もう地球のアセンションに対して「間に合わない人々」が出始めているという観測が一部に出ています。
(事実かどうかは完全に脇に置いて、これは方便としてはとても有効だと感じています。神はわたしたちを見捨てることはありません。ありませんがそれは人間の形態を守るという意味ではありません。創造主の意図に「寄せ」なければならないのはわたしたちの方です)
この真偽はわかりません。
新しい「地球の振動数」に耐えることのできる人と、耐えることのできない人に分かれるのだとは思いますが、
耐えることができないとは、病気になることなのか。
いったいどういうことが起こるのか、予想もつきません。
気をつけるべきなのは、
わたしたちの肉体と高次エネルギー体は「重なっている」ということです。
肉体側で何も起こっていないように見えても、高次エネルギー体側とそれが属している次元では事態が進行している可能性があります。
アセンションに耐えられる者たちとは
高次エネルギー体に既に変化が起こっていて、その変化が「感じとれる」ような人たちではないかと思います。
感じる場所は主に胸でしょうから、胸にしるしが顕れている人ばかりだと思います。
あとは腹です。
しるしというと大袈裟ですが、やってることはとても簡単な差です。
「いま」にいるか、想念によって「過去」に引っ張られているか、それだけの差です。
過去に引っ張られている人は
「私」という分離のカーテンを維持する習慣の中で生活しています。
「私」が見過ごされていればすべての苦しみ「陰オン」が顕れます。
「陰オン」に感謝することなく避けて逃げまわると悪循環です。
「陰オン」を認め、「私」を見過ごすことのないデフォルト位置を確かめます。
それは想念と想念の隙間です。
この隙間にきちんと焦点をあて、「私」を出現させることがないように
「見張る」のならば、苦しみは終わります。
あなたの経験している次元だけが、次元なのではありません。ほかにも多くの教室があり、それぞれに独特なカリキュラムが組まれています。
あなたがたの教室の中心課題とは、対等性ということです。すべての存在はどのような状況におかれていようと対等だ、ということを学ぶために、あなたはここに来ています。男、女、黒人、白人、ヒンズー教徒、カソリック教徒、みな存在の価値においては対等です。上下関係というものはあなたが作ったものですから、廃止すべきです。あなたがたの多くはこのカリキュラムをずいぶん昔から学んでいます。どのくらい長くかは言いますまい。
あなたがたはいろいろ独創的なやりかたを考えだしては、他人とのほんとうのスピリチュアルな対等性をこわしてきました。ある人々は貧困な環境にあり、ある人々は多くの財産を所有します。また食べ物に事欠かない人がいると思えば、かつかつの人もいます。どうか理解してください。あなたがたがもうすでにここでのカリキュラムをマスターしていれば、こうした不平等な環境は存在していないでしょう。
ですから、あなたがたがここに来たのは、ある人々は他の人々よりも価値がある、というような根深い信念をくつがえすためです。
まず、対等という真実を、自分自身に対して認めなさい。他の人よりも優れている、劣っている、と感じるなら、まだ自分のスピリチュアルな実相という真実を受けいれていないのです。
第二に、まわりの人も対等であることを受けいれなさい。つまり、もしあなたがその人たちよりあるものをたくさん持っていれば、それを喜んで分かちなさい。そして反対に足りなければ、どうか助けてくださいと頼みなさい。
あなたがたがここにいるのはまた、万人の自己決定権を尊重するということを学ぶためでもあります。他人のものごとを自分が決めたり、自分のものごとを他人に決めさせたりするなら、あなたがたはおたがいの対等性を受けいれていません。
この干渉しあいのせいで、あなたは自分がこうしよう、あるいはこうすまいという決定の責任を、兄弟に負わせるという許可証を手に入れています。でもそれは偽りの許可証です。そのうち、自分が傷つけたり助けたりできるのはたったひとりだけであり、それは自分自身だということがわかってきます。自分のする決定に自分で責任をとり、兄弟にも同じようにさせるときに初めて、あなたは自分自身の真の姿、兄弟の真の姿を認められるのです。
これはとても単純に聞こえるかもしれません。しかし、対等性の実践は、たいへんに奥の深いものです。
肉体を離れてからのあなたは、非物質的な教室で学びを継続することになるでしょう。そこでは学びも加速されます。なぜならそこには、思考がものを創造する効果を妨げるような時間も空間もないからです。
あなたがたの世界では、思考が目に見える効果をあらわすには時間がかかります。非物質的な次元では、この転換プロセスは自動的に起きます。たとえば、もしあなたが「友だちのボブのところへ行ってみようかな」と思うと、そのとたんにボブの居間にいます。移動にはまったく時間がかからず、空間を通りもしません。
あなたがたの中には、非物質次元の存在との交流を経験した人もあるでしょう。そうした交流は、純粋に思考を通じて起こります。次元間の交流はむずかしいものですが、不可能ではありません。練習を積めば、この制限された時空の外に手をのばす力も増してゆくはずです。
非物質的な教室では学びが加速されますから、肉体を離れた多くの存在は、そこで思考をコントロールする力を身につけます。それで、また物質的環境に入っていってもこの力を使えるだろうと自信をもちます。しかし、この物質性の濃い環境でその力を発揮できるのは、何百万人のうちのほんのひとにぎりです。
次のように言えばわかりやすいでしょう。自然科学が明らかにするところでは、地球の磁場の重力を離れたとき、体重がゼロになり、地上ではとうていできないアクロバットができるようになります。また、地球の濃い大気圏を離れれば、老化の速度が落ちるのです。物理法則の多くはこの地上に限定されたものですから、地上を離れれば法則の内容も変化します。肉体を離れた場合にも、同じ現象が起きます。
夢の中では、あなたは大胆不敵な現実を創造します。しかし非物質的な経験は、夢の状態よりもさらにドラマティックなのです。創造の可能性は無限大となります。
ですから地上の学校は、地上に接続している非物質的な教室で学んだ技術をためす環境となります。カリキュラムをマスターするまでは卒業できません。すべての人がこのことを知っているので、レッスンを学び終えたことを証明するために、また地上に転生したいと熱望しています。
なぜ、それなのに困難が多いのでしょうか。まず重力という比喩的な状況を見てみましょう。無重力の場所では、五メートルくらい飛び上がるのもかんたんです。空を飛ぶこともできます。しかし地球にもどればジャンプもせいぜい二メートルちょっとです。空を飛ぶなどという夢は、抱きたくても抱けません。
物質的経験が起こるこの濃密な環境を支配するのは、むずかしいのです。そのことを直視してください。ついさきほどまで、思考がすぐに実体化するような非物質的な環境を経験していたものにとって、それはまさに拷問でしょう。しかし、そのうち意識が縮小してこの肉体になじむようになり、創造の可能性に満ちた他次元の感触など締め出してしまいます。
かんたんに言えば、意識は、物質的環境のもつ濃い密度に吸収されてしまいます。そこで罠にかかり、犠牲者になったような気がします。制限のゆるかった状態を思い出すこともありません。自分が肉体でなかったことも思い出しません。
あなたがたが物質的な教室にいるこの時代は、移行の時代です。現代は、人類史上もっとも多くの光がこの惑星上にある時代でもあります。
いまではほとんどの人が、この変容の性質を知っているはずです。あなたがたは犠牲者の人生をようやっと克服するために、ここに来たのです。自分の現実(リアリティ)を自分で決定する創造的な力を受けいれ、また、兄弟みずからの創造的な力に目覚めさせるために、あなたがたはここに来ました。集団として、それをなしとげる用意は整いました。わたしもあなたがたに力を貸します。あなたがたはわたしやほかの教師との非物質的な交流を通して、自分の苦しみを増大させるような状況を手放し、本来の”聖性”に目覚めてゆくでしょう。
地上でのわたしの使命を達成するには、あなたがたひとりひとりの力が必要です。あなたがたを通して、わたしの教えは瞬間瞬間に行動で実現されてゆくでしょう。
人々をたがいに分断するような「言葉」というものには、もう重きをおくことはできません。愛と宥しの原理を「行動にうつす」ことにこそ、重点は移ってゆくべきです。
個人的にも、そして集団としても、非物質的現実に波長を合わせることが、惑星の変容のプロセスの欠かせない第一歩です。
あなたのもっとも神聖視する信念に敵対したからといって、その兄弟を死刑にしようとは思わないでください。彼を非難することは、わたしを非難することです。また兄弟を完全無欠と思いこんで、まつりあげるようなこともしないでください。完全無欠な人はいません。
兄弟姉妹とあなたの対等性を、祝福することを学んでください。そのことによって、あなたはわたしとも対等になるのです。わたしを対等なものとみなしたとき、わたしとあなたの交流はみちがえるように進むことでしょう。
あなたが兄弟姉妹をハートに迎えいれるとき、あなたはわたしに対しても扉を開いたことになります。わたしが愛しく思わないような兄弟姉妹はいないからです。わたしは相手を害した人と、害された人、両方の魂をのぞきこみます。
どちらも愛されたい、受けいれられたいと声をあげているので、わたしは拒否することができません。わたしの手であり、足であり、この世界における声であるあなたがたに同じようにすることを頼んでも、ふしぎはないでしょう。
忍耐をもち、そしてしっかりと立ってください、兄弟姉妹よ。わたしたちの仕事は、迫害者と犠牲者がいなくなるまでは終わりません。わたしたちが神の愛を受けいれ、その愛を出会うすべての人に分かつまでは、わたしたちの旅は終わりません。例外はありません。万人が、あるがままに受けいれられるべきです。そうすれば、その人は恐怖心や、他人への復讐心を手放すことができるでしょう。
わたしとともに歩むことは、神と人の双方に仕えることです。人に仕えるというのは、神がその人を覚えて心にかけておられる、ということを思い出させてあげることによってです。食べ物や飲み物、それに苦しんでいるときには慰めを与えてあげなさい。相手を抱擁し、あなたの肩に頭をのせさせてあげなさい。そして泣いていいのだと言いなさい。相手は両親にも、子どもにも、恋人にも、神にも見捨てられたと感じています。泣いているあいだに、慰めてあげなさい。なぜなら、あなたもついこのあいだまで見捨てられたと感じ、はらわたのよじれるような思いで、悲しみと後悔の涙を流していたではありませんか。
これが人間の経験というものなのです。
今日をありがとうございました。
HN:
Fiora & nobody