ゆうちょ限度額上げに反発=「共存の道断たれる」
全国銀行協会の佐藤康博会長(みずほフィナンシャルグループ社長)は18日の記者会見で、ゆうちょ銀行の預入限度額(現行1000万円)の引き上げが自民党の提言の原案に盛り込まれたことについて、「(民間金融機関とゆうちょ銀との)共存の道が断たれる」と厳しく批判した。第二地方銀行協会の石井純二会長(北洋銀行頭取)も反対を表明。今秋に株式上場を計画するゆうちょ銀などの業務拡大を後押しする自民党内の動きに対し、金融界の反発が強まってきた。(時事通信)


「感謝」の画像検索結果
豊かさの話をするなら、感謝にふれないわけにはいきません。感謝は、自分には価値があるという気持ちから生じ、豊かさの経験を支えます。というか、感謝知らずと不平不満は、自分には価値がないという感じから生じ、欠乏感にさらに拍車をかけます。どちらも閉じた円環です。


恵みの円環に入りたいのなら、自分自身や他人に愛を与える必要があります。恐怖心の円環に入りたければ、自分自身にも他人にも愛を与えないことです。


感謝する人は、不正な仕打ちを受けることがあろうとは信じられません。怒りに満ちた人は、神に愛されるなぞ想像もできません。どちらの世界に住みたいですか。選ぶのはあなたです。


毎瞬毎瞬、あなたは犠牲者になるか、自分に不当な仕打ちは起こりえないということを思い出すか、どちらかを選択します。前者の場合は、贈り物に不平を鳴らし、それを罰だとみなします。後者の場合は、やってきたものを、まだ今はわからないけれどもきっと恵みにちがいないと思って受けいれます。


感謝とは、神の愛をあらゆるものに見るという選択です。この選択をしたら、どうしたってみじめにはなりようがありません。


人生にどちらの態度で応じるか、その選択次第であなた自身の感じかたは違ってきます。絶望の中に住んでいるのは、あなたがもらった贈り物を粗末にしたからです。


なにかひとつのことについてありがたいと思ってみれば、このシンプルな公式の正しさがわかるでしょう。次に、もらった贈り物を投げすてようとしたとき、ちょっと手をとめ、ハートを開いて、その贈り物を感謝の気持ちで受けとってみてください。そうすれば、贈り物と、それをくれた人との人間関係の経験のしかたが、まるで違ってきます。


次にだれかに判断をくだしたり、非難しようとしたとき、ちょっと手をとめ、その人をハートの中に入れてみてください。あなたが非難しようとした部分を祝福します。


「かくれんぼ」の画像検索結果
あなたを傷つけることができなければ、相手はあなたを攻撃した罪悪感を負わずにすみます。そして罪悪感がなければ、自分を罰する必要もありません。


ほおを向けるとき、あなたはもう一度なぐってもいい、と挑発しているのではありません。傷つけるなどという行為はないのだ、と相手に思い起こさせているのです。わたしは自分が不当な仕打ちを受けることはありえないと知っている、と相手に告げているのです。相手に対し、自分は攻撃を受けいれるつもりはない、なぜなら、わたしはいまこの瞬間にも価値のある愛すべき人間だとわかっているのだから、と告げているのです。そして自分に価値があるとわかっていれば、必ず相手の価値もわかります。


この世界における暴力や侵害は、あなたがたが犠牲者あるいは迫害者になることを拒否すれば、なくなります。


しかしまずはじめに、すべての無価値感、欠乏感、不平不満、攻撃や防御の必要性などを捨て去らねばなりません。まず、あなたは相手にほおをさしだすことを学ばねばなりません。


ふたつの世界があるように見えるでしょうが、実際はひとつだけです。恐怖心は愛の不在にすぎません。欠乏は豊かさの不在にすぎません。不平不満は感謝の不在にすぎません。


これは隠れんぼのゲームに似ています。だれかがまず隠れます。だれでしょう?あなたでしょうか。わたしでしょうか。


ほんとうは、だれでもいいのです。あなたの番になって、あなたは隠れます。兄弟はあなたを見つけだすでしょう。わたしが兄弟を見つけたように。みんな順番にオニになり、順番に最後には見つけられます。


二極性の世界は、全一の世界から放射されたものであり、またそこへ帰っていきます。これはシンプルなダンスです。こわいことはありません。


自分自身のことをあまり深刻に考えずに、このダンスに加わってみてはどうでしょう。プロのダンサーはだれもいません。でも全員が、ステップを学ぶ力があります。だれかの足を踏んでしまったら、「失礼」と言えばすみます。あなたがたはみな学んでいる最中なのですから、まちがえても当然です。



今日をありがとうございました。
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