分離意識とは神との分離意識


神との分離意識「カーテン」の実在をありのまま認めて尚かつ


「カーテンからいつでも目を逸らすことができる」ということ。


苦しみの特効薬とはこのこと。「目を逸らすことが可能」という福音の知らせ。


カーテンは実在しないと思い込もうとする、と逆効果です。


「私」はありますし、そのおかげで「世界」も顕れています。


ですが「私」から「視線を逸らすことは一生できない」は嘘です。
最大の嘘です。


霊性の道とはこの嘘を伝達し、わたしたちのほんとうは何が可能か
苦しみを乗り越えることが可能か示すことです。



無条件の愛は、自然にあなたのもとにやってきます。自分自身や他人にあわれみを寄せるのは、あなたの本性なのです。手をのばし、友人を慰めたいと思うのは、あなたにとって自然なことです。気遣ってくれる人たちの愛を受けいれるのは、あなたにとって自然なことです。どれにも努力はいりません。学習もいりません。


ではなぜ、無条件の愛を経験することが、めったにないのでしょうか。もともと、あなたがたは神とひとつで、その愛の全能の力を分かちもっていました。人間として生きてみると、それは初めての経験でしたから、自信がもてません。疑いが入りこんできて、こう思います。
「もし、なにかうまくいかなかったら?」
この疑いは、分離の不安にすぎなかったのですが、ほかの多くの恐怖心を呼び起こしてしまいました。その中には、


「わたしが事態をめちゃくちゃにしたら、神はお怒りのあまり、わたしを愛してくださらなくなるだろう」
というものもありました。この考えが決め手になったのです。


ほどなく罪悪感と、愛に満ちた神から切り離されるという感情が経験されるようになりました。この分離はあなたがたが創りあげて、自分に押しつけたものですが、とてもリアルに感じられます。あなたがたはそれを信じるようになりました。そのあとであなたがたの創造したものは、その信念の結果です。つまり
「神はわたしを愛しておられない。わたしに満足しておられない。わたしは神の愛に値しない」ということです。


そして自分自身の心(マインド)の中で勝手に、恩寵から失墜してしまいました。神の愛の全能の力を分かちもっていたのに、その愛を怖れるようになりました。自分自身の創造力を怖れるようになって、それを見えないところへ隠してしまったとも言えます。あなたは創造者であることをやめ、犠牲者になりました。原因であることをやめ、結果になりました。


分離を感じているときには、その分離以前がどんな感覚だったのか、思い出すことはできません。それがあなたがた特有のジレンマのようです。


神へもどる道を見いだすには、一歩一歩足跡を逆にたどって、「分離」は自分が選んだもので、神が選んだのではないと悟ることです。「わたしが、もしこの力を濫用してしまったら」とあなたは考えました。そのせいで、自分の力が怖ろしいものになるような世界を創る方向へ行ってしまいました。あなたはさらに先へ進んでゆき、神があなたの疑いと恐れに答えてくださるのを待たなかったのです。


もし神のお答えを聞いたとしたら、それはたぶん次のようなものでしょう。
「おまえは無条件に愛されている。わたしはおまえへの愛をひっこめたことは一度もないのだよ。愛されていることを思い出せば、おまえは愛に満ちたふるまいしかできないだろう」


神のこのお答えを聞いたら、分離されたというあなたがたの夢も終わることでしょう。それは、
自分が愛されていないという思いこみ
を、まっこうから打ち破るものだからです。この思いこみが非現実的な考えのおおもとです。あらゆる犠牲者意識は、この思いこみから生まれます。
わたしは愛されるに値しない
と信じていないかぎり、「悪い」ことを考えたり「悪い」ことをしたりはできません。あらゆる攻撃も、このたったひとつの思いこみから来るのです。



質問者 私の職業は医師です。外科からはじめて、現在は精神医学をやっています。また、信仰による精神的健康とヒーリングに関する何冊かの著作があります。あなたから霊的健康の法則を学ぶために来ました。


マハラジ  あなたが患者を治療しようとするとき、正確には、あなたは何を治そうとしているのだろうか?治療とは何だろうか?人が治ったと言えるのはどの時点だろうか?


質問者 私は身体を治療すると同時に、身体とマインドのつながりも改善しようとします。また、マインドを回復させようともします。


マハラジ  あなたはマインドと身体の連結を調べただろうか?どの点でそれらは連結しているのだろうか?


質問者 身体と内在する意識の間にマインドがあるのです。


マハラジ  身体とは食べ物によってできたものではないだろうか?そして、食べ物なしにマインドがありうるだろうか?


質問者 身体は食べ物によって築かれ維持されています。食べ物なしにはマインドは通常衰弱していきます。しかし、マインドは単なる食べ物ではありません。そこにはマインドを身体のなかにつくり出す、ある変容させる要因があります。その変容させる要因とは何でしょうか?


マハラジ  木が木ではない火を生みだすように、身体は身体ではないマインドをつくり出すのだ。しかし、マインドは誰にとって現れるのだろう?あなたがマインドと呼ぶ思考や感情を知覚するのは誰だろうか?木があり、火があり、火を楽しむ人がいる。誰がマインドを楽しむのだろうか?楽しむ人もまた食べ物の結果だろうか、あるいはそれに依存しないのだろうか?


質問者 知覚する人は依存しません。


マハラジ  どうやってあなたは知るのだろう?あなた自身の体験から語りなさい。あなたは身体でもなくマインドでもないと言う。どのようにしてそれを知るのだろうか?


質問者 私は本当は知りません。そう推測したのです。


マハラジ  真理は永遠のものだ。実在は不変だ。変化するものは実在ではない。実在は変化しない。さて、あなたのなかで変化しないものとは何だろうか?食べ物があるかぎり、身体とマインドはある。食べ物がなくなれば、身体は死に絶える。マインドは溶け去る。だが、観察者は消えるだろうか?


質問者 私は消え去らないと思いますが、証拠がありません。


マハラジ  あなた自身がその証拠なのだ。ほかのどんな証拠もあなたはもっていないし、もつこともできない。あなたはあなた自身だ。あなたはあなた自身を知り、あなた自身を愛している。何であれマインドがすることは、それ自身への愛のためにするのだ。自己の本性そのものが愛なのだ。それは愛し、愛され、そして愛すべきものだ。身体とマインドをそんなにも興味深く、親しくするのは自己だ。それらに与えられる配慮自体も自己からやってくるのだ。


質問者 もし真我が身体でもマインドでもないなら、身体とマインドなしに自己は存在できるのでしょうか?


マハラジ  できる。自己がマインドと身体から独立した存在だということは実際の体験なのだ。それは存在―意識―至福だ。存在の意識は至福なのだ。


質問者 それはあなたにとっては実際体験でしょうが、私にとってはそうではありません。私はどのようにして同じ体験に行き着くことができるでしょうか?何の修練にしたがい、どのような訓練をすればよいのでしょうか?


マハラジ  あなたが身体でもマインドでもないと知るには、あなた自身を油断なく揺るぎなく見守ることだ。また、あなたの身体とマインドに影響を受けることなく、完全に距離を置き、あたかも死んでいるかのように生きるがいい。つまりあなたは身体にもマインドにも既得権をもっていないという意味だ。


質問者 それは危険です!


マハラジ  私はあなたに自殺しろと言っているのではない。それに、あなたにはできない。あなたが殺せるのは身体だけだ。精神的過程を止めることはできないし、あなたがあなただと考えている個人に終止符を打つこともできないのだ。ただ、影響を受けずにいなさい。このまったく超然と離れて在ること、マインドと身体に無関心であることは、存在の核心では、あなたが身体でもマインドでもないことの最良の証明なのだ。身体とマインドに起こることは、あなたの力では変えられないかもしれない。しかし、あなたはいつでもあなたが身体とマインドだと想像することをやめられるのだ。何が起ころうとも、影響を受けるのはあなたの身体とマインドだけで、あなた自身ではないのだと思い出しなさい。覚えなければならないことを覚えることに誠実であればあるほど、あるがままのあなた自身に早く気づくようになるだろう。なぜなら、記憶が体験となるからだ。誠実さが存在を明かすのだ。想像し、決意したことが現実となる。ここに危険性と、また同様に解決の糸口があるのだ。あなたがどのようにして不変である本来の自己を身体とマインドから切り離したのか、話してみなさい。


質問者 私は医者です。私は多くを学び、訓練方法としての厳しい制御と、定期的な断食を自らに課してきました。私は菜食主義者です。


マハラジ  しかし、ハートの奥底で、本当にあなたが欲しているものは何だろうか?


質問者 私は実在を見いだしたいのです。


マハラジ  実在のために、どれほどの代償を支払う用意があるのかね?いくらでもかまわないかね?


質問者 理論的には、いかなる代償も支払う用意があります。実際の人生では、何度も何度も私と実在の間を阻むような行動をさせられてきました。欲望が私を夢中にさせるのです。


マハラジ  あなたの欲望を、実在以外にはそれを満たすことができなくなるほど増大させ、拡大させなさい。欲望が間違いなのではない。だがその狭さ、小ささが間違いだ。欲望とは献身だ。ぜひとも真実に、かぎりなきものに、生命の永遠のハートに献身しなさい。欲望を愛に変容させなさい。あなたが求めているのは幸福であることだけだ。あなたのすべての欲望はそれが何であれ、あなたの幸福への熱望の表現なのだ。基本的に、あなたはあなた自身の幸福を望んでいるのだ。


質問者 そうすべきではないと、私は知っています……。


マハラジ  何だって!誰がそうすべきではないとあなたに言ったのかね?幸せになることの何が悪いのか?


質問者 自己は去らねばなりません。


マハラジ  しかし、自己はそこにある。あなたの欲望はそこにある。あなたの幸福への熱望はそこにある。なぜか?なぜなら、あなたはあなた自身を愛しているからだ。あなた自身を愛しなさい。賢明に。あなたを苦しめることになるような、愚かな仕方であなた自身を愛してはならない。あなた自身を賢明に愛しなさい。耽溺も禁欲も、ともにあなたを幸せにする同じ目的をもっている。耽溺は愚かな方法であり、禁欲は賢い方法だ。


質問者 禁欲とは何でしょうか?


マハラジ  ひとたびあなたが体験を通り抜けたなら、ふたたびそれを通らないことが禁欲だ。不必要なことを避けることが禁欲だ。つねにものごとを制御することが禁欲だ。欲望自体は何も悪いものではない。それは生命そのもの、知識と体験のなかに成長しようとする衝動なのだ。間違いはあなたの選択にある。食べ物、セックス、権力、名声といったささいなことがあなたを幸せにすると想像するのは、自分自身を欺くことだ。あなたの本来の自己のように、深く、広大な何かだけがあなたを真に、永遠に幸福にするのだ。


質問者 自己愛の表現としての欲望が何も基本的に間違ったものではないとすれば、どのように欲望を扱えばよいのでしょうか?


マハラジ  つねにもっとも深い自己への興味を心に保ち、生を知的に生きなさい。結局、あなたが本当に欲しいのは何なのか?完璧ではない。あなたはすでに完璧なのだ。あなたが求めているのは、あなたであるものを行為のなかで表現することなのだ。このためにあなたは身体とマインドを持っているのだ。それらを手にし、あなたに仕えさせなさい。


質問者 ここで操作をする人は誰でしょうか?誰が身体とマインドを手にしているのでしょうか?


マハラジ  浄められたマインドが自己の誠実な奉仕者なのだ。それが内面と外面の道具を監督し、それらを目的のために仕えさせるのだ。


質問者 それらの目的とは何でしょう?


マハラジ  自己は普遍のものだ。そしてその目的も普遍のものだ。自己には個人的なものは何もない。秩序ある生を生きなさい。だが、それ自体を目的にしてはならない。それは高次の冒険のための出発点であるべきだ。


質問者 あなたは私がインドを繰り返し訪れることを勧めますか?


マハラジ  もしあなたが真剣ならば、あちこち動き回る必要はない。どこにいようと、あなたはあなた自身だ。そして、あなたは自分自身の空気をまわりにつくり出す。移動や交通は解放を与えはしない。あなたは身体ではないのだ。身体を場所から場所へと引きずりまわしても、あなたをどこへも連れて行きはしない。あなたのマインドは三界を思いのままに行き来するのも自由なのだ。それを最大限に利用するがいい。


質問者 もし私が自由ならば、なぜ身体のなかにいるのでしょうか?


マハラジ  あなたは身体のなかにはいない。身体があなたのなかにあるのだ!マインドはあなたのなかにある。身体とマインドはあなたに起こるのだ。それらがそこにあるのは、あなたがそれらに興味をもったからだ。あなたの本性は楽しむための無限の能力をもっている。いっぱいの情熱と愛情をもっている。それはその輝きを気づきの焦点のなかに来るすべてに放ち、何ひとつ除外されるものはない。あなたの本性は悪も醜さも知らない。それは期待し、信頼し、愛する。あなたたちはあなたの本来の自己を知らないことで、どれほど逃しているかを知らないのだ。あなたは身体でもマインドでもない。燃料でも火でもない。それらはそれら自体の法則にしたがって現れては消えるのだ。あなたであるそれ、あなたの本来の自己、あなたはそれを愛している。そして何であれあなたのすることは、あなた自身の幸福のためにするのだ。それを探し、それを知り、慈しむのはあなたの基本的な衝動なのだ。遙かなる昔から、あなたはあなた自身を愛してきた。だが、けっして賢明なやり方ではなかったのだ。自己に仕えるために、あなたの身体とマインドを賢く使いなさい。それだけだ。あなた自身の自己に真実でありなさい。あなた自身を絶対的に愛しなさい。他者をあなた自身のように愛しているというふりをしてはならない。彼らとあなたがひとつであると悟らないかぎり、あなたに彼らを愛することはできない。あなたではないもののふりをしてはならない。あなたであることを拒んではならない。あなたの他者への愛は自己知識の結果であって、その原因ではない。真我の実現なしには、いかなる徳も本物ではない。すべてを通して同じ生命が流れ、あなたがその生命なのだということを、疑いを超えて知ったとき、あなたはすべてを自然に自発的に愛するだろう。あなたが、あなた自身へのあなたの愛の深さと豊かさを悟ったとき、すべての生きているものたちと宇宙全体があなたの愛情のなかに含まれていることを知るだろう。しかし、何であれあなたから分離していると見るとき、あなたはそれを愛せない。なぜなら、あなたはそれを恐れているからだ。疎外は恐れを引き起こし、恐れは疎外をより深くする。それは悪循環だ。真我の実現だけがその輪を断ち切ることができる。固い決意でそれに向かいなさい。



今日をありがとうございました。
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