と、人びとを助けるという目的に捧げられた献身が、あなたに清らかな、秩序ある生をもたらす。そして真我の実現が、欲望や恐れ、そして誤った考えという障害を取り除き、容易に、自然に尊い徳をもたらすのだ。



今日をありがとうございました。
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