映写機の手元
映像に変な暗がりがある場合、灯台下暗しなのは映写機に指がかぶっているというような場合です。
それは「小さな意図」なんです。コントロールしよう、操作しようという些細な、小さな意図です。その手元では小さな意図なんですが、映像のすべてを覆うほどの暗がりになります。
原初の傷は、創造主(愛)との分離を絶叫するほど怖れていることですが、
その怖れを一時的に忘れようとするために、わたしたちは色々やらかすんですね。
色々やらかしても楽にはなりませんし、かえって苦しみは増大します。
手元の問題は解決せず、余計な問題まで増やしたんですから。
人が何かをしなければならない、今この瞬間変わらなくてはならないと考えている焦りの根源こそ手元側です。
あなたの経験を人と分かちあってください。でも、押しつけてはいけません。あなたには、ほかの人が何を必要としているかわからないのですし、それはあなたが知らなくてよいことです。
自分自身の体験とともにいることを学んでください。「分析・解明」につとめなさいとは言いません。「ともにいる」ことは分析的行為ではありません。むしろ、自分の体験を分析検証することはできないと知りなさい。それとともにいるか、それを知的に解釈するかですが、後者はもちろん逃避です。
あなたは毎瞬、人生の船を本来のコースにもどすのに役立つようなささやきを受けとっています。でもそれと「ともにいる」「耳を傾ける」時間がとれなければ、それらのささやきは聞こえません。
遅かれ早かれ、人生をこうあるべきだと考えるとおりに動かそうとあくせくしても、行き詰まります。そのとき、あなたは「なぜ、わたしはこの移行を経験しようとしているのだろう。焦点をあわせている対象を、変える必要があるのだろうか」と思いはじめます。そして、耳を澄ませて、答えを聞こうとするのです。
ものごとがスムーズにいっているときに、わざわざ修正する必要はありません。しかし海が荒れ模様になってきたら、とまって針路を考えなおしたほうがよいでしょう。まさにこの時に得た洞察が、あなたの人生を深いところで変えていきます。
毎日二時間瞑想せよ、などと勧めているのではありません。定期的な瞑想が役に立たないと言っているのでもありません。ただ、人生には、静かにして聞き耳を立てるべき時期があります。その時期をたいせつにすることを学べば、多くの悲しみを免れられるでしょう。
内なる言葉に耳を澄ませることを学べば学ぶほど、起きた経験と「ともにいる」ことになります。自分の経験とともにいるために時間をとろうとしなければ、人生のできごとの一方的な犠牲者になった気がしてきます。それは大きな自己欺瞞です。あなたは自分の経験に対して、なにか征服したり、コントロールしたりしなければならないものである、というふうな態度でかかわります。経験が期待にそわなかったとき、あなたは不当に罰せられたと感じます。実はそうではありません。そうではなくて、あなたはただ、コントロールせねばという思いのネガティブな結果のほうを経験しているだけです。
あなたは経験に対して、自分を開いていません。それとたえまないふれあいをもってはいません。対話をしていません。だからこそ経験とあなたとの関係は、愛憎半ばするような関係になってしまうのです。
真実をいえば、人生はあなたを祝福しているのでもなければ、罰しているのでもありません。人生はあなたとともにはたらき、あなたがなにものかという真実に目覚めるのを助けてくれます。それは、あなたの教師です。
耳を傾けるのを選ぶとは、自分の人生との共存関係に自分をまかせ、あけわたすことです。思考、行動、修正というダンスを受けいれることです。そうすれば、これらすべてを学びのプロセスにおいて必要な、しかも味わい深いものとして経験することになります。
HN:
Fiora & nobody