最大の詐欺師


それは自分の「判断」です。これ以上にわたしを欺く者はいません。
この詐欺師を敵ではなく中立にしなければならないと思います。


合目的的(ごうもくてきてき)


目的からずれてない、ということです。
細かい枝葉にこだわるのはやめて、目的に沿っているかどうかの判断が全体をスリムにしてくれます。



もし、兄弟のだれかがあなたを攻撃したら、その兄弟は自分が愛されていないと感じているのだな、ということに気づいてください。愛を感じていたら、あなたを攻撃したりなどしなかったでしょう。相手の攻撃に、まともに反応しないでください。自分が愛されているのだ、ということを思い出させる方法を考えます。


これを何度も何度もやります。


つぎにシンプルなウォーキング・メディテーションの例をあげます。


気持ちが晴れやかなときには仲間のところに出かけていって、悲しそうだったり、怒っていたりする人を見かけたら、自分が愛されているのだ、と思い出させてあげます。笑みを向けるとか、花や風船をあげるとか、サンドイッチをつくったり、コーヒーをいれてあげるとか。歌を歌ってあげてもいいし、詩を朗読してあげるのもいいでしょう。「これは全部、あなたのためにしているんですよ。どうかいい一日を楽しんでください」と言います。


また、自分が落ちこんでいるときにも、同じことをします。何度も何度もくりかえしてください。その結果に驚くでしょう。人に、そして自分自身に、自分は愛されているのだということを思い出させてあげるほど、エクスタシーに満ちたことはありません。


ただし、自分が愛されていると感じなければ、人に愛を贈ることはできません。ですから、あなたにはたったひとつだけ責任があります。あなたのハートの中にある愛を感じてください。そして他の人にもその愛を感じられるようにしてあげてください。


愛を与えたり受けとったりすることだけが個人の責任である、ということを万人が理解しているような世界が想像できますか。友よ、その世界は、あなたが指先ひとつを動かせば手に入るようなものなのです。


人生になにか欠乏があるときは、愛を持ちこむべきときです。自分が十分に得ていないと感じたら、自分が人に十分な愛や助けを与えていない面があるのです。


愛と助けを惜しまないでください。惜しみなく与えれば、あなたの生まれながらの権利である愛をたっぷりと受けとることができるでしょう。


愛されていると感じるときにこのメディテーションをして、どうなるか見てください。攻撃されていると感じるときにもおこなって、結果を体験してください。


実験してください。遊んでみてください。このメディテーションをどういう形で行うかには、あまりこだわらないでください。進んでやる気になれば、形はおのずと整ってきます。



あらゆる客観的現実は、主観的な合意の上で成り立っています。でも、この合意を厳密によく調べてみれば、紙のようにうすくて、あなたの知覚する世界をおおっている膜のようなものだとわかります。その薄膜の下では、だれのあいだにもどんな合意もありません。


ものごとは、特定のリズムと優雅さで起きています。でもそこに踏みこんで、意味を与えようとすれば、リズムも優雅さも失われます。これこれはこういう意味だとわかっている、と言うとき、あなたは理解を放棄します。


理解するためには、共感と賛美が必要です。しばらくその状況とともに動いてみると、その意味がおのずと感じとれてきます。それはけっして知的なプロセスではありません。


知性は判断をくだすのが仕事ですから、外界に出ていって、その判断が正しいと言ってもらおうとします。世界は、その判断を受けいれる人と反対する人で成り立っています。こういう世界では必然的に、競争、葛藤、嫉妬が起きます。


「現実(リアリティ)」ということの意味が知りたければ、そのことに対する判断をすべてひっこめ、ただそれとともに深くじっとしています。人生のどんな状況においても、これをすることができます。


もしあなたが、ガンと宣告されたばかりだとしたら、どうでしょう。それなら、そのガンとともにいます。自分がガンについてもっている考えのすべて、ポジティブなものであれ、ネガティブなものであれ、それらは解釈にすぎないのだということを、認めてください。ガンの意味は、あなたがいま決めつつあるのです。


これこれはこういう意味だ、と断定しないでください。それをそのままにし、それとともにい、それとともに動き、ともに呼吸してください。それについての考えから自由になれば、だんだんにその本質が理解できてきます。その理解を言語化することはできるかもしれませんし、できないかもしれません。そのことは重要ではありません。やがて、洞察がやってきます。


ものごとの意味や目的は、あなた自身の心(マインド)の奥底ふかくにあります。その意味を発見するには、自分の心をのぞきこまねばなりません。外界のいわゆる客観的事象をながめて意味を探そうとしても、時間のむだです。意味はそこにはありません。



ものごとの本質にせまりたいなら、あらゆる解釈から身を遠ざけ、状況とともにいることです。人がきて「こうすればいいとわかっているよ」と言っても、ていねいにお帰り願います。かれらの答えは、あなたがその状況にくだす判断と同じくらい、有毒なものです。


「これがどういう意味かはわからない。だから、じっくり時間をかけてみよう」と言うべきです。「人生にこの状況をもたらした知恵ある力は、その意味をも明かしてくれるだろうと信じよう」これがあなたのとりうる、もっとも愛に満ちた行為です。


しかし他人を遠ざける必要はありません。呼んで、いっしょにいてもらえばよいのです。手をとってもらいましょう。相手の顔を見つめましょう。心配してくれたことに感謝します。そしてこう伝えます。「なんとかしなければならないことは何もないんだよ……人生のもっと深いところで、何かが動いてるだけなんだ」


判断や解釈から自由になることほど、やさしいことはありません。それをするのは、きわめてむずかしいと感じるかもしれません。でもそれは単にやりかたを忘れてしまっただけです。


わたしが勧めているのは、あらゆるメソッドを捨て去ることです。メソッドは不要です。ただ判断、解釈、概念化、検証をやめればよいのです。「ただあること」以外は捨て去ります。そして、そのことの本質とともにいてください。そうすると、一見ばらばらな事柄のなかから、思いやり深い恩寵が見えてきます。そのときあなたは意味を理解し、それがそのようであることに感謝します。


目的意義が自分にとって完全に明かされれば、もう、それからしりごみする人はいないでしょう。でも、その目的は、むりやりに人生の秘密をこじあけようとする態度からは探りだせません。


辛抱強くあってください。おだやかでいてください。人生のあらゆる喜びと美はいまここにあります。あなたの目的意義はいまこの瞬間に、完全に姿を見せているのです。


自分の経験の外部に、意味を探さないでください。その経験自体を信頼し、それとともにいます。これこそわたしの与えるもっとも深い教えです。


今日をありがとうございました。
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